お盆には田舎へ帰って祖先のお墓参りをしたり、一族が集まってあの世から祖
先の霊を迎える習慣が日本にはまだ残っている。この風習の起源については諸
説あるが、その根底には日本固有の祖霊信仰と縄文時代から続く「あの世」観
が存在する。
「古代日本人にとって、死は魂が肉体から離れることを意味していた。古代日
本人は生命という観念のかわりに魂という観念を使ったように思われる。あら
ゆる生命のあらゆるところ、そこに魂がある。魂こそ植物も動物もすべての生
命を生命たらしめるものなのである。古代日本人は人間や動物や植物ばかりか、
天地万物すべてに魂があり、その魂によってそれぞれ活動するものだと信じて
いた。人間にももちろんそのような魂があり、魂が人間をして人間たらしめて
いるのである。死はこの魂の肉体からの分離なのである」(梅原猛『日本人の
魂―あの世を観る』光文社p. 37)
この魂の観念は一見してジャイナ教の霊魂(ジーヴァ)思想に非常に近いもの
がある(たとえば、渡辺研二『ジャイナ教入門』現代図書p.110-115参照)。
その点ではプレクシャ・メディテーションはわれわれ日本人にとって受け入れ
やすい瞑想かもしれない。
しかしながら、死によって肉体から分離した魂がその後どうなるか、その魂の
ゆくえについては両者は方向を異にする。すなわちジャイナ教では個々の魂は
解脱しない限り永遠に輪廻(サンサーラ)転生を繰り返し、そこから離脱する
ためには業(カルマ)を払い落して魂を浄化しなければならないと説く。そこ
では魂は全体として常に一定数存在しかつまた個別的である(個我)。一方、
日本人の魂は、死後、「あの世」に向かう。あの世はどこにあるかというと、
天の一角すなわち太陽(生命の根源)の沈む西方のあまり高くも低くもない適
当なところに在ると観念されてきたらしい(梅原p.42-3)。天国でも地獄でも
なく、子孫の住む此の世に近い天の何処か、である。そして場合によっては死
後すぐにあの世へは行かず、しばらくの間、里近い山々(神聖とされる山や連
山、端山)に留まり、魂が清められた後にあの世に向かうという考え方(霊山
崇拝)もある。そこから鎮魂として様々な祭祀が生まれた。もしかしたら日本
人が臨死体験として語る霊的世界(立花隆『臨死体験』上・下 文藝春秋)は
われわれの中に脈々と受け継がれるこうした潜在観念によって生み出される仮
想体験かもしれない。そして祖先の住むあの世に逝った魂(祖霊と融合した魂
=非個我)は年に数回、子孫の家に帰ってくる。それがお盆や正月、お彼岸の
時なのである。輪廻転生的な考え方もあるが、日本のそれはあくまでも家族単
位での転生で、必ず子孫の誰かに生まれ変わると考えられている(「よみがえ
る」とは黄泉すなわちあの世から帰ることを意味する)。またそれが万世一系
の天皇制や家制度、氏神信仰の思想的基盤にもなっている。(ちなみに「カ
ミ」(神)は「タマ」(魂)が善の方向に分化したもので盆の時期などに山か
らやって来れば山神、海の方から来れば海神になり、逆に悪の方向に分化した
ものが「オニ」(鬼)と呼ばれ、さらに第三の分化として「モノ」(木や石な
どの物体)に化体する場合があるという。つまり日本が多神教たる由縁もここ
にある。)
こうした日本人の霊魂観は、歴史的に大きく二度、外来の思想によって揺すぶ
られ変容してきた。最初が仏教の伝来と普及であり、次がキリスト教を背景に
もつ欧米思想の流入と文明の受容である。
まず仏教思想に関しては、和辻哲郎を持ち出すまでもなく、日本は「国民的宗
教としての祖先崇拝と普遍的宗教としての仏教が互いに他を排除することなく、
二種の異なった信仰様式が…一つの生活の中でともに生かせられ」ている(山
折哲雄『日本人の霊魂観―鎮魂と禁欲の精神史』河出書房新社p.7-8)ことは
われわれ自身も実感するところである。本来的に原理を異にする仏教が国策と
してのみならず、このように広く日本人一般に受け入れられた背景には、浄土
教(法然と親鸞)の功績が大きかったと言われる。つまり、南無阿弥陀仏を唱
えれば誰でもあの世ならぬ極楽浄土へ往生でき、一旦極楽浄土へ行った人間は
菩薩として此の世に還ってくると説いたことが受け入れられた(梅原p.147-15
8)。ただし、日本古来の「あの世」観に類似したために広まった浄土仏教で
あるが、帰還の先が自分の家族ではない点において決定的な違いがある。柳田
國男はこの点で「仏教は、祖霊の融合を認めずして、無暗に個人についての年
忌の供養を強調したとし、常設の魂棚を仏壇に改変し、古代の国魂、郡魂の思
想を複数的な機能神にねじまげ、総じて家々の先祖祭や墓の管理に口を出した、
という。タマ観念に凝縮される家の信仰を、個人解脱としての往生の方向(つ
まり往生安楽国)へと誘い、次世へと繋がることを願いかつ信じた人々に対し
ては紫雲のたなびく仏の来迎を期待させようとばかりした」(山折p.24)と批
判するのである(柳田國男『先祖の話』参照)。この批判をどう受け止めるか。
それは、ジャイナ教の瞑想を追究する上でも極めて重要である。なぜなら、プ
レクシャ瞑想も、その究極的な目的はあくまでも個人の魂(個我)の救済(浄
化)にあるからである。そして言うまでもなく、今や日本人は欧米の個人主義
にどっぷり浸かり、魂の存在も死後の世界さえも疑うようになった。そうした
現代日本人にとって本当の魂の救いとは何かということを、私たちは自分自身
の潜在意識を深く掘り起こしながら確認していかなければならない。瞑想を通
じて追求したいものは何なのか。欧米流に現世における利益(健康や金銭)や
快楽のみを求めるのか、仏教やジャイナ教的な個人の魂(個我)の救済をめざ
すのか、それとも身近な人や社会との精神的なつながりを取り戻すことによっ
て自己実現をはかりたいのか。本当の自分の心の落ち着く先を見定めなければ
ならない。
<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)