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2011年11月25日金曜日

シリーズ[知識と叡智]


人生の転換期に、深く心に刻まれる詩や小説に出遭うことは幸運である。少年
期から青年期へ向かう頃に感じた恐ろしいほどの孤独。その孤独感が自分だけ
のものではないことを知ったのは、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』であった。
そして人生を半ば過ぎた今、再びヘッセは『シッダールタ』をもって私に強く
語りかけてきた。

「真我(アートマン)はどこに見いだされるのか?『彼』はどこに住んでいる
のか、『彼』の永遠の心臓はどこで鼓動しているのか、各人が自分の中にもっ
ている自我の中、自我の最も奥深い中、不滅のものの中以外のどこにあるのだ
ろうか? ところでこの『自我』は、この最奥のものは、この究極のものはど
こに、どこにあるのか、それは肉でもなく骨でもない、それは思考でもなく意
識でもない、と最も賢い人たちは教えた。では、どこに、どこにそれはあるの
だ? そこへ、『自我』へ、自分自身へ、真我へ到達するために、別の道が、
求めがいのある別の道があるのだろうか? ああ、この道を示した者は誰もい
なかった。その道を知っている者は誰もいなかった。[中略]たしかに神聖な
経典、[中略](奥義書)の多くの詩行が、この最も内奥のもの、究極のもの
について語っていた。すばらしい詩句であった。『汝の心[高橋健二訳では
「魂」]は全世界なり』とそこには書かれていた。そして人間は、睡眠中、深
い眠りの中で、彼の最内奥へ入り、真我の中に住むのだと書かれていた。
[中略]無数の世代の賢いバラモンたちによってここに集められ、保存されて
いる厖大な量の知識の成果は決して軽視されてはならなかった。-けれど、こ
のこの上なく深い知識を、ただ単に知り得ただけでなく、生きることに成功し
たバラモンはどこにいただろう、そういう僧侶、賢者、あるいは贖罪者はどこ
にいただろう? 真我の中に住むことを、睡眠状態から覚醒状態へ、日常生活
へ、いたるところへ、日常の言動へ、超人的な力で移行させた達人はどこにい
ただろう?」(岡田朝雄訳『シッダールタ―あるインドの詩―』より)

主人公シッダールタ(仏陀とは別人)は、こうして究極の問の解を探しに高貴
なバラモンの地位を捨て沙門(苦行者)の生活に入る。そして沙門たちの下で
自我を解脱するための多くの方法を学ぶ。苦痛による自己離脱の道、苦痛・飢
え・渇き・疲労を受け入れ克服することによる滅我の道、瞑想によりあらゆる
観念から感覚を空しくして滅私する道、思考によってすべての表象を意識から
滅却することによる解脱の道を学んだ。が、それでも答えを見つけられず、問
う。「瞑想とは何だろう、肉体の離脱とは何だろう、断食とは何だろう、呼吸
の停止とは何だろう? それは自分自身であることの苦しみからのしばしの逃
避にすぎない、生きることの苦痛と無意味さに対するしばしの麻痺だ。
[中略]けれど涅槃(ニルヴァーナ)に達することがないだろう。[中略]私
たちは慰めを見いだす、私たちは己を欺く技術を覚える。けれど最も大切なも
の、道の中の道を私たちは見いだすことはできないのだ。」(岡田訳)

シッダールタは覚者(ゴータマ仏陀)にも会った。そして仏陀こそ「彼の生涯
で彼の前に現れた最後の師であり、最後の賢者」であり、「至高の聖者」であ
り、彼の教えに「驚嘆」し、その教えを「反論の余地のない」「完全に明白」
な、「真実である」と認めた。しかしシッダールタは、その覚者からも離れた。
帰依しなかった。「何人も教えによっては解脱を得られない!」と言い放って。

シッダールタが気づいたこと、それは「この世のどんなものについてよりも、
自分自身について知ることが最も少なかった」ということであった。

その後シッダールタは世俗の世界に入り込んでいく。自らを知るため、自らを
経験するために。彼は商売を覚え、金銭欲を知り、財産欲・所有欲を満たす心
を知り、官能を知り、快楽に溺れ、酒を飲み、賭博をやり、権勢を味わい、い
つしか人生の目的を見失い、最も軽蔑していた世界に没入してしまう。とこと
んまで落ちてゆく。自分自身に幻滅し、絶望し、嫌悪し、ついには河に身を沈
めるまでに堕落する。しかしそれでも終わらなかった。もう一度歩み直そうと
したその時に、また煩悩に苦しめられる。自分の子を盲目的に愛し、失う悲し
みを体験し、世俗に輪廻するあまたの苦悩を味わい尽くす。

しかし、こうした堕落と苦悩を自分自身で体験することは必要なことであった。
若いころから戒められ知ってはいたが、その知識を自分のものとしたことはつ
いぞなかった。すべての非聖なるものを自分自身で体験し、そこにある苦悩に
自ら陥ったからこそ、彼は次の段階、仏陀の弟子たちが誰もたどり着くことの
できなかった高みへと昇ってゆく。そして最後には、シッダールタは悟り、時
が実在しないことを認識し、すべてを受け入れ愛する叡智を得ることになるの
だが、その過程と内容はここではあえて触れない(高橋訳も岡田訳も素晴らし
い宝石のような言葉が散りばめられているので味わっていただきたい)。シッ
ダールタは言う。「知識は伝えることができるけれど、『叡智は人に伝えるこ
とができない』。それは見いだすことはできるし、それを生きることはできる。
それに支えられることはできる。それによって奇跡を行うことはできる。けれ
どそれを言葉にして人に教えることはできないのだ。」

書物であれ、偉大な師であれ、それに出遭い、その教えを「知る」ということ
と、自ら実践し、体験し、探求し、気づき、「叡智」を得るということは全く
別物である。今この日本で、私の生活において、私は何のために瞑想を学んで
いるのか。瞑想を学ぶとはどういうことか。その答えは私自身の生活実感の中
でつかみ取るしかない。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)