悟りとは
ちょうど良い時に、ちょうど良いことをして、間違えない。
多くのスピリチャルな教師は「今に生きる」のが一番良い正しい幸せな生き方
だと説いている。では「今この一瞬に生きる」とはどういう事なのだろうか。
私たちの心はいつも過去を悔い、まだ来ぬ未来を心配し、夢み、計画している。
それは思考が連鎖的に起きているいわば妄想状態である。健康な人が極限のよ
うな状況の中で、懸命に努力している状態、それは妄想ではなく現実感を伴っ
た実感である。時間と行為と自己と対象が一つに結び付いた、この状態を「今
この一瞬に生きる」という。そんな時は思考を超越して直感が働いている。ま
たそんな時は同時に知覚が極度に研ぎ澄まされ、瞑想のディヤーナと同じよう
な状態にある。
スポーツやダンス、武道に熱中しているようなとき、私たちは今この一瞬に生
きている。そのような心の状態の継続を増やすことは可能だが、常時継続して
一瞬に生きることは難しい。
瞑想とは考える心を観じる心にスイッチを切り替える事である。考えが起こら
なくなり、観じようとする心が身体内部の感覚を観じているとき、瞬きするよ
うな一瞬と一つになっている。それが、「一瞬と一つになる」ことで、「今に
生きる」本当の意味である。そんな時は、妄想から離れ、行為からも離れてい
る。そんな時、カルマが消えてゆき、宇宙エネルギーが身体に多量に流入する。
生命エネルギーは身体内部を停滞することなくスムーズに流れ、治る力、免疫
力が高まっている。神と一体になっているとはその状態の譬えのことである。
睡眠時の意識状態もこれに似ていて、思考が止んで、過去と未来から意識がは
なれて根源的なものと繋がっている状態であると言える。だから睡眠によって
癒されリフレッシュするのだ。
瞑想の意味でない、現在に生きるとはどういう心構えを云うのだろうか、私は
今に生きる、現在に生きる、あるいはこの一瞬に生きるという事の解りやすい
解釈は茶道の「一期一会」と言う言葉にあると思う。今出会っている全ての事
は只一度の出会い、過去にも無かった、未来にも二度と起こらない。貴重な出
会いなのだと、どれだけ深く理解して行動できるかにあると思う。
30歳のころ沖正弘先生から悟りとは「ちょうど良い時に、ちょうど良いことを
して、間違えないことである」と聞いて目からうろこが落ちた。それまで、悟
りとは、修行して獲得すべき、人間離れした超越した心身状態だと思っていた。
その時以来、私はちょうど良い時に、ちょうど良いことをして、間違えないと
いう事を生活の指標とし努力してきた。これがとても難しかった。ついつい結
果を期待して思いどおりにいかないと、怒りの心が湧いて来くるので無執着に
なることが難しかった。結果を手放して今に生きることは、今も本当に難しい。
「全ての業(わざ)には時がある」とは聖書の有名な一節である。天が下の全
ての事には季節があり、全ての業には「時」がある。花が咲くときに「時」が
あり、花散るときに「時」がある。生まれるに「時」があり、死ぬるに「時」
がある。出会うに「時」があり、別れるに「時」がある。集合するに「時」が
あり、離散するに「時」がある。集めるに「時」があり、手放すに「時」があ
る。愛するに「時」があり、憎むに「時」がある。泣くに「時」があり、笑う
に「時」がある。病むに「時」があり、癒すに「時」がある。壊すに「時」が
あり、建てるに「時」がある。悲しむに「時」があり、踊るに「時」がある。
黙るに「時」があり、語るに「時」がある。戦うに「時」があり、和むに
「時」がある。
私が好きな言葉は「流れて時が過ぎれば、全ての人、全ての物は、違った場所
で違った物になっている」である。良いことも、悪いことも、時、場所、条件、
状況全てがピッタリ合うと物事は必ず起こる。環境が整うと何でも起こり現れ
る。これは宇宙の法則であり、真実でもある。
今、何をすべきか、どうするべきかと常に考えて行動する。今この一瞬は過去
と未来の出会う所、今この一瞬と繋がれば過去現在未来が一つに繋がる。今こ
の一瞬を良くすれば過去も未来も良くなる。それは、瞑想によって達成される。
これがアカルマになる道、魂を清らかにする道だと信じている。プレクシャ・
メディテーションのバーバークリヤ、今この一瞬に生きる、純粋行動とはそう
いう意味である。魂を清らかにする道、モークシャへの道である。
魂は水のようにどんな汚れをも浸透させ、抱き込むことができるが、水そのも
のが汚れないように魂そのものも汚れることはない。水を浄化するように、魂
を浄化していけば清らかで純粋な魂の性質が燦然と現れる。不純物が混じり合
った金鉱石が製錬されて純金となるように・・・。
ちょうど良い時に、ちょうど良いことをして、間違えない。
多くのスピリチャルな教師は「今に生きる」のが一番良い正しい幸せな生き方
だと説いている。では「今この一瞬に生きる」とはどういう事なのだろうか。
私たちの心はいつも過去を悔い、まだ来ぬ未来を心配し、夢み、計画している。
それは思考が連鎖的に起きているいわば妄想状態である。健康な人が極限のよ
うな状況の中で、懸命に努力している状態、それは妄想ではなく現実感を伴っ
た実感である。時間と行為と自己と対象が一つに結び付いた、この状態を「今
この一瞬に生きる」という。そんな時は思考を超越して直感が働いている。ま
たそんな時は同時に知覚が極度に研ぎ澄まされ、瞑想のディヤーナと同じよう
な状態にある。
スポーツやダンス、武道に熱中しているようなとき、私たちは今この一瞬に生
きている。そのような心の状態の継続を増やすことは可能だが、常時継続して
一瞬に生きることは難しい。
瞑想とは考える心を観じる心にスイッチを切り替える事である。考えが起こら
なくなり、観じようとする心が身体内部の感覚を観じているとき、瞬きするよ
うな一瞬と一つになっている。それが、「一瞬と一つになる」ことで、「今に
生きる」本当の意味である。そんな時は、妄想から離れ、行為からも離れてい
る。そんな時、カルマが消えてゆき、宇宙エネルギーが身体に多量に流入する。
生命エネルギーは身体内部を停滞することなくスムーズに流れ、治る力、免疫
力が高まっている。神と一体になっているとはその状態の譬えのことである。
睡眠時の意識状態もこれに似ていて、思考が止んで、過去と未来から意識がは
なれて根源的なものと繋がっている状態であると言える。だから睡眠によって
癒されリフレッシュするのだ。
瞑想の意味でない、現在に生きるとはどういう心構えを云うのだろうか、私は
今に生きる、現在に生きる、あるいはこの一瞬に生きるという事の解りやすい
解釈は茶道の「一期一会」と言う言葉にあると思う。今出会っている全ての事
は只一度の出会い、過去にも無かった、未来にも二度と起こらない。貴重な出
会いなのだと、どれだけ深く理解して行動できるかにあると思う。
30歳のころ沖正弘先生から悟りとは「ちょうど良い時に、ちょうど良いことを
して、間違えないことである」と聞いて目からうろこが落ちた。それまで、悟
りとは、修行して獲得すべき、人間離れした超越した心身状態だと思っていた。
その時以来、私はちょうど良い時に、ちょうど良いことをして、間違えないと
いう事を生活の指標とし努力してきた。これがとても難しかった。ついつい結
果を期待して思いどおりにいかないと、怒りの心が湧いて来くるので無執着に
なることが難しかった。結果を手放して今に生きることは、今も本当に難しい。
「全ての業(わざ)には時がある」とは聖書の有名な一節である。天が下の全
ての事には季節があり、全ての業には「時」がある。花が咲くときに「時」が
あり、花散るときに「時」がある。生まれるに「時」があり、死ぬるに「時」
がある。出会うに「時」があり、別れるに「時」がある。集合するに「時」が
あり、離散するに「時」がある。集めるに「時」があり、手放すに「時」があ
る。愛するに「時」があり、憎むに「時」がある。泣くに「時」があり、笑う
に「時」がある。病むに「時」があり、癒すに「時」がある。壊すに「時」が
あり、建てるに「時」がある。悲しむに「時」があり、踊るに「時」がある。
黙るに「時」があり、語るに「時」がある。戦うに「時」があり、和むに
「時」がある。
私が好きな言葉は「流れて時が過ぎれば、全ての人、全ての物は、違った場所
で違った物になっている」である。良いことも、悪いことも、時、場所、条件、
状況全てがピッタリ合うと物事は必ず起こる。環境が整うと何でも起こり現れ
る。これは宇宙の法則であり、真実でもある。
今、何をすべきか、どうするべきかと常に考えて行動する。今この一瞬は過去
と未来の出会う所、今この一瞬と繋がれば過去現在未来が一つに繋がる。今こ
の一瞬を良くすれば過去も未来も良くなる。それは、瞑想によって達成される。
これがアカルマになる道、魂を清らかにする道だと信じている。プレクシャ・
メディテーションのバーバークリヤ、今この一瞬に生きる、純粋行動とはそう
いう意味である。魂を清らかにする道、モークシャへの道である。
魂は水のようにどんな汚れをも浸透させ、抱き込むことができるが、水そのも
のが汚れないように魂そのものも汚れることはない。水を浄化するように、魂
を浄化していけば清らかで純粋な魂の性質が燦然と現れる。不純物が混じり合
った金鉱石が製錬されて純金となるように・・・。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)