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2012年8月25日土曜日

シリーズ[日本人の魂とジャイナ教の霊魂]


お盆には田舎へ帰って祖先のお墓参りをしたり、一族が集まってあの世から祖
先の霊を迎える習慣が日本にはまだ残っている。この風習の起源については諸
説あるが、その根底には日本固有の祖霊信仰と縄文時代から続く「あの世」観
が存在する。

「古代日本人にとって、死は魂が肉体から離れることを意味していた。古代日
本人は生命という観念のかわりに魂という観念を使ったように思われる。あら
ゆる生命のあらゆるところ、そこに魂がある。魂こそ植物も動物もすべての生
命を生命たらしめるものなのである。古代日本人は人間や動物や植物ばかりか、
天地万物すべてに魂があり、その魂によってそれぞれ活動するものだと信じて
いた。人間にももちろんそのような魂があり、魂が人間をして人間たらしめて
いるのである。死はこの魂の肉体からの分離なのである」(梅原猛『日本人の
魂―あの世を観る』光文社p. 37)

この魂の観念は一見してジャイナ教の霊魂(ジーヴァ)思想に非常に近いもの
がある(たとえば、渡辺研二『ジャイナ教入門』現代図書p.110-115参照)。
その点ではプレクシャ・メディテーションはわれわれ日本人にとって受け入れ
やすい瞑想かもしれない。

しかしながら、死によって肉体から分離した魂がその後どうなるか、その魂の
ゆくえについては両者は方向を異にする。すなわちジャイナ教では個々の魂は
解脱しない限り永遠に輪廻(サンサーラ)転生を繰り返し、そこから離脱する
ためには業(カルマ)を払い落して魂を浄化しなければならないと説く。そこ
では魂は全体として常に一定数存在しかつまた個別的である(個我)。一方、
日本人の魂は、死後、「あの世」に向かう。あの世はどこにあるかというと、
天の一角すなわち太陽(生命の根源)の沈む西方のあまり高くも低くもない適
当なところに在ると観念されてきたらしい(梅原p.42-3)。天国でも地獄でも
なく、子孫の住む此の世に近い天の何処か、である。そして場合によっては死
後すぐにあの世へは行かず、しばらくの間、里近い山々(神聖とされる山や連
山、端山)に留まり、魂が清められた後にあの世に向かうという考え方(霊山
崇拝)もある。そこから鎮魂として様々な祭祀が生まれた。もしかしたら日本
人が臨死体験として語る霊的世界(立花隆『臨死体験』上・下 文藝春秋)は
われわれの中に脈々と受け継がれるこうした潜在観念によって生み出される仮
想体験かもしれない。そして祖先の住むあの世に逝った魂(祖霊と融合した魂
=非個我)は年に数回、子孫の家に帰ってくる。それがお盆や正月、お彼岸の
時なのである。輪廻転生的な考え方もあるが、日本のそれはあくまでも家族単
位での転生で、必ず子孫の誰かに生まれ変わると考えられている(「よみがえ
る」とは黄泉すなわちあの世から帰ることを意味する)。またそれが万世一系
の天皇制や家制度、氏神信仰の思想的基盤にもなっている。(ちなみに「カ
ミ」(神)は「タマ」(魂)が善の方向に分化したもので盆の時期などに山か
らやって来れば山神、海の方から来れば海神になり、逆に悪の方向に分化した
ものが「オニ」(鬼)と呼ばれ、さらに第三の分化として「モノ」(木や石な
どの物体)に化体する場合があるという。つまり日本が多神教たる由縁もここ
にある。)

こうした日本人の霊魂観は、歴史的に大きく二度、外来の思想によって揺すぶ
られ変容してきた。最初が仏教の伝来と普及であり、次がキリスト教を背景に
もつ欧米思想の流入と文明の受容である。

まず仏教思想に関しては、和辻哲郎を持ち出すまでもなく、日本は「国民的宗
教としての祖先崇拝と普遍的宗教としての仏教が互いに他を排除することなく、
二種の異なった信仰様式が…一つの生活の中でともに生かせられ」ている(山
折哲雄『日本人の霊魂観―鎮魂と禁欲の精神史』河出書房新社p.7-8)ことは
われわれ自身も実感するところである。本来的に原理を異にする仏教が国策と
してのみならず、このように広く日本人一般に受け入れられた背景には、浄土
教(法然と親鸞)の功績が大きかったと言われる。つまり、南無阿弥陀仏を唱
えれば誰でもあの世ならぬ極楽浄土へ往生でき、一旦極楽浄土へ行った人間は
菩薩として此の世に還ってくると説いたことが受け入れられた(梅原p.147-15
8)。ただし、日本古来の「あの世」観に類似したために広まった浄土仏教で
あるが、帰還の先が自分の家族ではない点において決定的な違いがある。柳田
國男はこの点で「仏教は、祖霊の融合を認めずして、無暗に個人についての年
忌の供養を強調したとし、常設の魂棚を仏壇に改変し、古代の国魂、郡魂の思
想を複数的な機能神にねじまげ、総じて家々の先祖祭や墓の管理に口を出した、
という。タマ観念に凝縮される家の信仰を、個人解脱としての往生の方向(つ
まり往生安楽国)へと誘い、次世へと繋がることを願いかつ信じた人々に対し
ては紫雲のたなびく仏の来迎を期待させようとばかりした」(山折p.24)と批
判するのである(柳田國男『先祖の話』参照)。この批判をどう受け止めるか。
それは、ジャイナ教の瞑想を追究する上でも極めて重要である。なぜなら、プ
レクシャ瞑想も、その究極的な目的はあくまでも個人の魂(個我)の救済(浄
化)にあるからである。そして言うまでもなく、今や日本人は欧米の個人主義
にどっぷり浸かり、魂の存在も死後の世界さえも疑うようになった。そうした
現代日本人にとって本当の魂の救いとは何かということを、私たちは自分自身
の潜在意識を深く掘り起こしながら確認していかなければならない。瞑想を通
じて追求したいものは何なのか。欧米流に現世における利益(健康や金銭)や
快楽のみを求めるのか、仏教やジャイナ教的な個人の魂(個我)の救済をめざ
すのか、それとも身近な人や社会との精神的なつながりを取り戻すことによっ
て自己実現をはかりたいのか。本当の自分の心の落ち着く先を見定めなければ
ならない。



<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)



コラム[非対立主義について]


私はジャイナ教の戒律アネカンタを今まで、不定主義とか非独善主義と訳して
きた。今後は非対立主義の意味も含めたいと思う。世界には沢山の宗教哲学が
ある。なぜ沢山の宗教哲学があるかと言えば、それらがどれも完璧でないから
だ。それぞれの宗教哲学が皆正しいと言えるし、同時に皆間違っているとも言
える。

南伝仏教では神もなければ魂もない(無元論)と言い、北伝仏教では神も魂も
認める宗派(二元論)がある。ジャイナ教では宇宙を創造した神はないが魂が
あり、それを純粋にすることを修行の第一としている(魂だけの一元論)。ヴ
ェーダンタ派は唯一の神としてブラフマン(梵)を認め、真我であるアートマ
ンと梵は本来一つのものだとする梵我一如(一元論)を唱えている。サーンキ
ャ哲学はプルシャ(魂)とプラクリティ(現象)を説く二元論である。

また、世界には沢山の国々とそこの人々の政治と生活と文化、伝統、習慣があ
る。これもどれが正しくどれが間違っているという問題ではない。その時の必
要性からそういうものが存在するのだ。韓国が竹島は韓国のものだと強引に既
成事実を積み上げている。中国は尖閣諸島を中国領だと主張し始めた。お互い
に領有権を主張しあえば争いになり戦争になる。このような場合アネカンタで
解決するにはどうしたらよいか。国家間の重要問題である。

アネカンタの理想は、争わない、主義主張しない、抗議しない、要求しない、
決めつけない、腹を立てない、自分から変わることだが、もう一つ大事なこと
はすぐに反応したり即答せずに、相手にゆっくり考えさせるということもある。
どうしたら平和で双方の利益になるかを考える時間を相手に与える意味も含ん
でいる。

軍事的に強い国が周辺諸国に覇権の手を伸ばす事は、歴史上、沢山の実例があ
る。私見では、チベットは中国では絶対ないのに強引に中国にされてしまった。
新疆ウイグル自治区も歴史的にみて中国ではないだろう。中国は本来大陸の国
であり、また万里の長城の内側の国である。そういう観点からみれば台湾は島
なので中国ではないし、南沙諸島の島々も中国領であるはずがない。中国が軍
事的にも経済的にも強くなったため周辺諸国に触手を伸ばしているようにみえ
る。人類史も動物と同じで、弱肉強食がその真の姿である。平和を望むなら相
手の要求を飲み忍耐するしかない。土地争いは人類史上、生存権を賭けた熾烈
な争いであった。ロシアには北方領土を返す意思はないだろう。土地は実効支
配した者の物になる。盗られたくなかったら打ち払うしかないが、そうすれば
戦争になる。所有や領有を争うのではなく、人類の幸せの観点から条約をつく
り平和に相互利用できたら一番良い。

かって韓国は日本の植民地だった。中国は日本と戦争をしていた。日本は太平
洋戦争でアメリカに敗れたが、中国や韓国と戦争して敗れたわけではない。中
国や韓国の国民が日本に対して複雑な感情を持っているのは事実である。中国
や韓国の国民生活が豊かになり、日本と同等意識・ライバル意識を持ち始めた
ことが、竹島問題であり、尖閣諸島問題であると私は見ている。竹島は取り返
すのが大変だと思う。尖閣諸島は早急に日本が施設を造り防人を置かなければ
難しいことになる。付け入る隙を与えないこと、油断しないことが大事である。
相手に考える時間を与える方法がこの事である。

自分から変わる方法として、戦国時代、江戸時代はどうだったかと考えること
だ。江戸時代は幕府が全国統治していたが沢山の旛に国が分断されていた。そ
の頃、会津旛の人に隠岐や対馬の問題は関係なかっただろう。琉球の話をして
もピントこなかっただろう。今、世界人類が国境を無くし、人類が相互に混じ
り合い、混血を繰り返す方向に動いている。世界中、好きなところに自由に住
めると考えてみる。すると民族主義もなくなり、領土問題も解決することだろ
う。民族主義、国家エゴは平和の敵である。グローバリゼーションは経済の分
野で、金融の分野で、情報の分野で急速に進展しているが、世界が一つの国に
なるまで越えなければならない壁がまだいくつもあるだろう。世界が一つの国、
一つの人類になれば、このような領土問題は存在しなくなる。それを可能にす
るのがアネカンタの哲学だ。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年8月24日金曜日

第38回 定期研究会のご案内


第38回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年9月3日(月)19:00~21:00
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅そば(集会室1)

テーマ:サーンキャ哲学とは

前回の研究会では、前々回でヨガの歴史と思想史的な背景を概観したので、そ
の思想・哲学の中身をおさらいしました。具体的には『ヨーガ・スートラ』の
基本概念すなわちプルシャとプラクリティ、チッタとモクシャの関係をスート
ラに則して確認するとともに、その基盤となっている哲学すなわち古典ヨーガ
学派ないしサーンキャ哲学の理論の骨子を説明しました。

次回は、前回時間切れで報告できなかった部分(ヨーガ・スートラにおける解
脱への最終プロセスの哲学的意味)を皮切りに、坂本先生からサーンキャ哲学
を解りやすく解説していただく予定です。先生からいただいた予告は下記のと
おりです。

今回の勉強会は坂本知忠が担当します。
宗教哲学の話をするとき、話の内容の根本的拠り所になっている大元の概念哲
学が何なのかの理解がないと、話す人も聞く人も何が何だか相互に理解不能の
状態に陥る。例えば有神説か無神説か、一神教か多神教か、一元論か二元論か、
魂を認めるか認めないのかについて何のどれを話しているのかがはっきりしな
いと話が噛み合わないし、話が矛盾する。宗教哲学の本を読む時、聖者から講
話を聞くときにその点が明確でないと混乱する。

神様という概念、魂や真我という概念にたいして世界中に色々な考え方、哲学、
宗教がある。沢山ある宗教哲学をカテゴリーに分類し類似性と相違を明確にし
ておくことは、自分が今何を勉強し実践しているかを把握する点で重要である。
ヨガとは何か、仏教とジヤイナ教の違い、プレクシャ・メディテーションと他
の瞑想の違い等を理解する上で重要な事である。パタンジャリのヨガスートラ
に影響を与えたサーンキャ哲学について理解することはジャイナ教哲学を理解
する上にも大事である。

今回はサーンキャ哲学を学び、プレクシャ・メディテーション理解の一助にし
たいと思います。


※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
 (savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと、資料を受け取
 れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料
 代等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
10月1日(月)19時~21時 場所:「南行徳」駅そば(集会室1)
12月3日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。