メニュー

2015年8月26日水曜日

コラム[アイデンティティー 日本人としての自分]

Identityという言葉を辞書で引いてみると、その人個人の身元や正体の他に、
その人の本質や個性、独自性という訳語が出てくる。個人のアイデンティテ
ィーはその人が暮らしている地域や国等が位置する地理的自然環境に強く影響
を受けている。自分とは何かと探求してゆくとき、自分が帰属している日本人
としてのアイデンティティーとは何かが気になってくる。

私たちはこの世に生まれると、生まれた環境に強く影響を受けながら人格が形
成されていく。どのような両親、家族、家庭のもとに育ったか、生まれ育った
地域の自然環境や友達、地域の人々、教育を受けた先生、その時の国際情勢、
社会情勢に強く影響を受ける。人間は教育されたようになるとは、そのような
ことを言っている。教育とは学校の先生から受けるものだけではない。だから
教育が大事なのだ。ところがその個人の教育が、今ではテレビ報道などマスコ
ミによって大きな影響を受けている。我々の潜在意識は知らず知らずのうちに
自分が生活している外部環境に影響をうけ、それによって思考や行動、生活が
コントロールされていると言っても過言ではない。

私は日本人と外国人の考え方や行動の仕方に大きな違いがあるような気がして、
その根本的な要因はなんだろうとずっと思いを巡らしてきた。そして気がつい
たことは、日本という国土が世界でもまれに見る自然災害頻発地帯に位置して
いるということが、日本人の国民性形成に深く関与しているのではないかとい
うことに思い至った。近年、日本では地震や竜巻、火山の噴火など自然災害が
頻発している。阪神淡路大震災や東日本大震災では一瞬のうちに多くの犠牲者
が出た。このように自然災害の多い国土に暮らしている日本人は世界の例外の
ような気がする。

日本の地理的特徴は温帯に位置し、海岸線が複雑で島嶼が多いこと、南北に長
い国土の縦軸に山脈が連なっていて国土を大まかに太平洋岸側と日本海側に分
断していること、山地が多く平野部が少ないこと、雨が多く河川は急流で大河
となることなく海に注ぐということ、4つの地殻プレートが国土でぶつかり合
い極めて地震や火山の噴火が多いことなどが挙げられる。また、台風の通り道
にもなっていて風水害が多いことも特徴としてあげられる。

四季の変化がはっきりしていることと、自然災害が多いことが私たち日本人の
ユニークな思考様式や行動パターン、勤勉で清潔好きな国民性を生み出してき
たと言える。日本の自然環境は世界で最もダイナミックでアクティヴである。
そこに住む我々日本人はダイナミックな変化に対応して独特のアイデンティテ
ィーを形成してきた。

日本人の国民性の第一に挙げられるのは、変化にたいして極めて適応性が高い
ということである。地震や洪水、津波によって一瞬のうちに家族や建物や家財
までも失う。被災者の絶望感、憤りは自然災害だけに矛先をどこにも向けよう
がない。だから生き残った者たちは助け合い協力しあって生活を再建し生きて
いく以外になかったのである。このことは、太平洋戦争に敗北し国土が焼夷弾
攻撃と原爆投下によって灰燼に帰したとき日本人はそのことを自然災害と同じ
ように受け止めた。だから民間人を無差別に殺戮したアメリカに対して恨みを
持つこともなく友好関係を築くことができたのである。日本人の国民性の一つ
は、「全ては水に流す」という言葉にあるように、こだわりを持たない執着し
ない性格であり、辛い過去は早く忘れて未来に希望をみいだす未来志向の生き
方という側面が強いといえる。 

中国や韓国、ヨーロッパの国では人間が大量死するような突発的な自然災害は
日本と比べれば格段に少ない。それらの国では人間の大量死は戦争や権力争い
といった民間人を捲き込む殲滅戦だった。彼の国では人間が大量死するのは自
然災害ではなく人為的なことだった。そのような場合、被害者意識が深く恨み
となって残り、いつまでも加害者を許すことはできない。

日本では突発的災害があまりにも多すぎる。いつどこでどんな災害が起こって
もおかしくないし、また、次に何処でどんな災害が起きるか予測もたてられな
い。必然的に対応が全て泥縄式となる。災害に事前に備えることや最悪の状態
を想定して準備することも不得意である。だから福島第一原発事故のようなこ
とが起こってしまう。しかし、災害が起こった後の対応は、ここまでしなくて
もと思えるほど入念で完璧であった。

今でこそ大多数の日本人は首都圏や名古屋、京阪等の大都市で居住し隣人が見
えなくとも生活出来る環境にも暮らせるようになった。しかし日本人は長らく
小さな共同体の中でお互いが顔見知りという範囲で暮らして来た。渡辺尚志氏
の『日本人は災害からどう復興したか: 江戸時代の災害記録に見る「村の
力」』によれば、江戸時代の初め元禄十年の全国の村の数は63、276であ
り、幕末の天保五年には63、562で200年間ほとんど変わらなかった。
その頃の平均的な村の単位は耕地面積50町歩前後、人口400人ぐらいだっ
た。村人は生活していくためにすべてのことを共同で行う必要があった。その
ために村内での揉め事は避けなければならなかった。何事も全戸参加の話し合
いによって問題を解決してきた。この感覚が日本人の秩序感覚、共同意識、和
の心を育てて来た。日本人は仲間意識を大切にするが、年貢を取り立てられる
のは仕方がないとしても、村人に権力は必要なかった。権力は忌避されるもの
だったので強い国家権力に反発する気持ちは今でも我々日本人に根強い。

北朝鮮の国家体制など日本人の理解を絶している。中国共産党の国家権力も独
裁的と言えるほどだ。中国歴代王朝は国民の不満の高まりによって覆される時
には凄まじい殺戮を伴う争いがあり、その勝者が新たな国家権力者となる。中
国は国土が広大であるのでそこに住む人は強大な権力者を必要としているので
ある。今の中国も司法の上に国家権力者があるのであり、民主主義ではない。
共産党王朝とも言える政治体制である。そう考えないと今の中国人の思考や行
動が理解できない。日本では徳川幕府が成立しても幕府は和を尊び、薩摩や長
州、上杉等の敵対した勢力をも抹殺せず、外様大名として一定の権力支配を認
めたことと大きく異なっている。

世界の国々や地域に暮らす人々が、暮らしを育む地理的自然環境にいかに影響
を受けてきたかを探ることは、人間とは何かを理解する上で興味深い示唆を与
えてくれる。そういう観点からその国の歴史や国民性を探ると他国の人々と
我々の発想の違いや、外国人が何を考えているのかが解ってくる。宗教哲学も
人間の生活に必要なものとして発生してきたのだとすれば、宗教が発生したと
きのその地域での社会情勢やその地域の地理的な自然環境を理解しないと本当
のことは解らない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通聖典になってい
る旧約聖書には、「正義の実現ためには人命の犠牲が伴うことがあってもやむ
をえない」としてモーゼに異を唱えた人々の皆殺しを正当化している物語が描
かれている。欧米諸国の精神的支柱となっている宗教の基本、自由と平等と博
愛に富むべきという正義の名のもとに繰り返し大量殺戮が行われてきた歴史的
事実があることも、日本人が国際舞台に出る際には忘れてはならないことであ
る。国際テロ組織ISと欧米諸国の間の紛争も原点に立ち帰って考察しないと
解らないことが多い。

真理(真実)とは、どの時代、どの国、どの地域、どの民族、どこの場所に持
って行っても全ての人が受け入れることができ、そのとおりだ、それが人間に
とって一番良いことだと賛成され、また実行されて人間に幸福をもたらすもの
である。我々は真実だけを求め、嘘に惑わされず、真実だけを拠り所にしなけ
ればならないのだ。嘘に惑わされないようになるために、深く自分自身を理解
しなくてはならない。自分の中に真実を見つけなければならない。それが、メ
ディテーションである。メディテーションを深めていくと、自己のアイデンテ
ィティーつまり自己のカルマに気づくようになる。カルマの気づきが自己変革
を促し、自己を悟りに導くだろう。そして、もう一つ大事なことは、広く深く
体験して、広い視野と洞察力を身につけることである。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)