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2012年12月24日月曜日

特別講演「ジャイナ教の環境についての考え方とライフスタイル」の報告


<報告:S.L.ガンジー博士講演会を振り返って(中村正人)>

11月29日、インドから来日したガンジー博士の特別講演会が無事終了いたしま
した。出席者の皆さま、お手伝いいただいた方々、ありがとうございました。
ここに講演会の様子を報告いたします。

今回、大変タイトなスケジュールの中講演いただいたガンジー博士は、著名な
ジャイナ教学者であると同時に、世界的に知られた非暴力活動家・平和研究者
です。これまで世界24カ国以上で講演を行い、英国貴族院、ハーバード大学、
世界宗教者平和会議(国連公認のNGO)等でもジャイナ教の価値観、非暴力の
考え方や平和・環境問題について発言をしてきました。特に2006年に開催され
た世界宗教者平和会議京都大会では、国連から正式にジャイナ教の代表として
招請され、宗教者の立場から宗教・宗派間の対立が如何に無意味なことである
かを訴えられました。今回の講演後の座談会でも出席者からジャイナ教の宗派
間の関係(対立)について質問がありましたが、ジャイナ教では宗派間に「対
立」は無く、活動上の「相違」があるに過ぎないこと、頻繁に相互訪問を行う
など交流も盛んであることが説明されました。つまりジャイナ教では宗派対立
が存在しないということです。このように、あらゆる「対立」を避け、徹底し
た平和共存を全うするジャイナ教の非暴力主義は、かのマハトマ・ガンジーに
も大きな影響を与えたことで有名です。

さて講演会では、ガンジー博士の到着に先立ち、まず坂本知忠先生からジャイ
ナ教の概略と思想について説明いただきました。講演会には当協会員以外にも
大勢の方々(30名以上)が出席されましたので、予備知識として大変役立った
ことと思います。


続いて19時頃から始まったガンジー博士の講演の内容は、次のようなものでし
た。


<講演要旨>

題目:『ジャイナ教の環境についての考え方とライフスタイル』

ジャイナ教は「環境にやさしい宗教」として知られています。その理由は、不
必要な暴力を避け、あらゆる生き物の命を尊重しなさいとする教義にあります。
ジャイナ教では感受性(感覚を含む、外界から影響を受ける能力)をもつもの
はすべて「生き物」と考えます。そして、生き物には魂があります。生き物は
さらに動くものと動かないもの、心を持つものと持たないものに別れます。た
とえば、前者には動物や人間が、後者には大地・水・火・空気・植物(いわゆ
る自然)が含まれます。あらゆる動く生き物は、動かない生き物すなわち「自
然」によって支えられています。

この世に肉体をもった魂は、生存するために、何らかの形で「暴力」を働かざ
るを得ません。人は生きていくためには完全に暴力を回避することはできませ
ん。それはこの世の道理です。しかし、それを最小限にすることはできるはず
です。


マハーヴィーラは次のように言っています。「地、火、水そして草木の存在を
無視したり軽視したりする者は、それらと密接に結びついている自分自身の存
在を軽視するものだ」と。現代の生態学は個々の生き物が互いに関係している
ことを明確にしましたが、ジャイナ教徒にとってそれは自明のことでした。マ
ハーヴィーラは、あらゆる命は互いに支え合い依存しあうことによって強く結
ばれている。命とは独自の存在に満ちた世界における共存と協力そして調和の
産物である、とも述べています。

殺されたくないと願う(感じる)生き物の命を、自らの欲望のために奪うこと
は暴力です。 欲望には怒り、プライド、欺き、貪欲といった強い感情も含ま
れます。 生き物や自然に対するあらゆる形の暴力の原因は、欲望です。他の
生き物と人間自身を破壊するのは、人の故意による、理不尽で、強欲な行動で
す。生態系の調和と環境の保護は、私たち自身が自らをコントロールし、衝動
的な行動・欲望から自由にならなければ果たせません。

ジャイナ教の非暴力的なライフスタイルは、このような価値観に基づいていま
す。現代の生活は競争と自制の欠如によって特徴づけられます。そして、社会
の規律は自らを律することなく実現することはできません。


こうしたジャイナ教の価値観を実生活と環境問題にどう活かしたらよいか。そ
のために「ジャイナ教の非暴力ライフスタイル」モデルが考案されました。そ
れは次の9つの要素から成り立っています。

1. 正しい信仰ないし真に精神的な見識
2. アネカンタ(非独善主義)
3. アヒムサ(非暴力)
4. 苦行者的生活-冷静・節制・労働
5. 欲望を抑えること
6. 生計のための正しい選択
7. 正しい教育
8. 清らな食事
9. 連帯と共有

このジャイナ教の「非暴力ライフスタイル」モデルは、エコロジカルな価値・
倫理を共有するすべての人が実践できる普遍的なモデルになると確信していま
す。そこには宗派も国境もありません。この地球を破滅から救い、将来にわた
り生存を守る有意義な方法になるのではないでしょうか。

(以上、講演要旨)


日本に初めてジャイナ教を紹介したとされる南方熊楠は、比較宗教論として次
のような趣旨のことを述べています。信仰の優劣をきめる基準は何か。それは
一つは科学の成果に合致するかどうかであり、もう一つは人類(そしてもっと
広くいえば生類の)間の差別をなくす方向に向かっているかどうかである。仏
教はキリスト教よりも近代科学と整合する点で前者についてはまさっている。
しかし人類の平等という点では仏教はキリスト教よりも堕落した。しかし、仏
教よりも、キリスト教よりもまさっているのはジャイナ教である。「すなわち
考思、言語、行為を善にして、語ることなき動物のみか、植物にまでも信切に
するなり。この動植物を愍(あわ)れむことは、仏教またこれをいうといえど
も、ジャイン教は一層これを弘(ひろ)めたり。すなわち動植物みな霊魂あり
と見て、病獣のために医療を立つるを慈善業とす。…階級の差をもって得道を
妨ぐることなく、誰人にても涅槃に入り得ると主張す」。キリスト教は人類の
平等を説くが、ジャイナ教はその上に生類の無差別を主張し実践する点でより
すぐれているのだと南方は評価した(鶴見和子『南方熊楠』講談社学術文庫)。
このたびの講演で提唱されたジャイナ教の「非暴力ライフスタイル」モデルは、
このように高く評価されるジャイナ教の考え方を、ジャイナ教徒でない私たち
の生活においても活かせる道筋を示した、たいへん現実的なものでした。

講演終了後は、完全ベジタリアンの食事とともに素晴らしいウェルカムパーテ
ィーとなりました。出席者が次々とガンジー博士を囲み、和やかな雰囲気の中
で談論が続きました。


その時ガンジー博士が教えて下さったインドの宗教観は
大変興味深いものでした。マハトマ・ガンジーの宗門は何か(ヒンドゥー教徒
かジャイナ教徒か)との質問に対し、博士の回答は、ジャイナ教の非暴力主義
を信奉した点では彼はジャイナ教徒であり、ヒンドゥーの教典を信奉した点で
はヒンドゥー教徒であるというものでした。つまりインド人にとって宗教とは、
その人が丸ごと何教に属するかということよりも、各人がその信条として何を
大事にするかということの方が重要だということです。我々が一般にイメージ
する、仏門に生まれたから仏教徒、洗礼を受けたからキリスト教徒というよう
な外的な整理は無意味なことで、それよりも内面的に個々人が何を思い、どう
実践しているかが大切なのです。この観方は日本人の宗教の定義とは違うと反
論があるかもしれません。しかし、少なくともジャイナ教(英語で「ジャイニ
ズム」=ジャイナ主義)の信者たちは宗教をそのように捉え、他の宗教の考え
方も否定しない(アネカンタ)のです。そういえばマハトマ・ガンジー自身も
晩年、「自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また原始キリ
スト教という意味ではキリスト教に賛同するとして宗教グループ間や世界の
人々に対話を呼びかけ」(ウィキペディア)ています。私たちも、ジャイナ教
徒ではありませんが、日本人として、もう一度自らの生活態度を見直し、環境
を保護する――否、そんな大それたことではなく、環境を壊さない――生き方
を選択する余地はあるのではないでしょうか。そんなことを考えさせられた講
演会でした。


(S.L.ガンジー博士の講演会の全文は、次号の会報誌『アネカンタ・ジャーナ
ル』第5号(4月発行)に掲載する予定です。ジャイナ教の「非暴力ライフスタ
イル」モデルの詳細についてはそちらをご覧ください。)

2012年12月23日日曜日

コラム[別れと出会い]

別れと出会いは私たちの体のなかで、瞬間、瞬間に起こっています。私たちは

生まれた瞬間から瞬間、瞬間年をとり、老人に向かって、死に向かって変化し
ています。生きるとは変化していくこと。時間の流れとともにあらゆるものが
継続的に変化しているのです。

愛別離苦、怨憎会苦はいつも私たちの体のなかで心の中で起こっています。
苦の感覚と楽の感覚がいつも私たちの内側にあります。苦の感覚が命を守って
います。私たちは苦しみがあるから生きていられるのです。苦の感覚があるか
ら動かなくてはなりません。止まり続けると苦痛がやってきます。苦の感覚が
起こるから生きている限り止まることは出来ません。私たちは苦の感覚によっ
て何ごとにも執着出来ないようになっています。それなのに執着して喪失を嫌
がるから心が苦しむのです。

苦の感覚がなくて楽の感覚だけだったら生命は生きていけません。どんなに吸
う息が楽でも、あるいは吐く息が楽でも、楽だからと言って吸い続けることは
出来ないし又、吐き続けることも出来ません。吐いた息は吸わなくてはならな
いし、吸った息は吐かなければなりません。呼吸を止めれば大きな苦しみがや
って来ます。生命は楽だけで存在することは出来ないし、苦だけで存在するこ
ともできません。苦と楽がセットになっているから生き物や人間が存在出来る
のです。

私たちは本当の自分でないもの、変化してしまう身体や心に執着するから悩む
のです。つねに心身の無常と変化を見続ければ心の迷いがなくなります。妄想
しなくなります。

人間は生きているときに、沢山人生を楽しみたいと思って行動すれば、同じ量
だけ苦しみがセットで付いて来ます。苦しみを無くすには、楽しまなければ良
いでしょう。何物も持たず、人生を楽しまないのが本当の出家の道です。世俗
の道は苦楽一如の道です。

私たちはこんにちはと言わなくても毎日たくさんの人や物と出会い、さよなら
と言わなくても毎日たくさんの人や物と別れています。今までに出会って、別
れたものは想像も出来ないほど甚大です。しかし、持つことも執着することも
出来ないのが本当です。

自分に起こっている一切はカルマの現れです。因果律によって起こっています。
今、現れ起こっている状況に対して、まさに今、自己の意志と行動によってど
のように対応するかが未来を作ります。過去の原因に縁である条件が加わって
結果が起こります。どんなに辛く苦しいことが起こったとしても結果や過去に
こだわらず、今どうする、次にどうすれば一番良いかと考えて行動することが、
今に生きる純粋行動であり、無業への道であり、本当の「冥想」です。




<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)