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2012年8月25日土曜日

シリーズ[日本人の魂とジャイナ教の霊魂]


お盆には田舎へ帰って祖先のお墓参りをしたり、一族が集まってあの世から祖
先の霊を迎える習慣が日本にはまだ残っている。この風習の起源については諸
説あるが、その根底には日本固有の祖霊信仰と縄文時代から続く「あの世」観
が存在する。

「古代日本人にとって、死は魂が肉体から離れることを意味していた。古代日
本人は生命という観念のかわりに魂という観念を使ったように思われる。あら
ゆる生命のあらゆるところ、そこに魂がある。魂こそ植物も動物もすべての生
命を生命たらしめるものなのである。古代日本人は人間や動物や植物ばかりか、
天地万物すべてに魂があり、その魂によってそれぞれ活動するものだと信じて
いた。人間にももちろんそのような魂があり、魂が人間をして人間たらしめて
いるのである。死はこの魂の肉体からの分離なのである」(梅原猛『日本人の
魂―あの世を観る』光文社p. 37)

この魂の観念は一見してジャイナ教の霊魂(ジーヴァ)思想に非常に近いもの
がある(たとえば、渡辺研二『ジャイナ教入門』現代図書p.110-115参照)。
その点ではプレクシャ・メディテーションはわれわれ日本人にとって受け入れ
やすい瞑想かもしれない。

しかしながら、死によって肉体から分離した魂がその後どうなるか、その魂の
ゆくえについては両者は方向を異にする。すなわちジャイナ教では個々の魂は
解脱しない限り永遠に輪廻(サンサーラ)転生を繰り返し、そこから離脱する
ためには業(カルマ)を払い落して魂を浄化しなければならないと説く。そこ
では魂は全体として常に一定数存在しかつまた個別的である(個我)。一方、
日本人の魂は、死後、「あの世」に向かう。あの世はどこにあるかというと、
天の一角すなわち太陽(生命の根源)の沈む西方のあまり高くも低くもない適
当なところに在ると観念されてきたらしい(梅原p.42-3)。天国でも地獄でも
なく、子孫の住む此の世に近い天の何処か、である。そして場合によっては死
後すぐにあの世へは行かず、しばらくの間、里近い山々(神聖とされる山や連
山、端山)に留まり、魂が清められた後にあの世に向かうという考え方(霊山
崇拝)もある。そこから鎮魂として様々な祭祀が生まれた。もしかしたら日本
人が臨死体験として語る霊的世界(立花隆『臨死体験』上・下 文藝春秋)は
われわれの中に脈々と受け継がれるこうした潜在観念によって生み出される仮
想体験かもしれない。そして祖先の住むあの世に逝った魂(祖霊と融合した魂
=非個我)は年に数回、子孫の家に帰ってくる。それがお盆や正月、お彼岸の
時なのである。輪廻転生的な考え方もあるが、日本のそれはあくまでも家族単
位での転生で、必ず子孫の誰かに生まれ変わると考えられている(「よみがえ
る」とは黄泉すなわちあの世から帰ることを意味する)。またそれが万世一系
の天皇制や家制度、氏神信仰の思想的基盤にもなっている。(ちなみに「カ
ミ」(神)は「タマ」(魂)が善の方向に分化したもので盆の時期などに山か
らやって来れば山神、海の方から来れば海神になり、逆に悪の方向に分化した
ものが「オニ」(鬼)と呼ばれ、さらに第三の分化として「モノ」(木や石な
どの物体)に化体する場合があるという。つまり日本が多神教たる由縁もここ
にある。)

こうした日本人の霊魂観は、歴史的に大きく二度、外来の思想によって揺すぶ
られ変容してきた。最初が仏教の伝来と普及であり、次がキリスト教を背景に
もつ欧米思想の流入と文明の受容である。

まず仏教思想に関しては、和辻哲郎を持ち出すまでもなく、日本は「国民的宗
教としての祖先崇拝と普遍的宗教としての仏教が互いに他を排除することなく、
二種の異なった信仰様式が…一つの生活の中でともに生かせられ」ている(山
折哲雄『日本人の霊魂観―鎮魂と禁欲の精神史』河出書房新社p.7-8)ことは
われわれ自身も実感するところである。本来的に原理を異にする仏教が国策と
してのみならず、このように広く日本人一般に受け入れられた背景には、浄土
教(法然と親鸞)の功績が大きかったと言われる。つまり、南無阿弥陀仏を唱
えれば誰でもあの世ならぬ極楽浄土へ往生でき、一旦極楽浄土へ行った人間は
菩薩として此の世に還ってくると説いたことが受け入れられた(梅原p.147-15
8)。ただし、日本古来の「あの世」観に類似したために広まった浄土仏教で
あるが、帰還の先が自分の家族ではない点において決定的な違いがある。柳田
國男はこの点で「仏教は、祖霊の融合を認めずして、無暗に個人についての年
忌の供養を強調したとし、常設の魂棚を仏壇に改変し、古代の国魂、郡魂の思
想を複数的な機能神にねじまげ、総じて家々の先祖祭や墓の管理に口を出した、
という。タマ観念に凝縮される家の信仰を、個人解脱としての往生の方向(つ
まり往生安楽国)へと誘い、次世へと繋がることを願いかつ信じた人々に対し
ては紫雲のたなびく仏の来迎を期待させようとばかりした」(山折p.24)と批
判するのである(柳田國男『先祖の話』参照)。この批判をどう受け止めるか。
それは、ジャイナ教の瞑想を追究する上でも極めて重要である。なぜなら、プ
レクシャ瞑想も、その究極的な目的はあくまでも個人の魂(個我)の救済(浄
化)にあるからである。そして言うまでもなく、今や日本人は欧米の個人主義
にどっぷり浸かり、魂の存在も死後の世界さえも疑うようになった。そうした
現代日本人にとって本当の魂の救いとは何かということを、私たちは自分自身
の潜在意識を深く掘り起こしながら確認していかなければならない。瞑想を通
じて追求したいものは何なのか。欧米流に現世における利益(健康や金銭)や
快楽のみを求めるのか、仏教やジャイナ教的な個人の魂(個我)の救済をめざ
すのか、それとも身近な人や社会との精神的なつながりを取り戻すことによっ
て自己実現をはかりたいのか。本当の自分の心の落ち着く先を見定めなければ
ならない。



<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)



2012年5月25日金曜日

シリーズ[苦痛を経験する、ということ]


前号では「苦痛を受け容れる、ということ」について哲学的な観点と精神医学
的な観点からその意義を記したが、痛みを受容するには痛みのメカニズムを理
解しておくと、より冷静な対処が可能となる。

痛みを伴う反応は大きく二つの経路を通じて行われる。一つは「侵害受容」
(nociception)とよばれる神経的な反応で、皮膚などに備わっている侵害受
容体に刺激が加えられると先ず電気信号が発生し、それが脊髄につながる神経
線維を通じて脊髄背(後)角に伝わると反射が自動的に起こり、筋肉が反応す
る。いわゆる脊髄反射である。熱湯に触れた時、瞬時に手を引っ込める等の反
応である。しかし、われわれが通常感じる「痛み」はここではまだ認識されな
い。その後、少し遅れて刺激情報が別の神経回路を通じて脳によって検出され、
それが大脳皮質(とくに扁桃体のある辺縁系など古い皮質)に伝わると、不快
な感覚を覚え、「痛み」や「苦しみ」として感じられる。すなわち、不快の情
動感覚に意識的に気づいた状態(認知)が生まれ、教訓として記憶に蓄積され
る。「侵害受容」は無意識レベルの現象で苦しみは経験されないのに対し、
「苦痛」は情動(感情)を伴う経験である。刺激に対する神経的・生理的反応
(神経的反応に続いて起こるホルモン物質(アドレナリン、コルチゾール、コ
ルチコステロン等)の分泌によって生じるストレス反応。脈拍や呼吸が速くな
ったり吐き気・食欲減退等が生じ、恐怖心など心理的プロセスに影響する)と
異なり、情動感覚は心の状態や情動によって痛みの経験のあり方や感じ方に違
いが生ずるという(ヴィクトリア・ブレイスウェイト『魚は痛みを感じる
か?』2012年、紀伊國屋書店)。

しかしながら、こうした痛みのメカニズムの詳細は未だ完全には解明されてい
ない。fMRI等による画像解析が可能になって漸く明らかになりつつある。突発
的な侵害事象(痛みの素となる刺激)に反応する神経回路とその後悩まされる
慢性的な痛みの原因(部位)が異なることも最近になって判ってきた
(A.Vania Apkarian, “The brain in chronic pain: clinical implications,
” Pain Manage.(2011) 1(6), 577-586)。興味深いのは後者(慢性的な痛み
の原因)である。反射的に発生する急性の痛みの経路と違い、慢性的な痛みが
関連する場所は元の侵害発生場所ではなく脳の特定部位(主に前頭前皮質や扁
桃体を含む大脳辺縁皮質)であるという点である。これらの部位は感情や自己
評価に関わるとされている領域で、痛みが長期にわたるとこれらの関連部位
(痛みの程度を抑える背外側前頭前皮質や視床)が萎縮(灰白質の密度が減
少)し、感情の制御や恐怖の記憶を消す眼窩前頭皮質の働きが抑制されるとい
う(A.V.Apkarian et al., "Chronic Back Pain Is Associated with
Decreased Prefrontal and Thalamic Gray Matter Density,” The Journal
of Neuroscience, November 17, 2004, 10410-10415)。85パーセントが原因
不明とされてきた慢性的な腰痛の7割が脳の働きの低下(側坐核による鎮痛物
質オピオイドの分泌低下)に因るものだということが最近判明したそうだが
(NHK『ためしてガッテン』「驚異の回復!腰の痛み」2011/11/16放送)、腰
痛だけでなく関節リウマチ、変形性関節症、帯状疱疹(ヘルペス)後神経痛等
でも上述の関連部位の活動低下が同様に確認されている(A.V.Apkarian,
“Pain perception in relation to emotional learning,” Current Opinion
 in Neurobiology 2008, 18:464-468)。

こうした脳への影響の多くは痛みによって生じるストレスに直接的な原因があ
ると考えられている。脳萎縮の原因を「痛み」そのものではなく、そこからく
る精神的なストレスに認める知見は、3.11後の調査で、心的外傷後ストレス障
害(PTSD)の症状が強い人ほど先述の眼窩前頭皮質(感情の制御や恐怖の記憶
を消す働きに関わる部位)が萎縮していることを確認した東北大学の研究報告
(『朝日新聞』2012/5/28夕刊)とも一致するところである。そうであるとす
れば、脳に起因する慢性的な痛みを改善する手掛かりも、ストレス・コント
ロール(ストレスの軽減と管理)にあることは容易に察しがつく。現に、痛み
のことばかり考えて安静を心掛けていた患者が楽しみを見つけ、活動的な日常
をおくるようになってから腰痛が減少した例が数多く確認されているという。
したがって、この文脈においても、瞑想(とくに完全リラクセーション瞑想と
呼吸の知覚あるいは身体の知覚瞑想)が非常に有効な助けになりうることは改
めて指摘するまでもない。深い瞑想状態のとき、側坐核が活性化されて「喜
び」を感じるというが、このとき同時に鎮痛作用も生じている可能性がある。
また、瞑想(呼吸)によりセロトニン神経が活性化(内因性痛覚抑制系が活性
化)されることでも鎮痛効果が発揮されるという(有田秀穂『瞑想脳を拓く』
43-44頁)。それでももし瞑想中に苦痛を感じたら、今度はそれを意識的に
「受け容れる」練習を繰り返す。それは先の「情動感覚」としての痛覚(ある
いは痛みからくるストレス)を感情から切り離しコントロールする訓練になる。
先に述べたように、このレベルの「苦痛」は経験の仕方によって感じ方を変質
させることができるのである。瞑想の効果として期待される「平常心」や「忍
耐力」は、こういうところから醸成されるのではないだろうか。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

2012年4月25日水曜日

シリーズ[苦痛を受け容れる、ということ]


私のクラスでは、プレクシャ瞑想とヨガを実習するにあたって3つの点を特に
意識するよう強調している。一つは呼吸(ゆっくりとした深いリズミカルな呼
吸を維持し)、第二にリラクセーション(随意筋を徹底的に弛緩させて心を解
放し)、そして第三に知覚への集中(思考が停止するほどに感覚に意識を向け
る)である。この3つは密接に関連し合いながらヨガの段階から瞑想の状態に
移行することに寄与するが、その過程で生じる「痛み」をどう扱うかというこ
とが多くの場合課題となる。

この点に関連して、ムニ・マヘンドラ・クマール師は、シャリーラ・プレクシ
ャ(身体の知覚瞑想)の解説において、興味深い説明をしている。

瞑想中に体のどこかに痛みを感じても、その痛みに対して好嫌の感情を抱いて
はならない。快・不快に対して反応してはならない。痛みを感じたら心をそこ
から切り離して自由にし、感情や評価をまじえずに純粋に知覚に専念しなけれ
ばならない。そうすることで平静心が生まれるのである。もし痛みに対して感
情を伴わせて反応してしまうと、新しいカルマ(業)を作りだすことになる、
と。一方、既存のカルマについては、自分自身を変えるには粗大な身体(肉体)
の繊細な活動・機能を知覚し、それによってさらに奥に在るより微細な身体と
コミュニケーションを確立する必要がある。そこ(カルマ体)に精神的な発展
・進歩を阻害している原因があり、それが魂の束縛をもたらしている。カルマ
体には様々なことが記録されており、「自分を変える」にはそこに記録されて
いることを書き換えなければならない。その影響を阻止することが魂を自由に
することである。我々は身体の知覚を通して身体と自己との間にコミュニケー
ションを再構築する必要がある。
(『International Preksha Meditation: Shareer Preksha』Muni Mahendra
Kumar師ビデオ講義より抜粋・要約)

この説明は実に僧侶らしい宗教哲学的な表現であるが、よく考えると、大変示
唆に富んでいる。すなわち、肉体的な「痛み」(に影響された心)の行きつく
先と精神的な苦楽の源泉が同じだということである。用語こそ「カルマ」(原
意は「行為」)というインド思想からくる概念を用いているが、こうした「苦
痛」に対する捉え方は、最近、精神医療の現場でも見直されつつあり、トラウ
マ(*1)の治療にも導入されている(以下、デイヴィッド・エマーソン他
『トラウマをヨーガで克服する』2011/12紀伊國屋書店より抜粋・要約)。

トラウマを負った人は、その特徴として、一度何かのきっかけで体の警報装置
がオンになると二度とオフにならず、絶えず脳の原始的な部分で警戒状態が維
持され、真のリラックスを感じることなく、安心して生活することができなく
なる、という。原因は様々だが、子供時代に刻み込まれた「自分」や人との関
わり合いの中でもたらされた感情が潜在意識となって蓄積・沈殿し、人生のリ
アリティに対する混乱が生まれ、自らの人生を十分に生きることができなくな
る。喜びや苦痛を受けとめ、対処し、楽しみ、受け容れる能力が損なわれ、苦
しみに満ちた日常を送り、身体的にも免疫系が過剰に活性化し過度の警戒感を
解除できず自己免疫病を発症したり、脳の自己認識に関わる領域の活動が低下
して自己の中心を失い(中心が他人に遷移して)周囲に振り回される等の影響
を受けやすくなる。トラウマとは固く執拗に「嫌悪」に縛りつけられた状態で
あり、不安、恐れ、憎しみ、忌避といったネガティヴな感情と行動が繰り返し
もたらされる。

こうしたトラウマ症状に対する従来の標準的な対処法は、言葉によるカウンセ
リング(認知行動療法や曝露療法)が中心だった。しかし認識するだけでは、
心の傷や外傷記憶がいたずらに喚起され、苦痛が増大し、症状が悪化する場合
がある。そこで、身体を使って介入するタイプの療法(感覚運動精神療法/肉
体的な経験を足がかりとしてその人の内面・情緒・認識へと向かう方法)が試
みられるようになってきた。その最前線に、トラウマ用に考案されたヨガや瞑
想がある。

数多くの臨床を通じて導き出された結論は、次のようなものである。まず、す
べてのトラウマに共通する要素は「体からの疎外と断絶」と「<今ここに在る>
ことのできる能力の低下」にある。ここからトラウマを克服するための手法が
考案されるが、なかでも重要なポイントが<身体への指向>と<苦痛の受容>
である。すなわち、「ヨーガはまた、思考、感情、肉体的反応を含めた<自己>
の意識を強くする。そうした感覚的気づきの増大が、その人の体、そして自己
意識との結びつきの再構築を助ける。・・・それが体を指向するものとなったと
き、より成功の度合いが高くなるということをわれわれは見出した。われわれ
はクライアンに、彼らの思考や感情、彼らを取り巻く光景、周囲の音やにおい
までも意識するよう求めるのではなく」たとえば鼻で呼吸するエクササイズを
勧める。「そして、不快感の兆候や、自己判断が出てきたことに気づいたら、
ふたたび本来のエクササイズに戻り、経験のあらゆる側面に関心を持ち続け、
”判断を下さない”というスタンスを保ちながら取り組みを続け」る。そこで
は「身体的・感情的に不快な状態に対する判断をとりやめること」が重要であ
る。「知ろうとすることによって、それらの状態を直ちに変えようとする行動
に出るのではなく”ただ意識している”という、感情的に距離を置いた内的状
態をつくりだす。・・・何を変えることもなく、判断をしないで冷静に知ろうと
するプラクティスを特に勧める。」(p.143-4)

上記のポイントは、ヨガや他のどんな瞑想よりも、まさに身体内部の現象にの
み注意を向け意識を集中するプレクシャ瞑想(とくに身体や呼吸の知覚瞑想と
カヨーウッサグ)そのものである。「トラウマの克服」をそのまま「カルマの
浄化」という表現と置き換えてみたとき、現代におけるこの瞑想法の意義と役
割が浮かび上がってくるように思われてならない。

*1「トラウマ」(心的外傷)とは圧倒的・暴力的あるいは衝撃的な身体的経
験または心理的あるいは感情的経験によって生み出される心の傷をいい、それ
が精神に異常な状態を引き起こすとPTSD(心的外傷後ストレス障害)となる。
典型的な原因としては、戦争、強姦等の犯罪、事件・事故を含む悲惨な出来事、
暴力、虐待、いじめや嫌がらせ、親や配偶者によるDV、大規模な自然災害など
がある。しかし本文に書いた特徴は「トラウマ」に限らず、うつ病や抑うつ状
態にもあてはまる点が多い。

<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年2月25日土曜日

シリーズ[「下山の思想」とガンディー「魂の言葉」]


昨年12月に発売された五木寛之『下山の思想』(幻冬舎新書)が週刊売上1位
のベストセラーになっている。その骨子は次の文章に集約される。

「時代は『下山のとき』である。・・・登山しっぱなし、ということはありえな
い。登った山からは、必ず下りるのだ。そして安全に、確実に、できれば優雅
に麓にたどりつく。そして家へもどり、また新たな登山の夢をはぐくむ。・・・
下山する、ということは、決して登ることにくらべて価値のないことではない。
一国の歴史も、時代もそうだ。文化は下山の時代にこそ成熟するとはいえない
だろうか。私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。・・・少子化は進
むだろう。輸出型の経済も変わっていくだろう。強国、大国をめざす必要もな
くなっていくだろう。そして、ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望
が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。」「下山の時代
がはじまった、といったところで、世の中がいっせいに下降しはじめるわけで
はない。長い時間をかけての下山が進行していくのだ。戦後半世紀以上の登山
の時代を考えると、下山も同じ時間がかかるだろう。しかし、下山の風は次第
にあちこちに吹きはじめている。いつか人びとは、はっきりとそのことに気づ
くようになるはずだ。・・・宇宙へ向いていた視線は、逆に個々の身体の奥へ向
けられる。生を死の側からみつめる必要も生まれてくる。慈の思想にかわって、
悲の思想が大きく浮上してくるだろう。そんな時代に、いま私たちは、直面し
ているのだ。」

全体の内容は空疎だが、それでもベストセラーになっている背景にはおそらく、
高度成長期を謳歌した世代の時代観(あるいは人生観)が共有されている面が
あるのだろう。時代を読む一つの視点がそこに提示されている。

学生の頃、昼食をとりながらふと考えたことがある。資源を無尽蔵であるかの
ごとく消費しつづける社会は、その有限性を現実のものとして意識した瞬間か
ら退行がはじまるのではないか。第三世界の資源を搾取することで発展してき
た先進諸国。それが主導するグローバリズムの構造的問題を当時考えていた。
でもそれは遠い先の未来についての、漠然とした予想に過ぎなかった。
しかし・・・。

時代はその後、現実からかけ離れたバブル経済に酔いしれてゆく。やがてバブ
ルは崩壊し、「リストラ」が社会問題化する。使い捨ての文化は、資源のみな
らず人をも使い捨てる文化である。その頃から「リサイクル」や「循環型社会」
といった言葉が日本にも登場し、人々はまだ使えるのに捨てられてゆく廃棄物
に自分の姿を重ね合わせるかのように、もう一度社会の中で再生する道を模索
しはじめる。地球温暖化や環境問題は外的動因に過ぎないだろう。内面に生ま
れた心の空虚感は、さらに個人の癒し・健康ブームへと進んでいく。自殺者の
増加も無関係とはいえない。そんな時代の流れが想い起こされる。

マハトマ・ガンディーは1925年、次のような有名な言葉を残している。
「まだ知らない人がいたら、知っておいてほしいことがある。現代社会に巣食
う七つの大罪とは・・・。

 理念なき政治(Politics without principles)
 労働なき富(Wealth without work)
 良心なき快楽(Pleasure without conscience)
 人格なき知識(Knowledge without character)
 道徳なき商業(Commerce without Morality)
 人間性なき科学(Science without humanity)
 献身なき信仰(Worship without sacrifice)

読者はこれを頭ではなく、心に刻みこんでほしい。こうした罪を決して犯さな
いために-。」(『ヤング・インディア』1925年10月22日号)
「わたしが理想とする社会のイメージは、水面に丸く広がる波紋である。それ
はひとつの人生のまわりに、また別の人生が広がっているようなものである。
そして、その中心に個人がいる。その個人は、次の波紋である村の輪の中に溶
け込んでいき、その村もまた、周囲の村々の輪に溶け込んでいく。このような
社会では、各々がこの大きな波紋をつくるための重要な波のひとつだと認識し、
常に謙虚に暮らすことができるだろう。」
(『ガンディー 魂の言葉』太田出版2011年9月)

日本や先進諸国は、長い間、罪を犯してきた。そのツケが今さまざまな場面に
表れている。3.11後の社会づくりは、人間を主役にしたこの「水の波紋のよう
な社会」であってほしい。「下山」というよりは、新しいムーブメントとして。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

2011年12月25日日曜日

シリーズ[「基本の4ステップ」瞑想の魅力]


<瞑想とは何か>という問いに対して端的に答えることは難しい。それは、瞑
想には段階があり、それぞれの段階に応じて理解も効果も異なるからである。
山登りに例えるなら、しばらく登った最初の休憩地点で緑葉樹の木洩れ日の中
から見える景色と、常緑樹林帯を越えた高みから見渡す景色、針葉樹の森林限
界を越えたところから臨む景色はずいぶんと異なっている。けれども景色に違
いはあれど、どの場所を歩いていても山登りは気持ちいいものである。麓近く
の生い茂る緑の世界と木々の匂い、はじめて視界が開けた時の解放感、急な坂
を登り切った時の達成感etc.は一瞬一瞬が新鮮で、疲れを忘れさせてくれる。
頂上をめざしていたことさえ忘れてしまう輝きに満ちている。どれをとっても
山登りの魅力を説明するのに十分であろう。

瞑想も同じである。雲の上にある頂上まで登りつめて本当の瞑想の意味を実感
するまでには、幾多の道のりを辿らなければならない。坐禅でもヨガでも、
「無の境地」や「サマーディ」に達するには相当の修行が必要である。まして
や「悟り」や「解脱」など世俗で得られるものではない。気の遠くなるほど先
にそういうものがあるんだろうなぁ、と知識によって想像するだけである。し
かし、プレクシャ瞑想の「基本の4ステップ」にじっくり取り組んでいると、
次第に(頂上はなかなか見えなくても)頂上へ向かう安全で確かな道のりを歩
んでいる、という信念が生まれてくる。瞑想への実感である。そのように実感
できるのは、おそらく、一つひとつのステップが丹念に組み立てられているか
らであろう。瞑想(状態)へのプロセスが要素ごとに分解され、そこへ確実に
導かれるように再構成されているのである。

その要素を大雑把につかめば、次のように整理することができる。

1. 「リラックスせずに瞑想に臨むことは、風の強い日に窓を閉めずに掃き掃
除をするに等しい」とは、プレクシャ・メディテーション体系を構築したアチ
ャーリヤ・マハープラギャ師の言である。とくに「知覚瞑想」の場合、身体に
生じるあらゆる現象を注意深く観察する必要から、余分な筋肉的な現象は微細
な感覚を捕捉する妨げとなる。周囲の雑音を消してはじめて聞こえてくる音が
ある。そこに注意を向けなければならない。4ステップ瞑想の最初に「瞑想の
前提条件をつくるため」にカヨーウッサグを行うのはそのためである。ここは
まだ瞑想への入り口=「登山口」であるが、力を抜くことで心が落ち着き、ス
トレスから解放される。あるいは不眠症・冷え性の改善、疲労回復、不安・イ
ライラの解消といった「景色」をみることができる。

2. アンタルヤートラ(内なる旅)は生命エネルギー(プラーナ)をコントロ
ールし、瞑想の基盤をつくる瞑想である。カヨーウッサグによって体性感覚を
失った状態でエネルギーを「源泉」から「知の中心点」(頭頂)に汲み上げ、
本格的な瞑想に入るための準備を行う。これを行うと、ともすればリラックス
しすぎた脳(中枢神経)の働きが活性化され、意識がより明澄になる。ここか
らみえる「景色」は、神経系(交感神経と副交感神経)のバランス・強化、自
制心の獲得、精神力の向上、感情の安定化などである。

3. 呼吸は命の基本である。「人は時計によって時間の存在を認識できるよう
に、呼吸によって命の存在を認識できる。」(A.マハープラギャ)また、呼吸
は自律神経に支配されている生命維持活動の中で唯一、随意的にコントロール
できる現象である。つまり肉体と意識、体と心をつなぐ懸け橋になる。「ゆっ
くりとしたリズムで深い呼吸」を繰り返しているだけで次第に心は落ち着いて
くる。そういう呼吸をシュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の知覚瞑想)で練習し
習慣化すると、集中力の開発、エネルギーの充填・増幅、緊張の緩和、精神の
安定、血圧の安定などの効果が期待できる。最新の研究によると、ゆっくり深
い呼吸をすると、セロトニン神経が活性化されて脳(自律神経)と心に影響を
与える(ストレスの緩和)だけでなく、不安や恐怖を感じる扁桃体への刺激が
減りネガティヴな感情が軽減される効果もあるという。また、肺胞が刺激され
ることでプロスタグランジンI2とう物質が血中に分泌され、血管が拡張して血
圧が下がったり、血栓ができにくくなって脳梗塞・心筋梗塞・動脈硬化も予防
されるという。そういう命のはたらきに直結する「景色」がここではみえてく
る。

4. そして、最後にジョーティ・ケンドラ・プレクシャ(輝く白い光の知覚)
瞑想を行う意味は何か。霊的色彩光の一つであるこの「色」(シュクラ・レー
シャ)を知覚すると、一般に、怒りやイライラの沈静化、平常心の獲得、平穏
・平和な気持ちの維持などの効果がもたらされるが、4ステップの最後で常に
これを行うことにはそれ以上の格別な意味があるように思われる。実際にステ
ップ(階段)を順に昇ってくると、1~3までの体験と4の段階でもたらされる
体験との間にはある種の質的な違いが感じられるからである。その質感自体を
言葉で言い表すのは難しい(本質的に言語表現になじまない)が、私はそれは
「集中」(行為)と「瞑想」(状態)の違いではないかと考えている。よくい
われる「瞑想とは一つの事物に集中することである」という定義は「瞑想をす
る」という行為を示しているだけで、瞑想そのものではない。それは瞑想に至
るための条件でしかない。それは必要不可欠な絶対条件ではあるが「瞑想」で
はない。集中によって思考が止まり、内的な環境が整った時、そして意識が集
中から解放された時、はじめて瞑想の状態が訪れるのである(坂本知忠[瞑想
をする、瞑想が起こる]本誌6号でいう「起こる」と同義)。4ステップの第4
段階は、この「状態」を誘発する意味と効果があるのではないか。ここで意識
的な作為から離れた瞬間に、頂上を覆い隠していた霞が晴れ、何かが感得され
る。そこに4ステップ瞑想の真義があるのではないか。そんなふうに思われて
ならない。

上に述べた「景色」はいずれも瞑想の究極的な目的(頂上)に至るまでの「副
産物」にすぎないが、どれも素敵な魅力と瞬間に溢れている。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

2011年11月25日金曜日

シリーズ[知識と叡智]


人生の転換期に、深く心に刻まれる詩や小説に出遭うことは幸運である。少年
期から青年期へ向かう頃に感じた恐ろしいほどの孤独。その孤独感が自分だけ
のものではないことを知ったのは、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』であった。
そして人生を半ば過ぎた今、再びヘッセは『シッダールタ』をもって私に強く
語りかけてきた。

「真我(アートマン)はどこに見いだされるのか?『彼』はどこに住んでいる
のか、『彼』の永遠の心臓はどこで鼓動しているのか、各人が自分の中にもっ
ている自我の中、自我の最も奥深い中、不滅のものの中以外のどこにあるのだ
ろうか? ところでこの『自我』は、この最奥のものは、この究極のものはど
こに、どこにあるのか、それは肉でもなく骨でもない、それは思考でもなく意
識でもない、と最も賢い人たちは教えた。では、どこに、どこにそれはあるの
だ? そこへ、『自我』へ、自分自身へ、真我へ到達するために、別の道が、
求めがいのある別の道があるのだろうか? ああ、この道を示した者は誰もい
なかった。その道を知っている者は誰もいなかった。[中略]たしかに神聖な
経典、[中略](奥義書)の多くの詩行が、この最も内奥のもの、究極のもの
について語っていた。すばらしい詩句であった。『汝の心[高橋健二訳では
「魂」]は全世界なり』とそこには書かれていた。そして人間は、睡眠中、深
い眠りの中で、彼の最内奥へ入り、真我の中に住むのだと書かれていた。
[中略]無数の世代の賢いバラモンたちによってここに集められ、保存されて
いる厖大な量の知識の成果は決して軽視されてはならなかった。-けれど、こ
のこの上なく深い知識を、ただ単に知り得ただけでなく、生きることに成功し
たバラモンはどこにいただろう、そういう僧侶、賢者、あるいは贖罪者はどこ
にいただろう? 真我の中に住むことを、睡眠状態から覚醒状態へ、日常生活
へ、いたるところへ、日常の言動へ、超人的な力で移行させた達人はどこにい
ただろう?」(岡田朝雄訳『シッダールタ―あるインドの詩―』より)

主人公シッダールタ(仏陀とは別人)は、こうして究極の問の解を探しに高貴
なバラモンの地位を捨て沙門(苦行者)の生活に入る。そして沙門たちの下で
自我を解脱するための多くの方法を学ぶ。苦痛による自己離脱の道、苦痛・飢
え・渇き・疲労を受け入れ克服することによる滅我の道、瞑想によりあらゆる
観念から感覚を空しくして滅私する道、思考によってすべての表象を意識から
滅却することによる解脱の道を学んだ。が、それでも答えを見つけられず、問
う。「瞑想とは何だろう、肉体の離脱とは何だろう、断食とは何だろう、呼吸
の停止とは何だろう? それは自分自身であることの苦しみからのしばしの逃
避にすぎない、生きることの苦痛と無意味さに対するしばしの麻痺だ。
[中略]けれど涅槃(ニルヴァーナ)に達することがないだろう。[中略]私
たちは慰めを見いだす、私たちは己を欺く技術を覚える。けれど最も大切なも
の、道の中の道を私たちは見いだすことはできないのだ。」(岡田訳)

シッダールタは覚者(ゴータマ仏陀)にも会った。そして仏陀こそ「彼の生涯
で彼の前に現れた最後の師であり、最後の賢者」であり、「至高の聖者」であ
り、彼の教えに「驚嘆」し、その教えを「反論の余地のない」「完全に明白」
な、「真実である」と認めた。しかしシッダールタは、その覚者からも離れた。
帰依しなかった。「何人も教えによっては解脱を得られない!」と言い放って。

シッダールタが気づいたこと、それは「この世のどんなものについてよりも、
自分自身について知ることが最も少なかった」ということであった。

その後シッダールタは世俗の世界に入り込んでいく。自らを知るため、自らを
経験するために。彼は商売を覚え、金銭欲を知り、財産欲・所有欲を満たす心
を知り、官能を知り、快楽に溺れ、酒を飲み、賭博をやり、権勢を味わい、い
つしか人生の目的を見失い、最も軽蔑していた世界に没入してしまう。とこと
んまで落ちてゆく。自分自身に幻滅し、絶望し、嫌悪し、ついには河に身を沈
めるまでに堕落する。しかしそれでも終わらなかった。もう一度歩み直そうと
したその時に、また煩悩に苦しめられる。自分の子を盲目的に愛し、失う悲し
みを体験し、世俗に輪廻するあまたの苦悩を味わい尽くす。

しかし、こうした堕落と苦悩を自分自身で体験することは必要なことであった。
若いころから戒められ知ってはいたが、その知識を自分のものとしたことはつ
いぞなかった。すべての非聖なるものを自分自身で体験し、そこにある苦悩に
自ら陥ったからこそ、彼は次の段階、仏陀の弟子たちが誰もたどり着くことの
できなかった高みへと昇ってゆく。そして最後には、シッダールタは悟り、時
が実在しないことを認識し、すべてを受け入れ愛する叡智を得ることになるの
だが、その過程と内容はここではあえて触れない(高橋訳も岡田訳も素晴らし
い宝石のような言葉が散りばめられているので味わっていただきたい)。シッ
ダールタは言う。「知識は伝えることができるけれど、『叡智は人に伝えるこ
とができない』。それは見いだすことはできるし、それを生きることはできる。
それに支えられることはできる。それによって奇跡を行うことはできる。けれ
どそれを言葉にして人に教えることはできないのだ。」

書物であれ、偉大な師であれ、それに出遭い、その教えを「知る」ということ
と、自ら実践し、体験し、探求し、気づき、「叡智」を得るということは全く
別物である。今この日本で、私の生活において、私は何のために瞑想を学んで
いるのか。瞑想を学ぶとはどういうことか。その答えは私自身の生活実感の中
でつかみ取るしかない。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)



2011年8月20日土曜日

シリーズ[鬼の住処]


(子供たちが『桃太郎』の絵本を棚から持ってきた:
♪「お話、お話、パチパチパチパチ、うれしい話、たのしい話、シッシッシッ
シッ静~か~に聴きましょう。何かな、何かな…」♪ 「はい、これ読んで!」)

  「むかし、むかし、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。
  おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。すると
  大きな桃が流れてきました。喜んだおばあさんはその桃を背中に担いで帰
  って行きました。
   桃を切ろうとすると、桃から大きな赤ん坊が出てきました。二人は驚い
  たけれども、とても幸せでした。その子は桃から生まれたので、桃太郎と
  名づけられました。桃太郎はあっと言う間に大きくなり、立派な優しい男
  の子になりました。
   ある日のことです。桃太郎は二人に言いました。『鬼ケ島に悪い鬼が住
  んでいると聞きました。私が行って退治しましょう。』…」

「ねぇパパ、鬼ってどこにいるの? お外にいるの? 悪いことするの?」

(そのとき流れたテレビのニュース:)
  「千葉県柏市で、2歳の長男に十分な食事を与えずに死亡させたとして、
  両親が保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕されました。…司法解剖の結果、
  長男は紙切れやプラスチックのようなものを口にしていたことが分かり、
  警察は、男の子が空腹に耐えかねて身の周りのものを口に入れていたと
  みて調べています。男の子の体重は同年代の男児の平均13キロに対し、
  5.8キロしかありませんでした。…」

(こんな鬼のお話はいかがでしょうか)
  「遠~い、遠~い昔のことでした。ある小さな島に、ふたりの男の子が生
  まれました。ふたりは何をするにも、いつも一緒でした。一緒に山に行っ
  ては虫や木の実をとり、川に行っては魚をとり、夜寝るときも一つ枕に仲
  良く頭をのせて、おしゃべりをしながら眠りました。
   ある日のことでした。ふたりが山にいくと、とってもかわいい赤ちゃん
  ウサギが泣いていました。ふたりが『どうしたの?』とたずねると、『お
  母さんがいなくなっちゃったの』とウサギが答えました。『じゃあ、ボク
  たちが一緒に探してあげるよ。』そういってふたりは一所懸命ウサギのお
  母さんを探しました。でも、夜になっても、お母さんウサギはみつかりま
  せん。このままでは赤ちゃんウサギはお腹を空かせて死んでしまいます。
  ふたりはウサギを家に連れて帰り、一緒に暮らすことにしました。
   ふたりはウサギがとってもかわいかったので、大事に、大事に育てまし
  た。ウサギもふたりがとっても親切だったので、ふたりのことが大好きで
  した。ふたりは、毎日、競い合うように、ウサギの好きなものをみつけて
  は持って帰りました。ある時は、山からウサギの大好物の葉っぱをたくさ
  ん持って帰りました。またある時は、川にあった枯れ木でトンネルをつく
  ってあげました。
   ところが、だんだん、ふたりは自分のことだけを好きになってもらいた
  くて、よくケンカをするようになりました。このウサギは自分のものだと
  言っては相手を叩いたり、蹴飛ばしたり、引っ張ったり、しまいにはひと
  りが持ち帰った物を隠したり、壊したりするようになりました。
   乱暴になっただけではありません。もう島にはウサギにあげる物があま
  りないので、小舟で近くの島々に渡っては、村人の物を盗んでくるように
  なりました。
   そんなある日、ウサギが山に帰ると言いだしました。ここにいたらふた
  りがケンカばかりするので、山に帰りたくなったのです。それを聞いたふ
  たりは腹を立てて、ウサギを殺して食べてしまいました。
   ウサギがいなくなると、代わりの物が欲しくなり、いろいろな動物をつ
  かまえては飼ってみましたが、いつも最後は取り合いになり、ケンカして、
  殺して、食べてしまうのでした。
   そんなことを繰り返すうちに、月日が流れ、ふたりの両親もこの世を去
  り、大人になったふたりだけが島で暮らすようになりました。それでも仲
  の悪いままのふたりは、あいかわらずケンカばかりしていました。
   両親がいなくなってからは盗みもますますひどくなり、最近では物だけ
  でなく人間までさらってくるようになりました。さらわれた娘たちがどう
  なったかはわかりません。村人たちは体の大きな醜い形相のふたりのこと
  を『人さらい鬼』とか『人食い鬼』と呼んで恐れるようになりました。そ
  していつしかこの島は『鬼ヶ島』と呼ばれ、誰も近づかなくなりました。」

「鬼」はどこにいるのか? 
それはきっと人の中に棲みついているのではないでしょうか? 

人は誰でも欲望を持っています。独占欲、支配欲、情欲、食欲、…。そして、
放っておくと、それを満たすためなら何でもするし、満たされないと怒りが生
まれ、暴力が生じます。我欲を満たすためなら、平気で我が子を殺してしまう
人さえいます。

誰の心の中にもいる鬼。その鬼の芽を(1)押し込めるのか(抑制)、(2)
コントロールするのか(制御)、(3)摘み取るのか(消去)。

プレクシャ・メディテーション(ジャイナ教の瞑想)は第(3)番目の道(=浄化)を
目指しているようですが、はたして本当にそれは可能なのでしょうか?
自分自身で確かめてみるしかありません。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)


2011年7月20日水曜日

シリーズ[闘病する友へ]


もうずいぶん長い間会っていませんが、その後どうしていますか? 先日、風
の便りに君の病いのことを知りました。すぐにでも駆けつけたい衝動に駆られ
ましたが、そういうわけにもいきません。だから、この手紙を書くことにしま
した。この便りも風にのって君のもとへ届くことを祈りながら。

私は今、プレクシャ・メディテーションという瞑想を勉強しています。けっし
ていかがわしい瞑想ではありません。インドで古くから実践されている瞑想法
に、最新の医学的な知見なども取り入れて再構成された、とても奥が深い瞑想
法です。そして、その勉強の過程で最近たまたま読んだ本に、癌と心の密接な
関係について書かれたものが幾つかありました。君は「精神免疫学」とか「精
神神経(内分泌)免疫学」あるいは「精神腫瘍免疫学」という新しい医学分野
をご存知ですか? 癌の発生や経過、ひいては治癒(治療だけでなく自然退縮
も)に、気持ちのもちようが非常に大きく影響するらしいのです(神庭重信
『こころと体の対話-精神免疫学の世界』文春新書)。

人は誰でも癌になる可能性があります。私たちの体では毎日数千個もの癌細胞
が生まれており、その一つひとつを体内の免疫システムが退治してくれている
から簡単には癌にならないのだそうです。つまり、その免疫システムが何らか
の理由で弱まり、それが長期にわたる時、私たちは誰でも癌を発症する危険性
があるということです。何らかの理由とは、高齢、免疫抑制剤の使用、放射線
被曝、エイズなど罹患による免疫不全のほか、人の性格まで関係してきます
(最上悠『「いい人」はなぜガンになりやすいのか』青春新書)。

癌になりやすい性格とはどのようなものか。複数の研究を簡略化してまとめる
と、次のようなタイプの人がこれに該当するようです。

・怒りを表に出さない(抑制)。怒りの感情を持っていることにすら気づいて
 いない(抑圧)。
・他のネガティヴ感情(不安、恐怖、悲しみ)も持っている自覚がなく、あっ
 ても表に出さない。
・仕事や家庭での人付き合いにおいて、我慢強く控え目で、協力的で、人に譲
 ることも厭わない。権威に対しても従順である。
・他人の期待にこたえようと気を遣いすぎ、逆に自分の要求は十分に満たそう
 としないで自己犠牲的である。
・自分にとって高い価値がある対象(大切な人や仕事など)が自分の幸福にと
 ってきわめて重要な意味を持つと考えている。それを失うと絶望感や無力感
 を強く感じ、深い精神的な傷となるほどに。

君のように、誰もが認める「いい人」が、そして社会的にも成功した人生を歩
んできた人が癌になる可能性が高いなんて、なんという皮肉な統計でしょう。
でもそこには共通の原因が隠されていました。要するに、ストレスです。癌の
直接的な因子が何であれ、ストレスが強く慢性的であるほど癌を発症しやすく
治療の予後も悪い一方、どんなに強いストレスでも処理するのが上手な自律性
の高い人(人格的自律型=自分の大切な人や対象に自律性を認め、また自分の
自律性も大切にしている人。対象に依存しないタイプ)は癌になりにくく予後
もいい(自然退縮の例も多い)ということです。私たちの誰もが避けることの
できないストレス。これをどう自分の中で処理できるかがとても重要なのだそ
うです(吾郷晋浩監修・川村則行編著『がんは「気持ち」で治るのか!?-精神
神経免疫学の挑戦 』三一書房)。

では、そうした性格に関連したストレス、生活態度と密接に結びついたストレ
ス、あるいは生命の危機という最大の対象喪失の恐怖がもたらすストレスを上
手く処理する方法は一体あるのでしょうか。

欧米では、通常の医学的治療と併行して患者の精神的負担を和らげるための様
々な心理療法が試みられているそうです。家族や医師が一丸となって患者の心
を支えたり、患者同士でグループワークを行ったり、リラクセーションのため
の方法を指導したり、病気・栄養・ストレスについての専門知識を提供したり。
そして、これらを通じて期待される重要な変化とは、自分を客観視できるよう
になることと、先にふれた他者・他物をすべてとしない心(自律性)の獲得だ
ということです。

友よ、どうか諦めないでください。命の息吹を取り戻すために出来ることはた
くさんあります(荒川香里『がん最先端治療の実力-三大療法の限界と免疫細
胞療法』幻冬舎)。自分で出来ることだってあります。たとえば、私のやって
いる瞑想もその一つです。まだ証明はできませんが、上のような最近の研究を
読みながら、癌に「良い」とされる要素がことごとく含まれていてドキドキし
ました。完全なリラクセーションの手法はもとより、対象に依存することから
生じる心の執着を無くす方法、幸福の源を外に求めるのではなく自分自身の内
に見いだす方法、独善的にならずに自分を客観視する方法がこの瞑想法にはあ
ります。願わくば、君のもとへ飛んで行って、その一つひとつを一緒に実行し
てみたい気持ちでいっぱいです。

自分が癌だとわかった時、その事実を受け入れ医師とともに自分でも積極的に
治療に取り組む人は、事実を直視せず心理的に受け入れようとしない人、冷静
に受けとめたけれど医者任せにしてしまう人、絶望感に陥ってしまう人に比べ
て、癌を克服し再発もしない割合が非常に高いそうです。友よ、どうか諦めず
に、この病いを一つの機会ととらえて、本当の意味での心身の健康回復へ歩み
出してください(沖正弘『なぜヨガで病気が治るのか』竹井出版)。そして、
いつかまた笑顔で再会する日を楽しみにしています。

(※「闘病する友」は架空の人物であり、この書簡は実在の人物に宛てたもの
 ではありません。)


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

2011年6月20日月曜日

シリーズ[いまこの瞬間の輝き]


「 いまこの瞬間のなかにすべてがある。
  少なくとも、大切なものは全部でそろっている。
  人生の意味も、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも。
  だから瞬間を生きよう、先のことを想わず、
  今ここのかがやきのなかにいよう。 」
   (古東哲明著『瞬間を生きる哲学-<今ここ>に佇む技法』筑摩書房)

つい今しがた届いた本。こんな書き出しではじまっている。なか身はまだみて
ないが、急に筆を執りたくなった。いろいろなことが脳裏に浮かぶ。こんな瞬
間のかがやき、いったいどんな時に感じるだろう?

真っ先に思い浮かぶのは旅をしている時だ。インドでも、イタリアでも、大好
きなところを訪れている時は、つらい過去を思い出すこともなければ、明日ま
でに片づけなければならない仕事について考えることもない。ただこの一歩一
歩、一瞬一瞬がこの上なく大切で、過ぎ去ってほしくなく、愛おしく、貴重で、
手離しがたい。そして、なんともいえず、せつない。せつないから、すべての
光景、におい、音、肌ざわりが心に刻まれてゆく。(その瞬間瞬間を思い出し
ている今という瞬間も、きっと、この先なんども思い出すだろう。)

日常において、こんなふうに瞬間の大切さを感じることは、ついぞ無かった。
ふつうは皆、そうだろう。まわりには家族がいて、仕事があり、子育てがあり
…、いろんな人が、いろんなことを言い、わたしはいつも対応に追われている。
24時間、365日。それが、わたしの生活だ。人生だ。

でも、そんな日常のなかに少しでも特別な時間が持てたならば、たとえその時
間が1時間だろうと、30分だろうと、一瞬であろうと、それが自分のための、
自分だけのための、充溢した時間であったならば、それはものすごく大切な、
愛おしい時間になる。芸術でも、音楽でも、スポーツでも、瞑想でも。

そんなふうに想いながら、ふと自分の日常をふり返った時、子育てのなかにも、
仕事のなかにも、家事のなかにも、雑事のなかにも、そういうキラキラした、
幸せな瞬間(とき)がありますね。五感を澄ましてみてください…ほら、今も、
ボブマーリーの〈No Woman No Cry〉が、本を片手に入った店内に流れてる!

<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

2011年5月20日金曜日

シリーズ[宗教と科学のはざまに巣食う病理現象]


現代の多くの日本人は、科学というものを無批判に信奉する傾向がある。否、
日本だけではない。先進国の一定レベルの教育を受けた人々全般に当てはまる
ことである。科学的なデータによって証明されない事象は真実として受け入れ
られず否定したり無視したり、あるいは逆に科学的な言葉が散りばめられた解
説や専門家と称する人の発言は根拠に乏しくても信じ込むといった偏った風潮
がある。

その一方で、これと正反対にみえる傾向も存在する。いわゆる「スピリチュア
ル」ブームである。スピリチュアルカウンセラー、サイコセラピー、パワース
ポット、パワーストーン、ヒーリング、占い・占星術・風水、オーラ、波動、
チャネリング…。場合によっては、同種療法(ホメオパシー)をはじめとする
代替療法(ホリスティック医療)、ロハス、「地球と体にやさしい」自然農・
自然食、スローライフなどの「癒し」文化もこれに含まれる。

「スピリチュアル」とは、人知を超えた超越的神秘的な次元にある「何か」
(たとえば大自然、宇宙、内なる神、特別な人間など)とつながる感覚をいい、
自己が何らかの形で変容するような非日常的な感覚を伴う精神傾向を意味する。
そこには「宗教」の教えは必ずしも必要ではない。むしろ、その人が体験した
もの(たとえば「生かされている」という実感)が重要だという(磯村健太郎
『<スピリチュアル>はなぜ流行るのか』23-27頁(2007年PHP新書))。

「宗教」ではない「霊性」(not religious, but spiritual)。既成の「宗教」
をうけつけない人でもスピリチュアルには「はまる」ケースが多い。その理由
は、従来の用意された宗教的世界観・宇宙観にリアリティをもてず団体や組織
に何かと拘束されるのは嫌だけれども、個人的な精神のレベルでは「癒された
い」「救われたい」「つながりたい」という気持ちがあり、「自分探し」の欲
求が依然として強いため、「自分にとっての聖なるものと直接つながろうとす
る動き」がますます盛んになっているからだと分析される(同、35-37頁)。
つまり、「宗教」ではないが、形を変えた「宗教的なるもの」が受け皿を失っ
て溢れ出てきているのである。

こうした傾向(近代科学によって宗教の不条理が暴かれた結果生まれた「スピ
リチュアル文化」)は、ある意味で自然な流れではあるが、合理性を超えた領
域での活動である以上、常に「危うさ」を孕んでいるのも事実である。オウム
真理教までいかなくても、霊感商法や不可解な自己啓発セミナーで高額な金銭
を支払わされる例が後を絶たない。最初に述べた無批判な科学信奉
(「科学教」!)も実は同根である。「宗教」離れの間隙に忍び込んできた精
神傾向という意味では両者とも変わらない。いずれも思考停止と依存心という
共通の心理(病理)を背景にもっている。

これに対しプレクシャ瞑想は、基本的にジャイナ教に伝わる瞑想法を整理しな
おしたという意味ではきわめて「宗教」的だが、思考停止も依存心も伴わない。
体系の再構築の過程では、ジャイナ独自の古代瞑想にとどまらず、そのルート
とされるヨガや同時代の釈迦の瞑想法も実証的かつ徹底的に研究されたという。
そのうえで、効果をさらに深く理解し合理的に説明するために、解剖学、生理
学、心理学等の現代諸科学の知見まで最大活用しているのである。つまり、こ
の瞑想は単なる神秘主義に陥らず、今後も科学の進歩に応じて発展する可能性
と柔軟性を秘めている。由緒ある伝統的な宗教の立場から新しいもの(科学)
を排除するのではなく、人間の秘密を解き明かすためにあらゆる成果を総合的
に取り込みながら、科学の側にも一層の解明努力と進化を求めている。科学的
合理主義という型にはまった見方(科学的に証明されないことは信じないとい
う価値観)から離れてプレクシャ瞑想の方法論をみるとき、その衡平さに驚か
される。宗教と科学の間のグレーゾーンに置き去りにされ、行き場を失ったわ
れわれ現代人にとってまさに必要な、生きるヒントと方法がそこに隠されてい
るかもしれない。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)


2011年4月20日水曜日

シリーズ[翻訳者の目線から-宗教と科学のはざま-]


小林秀雄は『信ずることと考えること』と題する講演(昭和49年)の中で、近
代科学の方法とその傲慢さを批判している。それは我々が唯一信じられると思
いこんでいる「近代以降の科学的合理主義」への批判でもある。そして、小林
の言を借りれば、そうした科学のもつ狭い物の見方が「人間の精神を非常に狭
い道に導いた」。

小林は言う。「この科学というものが出来たために、人間のこの広大な経験を
非常に小さい狭い道の中に押し込めたんです。これをよく考えなけりゃいけな
いんです。…そういうことを、諸君、はっきり知ってないと駄目なんです!そ
れであの発達ってものは必ず物的なものなんです。精神の上では全然発達して
おりません…人間の人格なんてのは一っつも発達してないんです。なんだか非
常に、人間の精神てものは荒廃に瀕しているじゃないか、いま。」

プレクシャ・メディテーションは、「人間の広大な経験」(古代からの叡智)
に科学的な知見を加味して構築されたものである。しかし、そこに「加味」さ
れている科学的な説明は人間の「経験」のほんの一部にすぎない。我々はそこ
に自分の「体験」と「学び」を積み重ねていかなければならない。そうでない
と、宇宙の「真理」を知ることなどけっしてできないし、精神の荒廃を押しと
どめることもできないだろう。

「…そういう科学者の提供している客観的宇宙っていうものはだねぇ、それは
そういう宇宙に対する理論があって解釈があってね、いろいろあるだけですよ。
みんなそれは観念じゃないか。僕に伝わってくるのは知識ですよ。僕の直接に
経験するものじゃないです。僕の直接に経験するものは僕っきゃない。僕の心
だけは、これはもう間違いない。疑いないでしょ。だから恐らくだよ、恐らく
そちらの方に本当の実在ってものがあるんじゃないですか。僕はそう思ってま
すね。僕の意識ってものがある、僕の意識に外界から何かが来るんです。取り
巻いてるんだからね。それに僕が応接してるんです。その応接してるものは僕
の心でしょ。僕の意識でしょ。その意識は如何にでも大きく広がることができ
ますけどね。…そういう心ってものは、それは実在だよ。僕の経験そのものじ
ゃないか。これを疑うことはできないですよ。これは唯一の僕の財産じゃない
か。この中に何もかもあるに違いないですよ。学問の提供する客観的宇宙って
ものは、それは観念ですよ。実在に関する観念ですよ。知識ですよ。だから、
間接的なものだけども、そういうものに対して僕の意識が応対してるでしょ。
処しているでしょ。その処する僕の心ってものは、そこには宇宙のゾーンもあ
るし、処してる僕の態度もあるし、そういうものが一緒になってるでしょ。そ
れが僕の経験じゃないか。直接の経験じゃないか。そういうものが本当の実在
ですよ。そこに信ずるっていう働きがあるんです。」

プレクシャ瞑想の目的は「本当の自分を観て、真実を知ること」にある。昭和
の日本を代表する知の巨人がかつて訴えていたことと確かに通じるものがそこ
にはある。このコラムでは、プレクシャ瞑想を受け継ぐジャイナ教指導者の原
典を翻訳する過程で訳者が突き当たった壁、それを乗り越えるために自らの体
験を通して考えたこと、そしてその後の最新科学の知見から学び理解できるこ
と等を中心に、心の内を吐露していきたいと考えている。それが皆様の何かの
ヒントになれば幸いです。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)