孫子に曰く、静かなること林の如く、動かざること山のごとし。武田信玄も風
林火山の旗印にした。林は静かか、山は動かないかは別問題として、動くこと
止まることは一つの事と云える。このことを古人は静動一如と云った。静動一
如は名人、達人、悟りの境地である。それは静けさ、止まっていることのなか
に、莫大なエネルギーが湛えられていて時が至れば激しく動くと云うことを意
味する。また、激しく動いているのにそこに静けさをあわせ持っていることで
もある。例えればダム湖の水は波静かであるが、甚大な位置のエネルギーを持
っているし、地球は秒速900キロメートルで宇宙空間を移動しているが地上で
生活している人間には静止しているとしか感じられない。
動くと云うのは一体なんなのか。
人間がこの世に生を受けるということは、一時も止まることが許されない躍動
の中に放り出されることなのだ。人間は常に動かなければならない、人間は変
化しなければならない。動かないことじっとしていることは肉体的に苦痛なの
で常に体勢姿勢を変え続けなければならないように出来ている。立ち続けるこ
とも苦痛、座り続けることも苦痛、寝続けることも大変な苦痛なのだ。古人は
動くと云うことが心地よいにもかかわらずなぜ苦痛を承知で体の動きを止め、
呼吸を限りなく鎮め、思考を止め、体内感覚の波を鎮めようとしたのか。それ
は、それらが止まり鎮まったときに動いているとき以上の至福感があるからだ。
我々は時間を止めることは出来ないし、地球や惑星の動きを止めることも出来
ない。体の中で細胞レベルで起こっている変化の流れも止めることは出来ない。
神経細胞の中を流れてゆく電磁気的な流れは継続している。その流れと共にお
こっている感覚を知覚しているとき、思考が止まって心が鎮まり、知覚が観じ
ようとする対象の感覚と一つになって、粗雑な感覚から微細な感覚へ、希薄な
感覚へ、さらに無限に広がる均一で透明な静かに静止した感覚になっているこ
とがある。そんなときは時間も無くなってしまったような、自己と云う存在も
なくなってしまって根源的なものだけが立ち現われている気がする。
過去と現在と未来が一瞬のなかにことごとくあって、知覚すべき動きがまった
くない静止したような状態、三次元的な空間ではない広がり、観じようとする
意識と観じられる対象が双方透きとおったようになる。
そんな体験が未熟な私にもときどき起こる。
私はもっと深く動と静について探求しなければならないと思っている。
私達は動いていること、生命が永遠なる過去現在未来に繋がっていることやも
っと多くのことを川の流れに学ばなければならないし、止まっていることの意
味、忍耐を大木老樹に学ばなければならないと思う。私は最近、川が先生であ
り、老樹が友達であり、それらと自分がなんら変わりなく同じものだとの気持
ちが目覚めてきた。山や川や森を観察し自分の内部を観察することが万巻の書
物を読むことより大事だと解ってきた。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)