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2012年4月26日木曜日

第34回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内

第34回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年5月7日(月)19:00~21:00
場所:市川市南行徳

テーマ:パタンジャリの内的三支分(綜制)とプレクシャ瞑想(つづき)

前回、今期(第Ⅲ期)の課題を「瞑想とヨガ」とすることについて説明しまし
た。パタンジャリはダラーナ、ディヤーナ、サマーディの3段階を内的部門と
位置づけていますが、それとプレクシャ瞑想はどこが共通し、どこが違うので
しょうか。次回は、前回途中で終わったこの導入部分を説明した後、パタンジ
ャリの『ヨーガ・スートラ』を読み解きながらこの点を検討したいと思います。

出席される方は、ご自分が今までに経験・理解した瞑想をもとに、<ヨガにお
ける瞑想とはどのようなものか>について整理してきてください。報告では主
に佐保田鶴治『解説ヨーガ・スートラ』を使う予定ですが、各自お持ちの資料
であらかじめヨーガ・スートラの内容をご確認いただくと解釈の違い等から有
意義な議論ができると思います。また、前回出席された方はレジュメを忘れず
にご持参ください。


※開催直前の一週間内に必ず協会ブログページ
(http://prekshajapan.blogspot.com/)をご確認ください。開催情報を含
む連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
(savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと資料を受け取れ
ないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
6月4日(月)19時~21時 場所:市川市南行徳
7月2日(月)19時~21時 場所:同上

※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開
催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン
『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)
にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら
(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ
(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。

2012年4月25日水曜日

シリーズ[苦痛を受け容れる、ということ]


私のクラスでは、プレクシャ瞑想とヨガを実習するにあたって3つの点を特に
意識するよう強調している。一つは呼吸(ゆっくりとした深いリズミカルな呼
吸を維持し)、第二にリラクセーション(随意筋を徹底的に弛緩させて心を解
放し)、そして第三に知覚への集中(思考が停止するほどに感覚に意識を向け
る)である。この3つは密接に関連し合いながらヨガの段階から瞑想の状態に
移行することに寄与するが、その過程で生じる「痛み」をどう扱うかというこ
とが多くの場合課題となる。

この点に関連して、ムニ・マヘンドラ・クマール師は、シャリーラ・プレクシ
ャ(身体の知覚瞑想)の解説において、興味深い説明をしている。

瞑想中に体のどこかに痛みを感じても、その痛みに対して好嫌の感情を抱いて
はならない。快・不快に対して反応してはならない。痛みを感じたら心をそこ
から切り離して自由にし、感情や評価をまじえずに純粋に知覚に専念しなけれ
ばならない。そうすることで平静心が生まれるのである。もし痛みに対して感
情を伴わせて反応してしまうと、新しいカルマ(業)を作りだすことになる、
と。一方、既存のカルマについては、自分自身を変えるには粗大な身体(肉体)
の繊細な活動・機能を知覚し、それによってさらに奥に在るより微細な身体と
コミュニケーションを確立する必要がある。そこ(カルマ体)に精神的な発展
・進歩を阻害している原因があり、それが魂の束縛をもたらしている。カルマ
体には様々なことが記録されており、「自分を変える」にはそこに記録されて
いることを書き換えなければならない。その影響を阻止することが魂を自由に
することである。我々は身体の知覚を通して身体と自己との間にコミュニケー
ションを再構築する必要がある。
(『International Preksha Meditation: Shareer Preksha』Muni Mahendra
Kumar師ビデオ講義より抜粋・要約)

この説明は実に僧侶らしい宗教哲学的な表現であるが、よく考えると、大変示
唆に富んでいる。すなわち、肉体的な「痛み」(に影響された心)の行きつく
先と精神的な苦楽の源泉が同じだということである。用語こそ「カルマ」(原
意は「行為」)というインド思想からくる概念を用いているが、こうした「苦
痛」に対する捉え方は、最近、精神医療の現場でも見直されつつあり、トラウ
マ(*1)の治療にも導入されている(以下、デイヴィッド・エマーソン他
『トラウマをヨーガで克服する』2011/12紀伊國屋書店より抜粋・要約)。

トラウマを負った人は、その特徴として、一度何かのきっかけで体の警報装置
がオンになると二度とオフにならず、絶えず脳の原始的な部分で警戒状態が維
持され、真のリラックスを感じることなく、安心して生活することができなく
なる、という。原因は様々だが、子供時代に刻み込まれた「自分」や人との関
わり合いの中でもたらされた感情が潜在意識となって蓄積・沈殿し、人生のリ
アリティに対する混乱が生まれ、自らの人生を十分に生きることができなくな
る。喜びや苦痛を受けとめ、対処し、楽しみ、受け容れる能力が損なわれ、苦
しみに満ちた日常を送り、身体的にも免疫系が過剰に活性化し過度の警戒感を
解除できず自己免疫病を発症したり、脳の自己認識に関わる領域の活動が低下
して自己の中心を失い(中心が他人に遷移して)周囲に振り回される等の影響
を受けやすくなる。トラウマとは固く執拗に「嫌悪」に縛りつけられた状態で
あり、不安、恐れ、憎しみ、忌避といったネガティヴな感情と行動が繰り返し
もたらされる。

こうしたトラウマ症状に対する従来の標準的な対処法は、言葉によるカウンセ
リング(認知行動療法や曝露療法)が中心だった。しかし認識するだけでは、
心の傷や外傷記憶がいたずらに喚起され、苦痛が増大し、症状が悪化する場合
がある。そこで、身体を使って介入するタイプの療法(感覚運動精神療法/肉
体的な経験を足がかりとしてその人の内面・情緒・認識へと向かう方法)が試
みられるようになってきた。その最前線に、トラウマ用に考案されたヨガや瞑
想がある。

数多くの臨床を通じて導き出された結論は、次のようなものである。まず、す
べてのトラウマに共通する要素は「体からの疎外と断絶」と「<今ここに在る>
ことのできる能力の低下」にある。ここからトラウマを克服するための手法が
考案されるが、なかでも重要なポイントが<身体への指向>と<苦痛の受容>
である。すなわち、「ヨーガはまた、思考、感情、肉体的反応を含めた<自己>
の意識を強くする。そうした感覚的気づきの増大が、その人の体、そして自己
意識との結びつきの再構築を助ける。・・・それが体を指向するものとなったと
き、より成功の度合いが高くなるということをわれわれは見出した。われわれ
はクライアンに、彼らの思考や感情、彼らを取り巻く光景、周囲の音やにおい
までも意識するよう求めるのではなく」たとえば鼻で呼吸するエクササイズを
勧める。「そして、不快感の兆候や、自己判断が出てきたことに気づいたら、
ふたたび本来のエクササイズに戻り、経験のあらゆる側面に関心を持ち続け、
”判断を下さない”というスタンスを保ちながら取り組みを続け」る。そこで
は「身体的・感情的に不快な状態に対する判断をとりやめること」が重要であ
る。「知ろうとすることによって、それらの状態を直ちに変えようとする行動
に出るのではなく”ただ意識している”という、感情的に距離を置いた内的状
態をつくりだす。・・・何を変えることもなく、判断をしないで冷静に知ろうと
するプラクティスを特に勧める。」(p.143-4)

上記のポイントは、ヨガや他のどんな瞑想よりも、まさに身体内部の現象にの
み注意を向け意識を集中するプレクシャ瞑想(とくに身体や呼吸の知覚瞑想と
カヨーウッサグ)そのものである。「トラウマの克服」をそのまま「カルマの
浄化」という表現と置き換えてみたとき、現代におけるこの瞑想法の意義と役
割が浮かび上がってくるように思われてならない。

*1「トラウマ」(心的外傷)とは圧倒的・暴力的あるいは衝撃的な身体的経
験または心理的あるいは感情的経験によって生み出される心の傷をいい、それ
が精神に異常な状態を引き起こすとPTSD(心的外傷後ストレス障害)となる。
典型的な原因としては、戦争、強姦等の犯罪、事件・事故を含む悲惨な出来事、
暴力、虐待、いじめや嫌がらせ、親や配偶者によるDV、大規模な自然災害など
がある。しかし本文に書いた特徴は「トラウマ」に限らず、うつ病や抑うつ状
態にもあてはまる点が多い。

<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)


コラム[ジャイナ教僧侶がしているマスクの意味]


ジャイナ教白衣派の出家僧がしているマスクは我々日本人には馴染みがないの
で少し不気味に感じるかもしれません。今回はなぜ僧侶がマスクをしているか
説明します。

私達が求めているのは幸福になることです。不幸になりたい人はいません。な
のにどうして不幸になるのでしょう。私達が無知だからです。最大の無知は怒
る事です。幸福になるには私達は怒りの心を無くさなくてはなりません。

何かに対して嫌だなぁと思う心が怒りの心です。怒りを言葉に出せば自分自身
が傷つくし、相手をも不幸にします。誰かをけなす、脅す、陰口をきく、相手
を怒る、非難する、侮辱するなどの言葉は言葉による暴力です。暴力を振るえ
ば他の人や生き物達と仲良く出来ません。暴力を振るえば相手の心に怒りが起
こります。それが争いです。

怒りの心は自分の方が正しいと思うエゴの心から起こってきます。執着するこ
とや適応性の欠如からも起こってきます。ジャイナ教ではアネカンタといって
他の主張も否定しません。自分だけが正しいのではない、立場を変えて相手も
正しいと思うことそれが非独善主義です。アネカンタの考えが争いを無くしま
す。勝ち負けではなく、平和と幸福の為に他と争いません。

全ての生き物達と仲良くするというのがジャイナ教の一番大事な教えです。非
暴力、絶対平和主義です。自分が殺されても相手を絶対に傷つけません。他に
対して肉体的な暴力だけでなく言葉による精神的な暴力も決して振るいません。
嫌だなぁと相手に思わせる言葉は全て暴力的な言葉です。

ジャイナ教の僧侶は一瞬一瞬の言葉と思考に、他に対する思いやりと友好の気
持ちを育み、決して言葉による暴力を犯さないと実践しているのです。口先だ
けの理論でなく実行実践を重視しています。マスクをする事で言葉による暴力
がなくなり、マスクがその実践を助けているのです。

マスクは「アヒンサー(非暴力)」、「アパリグラハ(無執着)」、「アネカンタ
(非独善主義)」、「マイトゥリ(全生命との友好)」のシンボルなのです。マス
クはジャイナ教の心であり、教え(哲学)であり、ジャイナ教そのものです。マ
スクを取ってしまえば、形態的にもゴータマ仏陀時代の仏教と区別できません。
ジャイナ教は世界一全ての生き物達に優しい平和宗教です。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)