<瞑想とは何か>という問いに対して端的に答えることは難しい。それは、瞑
想には段階があり、それぞれの段階に応じて理解も効果も異なるからである。
山登りに例えるなら、しばらく登った最初の休憩地点で緑葉樹の木洩れ日の中
から見える景色と、常緑樹林帯を越えた高みから見渡す景色、針葉樹の森林限
界を越えたところから臨む景色はずいぶんと異なっている。けれども景色に違
いはあれど、どの場所を歩いていても山登りは気持ちいいものである。麓近く
の生い茂る緑の世界と木々の匂い、はじめて視界が開けた時の解放感、急な坂
を登り切った時の達成感etc.は一瞬一瞬が新鮮で、疲れを忘れさせてくれる。
頂上をめざしていたことさえ忘れてしまう輝きに満ちている。どれをとっても
山登りの魅力を説明するのに十分であろう。
瞑想も同じである。雲の上にある頂上まで登りつめて本当の瞑想の意味を実感
するまでには、幾多の道のりを辿らなければならない。坐禅でもヨガでも、
「無の境地」や「サマーディ」に達するには相当の修行が必要である。まして
や「悟り」や「解脱」など世俗で得られるものではない。気の遠くなるほど先
にそういうものがあるんだろうなぁ、と知識によって想像するだけである。し
かし、プレクシャ瞑想の「基本の4ステップ」にじっくり取り組んでいると、
次第に(頂上はなかなか見えなくても)頂上へ向かう安全で確かな道のりを歩
んでいる、という信念が生まれてくる。瞑想への実感である。そのように実感
できるのは、おそらく、一つひとつのステップが丹念に組み立てられているか
らであろう。瞑想(状態)へのプロセスが要素ごとに分解され、そこへ確実に
導かれるように再構成されているのである。
その要素を大雑把につかめば、次のように整理することができる。
1. 「リラックスせずに瞑想に臨むことは、風の強い日に窓を閉めずに掃き掃
除をするに等しい」とは、プレクシャ・メディテーション体系を構築したアチ
ャーリヤ・マハープラギャ師の言である。とくに「知覚瞑想」の場合、身体に
生じるあらゆる現象を注意深く観察する必要から、余分な筋肉的な現象は微細
な感覚を捕捉する妨げとなる。周囲の雑音を消してはじめて聞こえてくる音が
ある。そこに注意を向けなければならない。4ステップ瞑想の最初に「瞑想の
前提条件をつくるため」にカヨーウッサグを行うのはそのためである。ここは
まだ瞑想への入り口=「登山口」であるが、力を抜くことで心が落ち着き、ス
トレスから解放される。あるいは不眠症・冷え性の改善、疲労回復、不安・イ
ライラの解消といった「景色」をみることができる。
2. アンタルヤートラ(内なる旅)は生命エネルギー(プラーナ)をコントロ
ールし、瞑想の基盤をつくる瞑想である。カヨーウッサグによって体性感覚を
失った状態でエネルギーを「源泉」から「知の中心点」(頭頂)に汲み上げ、
本格的な瞑想に入るための準備を行う。これを行うと、ともすればリラックス
しすぎた脳(中枢神経)の働きが活性化され、意識がより明澄になる。ここか
らみえる「景色」は、神経系(交感神経と副交感神経)のバランス・強化、自
制心の獲得、精神力の向上、感情の安定化などである。
3. 呼吸は命の基本である。「人は時計によって時間の存在を認識できるよう
に、呼吸によって命の存在を認識できる。」(A.マハープラギャ)また、呼吸
は自律神経に支配されている生命維持活動の中で唯一、随意的にコントロール
できる現象である。つまり肉体と意識、体と心をつなぐ懸け橋になる。「ゆっ
くりとしたリズムで深い呼吸」を繰り返しているだけで次第に心は落ち着いて
くる。そういう呼吸をシュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の知覚瞑想)で練習し
習慣化すると、集中力の開発、エネルギーの充填・増幅、緊張の緩和、精神の
安定、血圧の安定などの効果が期待できる。最新の研究によると、ゆっくり深
い呼吸をすると、セロトニン神経が活性化されて脳(自律神経)と心に影響を
与える(ストレスの緩和)だけでなく、不安や恐怖を感じる扁桃体への刺激が
減りネガティヴな感情が軽減される効果もあるという。また、肺胞が刺激され
ることでプロスタグランジンI2とう物質が血中に分泌され、血管が拡張して血
圧が下がったり、血栓ができにくくなって脳梗塞・心筋梗塞・動脈硬化も予防
されるという。そういう命のはたらきに直結する「景色」がここではみえてく
る。
4. そして、最後にジョーティ・ケンドラ・プレクシャ(輝く白い光の知覚)
瞑想を行う意味は何か。霊的色彩光の一つであるこの「色」(シュクラ・レー
シャ)を知覚すると、一般に、怒りやイライラの沈静化、平常心の獲得、平穏
・平和な気持ちの維持などの効果がもたらされるが、4ステップの最後で常に
これを行うことにはそれ以上の格別な意味があるように思われる。実際にステ
ップ(階段)を順に昇ってくると、1~3までの体験と4の段階でもたらされる
体験との間にはある種の質的な違いが感じられるからである。その質感自体を
言葉で言い表すのは難しい(本質的に言語表現になじまない)が、私はそれは
「集中」(行為)と「瞑想」(状態)の違いではないかと考えている。よくい
われる「瞑想とは一つの事物に集中することである」という定義は「瞑想をす
る」という行為を示しているだけで、瞑想そのものではない。それは瞑想に至
るための条件でしかない。それは必要不可欠な絶対条件ではあるが「瞑想」で
はない。集中によって思考が止まり、内的な環境が整った時、そして意識が集
中から解放された時、はじめて瞑想の状態が訪れるのである(坂本知忠[瞑想
をする、瞑想が起こる]本誌6号でいう「起こる」と同義)。4ステップの第4
段階は、この「状態」を誘発する意味と効果があるのではないか。ここで意識
的な作為から離れた瞬間に、頂上を覆い隠していた霞が晴れ、何かが感得され
る。そこに4ステップ瞑想の真義があるのではないか。そんなふうに思われて
ならない。
上に述べた「景色」はいずれも瞑想の究極的な目的(頂上)に至るまでの「副
産物」にすぎないが、どれも素敵な魅力と瞬間に溢れている。
<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)