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2018年10月30日火曜日

コラム:日本文化の精髄・露天風呂

夏休みに上越国境に近い群馬県の山の中にある、二軒の秘湯温泉宿に泊まった。
初日に泊まった宿は 「たんげ温泉美郷館」、この宿は5年前の正月休みに一度
泊まったことがある。和風木造の日本情緒あふれる建物の雰囲気や露天風呂の
作りにすっかり魅せられてしまった。そのときは外気温が寒くて、お湯の温度が
ぬるかったので、もう一度次回は夏に行きたいと思った。今夏、再訪して感じた
のは、6か所ある浴場の作りがいずれも上手にできていて高い美意識と完ぺきな
芸術性を感じた。地元の林業会社の社長が趣味で凝りに凝って作ったとしか言い
ようがない、手の込んだ作りになっている。渓流沿いに露天風呂は3か所あって、
うち一番大きなものは、使われている石も大きく上手に石組みされている。この
ような形よく美しい大きな庭石をどのように集めたのだろう、さらに現地で庭園
にするために石組みする技術にもすっかり感心してしまった。銘庭と呼ぶにふさ
わしい石組みの露天風呂に温泉が掛け流されている。
露天風呂から望む渓谷の流れも美しい。客室は18室しかないのでウイークデイ
に泊まればすいていて、どの浴室も貸し切りのように入れる。自然の中に融合して、
まったく違和感のない人の手でつくられたこの露天風呂に入るとき、日本人に生
まれた幸せをつくづく感じた。美郷館は平成3年に開業した比較的新しい温泉宿
である。露天風呂の設計や施工は多分群馬県内の業者が携わっていると思われるが、
その技術力の高さは称賛すべきものである。

 二日目に泊まったのが法師温泉長寿館、新潟県境の三国峠に近い山中の秘湯だ。
長寿館は40年前、50年前の若いころに2度泊まっている。昔ながらの鄙びた
風情を感じさせる「法師の湯」は、湯船が4つに仕切られた大きな木造の浴場で
ある。湯船は川底につくられているので足元は卵大の大きさの川原石が敷き詰め
られている。湯船の底の丸石の隙間から新鮮な温泉がふつふつと湧き上がってくる。
印象深いこの温泉にもう一度入りたくなって二日目の宿に選んだ。40年ぶりに
訪れた法師温泉は新館が増設されて旅館の規模が大きくなっていた。旅館の玄関や
囲炉裏の間は全く昔のままだった。昔の雰囲気を壊さずに守り残そうとしている
旅館の経営方針に共感を覚える。建物も浴場も綺麗に掃除され磨きこまれて清らか
である。前回は本館に泊まったが今回は法隆殿に泊まった。混浴の時間帯だったが
家内を誘って、法師の湯に入った。湯船を仕切るように置かれた丸太を枕にして体
を湯に横たえると全ての筋肉から緊張が抜け出ていった。はじめ我々二人だけだった
が、一人二人と男性が入ってきた。昼間でも薄暗い、広い浴場に数人だけしか入浴
していないので、のんびりとした気分になる。丸太を枕にあお向けになって浴場の
太い丸太の小屋組みを見ていると、身も心もリラックスしていった。

 時間制で男女別の入浴時間をもうけている「玉城の湯」は近年、新しく作られた
法師温泉の名物風呂である。内湯と露天風呂に分かれている。内風呂から望む露天
風呂の景色が実に美しいが、さらに外の露天風呂に出てみて驚嘆した。この露天風
呂に使われている石が形も色も模様も銘石ばかりで、大きく存在感があり、実に巧
みに石組みされていたのを見たからだ。どうやってここまで運んだのだろうかと思
うほど巨大な石の上から温泉の湯が滝になって落ちてくる。玉城の湯の露天風呂に
入って、使われている石を触ったり石組みを見ていると日本人はなんて素晴らしい
のだろうと思う。翌朝、滝となっている石組みの大石を後ろから見てみたいと思って
散歩に出た。背後から大石の石組みは良く見えなかったが、小さな石碑があって 
「法師温泉 長寿館 玉城の湯 露天風呂造園工事一式施工 平成12年7月 
設計・濵名造園設計研究室 施工・群馬庚申園株式会社」 と彫られてあった。

 法師温泉に向かう途中時間があったので、旧三国街道の宿場だった須川宿にいった。
須川宿は宿場町全域を「たくみの里」というコンセプトでテーマパークのような
町づくりをしていることで知られている。その町はずれに桃山時代創建と伝わる
曹洞宗の古刹泰寧寺がある。山門と本堂の須弥檀が県の重要文化財になっている。
泰寧寺はアジサイと蛍の名所で、地元にも人気の寺らしい。
山門の前には小さな川が流れている。村道から川に降りて砂防堰堤と一体に作られた
橋をわたって対岸に作られた石段を登っていくと立派な山門が現れる。山門をくぐ
りさらに少し上ると本堂の立つ境内にでる。鐘楼もあり趣ある山寺である。ここで
私が興味惹かれたのは山門でもなければ、石段や山門の石垣でもない。堰堤と橋を
中心にした回遊式庭園の石組みである。寺に向かう橋は砂防堰堤の落ち口に堰堤と
一体的にコンクリートで作られている。コンクリートであるが太鼓橋のように優美
に緩やかに中央を膨らませて作られている。シンプルなデザインであるが趣がある。
コンクリートの橋は苔むして古びた良い雰囲気を出している。橋の下が堰堤の落ち
口になっていてそこから流が滝となって落ちている。堰堤の上流は池になっていて
池の水際から上手に石組みされている。人間が作ったとは感じさせないほど自然と
同化している。堰堤の下流の巨岩の石組みは驚嘆すべき巧みさである。堰堤を落ち
る滝はどう見ても自然に落下している滝に見える。庭園なのだがどう見ても自然
風景になっている。神の手が加わったかのように自然風景を超越した完璧な調和の
石組みとなっている。こんな巨大な石をどうやって運び入れ、どうやって組み立て
たのだろうか本当に素晴らしい。指摘されなければ人工物とは気づかない。そのよ
うな、石組みの中に座禅に手ごろな平らな大石がいくつも配置されている。その
一つに座ってみた。私の心の奥深くから、深い感動が湧き起ってきた。この庭園を
設計した名もない造園家、施工した名もない職人の美的感覚の凄さがわかった。
泰寧寺はこのような立派な庭園を造れるほど裕福な寺には到底思えない。多分街
づくりの公共工事の一環としてなされたものであろう。寺の住職か公共工事にか
かわる誰かが発案したのであろう。真相がわからないのでどのような経緯でいつ頃、
この庭園が造られたか調べてみたいと思う。

 自宅に戻って泰寧寺のことをいろいろネットで調べてみた。沢山の記述投稿が
あったが、この庭園を称える記述や、誰がいつ作ったかについて触れた文章は皆無
だった。評価されないのか、忘れられてしまったのか私には解からないが、この
庭園こそ真に価値ある文化財である。
思い起こせば自然に流れていた川に庭師が手をいれて、庭園のようにしてしまった
川を私は過去にも見ている。一番印象に残っているのは厳島神社の側を流れる「紅
葉谷公園」である。谷の石組みは庭師が組んで調和した理想形に作られている。
もみじ谷はよく観察しないと人間が作ったものと感じさせないほど自然に溶け込み、
人工的な不自然さを感じさせない素晴らしい渓谷になっている。

奥多摩の御岳山近くのロックガーデンも自然の谷に人工的な手を加え、さらに自然
美を整えたものである。大型建築機械が入れないような場所で自然の雰囲気を損な
わないように大きな石をたくみに組み合わせ人が歩きやすいように整えている。
大きな石を適材適所に配置した技術に驚嘆する。

伊豆半島の湯ヶ島温泉に白壁荘という温泉宿がある。宿の敷地から掘り出された
巨石をくりぬいて露天風呂の湯船にしている。この巨石の湯船がユニークでみごと
である。石庭の美しさ、敷地内の巨石の石組みや、露天風呂の石組み、銘石など
日本の石の文化を堪能したかったら山梨県石和温泉「銘石の宿・かげつ」に行く
と良い。石庭が好きな人にとって「銘石の宿かげつ」はたまらない魅力の宿である。

私は石庭や露天風呂の石組みだけでなく、城の石垣が好きである。石垣を見ている
と古く忘れられた記憶は過去生まで辿れるような気がする。私が興味惹かれるもの
は石や石で作られたものである。石灯籠や石仏なども大好きだ。河原の石が私に
話しかけてくる。路傍の石が私に話しかけてくる。石とだったら私はいろいろ話が
できる。20歳のころ造園家になりたいと思ったことがあった。自分の中に熾火の
ように残っている「かくありたい」を探るとき来世で私は造園家を仕事に選択する
ような気がする。近いうち、静かな時を選んで再び泰寧寺の渓流庭園の坐禅石に
坐って瞑想してみたい。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/9月第65号からの転載です)

2018年10月15日月曜日

コラム:カラーセラピー・色彩療法

プレクシャ・メディテーションの第六段階はレーシャ・ディヤーナである。
レーシャとはジャイナ教哲学でいう魂から放射される「霊的な色彩光」のこと
である。レーシャは本来、魂から発せられた純粋無垢な光であるが、魂の周り
に付着したカシャーイと呼ばれる汚染物質の影響で色が付着する。着色した
レーシャは魂よりも外側のレヴェルにある電磁気体や肉体に影響を与え、肉体
の外側に広がって人それぞれのオーラの色になると考えられている。

オーラとは仏教で云う後光であり光背のことである。キリスト教ではオーレ
オールと言い、古代から人間の周囲には不思議な色彩をもつ何かがあると知ら
れていた。

身体を取り巻くオーラは特殊能力を持つ人にははっきり見えるらしい。現代で
はオーラを映像に写せるオーラカメラが開発されている。マハーヴィーラは長
期間の断食や瞑想修行により、オーラを見ることができ、その色の持つ意味を
極めて正確に解釈できたと考えられる。古代ジャイナ教聖典にはレーシャに関
す記述が多い。

ジャイナ教瞑想修行のレーシャ・ディヤーナというテクニックは、肉体の外側
にポジティブな色彩をイメージして、その色彩を魂の外側を雲のように取り囲
んでいるカルマ体レベルに流入させ、ネガティブな色とされる黒や灰色、その
他くすんだ色と置き換えることにより、カルマ(業)の浄化を目指すものである。
色彩は私たちの精神状態に影響を与えているが同時に、精神状態によって霊的
色彩光(レーシャ)が影響を受けていると考えられる。

色彩とは一体何なのだろうか。物理学的な解釈では「色彩とは電磁波における
可視光線のことである。」と定義する。私たちの周囲には光や電波など波の性
質をもった電磁波に溢れている。ガンマ線やX線、紫外線といった電磁波は可
視光線より波長が短く、赤外線やテレビ電波、ラジオ電波は可視光線より波長
が長い。赤の波長は700nm(ナノメートル)前後で、青は460nm前後、紫
は380nmである。

可視光線の波長が長いと赤に近づき短いと紫に近づく。可視光線をプリズムで
分解すると、彩度の一番高い純色の虹の七色となる。その色彩を波長の短い順
に並べると紫、藍、青、緑、黄、橙、赤になる。色彩の彩度は電磁波の振幅が
高く(大きく)なると明るくなり、振幅が低くなると暗くなる。光である電磁波
は物質のない真空中でも伝わっていくが、音は空気や鉄の棒などの伝える物質
がないと伝わらない。

我々は光の無い所では何も見ることが出来ない。光源から放たれた光が物体に
当たり反射され、それが人間の目の視細胞を刺激し脳によって変換され、はじ
めて私達は形や色を知覚することが出来る。物体色は物体そのものに色が備わ
っているわけではない。あくまで光のどの部分の波長を反射するかが、その物
体の色を決定する。物体が全ての光を反射すると白く見え、全ての光を吸収す
ると黒く見える。

色の見え方には2種類あって、反射の結果として見える色と、光が物体を通過
することで見える色がある。この場合透過した色だけが見え他の色は吸収され
てしまう。ステンドグラスの場合赤い波長だけを通すと赤く見え、他の色はガ
ラスに吸収されてしまう。色彩照射療法はその原理を使っている。レオナル
ド・ダビンチは教会で紫色のステンドグラスを透過した色彩を浴びて瞑想する
ことを好んだ。

古代ギリシャでは太陽神が信仰されていた。その中心地になっていたのがヘリ
オポリスの癒しの神殿である。癒しの神殿では太陽光を色に分けて、それぞれ
の色によって特定の治療を行っていた。そのヘリオセラピー(太陽色彩療法)の
父が有名なヘロドトスである。色彩療法は古代ギリシャや古代インドに起源が
ある。

光線療法やカラーセラピーは本質的には自己の内的空間を探求することを意味
する。それは色彩を観るビジュアライゼーション(瞑想)によっても可能である。
瞑想によって魂の汚れを取り除いていけば魂の純粋性が立ち現れる。自己の本
質である魂からの純粋な光によって自己を深いレヴェルで癒すことが出来る。
自分で自分の医者になる方法の一つである。人間の悟りや人格の向上は身体的
にも精神的にも外部から上手に光や色彩を取り入れてそれを活用することがで
きるかどうかにかかっていると言っても過言でない。

光は色の本質(親)であり、又、光は生命の根源・本質である。光はエネルギー
そのものである。全ての物質はエネルギーが形を変えたものである。人間もエ
ネルギーのかたまりによって出来ている。138億年前のビックバンの光エネ
ルギーが人間という形のエネルギーに変わって存在しているのである。私達は
光である。私たちの本質つまり親が光である。生き物の生命エネルギーの根元
は太陽光である。人間だけでなく地球上の生き物が食べている全ての食物の源
は太陽光である。光が神であるとはそのことを云う。光なくして人間は生存で
きない。又、色彩の本質も光である。だから人間の生命は色彩の影響を強く受
けていると言える。目を有する生物は皆何らかの色覚がある。昆虫、魚、鳥、
両生類、爬虫類は色彩を感じている。、世界は色彩にあふれている。自然界の
多彩な色彩を見ていると、この世はなんと美しい世界なのだろうといつも思う。
そして色彩は形とともに個別のものに個性を付与して、個性の情報元となって
いる。

人間は目だけでなく皮膚でも色を感じ取っている。皮膚には色を識別する特殊
なセンサーが備わっている。だから、皮膚に光線を照射する療法が生み出され
た。光線療法に照射する色彩は 赤、オレンジ、黄色、レモン、緑、青緑、青、
藍、スミレ、紫、マゼンダ、深紅である。レモン色は慢性病、青緑は急性病に。
紫色、深紅色、マゼンダは心臓病、循環器系、生殖器系をはじめとして全ての
症状に良い。活動過多の人に紫色を照射し、活動不活発の人には深紅色を使う。
マゼンダは両者のバランスをとる時に使用する。無気力の人に対してレモン色
とオレンジ色を合わせて使う。感覚麻痺の時にはこれに赤を加える。藍色は鎮
痛、出血、膿傷のある症状に使う。緑色とそれに近いレモン色や青緑は体のバ
ランスと関係しているので必ず照射(トネイション)に含めるようにする。19
79年マルティクとベレンジは酵素の反応速度を増やして活性化させる、ある
いは不活性化させる色彩や、細胞膜を通る物質の移動に関与する色彩があるこ
とを発見した。

赤は生命力を高める色で交感神経を刺激する色である。青は副交感神経を刺激
する。赤い色は瞬発力が高まり青い色は持久力を高める。不眠症の人は青い敷
布や毛布を使うと良い。赤やピンクでは寝つきにくい。ベージュ色はリラック
スさせる色、一番筋肉の緊張をほぐす色である。白い色が健康に一番良い。黒
い服ばかり着ているとシワが増えるし早く老け込む。明色の橙色をピーチとい
うが皮膚に不思議な効果があり、ピンクとともに若返りの色である。

色彩は私たちの精神性にも深く関係している。色彩は意識や感情に深い影響を
与える力がある。プレクシャ・メディテーションのレーシャ・ディヤーナはそ
うした理論を基にした瞑想法である。一例を挙げれば、頭頂に黄色をイメージ
することで知性が高まる。眉間の奥にオレンジと深紅の中間色をイメージする
ことで直感力が高まる。胸の中央でピンク色を観ることで友愛の情を育てるこ
とができる。色彩と精神性の関係については いまなお不統一で未知なること
も多く、更に研究の上、瞑想体験を深めて別の機会に詳述したいと思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/7月第64号からの転載です)

2018年10月9日火曜日

コラム:生命が病気を創る

身体の中で生命力は私たちを生かそう生かそう、長生きさせよう、効率よく元
気に身体が動くようにと働いている。それが生命のバランス維持回復運動とし
ての働きである。身体の病気や痛み、心の悩みは生命が命を存続するために起
こしている現象と言っても良い。病気や痛みがなかったら生命は命を維持し存
続させることは出来ない。病気は悪いものではなく生命のバランス回復運動と
して起こってきていると言える。原因がなくなりアンバランスが是正されれば
バランスを取るために必要だった重石としての病気は不要になる。重石として
の病気を取るためには、一時的に極端なアンバランスを身体内部に招来させて、
アンバランスの上にもっとアンバランスを起こさせて、命の働きが更に高まる
ように誘導する必要がある。動には静を静には動を加える反対刺激が必要であ
り、それが病気治しのコツである。

身体存続維持の働きは、身体内部に流れていく生命エネルギーと、流れに伴っ
て生起する感覚と、その感覚を受け取とって適切な対処法を指示する意識であ
る中枢神経系、末梢神経系の連携で起こっている。身体内部では生命エネル
ギーとしての電磁気的な流れが神経系を通して一つ一つの細胞に生命力を吹き
込んでいる。血液が細胞に必要な燃料(栄養と酸素)を供給しているだけでは
命は働かない。生命に感覚と意識がそなわっているから、命を守り存続させる
働きが起こるのである。その自覚意識で身体内部に生起している感覚を観じる
ことが、プレクシャ・メディテーションの原理である。

今から5億2000万年前、地球上でエビやカニ、昆虫の先祖である節足動物
が繁栄していた。その頃、魚が誕生した。魚はそれまでの生物が持っていなか
った中枢神経としての脳を持つようになった。魚の脳には外敵から身を守る装
置としての扁桃体も備わっていた。

扁桃体は脳が危険を察知すると活動を始める。扁桃体が働いてストレスホルモ
ンが分泌され、全身の筋肉が活性化されて運動能力がたかまり、天敵から素早
く逃げられる。危険が去るとストレスホルモンの分泌は収まる。

2億2000万年前に哺乳類が誕生すると扁桃体は外敵以外にも反応するよう
になった。人類は更に身体機能を発展させて複雑な自己防衛、自己保存維持機
能を持つようになった。天敵ばかりでなく孤独になると不安や恐怖を感じて扁
桃体が激しく活動する。過去のつらい記憶が呼び起こされたり、他からの言葉
の暴力によっても扁桃体が働き内分秘腺に働きかけてストレスホルモンが分泌
される。

その代表的なホルモンとして副腎皮質から分泌されるコレチゾールやアドレナ
リンがある。コレチゾールやアドレナリンは本来悪いものではなく、身体を守
るために生命が適切適量に分泌しているのである。

人間が生きていくとき心身にとって不快なこと嫌なことが身辺に沢山起こって
くる。それがストレスである。ストレスとなる刺激のことをストレッサーと言
うが、ストレッサーには様々なものがあり物理的なストレッサーとして気温、
湿度、騒音などがあり、化学的なストレッサーとしては栄養の過不足、カフェ
イン、薬物等がある。生物的ストレッサーとしては感染、痛み、炎症があり、
心理的ストレッサーとして不安、恐怖、怒り等がある。現代人特有のストレッ
サーとして、人間関係や仕事のプレッシャーや不規則な生活リズムが挙げられ
る。

人間にはストレッサーに応じて生命の働きとしての適応性、バランス維持能力
が備わっている。過剰なストレスや慢性的なストレスが加えられると心身のバ
ランスが崩れる。バランスが崩れるとその反応として身体はストレスホルモン
を分泌し血圧を上げ血流を増やす。また体温を調整して心身のバランスを回復
させようとする。強いストレスや継続的なストレスでこの反応が過剰になった
ときバランスが崩れて病気が起こる。体に現れれば目まい、頭痛、吐き気など
の自律神経失調症、胃や十二指腸潰瘍など過敏性腸症候群となる。心に現れれ
ば不眠症や欝となる。

心理的ストレスを長期間受け続けるとコレチゾールの分泌によって脳の一部、
海馬の神経細胞が破壊され海馬が萎縮してしまう。海馬は脳の記憶や空間学習
能力に関わる脳の器官であり、これが萎縮することで記憶喪失や認知症が起こ
ってくる。鬱病患者には海馬が萎縮していることが知られている。

強い不安や恐怖を感じると扁桃体が過剰に働く。すると全身にストレスホルモ
ンが大量に分泌され脳にまで及ぶ。このとき、脳の神経細胞に必要な栄養物質
が減少するので栄養不足で縮んでしまう。脳の萎縮が意欲や行動の低下を招来
する。それが欝状態である。

心の病である鬱病に対して近年の研究で瞑想や「マインドフルネス認知療法MB
CT」が有効であることが解ってきた。マインドフルネスは自分の身体や気分の
状態に気づく力を育む「心のエクササイズ」である。マインドフルネスとは自
覚的な心であり、深い気づきの心であり、強い心の集中力であり、覚醒された
意識のことである。マインドフルネスの反対のことが集中力欠如の状態である。
瞑想を実践すれば集中力が増し、創造性が高まり、幸福感、リラックス感が高
まる。瞑想することによってストレスが軽減され、免疫力が向上し心身の健康
に極めて有効である。瞑想することによって物事をいろいろな面から捉えられ、
不要物を有用物に変える能力も高まる。

ストレスを軽減する極めて有効な方法としてプレクシャ・メディテーションの
カーヨウッサグがある。古代インドから伝わる瞑想法で「完全なる心身のリラ
ックス法」である。完全に心身がリラックスすると心身分離が起こる。この時
ストレスは完全除去される。

ストレスを軽減する方法としてコーピングという気晴らし法も有効であること
が知られている。好きな音楽を聴いたり、歌ったり、踊ったりする。ストレッ
チや散歩など軽い運動をする。バランスの良い食事をとり、たっぷり睡眠をと
り、休む。動画や漫画などを見ておもいっきり笑う。海や山、森や川、木々や
草花、石や鉱物等の自然物には癒しの力が備わっている。自然の情景の中に身
を置くことで深い癒やしが起こる。自分が楽しいと思うこと気晴らしになるな
ら何でもしてみる。ストレスに応じて気晴らしをいろいろ工夫する。そうする
ことで現代人の最大の問題になっている心の病、欝の予防と欝からの回帰がで

きる。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/6月第63号からの転載です)

2018年10月5日金曜日

コラム:無限の自由とは

地球に生きる全ての生き物たちに生命力が宿っている。生命力の根源は宇宙が
始まった時に生じた電磁気的な+と-の流れである。この電磁気的な+と-の流
れが生じたとき情報としてのカルマが同時に発生した。カルマとは陰と陽、拡
散と収縮、苦と楽、快と不快、善と悪のように存在している物の質の捉え方で
あり、また、カルマとは測定の仕方や、判断の基準によって結果が動く物事の
相対的性質であり、不二一如のことである。生命が宇宙に生じたときそこに
『個性・性質』としてのカルマが結びついた。情報としてのカルマが形を変え
て、生き物たちに命の願いとして根本的な欲望が備わっているのである。その
欲望が身体に備わった苦・楽、快・不快の感覚とともに、命を守り、命を進化
させる原動力、働きになっているのである。

その根本的な欲望とは命を長らえたいとする自己保存本能 (食欲・外部から
身体を持続成長させるためにエネルギーを摂り入れること)、 子孫や種族を
増やしたい自己拡大本能 (性欲・繁殖の仕組み)、あらゆる束縛から自由にな
りたい自由獲得本能の三つである。全ての生き物の願い、最終目的は永遠の生
命、生命の無限拡大、生命の無限自由の獲得と言える。

生き物たちにはその三大欲望が生命の深いレベルで情報としてインプットされ
ている。完全なる自由を獲得するために、時には食欲や性欲が妨げになる。完
全なる自由の獲得を目指そうとする古代のジャイナ教や仏教の出家修行者達は
食欲や性欲のコントロールが重要と考えた。そうした考え方が戒律の中に入っ
ている。仏教やジャイナ教の理想は輪廻転生しないこと、もう生き物として生
まれないこと、解脱が理想である。無限の自由とはカルマの束縛、つまり電磁
気的エネルギーの流れやもっと精妙な霊的エネルギーからも離れてその束縛か
ら自由になることである。

無限の自由とは生き物たちの最終目的地で、無限の愛、宇宙との合一 (梵我
一如) と同義語であり、全ての宗教の目標である。宗教とは無限の自由を個
人的に達成しようと起こってきたものである。

一方、無限の自由を集団的に達成しようとして人類全体が努力しているのが政
治であり、経済であり、科学の進歩発展である。経済の発展や科学技術の発達
は人間が無限の自由を求めて活動している結果の現れである。飛行機や自動車、
鉄道機関車などの交通機関、冷蔵庫、洗濯機などの家電、テレビ、スマホ、パ
ソコンなどの情報通信機器の登場は人間が自由を追求している集団的な活動の
結果として出現したと言える。

テクノロジーの高度な発達は生き物としての人間が集団的に求めている進化の
現れであり、必然的な方向性でもある。コンピューターの発明は今や高度に改
良発展して人工頭脳が作られるようになった。人工頭脳と各種センサーが結び
つき、車の自動運転がまさに始まろうとしている。近未来、人工頭脳が自ら学
習し判断までするようになるので、車の運転走行に運転手としての人間は必要
なくなるだろう。

私は自動車道路の必要性は物質輸送のためのトラックだけになってしまうと想
像している。人間の移動手段はヘリコプターを小型化した一人乗りのトブコプ
ター、つまり、ドローンを大型に発展させた飛行物体になると思っている。ト
ブコプターの人工頭脳が目的地と気象条件や飛行高度、経路を最適に判断し、
障害物や進入禁止地を避け、トブコプター同士の空中衝突を避けて我々を安全
に早く目的地に運んでくれる。東京と只見間の移動所要時間は江戸時代には一
週間を要した。車が登場した初期の頃60年前は只見まで一日がかりだった。
そして今や高速道路が整備され自動車の性能が良くなって4、5時間で行ける
ようになった。そして、トブコプターが登場し実用化されると2時間程度に短
縮される。

友達が「只見も良いところだけど、東京から遠いからねー」と今は言う。トブ
コプターの登場で夜、友達とお酒を飲んで10時頃東京に居ても、その日の深
夜には只見の自宅に戻れるようになる。このようなことが実現されると文明は
全く新しい局面を迎える。自然災害の少ない所、風景の美しい所、水の清らか
な所、森や耕地が豊かな所が、人が住む適地として一番の価値を持つようにな
ってくる。只見のような見捨てられた所に人が集まってくるだろう。

2016年頃、自動車の燃費性能偽装問題を起こして業績低迷にあったスリー
ダイヤモンドがトブコプターの研究にいち早く着手して自動車の生産からトブ
コプターの生産に業態を切り替える。スリーダイヤモンド社は将来トブコプ
ター生産で世界一の企業になるかも知れない。

農業はアンドロイドが野菜工場で作るようになっている。気象条件に影響され
ないので、雪の降る冬の只見でマンゴーやパパイアなど南国のくだものが作ら
れている。地球温暖化、気候変動によって露地栽培での農業が難しくなるが、
アンドロイドが工場で農産物を生産することで食糧問題は解決している。エネ
ルギー問題は自然エネルギーから電気分解によって作られた水素による燃料電
池発電が主役となっている。エネルギーは個人が自前でつくるので送電線や電
柱がなくなり村や町の景観も美しくなっている。

月や火星では人間に先駆けてアンドロイド達が都市や町、文明を作っている。
アンドロイドが作った宇宙都市に人間は宇宙旅行するようになる。地球の引力
の束縛から解放されて人間活動は宇宙に広がっていくだろう。50年後の世界
は今からは想像すらできない世の中となっているだろう。

沿海部に発展した大都会は気候変動による海面上昇があるとき急激に起こって、
対応ができず居住地を放棄せざるをえなくなるかもしれない。大都市住民が2
016年頃のシリア難民のようになって、過疎地の中間山間地に移住すること
になるなど、50年前の現在には誰も想像できなかったことが起こるかも知れ
ない。

どんなにテクノロジーが発展しようとも人間の動物的な身体の仕組みはすぐに
は変えようがない。高度にテクノロジーが発達した社会が出現すれば、動物的
身体を持つ人類にますます不自然生活を強いられることになる。不自然生活に
よる適応障害が起こってさまざまな心身の病気が人類を苦しめることになるだ
ろう。そんな時代が到来したとき、人間にとって免疫系や内分泌系、神経系の
コントロールは今よりづっと重要なテーマとなる。そのためにヨガの身体的訓
練や瞑想の実践が欠かせないものになる。プレクシャ・メディテーションを伝

え遺すことは未来の孫達へのメッセージであり贈り物でもあるのだ。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/5月第62号からの転載です)

2018年10月2日火曜日

コラム:アンベードカルと仏教改宗

アンベードカル著『ブッダとそのダンマ』(1987年 三一書房刊 山際素
男訳)とダナンジャイ・キール著『アンベードカルの生涯』(2005年 
光文社新書 山際素男訳)を再読した。

近代インドは優れた思想家、政治家を輩出しているが、マハトマ・ガンジーと
並び称される人にアンベードカルがいる。アンベードカルはカースト制度の中
の不可触民カースト(マハールという村の雑役を世襲職業とするデカン地方中
西部の大カースト)に1891年に生まれた。

不可触民階層はカースト・ヒンドゥー(一般ヒンドゥー教徒)から穢れを与え
る存在としてさまざまな差別を受けてきた。1950年インド新憲法が不可触
民制を廃止するまで、ヒンドゥー教徒の内おおよそ四人に一人が家畜にも劣る
存在として言語に絶するさまざま差別を受けてきたのである。

その差別から同胞を救おうとして立ち上がり、獅子奮迅の働きをしたのがアン
ベードカルである。

アンベードカルの父はイギリス・インド軍の兵士として出世した人で、英語も
話せ数学も得意な教養のある人だった。アンベードカルは父に励まされ差別に
苦しみながらハイスクールに通った。その後、ボンベイのエレファント・ガレ
ッジに入学したが、父からの学費が困難になったとき、さまざまなご縁でバロ
ーダ藩王国のマハラジャが奨学金を出してくれた。さらに、バローダのマハラ
ジャはアンベードカルの優秀性を認め、アメリカのコロンビア大学へも留学さ
せてくれた。さらにロンドン大学で経済学を学んだ。マハラジャからの帰国要
請を受けてバローダ藩王国に戻ると、高い教養を身につけたアンベードカルを
待っていたのは又しても理不尽なカースト制度による差別であった。カースト
上位の部下や召使いたちがさまざまな嫌がらせを彼に対して行ったため、マハ
ラジャとの約束と御恩に報いることが出来なかった。再度ロンドン大学に戻っ
たアンベードカルは弁護士資格を取った。ドイツのボン大学にも3ヶ月間留学
した。

このようにアンベードカルは不可触民カーストに生まれながらも本人の血の滲
むような努力と、良きご縁に恵まれて、輝かしい知性と教養と誰にも負けぬ行
動力を武器として身につけた。アンベードカルは政治家として教育家としてま
た社会改革家として理不尽なカースト制度全廃のためにカースト・ヒンドゥー
と戦った。時にはマハトマ・ガンジーの政敵として彼の政策に反対した。アン
ベードカルにはマハトマ・ガンジーの不可触民廃絶運動が口先ばかりで、カー
スト・ヒンドゥー側に立った行動を伴わない社会改革運動であると見えたから
である。また彼がガンジーを嫌った理由の一つが産業の機械化を憎み、人間に
大きな可能性を与えず、経済的平等に対する情熱を拒否したからであった。ア
ンベードカルは不可触民階級の先頭に立ち、その廃絶のために奔走した。

彼の行動力と弁舌と知性は多くの人の心を捉えた。1942年、アンベードカ
ルはイギリス植民地下のインド中央政府の労働大臣になった。不可触民から政
府の閣僚になったのは実質的にアンベードカルが初めてであった。1947年、
パキスタンとインドは分離独立した。インド制憲議会は憲法草案起草委員会を
設置し、アンベードカルを議長に指名した。ネール首相のもと、アンベードカ
ルは初代法務大臣として憲法の創設者になった。アンベードカルを中心に起草
された憲法は1950年に施行され、インド共和国が誕生した。この憲法17
条に不可触民制廃止が謳われている。

憲法に不可触民廃止が謳われても実際にはすぐに差別はなくならなかった。ヒ
ンドゥー教の根本思想の中にカ-スト制度が肯定されているので、理不尽な差
別から同胞を救うためにはヒンドゥー教から仏教に改宗するのが一番良い方法
だと考えるようになった。1956年仏陀生誕2500年祭が南伝仏教諸国で
行われたとき、アンベードカルは20年来温めてきた懸案を一挙に解決する決
心をした。

デカン高原中部の都市ナーグプールで大規模な仏教改宗式を挙行した。この時
彼に従って仏教徒に改宗した人は30万人とも50万人とも言われている。ア
ンベードカルは自分の属するカースト構成員全員を改宗させ、次に全ての不可
触民を改宗させ、最後に全てのヒンドゥー教徒を仏教に改宗させる夢をもって
いた。改宗式が終わった2ヶ月後、彼は全ての命を燃焼しつくしてこの世を去
った。享年65歳。

アンベードカルの死の枕元には、自ら渾身を傾けて書き上げた労作『ブッダと
そのダンマ』の最終原稿があった。彼はこのタイプに打たれた英語原稿に目を
通しつつこの世を去ったのである。

『ブッダとそのダンマ』にはアンベードカルの命の声が宿っている。

アンベードカルはパーリ語で書かれた甚大な仏典の英訳を渉猟して、重要な文
章を拾い出し、分類整理したあとに彼独特の解釈をした。彼独特の解釈を、言
わばブッダの言葉に託して彼の思想を伝えようとしているとも受け取れる。輪
廻転生の否定、カルマ論の解釈にアンベードカルの現実的な解釈が現れている

『ブッダとそのダンマ』は初期仏教がどのようなものであったかを理解するた
めの入門書として、懇切丁寧に詳細にわかりやすく書かれた良書である。仏教
学者でもないアンベードカルがカースト制度の差別に苦しむ同胞を救おうとし
て、ヒンドゥー教徒から仏教徒への改宗を進めることを目的として全身全霊を
傾けて書いたものである。一部の学者がアンベードカルの自説の部分だけを取
り上げて、それはブッダの説から逸脱していると批判している。ブッダの仏教
ではなく、アンベードカル・ヤーナであるとも言っている。『ブッダとそのダ
ンマ』を読み、どの部分がアンベードカルの独特の解釈なのかを探し出すこと
は初期仏教を深く理解するためにとても役立つ。私たち日本人は本来の仏教と
は何かが解らなくなっている。日本の仏教が仏陀の時代の仏教から余りにも変
質してしまっているからである。私たちに必要な知識は仏教学者の大乗仏教の
各論ではなく、最も基本的な初期仏教の総論である。

『ブッダとそのダンマ』はその要求を満たすものである。その初期仏教の総論
が偉大なるインドの政治家、社会改革運動家という在家の実践家、現実主義者
によって書かれ、出家主義ではないというのが重要なのである。是非、皆さん
に読んでいただきたい一冊である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/4月第61号からの転載です)