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2019年2月16日土曜日

コラム:アートマン 魂 本当の自己とは何か

私達は皆、『なぜ自分という存在(肉体や意識)がここに居るのだろうか。』
あるいは『生きているという自分の根本的な仕組みが、何処から来て何処へ
行こうとしているのだろうか。』 と考えたことがあるのではないでしょう
か。つまり魂は存在するのか、生命は輪廻転生するのか、という形而上的問題
について考えたことがあると思います。私は長い間、魂の存在や輪廻転生につ
いて疑問に思っていましたが、身近にその問題を解りやすく教えてくれる人が
いなかったので、まったくの手探り状態で一人で探求していくしか方法はあり
ませんでした。

幸い現代は古今東西の宗教哲学や聖者の教えが書物になって沢山出版されてい
るので、疑問に思ったことをいろいろ比較検討することが出来ます。私はその
ような書物を数多く読んで、先人たちの教えを比較検討してきました。さらに
ジャイナ教僧侶の講話を聴き深く考察することを重ねて、だんだん魂について
理解を深めてきました。

魂とはなんでしょうか。魂の定義は『永遠で不変の実在』であるということで
す。私たちの生きているこの3次元+時間の物質世界は全てのものは変化して
しまうから、永遠で不変なものは存在しません。ですから魂はこの世の次元を
超越した、非物質のものだと考えられます。物質世界だけを論じようとすれば
、魂はどこにもないということが出来ます。BC8世紀ごろインドに現れた哲人
・ヤージュニヤヴァルキヤは、目には見えなくとも、この世のあらゆるものの
中にアートマン(魂)は浸透している。しかしアートマンである自己(認識主
体)は自己(認識対象の魂)を認識することはできない、と説きました。ヤー
ジュニヤヴァルキヤの説はその後のインド哲学思想の源流となったのです。

形而上的な論争を避けることの実用性と現実性を重視することから、仏教は非
物質的な考え方や魂・アートマンについて、言及を避けてきました。仏教では
魂を説明することもなく、魂についての定義もありません。しかし、仏教と同
じく古代インドに起こった宗教のジャイナ教やヴェーダンタ哲学は魂について
詳しく説明し定義しています。ヴェーダンタ哲学はヒンドウ教の拠り所となっ
ている古代インドの哲学です。魂について深く知りたいと思うなら、ジャイナ
教やヴェーダンタ哲学を勉強するしかありません。

魂を信ずる人達は、世界を物質だけの世界とは見ていません。私たちの存在を
物質やエネルギーだけでなく、非物質的なものを含めて重層的な存在であると
見ています。つまり身体とは肉体だけでなく、肉体よりも微細な物質の電磁気
的なエネルギー体があり、その奥にデーターベースになっている最微細物質が
関与した原因体があり、最奥に非物質の魂であるアートマンが存在していると
見ています。

多重的な身体の見方はさまざまなバリエーションがありますが、概ね3つの身
体と魂の4層構造になっているというのが、ジャイナ教とヴェーダンタ哲学で
共通の見方です。

ヴェーダンタ哲学では1.肉体をストゥーラ・シャリーラ(粗雑な体)、2.生命
エネルギーと感覚と心、知性、記憶で構成された精妙な体をスークシュマ・シ
ャリーラ、3.自我意識の体であり原因の体であるカーラナ・シャリーラ、4.ア
ートマン・魂、に分類します。  

ジャイナ教では1.肉体 2.電磁気体であるテジャス・シャリーラ 3.原因体で
あるカルマ・シャリーラ(純粋なる魂にカルマ的物質が付着して構成された体)
4.純粋なる魂・ドラビア・アートマン に分けて考えます。

このように比較してみると、身体の考え方や魂についての考えがジャイナ教哲
学とヴェーダンタ哲学では共通していることがわかります。

魂は非物質であることが共通した概念です。非物質的なものの特徴として魂を
定義付ければ、始まりもなければ終わりもない、無始無終である。成長もなけ
れば衰退もない、永遠不変である。何時でも何処にでも有り、全てのものの中
にあまねく充満していて、偏在遍満である。時間や空間、次元を越えていて無
限のものであると言えます。

一方、魂でない物質的なものの特徴は、始まりがあり終わりがあって、変化す
るものである。成長もあり衰退もある、一時的で有限なものである。時間と空
間に制限されていて、同じ時間に一つのものが別々の場所で存在することは出
来ない。魂以外の3つの身体は一時的で変化してしまう無常なものであると言
うことができます。諸行無常とは物質世界に適用される真理であって、魂には
適用できません。

非物質である魂がどうして生命をもち身体を持つようになったのか、ジャイナ
教は次のように説明しています。本来純粋なる魂であるドラヴィア・アートマ
ンが、ここにも有る、あそこにも有ると偏在している微細な原因物質であるカ
ルマと結びつくことで、汚染された魂・パーヴァ・アートマンになる。パーヴ
ァ・アートマンは輪廻する魂であり、輪廻する魂のことを称してジーヴァとい
う。地球だけでなく宇宙には沢山の生命体が存在していると考えられるが、そ
の生命体の基礎は汚染された魂のパーヴァ・アートマンである。生命体が魂の
汚れ(パーヴァアートマンについたカルマの汚れ)を払しょくして純粋になれ
ば(ドラヴィア・アートマンに戻れば)輪廻転生しなくなる。それが解脱であ
りモークシャという。全ての生き物たちの長い旅路の最終目的地はモークシャ
になることであり、モークシャになることが人間として生まれた理想である。
モークシャのことを全知全能、完全なる自由、無限の愛と至福の状態という。

仏教ではモークシャ・解脱・もう生まれない死なない、ことをニルバーナ・
涅槃寂静という。ニルヴァーナーとは吹き消してなにも残らない深い沈黙の
世界、無の状態である。全知全能とか至福の状態はないとする仏教の考え方は、
虚無的で暗く無気力になる恐れがあるように私には思える。

ヴェーダンタ哲学では魂の2面性をシッダ・アートマンとジーヴァアートマン
に分けて考えている。シッダ・アートマンは唯一の神であり普遍的な梵である。
これをブラフマンという。シッダ・アートマンから分かれた小さな分身のよう
な個我が迷いのうちに、自分の真実の姿を見失っている状態が我々生き物であ
り人間である。迷いの状態にあるジーヴァ・アートマン(個我)が迷いがなく
なり、実は自分はシッダ・アートマン(真我)なのだと解ることが梵我一如で
、神との合一であり、解脱であり、このことをカイヴァリアという。

輪廻転生、因果律、魂の法則を解りやすく合理的に説いているのはジャイナ教
哲学だと思うようになってきた。魂にどうして汚れが付くのか、それは心に思
い、考え、行為したからである。思い考え行為したことが魂に物質的な汚れの
カルマ惹きつけて付着する。そのカルマが原因となって我々に様々な結果をも
たらす。我々が今このような場所、このような姿、境遇に存在し幸不幸を受け
取っている原因の根本は、魂に着いたカルマの汚れや、汚れによって傾向づけ
られたサンスカーラという力が作用しているのである。私たちはカルマに縛ら
れ操られている限り真の自由はない。我々はカルマにコントロールされ奴隷に
なっているようなものだ。魂の汚れを取り除き、純粋なる魂になるのがジャイ
ナ教の修行であり、プレクシャ・メディテーションの目指すところである。そ
れが究極の自己コントロール法である。

魂の汚れとは、例えれば汚れた水のようなものである。水はH2Oで水素原子2個
と酸素原子1個が結びついて出来ている。水素はこの世(宇宙)で一番質量の
多い物質である。酸素は三番目に質量が多いことから宇宙には広く水が普遍的
に存在していると考えられる。水は非常に優れた溶解力を持つので、いろいろ
な物質を取り込むことが出来る。地球の自然環境の中で水は完全に純粋な形で
ほとんど存在しない。雲や渓流も何らかの形でミネラルなどを含んでいる。純
粋な水は工業的に人工で作り出すことが出来る。私たちが飲んでいる飲み物は
さまざまな種類があるけれど、その飲み物は実は全て汚染された水なのである。
お酒はお酒になる成分が汚染物質となって溶け込んだ水なのだ。牛乳も牛乳と
いう汚染物質が溶け込んだ水であり、味噌汁も味噌や他の具材によって汚染さ
れた水である。コーヒーも爽健美茶もビールもオレンジジュースも皆、我々が
飲み物として摂取しているものは汚染された水といってよい。水の中に溶け込
んだ汚染物質が飲み物の個性になっている。同じように普遍的な魂の中にいろ
いろな種類のカルマの汚れがついて輪廻する生き物、人間一人一人の個性にな
っている。汚れが違うから違う形で存在しているのである。

飲み物から汚染物質を取り除けばH2O、純粋な水になる。同じように魂から汚
染物質であるさまざまなカルマを取り除けば純粋なる魂・ドラヴィア・アー
トマンになる。それがモークシャであり全ての人間に課せられた最終目標で
ある。魂を純粋にすることは大変な努力と困難を要するが、より良い魂、よ
り良い個性と人格、より幸せになることは今日からできる。それには、プレ
クシャ・メディテーションを継続し、日常生活を通じて因果律を信じ、真の
カルマヨガを行うことである。それが自由という事であり自己責任であり、
自己の内に神を見ることであり愛という。

ヤージュニヤヴァルキヤや8世紀ごろインドで不二一元論を提唱したシャン
カラは認識主体は認識対象にはなりえないと説いた。しかしジャイナ教では
自己(魂)を知覚の対象としている。優れたメディテーターは深い瞑想の中
で魂をじかに知ることが出来るとしている。これが、ジャイナ教哲学の神髄
である。

プレクシャ・メディテーションの始めに 『サンピッカエー  アッパーガ
ー マッパエー ナム』『魂を通して魂を見てください。そして本当の自分
を見てください。』 と唱えるのは魂を認識、知覚の対象としているからで
ある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/12月第76号からの転載です)

2019年1月15日火曜日

コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか

インドには古代から続く宗教的流れとして、バラモン系(アーリア文化系)の
流れと、シュラマナ系(土着的クシャトリヤ系)の流れがあった。バラモン系
宗教の修行の主たるものは苦行であり、シュラマナ系宗教の修行の主たるもの
が瞑想であった。そしてシュラマナ系の宗教の中に輪廻転生思想が伝わってい
た。BC8世紀後半、ウッダーラカ・アールニーなどの思想家の登場によりバラ
モン系宗教の流れとシュラマナ系宗教の流れに思想的な合流が起こった。苦行
と瞑想、自業自得と輪廻思想が結びついて、その後、インドに発生した宗教を
特徴付ける解脱思想が起こった。解脱思想が広まることで出家が流行した。そ
のような時代背景があって、輪廻からの解脱を求めて、BC6~5世紀ごろ、ジ
ャイナ教の開祖マハーヴィーラと仏教の開祖ゴータマ・ブッダが登場した。

仏陀はマハーヴィーラと同じく、シュラマナ系の出家修行者であった。出家し
てから仏陀はアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のも
とで瞑想修行をしたが、悟りは開けなかった。仏陀は瞑想修行を捨て、次に苦
行の道に入った。仏陀の苦行は断食行と止息行が中心だったと伝わっている。
しかしどんなに苦行をしても悟りは開けなかった。苦行を止めた後、仏陀は考
察瞑想を行って、徹底的に原因と結果の法則について考えた。仏陀以前のカル
マ論は原因があれば結果は必ず起こるというものであったが、仏陀は原因と結
果の間にある縁としての条件や環境が重要な因果律の要素であることを発見し
た。『いくら原因があっても環境や条件が整わない限り結果は起こらない。』
と従来のカルマ論を修正した。また従来の輪廻説では欲望が原因となって輪廻
が起こると考えられていたが、たんなる欲望ではなく、もっと深いところにあ
る人間としての根本的な生存欲にあることを発見した。この二点の新発見が従
来の宗教哲学になかったものであり、仏陀の悟りの核心だと考えられている。

仏陀は苦行は何の意味もないとして排除した。仏陀は 『人間として正しい生
き方はどうあるべきか』 について考察したときに、ジャイナ教のように魂を
強調してしまうと極端な非暴力、不殺生の考え方に陥り、人間としての現実生
活に合わなくなると考えた。ジャイナ教では全ての生き物に魂があり、皆生き
たいと思っているのだから、人間生活を脅かす害虫の命でさえ奪ってはならな
いとした。ジャイナ教哲学では植物にも魂があるのだから、農業は出来ない。
実ったコメや麦を刈り取ることも出来ないし、種籾は生きているのだから煮炊
きすることは出来ないことになる。雑草を抜くことも樹木を伐採することも出
来なくなる。輪廻の中の生き物は皆、魂を持っているという考え方だ。その考
えは真実かもしれない。しかしそうだとすれば非暴力を徹底して、自分が生き
るためには殺生を他にしてもらわなければならなくなる。そういう行為は卑怯
だという批判になる。だから、仏陀は「あまり魂、魂と言うなよ」との立場を
とったのだと思う。そして苦行を排して苦楽中道を提唱したのだと思う。

仏陀が魂についてあまり語らなかったので、「ミリンダ王の問」(紀元前2世
紀頃書かれた仏典、最初に無我説を説いた。)などの論調に見られるように、
後の世の仏教徒は仏陀ともあろう人が魂を語らなかったのだから、きっと仏
陀は魂はないと説いたのだろうと解釈して、仏教が無我説(魂は無い)になっ
てしまった。

仏陀は魂についてよく理解していたと思う。なぜなら、仏教の根本思想は因果
律の教えであり、輪廻転生からの解脱がその中心思想であるからだ。仏陀の悟
りは「縁起の法」として知られる。縁起の法とは原因と結果の法則であり、
「カルマによって輪廻転生が起こっている。」との思想はジャイナ教やヴェー
ダンタ哲学とほぼ共通のものである。

仏陀が魂について無記(言及を避ける)の立場をとったので、本来、非我(体
や心は私ではない)であったものが後の仏教徒に無我(魂は無い)と解釈され
てしまった。そこで、行為の結果を受ける輪廻の主体があいまいになって、仏
教が他からの論争攻撃の対象になってしまった。仏陀在世の時は仏陀は形而上
学的な論争は無駄だとして論争を避けることが出来たが、仏陀亡き後はその攻
撃に対して苦し紛れの理論武装をしなければならなくなった。そんな理由で、
仏教理論が複雑化し解りにくくなり、今に続く混乱のもとになったと私は推察
している。無我説では自業自得や因果応報の説明がつかないので、輪廻転生説
がなりたたなくなるからだ。

仏陀は現実主義者であり実用主義者だった。一方、マハーヴィーラ・ジナは極
端な苦行を通してカルマを根絶し悟りを開いた厳格主義者であり理想主義者だ
った。ジナは魂を重要視して決して他の命を奪ってはならないとした。ジャイ
ナ教は非暴力・不殺生、無所有・無執着を徹底することを悟りに至る最重要課
題にした。絶対非暴力だから、他の命を奪うことはない。他と争うこともない。
自分の命が奪われようと他の命を害することはない。それがジャイナ教の理想
主義である。ジャイナ教は宗教の名のもとに他の宗教と戦争したことのない唯
一の平和宗教といってよい。仏教にも非暴力の考えがあるが現実主義をとるの
で非徹底にならざるを得ない。ジャイナ教の無執着は無所有と同義語であり、
魂の清らかさに重点をおいて、物質的なものや肉体的レベルのもの、快楽原理
に従う世俗的なもの等の価値に執着するな、との教えのことである。人は家族
や財産や地位や名誉や知識など、自分のものだと思うものに、どうしても執着
しがちである。その執着を手放せ、つまり所有してはならないと戒律で厳しく
制限した。ジャイナ教は執着しない所有しないことで輪廻の原因となる欲望か
ら離れようとしたのである。

仏陀の無執着は無執着にも執着するなとの教えであって、ジャイナ教の無執着
とは少し意味が違う。仏陀は苦行を排して苦楽中道を立てた。中道とは世俗的
な安楽な道と苦行的な厳格さの中間、つまりいい加減にしたのである。中道と
は厳格な人から見ればハードルを下げた堕落に見える。

仏陀は当時の出家者の厳格さを排して、屋根のある建物の中で起居するように
なり、綺麗な衣を身にまとい、食事の接待を受けるようになった。従来の出家
者の常識であった厳格な戒律などに執着するな、こだわるな、とらわれてはな
らないと主張した。

仏陀のこのような革新的で実用的、現実的な思想が当時台頭してきた新しい都
市国家の裕福な商工業階級の人達に絶大な支持を受けて仏教教団が大きくなっ
ていったと考えられる。

ジャイナ教と仏教はシュラマナ系の父母を同じくする兄弟宗教である。基本的
な哲学もほとんど同じと言ってよい。一つだけ違うところがあるとすれば永遠
で不変で無限で偏在で純粋なる魂を認めるか認めないかである。仏教は現実主
義、実用主義だから、非物質的なものは認めていない。仏教の世界観は基本的
に物質世界のみのことである。物質世界では変化しないものは無いのだから非
物質であると定義されている魂は無いことになる。

ジャイナ教やヴェーダンタ哲学では非物質なものの特徴として、始まりもなけ
れば終わりもない。永遠に存在し不変である。何時でも何処にでもあって偏在
している。無限であって時間と空間に制約されない。時空を超えていて次元も
超えている。そして穢れなき純粋なものであると定義している。それが真我、
魂であるとしている。

仏陀が沙羅双樹のもとで涅槃に入られるとき、弟子たちは「仏陀入滅の後、私
たちはどのようにしたら良いのでしょうかと」と質問した。仏陀は答えて曰く
「これからは法灯明、自灯明あるいは法帰依、自帰依でいきなさい。」と最後
の教えを残された。「私は充分お前たちに教えてきた、もう教えることは何も
ない、私の教え【真実】を頼りに、他に頼ることなく自分で道を歩んでいきな
さい。」と言った。仏陀の法とは縁起の法のことである。つまり、「因果律の
教えが真実なのだから、そのことを生活の全ての羅針盤にして、全て自己責任
で生きていきなさい。」と教えたのである。それが仏教の核心的教えだと私は
考えている。自分が神であり、全ての人が神である要素を持っている。仏陀は
自己の内側に神聖をみて自業自得、全責任を自分に見なさいと教えているので
ある。

仏教のカルマ論(因果律の教え)とジャイナ教のカルマ論、ヴェーダンタ哲学
のカルマ論はそれぞれ少し違うところがあるけれど、要約すれば、ーーー【こ
の世の中に偶然は無く、原因と結果の法則に従って必然的に起こっている。
そして、今自分が存在していることの全て、受け取っていることの全ては過去
の自分が為した行為の結果によるものだ。だから自業自得であり全責任が自分
にあるのだ。】ーーーとの基本哲学は同じものである。

ヴェーダンタ哲学は創造神としての神を認めていた。マハヴィーラの時代の
ジャイナ教、初期仏教では創造神というものはなく宇宙はカルマによって始め
もない始めから、終わりのない終わりまでただ変化が継続しているのだと説い
ていた。BC2世紀の後半ごろ仏教がヒンドゥー教の影響を受けて大乗仏教が起
こった。同じころ、ジャイナ教でもジナ像が作られ神様の概念のようなものが
登場した。救い、救われといった他力救済の概念が起こったのである。

およそ2000年以上に亘って、仏教もジャイナ教もヒンドゥー教も互いに影
響しながらその教義を発展させていった。原点に帰っていろいろ考えないと、
宗教とは何か、なぜ瞑想が必要かなどのことは良く理解できないのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/11月第74号からの転載です)

2019年1月8日火曜日

コラム:アカルマへの道・モークシャとサンミャク・ダルシャン 2017年3月20日(月) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演

今日はカルマから自由になる話をしたいと思います。ジャイナ教哲学では人間
にとって最高の理想状態になることをモークシャと言います。私たちはモーク
シャになることを目指すべきであり、そして、モークシャになる努力をすべき
です。モークシャになることはマハーヴィーラだけでなく偉大な教祖の示す道
でもあります。モークシャになることは印度哲学の最高の目標であり、仏教も
ジャイナ教もヴェーダンタも同じです。それら、どの哲学も人間にとって最高の
理想状態をモークシャといいます。モークシャになるには語るだけではだめで、
モークシャになるための訓練、修行を始めなければなりません。我々一人ひとり
がモークシャになることを最終目的とすべきです。

モークシャになるには3つの道があります。ずっと昔の古代の聖者の中には4
つの道を歩いた人もいます。しかし、一般的には3つの道を歩くことで実現され
ます。モークシャを目指すなら、それに値する人にならなければなりません。
解脱(モークシャ)するには、解脱するための資格が必要です。それには、まず
真実、本当のことと、嘘、間違いを見分けることが出来る力が必要です。

1.正見ー正しいものの見方が必要です。偏見や妄想でないものの見方が必要で
す。知識によってものを見るのではなく、言葉を変えるなら開けた目で全てを
観ることです。
2.正しい知識ー正しく観て 、正しく受け取ること(正知)です。
3.正しい行動ー正しく学び、正しい訓練、修行をする必要があります。

正しく見、正しく知り、正しく行動するとはどういうことかというと

正しく見るとは真実を信じられるということです。正しく見るとは物事を妄想を
抱かないで見ることをいいます。この世の中を正しく観るとはそういうことで、
この世の中を正しく観、そして我々自身を正しく観れば、我々は世の中を知るこ
とができるし、全てのことを理解できます。そして、私たちは世の中を理解し、
私たち自身を理解して、そのつながりを理解しようと努力することができます。
そこには迷いや妄想は生じて来ません。誤解も生まれて来ません。それをサンミ
ャク・ダルシャン(正しく観る)といいます。正しく観るとは真実を信じられる
ということです。

「サンミャク(Samyak)」 とは、正しいこと、真実、迷いがない悟りの状態
を表す言葉です。
「ダルシャン(Darshan)」とは、観ること、運命という意味もあります。

サンミャク・ダルシャンとは揺るぎもない、迷いもない状態のことで、正しい
見方、正しい生き方、正しい哲学のことをいいます。サンミャク・ダルシャン
は本当のことと、嘘のことを見分ける見方(知力)のことです。

何が正しくて何が正しくないかを見分けられるから、そこから全てが始まります。
まず、正しいものの見方は、本当の意味での明確な人間の目的を示してくれます。
そして、それは世界中の人間に共通していることです。それこそが人類が体験すべ
きことで、その方向が自分の修行、訓練の方向で、力を得る方向です。

世の中にはいろいろな悲惨なことや悪いことがありますが、その根底にあるもの
は何が正しくて何が間違っているかが解からないところにあります。もしサンミャ
ク・ダルシャンが自分の中に整ったと思ったら、次の6つのことについて自分自身
に問いかけてみてください。
1.魂は有る。
2.魂は永遠。魂は死なない。輪廻転生する。
  魂は永遠でないという考え方や魂はないという考え方もあるが魂は永遠と信じ
  られないと自分を律することが出来ないし、好き勝手に生きても構わないとい
  う生き方になります。
3.魂はカルマに従っていて、カルマに拘束されています。
4.魂は為したことを受け取ります。
  私たちは原因と結果の法則の中に生きています。何を考え、何を為したかで結
  果が起ります。今このようにある自分は、全て自分自身に責任があります。善
  因善果、悪因悪果。
5.魂はモークシャ(解脱)になれます。
6.モークシャの道を歩きたいと思っているか。
  我々は全てのカルマを打ち砕き、解消してモークシャになることが出来ます。
  それがモークシャへの道です。

以上6つのことを理解していれば正しいものの見方が出来ていると言えます。モー
クシャに至るには基本としてサンミャク・ダルシャン、正しいものの見方を持って
いることが必須で、6つのことを理解し信じていればその人をサンミャク・ダルシ
ャーニといいます。サンミャク・ダルシャーニとなることがモークシャに至る基本
で、建物でいえば基礎にあたります。

次にモークシャに至るには正しいマスター(導師)、正しいグル(教師)、正しい
宗教が必要です。
正しい指導者と真実の宗教によって我々は真のサンミャク・ダルシャーニになれま
す。

では正しいマスター、正しいグルとはどのような人でしょうか?
本当の智慧を授けてくれるマスターは完全に無執着です。好き嫌いが全然ない。
人間だけでなく、全ての生き物に対しても好き嫌いが全然ありません。全てを
平等に無差別に見ることが出来る人です。マスターは本当の智慧を授けてくれる
人ですが、グルはそれを人々に教えてくれる人です。
正しいグルとはどのような人でしょうか?
本当のグルは無所有を実践している人で、結婚していないし、お金を触りません。
貯金通帳も持っていないし、土地も家屋も財産もありません。自分のものを何も
持っていない人です。世俗生活から完全に離れた出家です。そのようなマスターや
グルを見つけることは大変難しいことであるがとても大切なことです。日本にい
なければ地球は狭いので旅をしてグルを探すのも善いでしょう。ジャイナ教では
出家と在家の支え合いシステムが出来ています。日本でもそのようなシステムを
作ることは可能でしょう。

間違ったマスターやグルを選んでしまったらどうなるでしょう。正しくないグル
についてしまうと人生を無駄にしてしまいます。そしてモークシャに至る正し
い道を歩くことが出来ません。だから、本当のマスターやグルを見つけるのに
注意深く慎重でなければなりません。

正しい宗教とは完全なる非暴力を実践するものです。どんなものにも生き物たち
にも暴力を加えないものです。
我々は生きていくために食、衣、住、仕事(活動するところ)の4つはどうしても
必要ですが、その必要なものに対してアヒンサー(非暴力)、サイグルタ(忍耐)、
サンヤム(節度、制限、慎み深さ)が必要だと思います。それが正しい宗教の基本
です。

正しいマスター、正しいグル、正しい宗教をもつことが本当の意味でのサンミャク・
ダルシャーニであり、モークシャへの道の基本になります。修行しても努力しても
サンミャク・ダルシャーニになっていなければ、得るものは少ないと思います。

サンミャク・ダルシャーニになると、恐れ、怒り、執着、混乱から離れられます。
多くの善くない習慣から離れられます。鬱や自殺から離れられます。サンミャク・
ダルシャーニになることで、多くの病気から私たちは守られます。

サンミャク・ダルシャーニになると、それがその人の行動に現れてきます。
1.シャムが出来るようになります。シャムとはネガティブな気持ちをちゃんと
コントロールできることをいいます。なので、ネガティブな感情はほとんど起こ
って来ません。
2.悟り(モークシャ)に対する強いあこがれを持っています。
3.全ての執着から離れることが出来ていて、完全なる無執着が実行できます。
4.慈悲の心が絶えることがありません。慈悲の心は全てのものに対してであり、
その心が自然に備わっています。
5.真実、真理を信じています。

だから、サンミャク・ダルシャーニは困難、否定的なこともポジティブに肯定的
に解決できます。どのような苦しい状態の時も気持ちは沈まないし、その困難を
突き抜けていくことが出来ます。本当の意味で真実を追求していけば薬物中毒
にはまるようなこともありません。サンミャク・ダルシャーニにならないとアカル
マになることはできません。

カルマから解放されることの障害になること、つまりサンミャク・ダルシャニー
の障害物は何でしょうか。
1.疑い。精神的なものに対して疑い深い人。人間の頭は常に疑いを作り出してい
ます。
2.間違ったことを期待してしまうこと。他力本願、資格がないのに救いを求めてし
まうことです。
3.自分の修行に対する結果に疑いを持ってしまうこと。例えば、この方法でモーク
シャに至ることができるかと疑ってしまうことです。
4.人々に間違ったことを教えてしまうこと。
5.間違った信念を持ってしまうこと。
これらのことがモークシャへの道の障害となるのです。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/10月第74号からの転載です)