ヨガとは何かとの定義は、ヨガの実践者がそれぞれの立場でいろいろな捉え方
をしているので一様ではない。ある人はヨガとは結ぶことであると定義する。
何と結ぶか「心と体を結び、自分と他を結び、神と自分を結ぶ」ことと定義す
る。また、ある人はヨガとは「本当の自分を求めての自己探求である」と定義
する。ヨガとは何かを最初に定義した古代インドの文献『カータカ・ウパニシ
ャッド』は「五つの感覚器官が、思考(意・マナス)とともにその活動を静止し、
意識(覚・ブッデイ)も全く動かなくなったとき、人々は、これを至上の境地と
いう。このように、諸器官を堅く抑制することを、人々はヨガとみなす」とし
ている。ヨガ・スートラでは「心の働きを死滅させるのがヨガである」と説く。
沖ヨガではヨガの10段階を総合的に、生活を通して実践することを冥想行法
と呼び、冥想行法だけがヨガの実践法と説いている。ヨガをどのように定義づ
けようとも、その目指すところは究極の幸福である。私たちが目指すところは
南伝仏教の理想としているような、吹き消して無に帰し命が消滅してなくなる
ことではないと思う。私たちは苦の消滅ではなく歓喜法悦に満たされる状態を
求めているのだと思う。私はヨガとは「究極の幸福を得る自己コントロールの
道」だと定義したい。
では、何をどう自己コントロールすれば良いのだろうか。
身体のコントロールなのか、心のコントロールなのか、呼吸のコントロールな
のか、感情のコントロールなのか、一体何をコントロールすればよいのだろう
か。
私たちが存在しているということは過去にも存在していたのであり、未来にも
存在するのである。だとすれば今に集中し、今、なすべきことに最善を尽くす
ことだと思う。未来を良くするための自己コントロール、それがヨガだと私は
考える。身体や心は瞬間、瞬間、変化するものであり、現れては消えてゆく幻
のような存在である。時間の流れとともに変化してしまうので実体はなく、身
体や心はそのような観点から無であるといえる。しかし、一方で内的な深いレ
ベルで子供の頃からほとんど変わらない自己があることに私は気づいている。
時間の流れの中でほとんど変らない自己、ユニークで個性的な自己、それがカ
ルマの束縛を受けた真我に近い自己である。その、霊的な自己をコントロール
することが何より大切だと思う。ほとんど変らない自己があるから私達は良い
ことをなして悪いことをなさないようにしているのだ。
宇宙始まって以来、個々の存在は無数の体験と行為を積みかさねてきた、そう
した時間の流れの中で原因となった行為の結果を受けて今の自己がある。その
受けた結果としての今ある自己が、今、自己に起こっていることをどのように
受け止め、反応し、行動したかが新たな原因となる。私たちが生きているとは、
常に考え、選択し、行為しているということである。
今、まさに時空を越えた過去の原因が、条件と環境が整い自分の周りにあらゆ
る現象として起きている。私は自由ということを今まで誤解していた。自由と
は業の束縛から離れること、アカルマ(無業)になることだと思っていた。完全
なる自由とは確かに業の束縛から離れることかもしれない。それは、遥か彼方
の目的地である。自由とは自己に現れて、押し寄せてくるあらゆる現象の中か
らの選択であり、それに伴う行為であると思う。それが霊的な自己コントロー
ルである。私たちが生きているとき、さまざまな局面で、二者択一や選択を迫
られる。そのときに何を基準にして選択するのか、身体や心の喜びか、それと
も未来に受け継ぐ霊的原因かである。未来に続く霊的な自己が受け継いでいく
もの、それを生き方の判断、選択基準とする。それが自由への道であり真の意
味の自由ということだ。何をしても良いというのが自由ではない。悪い原因を
作らないということが自由ということである。
自分の身の回りに起こっている全てのことは必然であり、原因無くして起こる
ことはありえない。外なる神様が気まぐれに処罰を与えるような偶然のことで
はないのだ、天網恢恢粗にして漏らさずの真意は自業自得、因果応報、善因善
果・悪因悪果という意味である。そうでなければ道理に合わない。どんなこと
をしても死ねば帳消し、ご破算になるのであれば、悪事の限りを尽くすような
権力者にとってこんな都合の良いことはない。
私たちが死んであの世に持っていけるもの、次の生で受け取れるもの、それは
過去と現世でなした行為の原因だけである。現世での身体も、お金や財産も、
家も、家族も、集めた美術品も、地位や名誉も持っていくことはできない。自
分が未来に持っていけるもの、それは、原因としての行為、未顕現の結果であ
る。何をしたかという原因だけが自己相続できるものである。
自分を助けるものも、自分を損なうものも自分自身であって、自己をコント
ロールしている外なる神のようなものは存在しない。賞罰は神が与えるもので
はない。賞罰は自己が自ら相続するものである。神様が助けてくれる、神様が
恩寵を与えてくれると思うから、悪業を正当化するような考えが起こって、自
爆テロ等の悪業が絶えないのである。
私たちにとって近未来の解脱は無理であっても、幸福な未来を創り出すことは
できる。それが、真の意味の自己コントロール法で今に生きることである。今
に生きるとは、今の自己に結果として起こっていることに対して選択を間違え
ないように正しく行為することであり、なすべき時になすべきことを間違えな
いようにすることである。
生き通しの人生を考え理解しないと、正しく感じ、正しく思い、正しく考え、
正しく行うことはできない。来世や輪廻転生を信じなければ、心の平安や幸福
など望むすべはないだろう。生き通しの人生という倫理哲学が人類社会に共有
価値観として定着しない限り、世界に平和が訪れないだろう。
をしているので一様ではない。ある人はヨガとは結ぶことであると定義する。
何と結ぶか「心と体を結び、自分と他を結び、神と自分を結ぶ」ことと定義す
る。また、ある人はヨガとは「本当の自分を求めての自己探求である」と定義
する。ヨガとは何かを最初に定義した古代インドの文献『カータカ・ウパニシ
ャッド』は「五つの感覚器官が、思考(意・マナス)とともにその活動を静止し、
意識(覚・ブッデイ)も全く動かなくなったとき、人々は、これを至上の境地と
いう。このように、諸器官を堅く抑制することを、人々はヨガとみなす」とし
ている。ヨガ・スートラでは「心の働きを死滅させるのがヨガである」と説く。
沖ヨガではヨガの10段階を総合的に、生活を通して実践することを冥想行法
と呼び、冥想行法だけがヨガの実践法と説いている。ヨガをどのように定義づ
けようとも、その目指すところは究極の幸福である。私たちが目指すところは
南伝仏教の理想としているような、吹き消して無に帰し命が消滅してなくなる
ことではないと思う。私たちは苦の消滅ではなく歓喜法悦に満たされる状態を
求めているのだと思う。私はヨガとは「究極の幸福を得る自己コントロールの
道」だと定義したい。
では、何をどう自己コントロールすれば良いのだろうか。
身体のコントロールなのか、心のコントロールなのか、呼吸のコントロールな
のか、感情のコントロールなのか、一体何をコントロールすればよいのだろう
か。
私たちが存在しているということは過去にも存在していたのであり、未来にも
存在するのである。だとすれば今に集中し、今、なすべきことに最善を尽くす
ことだと思う。未来を良くするための自己コントロール、それがヨガだと私は
考える。身体や心は瞬間、瞬間、変化するものであり、現れては消えてゆく幻
のような存在である。時間の流れとともに変化してしまうので実体はなく、身
体や心はそのような観点から無であるといえる。しかし、一方で内的な深いレ
ベルで子供の頃からほとんど変わらない自己があることに私は気づいている。
時間の流れの中でほとんど変らない自己、ユニークで個性的な自己、それがカ
ルマの束縛を受けた真我に近い自己である。その、霊的な自己をコントロール
することが何より大切だと思う。ほとんど変らない自己があるから私達は良い
ことをなして悪いことをなさないようにしているのだ。
宇宙始まって以来、個々の存在は無数の体験と行為を積みかさねてきた、そう
した時間の流れの中で原因となった行為の結果を受けて今の自己がある。その
受けた結果としての今ある自己が、今、自己に起こっていることをどのように
受け止め、反応し、行動したかが新たな原因となる。私たちが生きているとは、
常に考え、選択し、行為しているということである。
今、まさに時空を越えた過去の原因が、条件と環境が整い自分の周りにあらゆ
る現象として起きている。私は自由ということを今まで誤解していた。自由と
は業の束縛から離れること、アカルマ(無業)になることだと思っていた。完全
なる自由とは確かに業の束縛から離れることかもしれない。それは、遥か彼方
の目的地である。自由とは自己に現れて、押し寄せてくるあらゆる現象の中か
らの選択であり、それに伴う行為であると思う。それが霊的な自己コントロー
ルである。私たちが生きているとき、さまざまな局面で、二者択一や選択を迫
られる。そのときに何を基準にして選択するのか、身体や心の喜びか、それと
も未来に受け継ぐ霊的原因かである。未来に続く霊的な自己が受け継いでいく
もの、それを生き方の判断、選択基準とする。それが自由への道であり真の意
味の自由ということだ。何をしても良いというのが自由ではない。悪い原因を
作らないということが自由ということである。
自分の身の回りに起こっている全てのことは必然であり、原因無くして起こる
ことはありえない。外なる神様が気まぐれに処罰を与えるような偶然のことで
はないのだ、天網恢恢粗にして漏らさずの真意は自業自得、因果応報、善因善
果・悪因悪果という意味である。そうでなければ道理に合わない。どんなこと
をしても死ねば帳消し、ご破算になるのであれば、悪事の限りを尽くすような
権力者にとってこんな都合の良いことはない。
私たちが死んであの世に持っていけるもの、次の生で受け取れるもの、それは
過去と現世でなした行為の原因だけである。現世での身体も、お金や財産も、
家も、家族も、集めた美術品も、地位や名誉も持っていくことはできない。自
分が未来に持っていけるもの、それは、原因としての行為、未顕現の結果であ
る。何をしたかという原因だけが自己相続できるものである。
自分を助けるものも、自分を損なうものも自分自身であって、自己をコント
ロールしている外なる神のようなものは存在しない。賞罰は神が与えるもので
はない。賞罰は自己が自ら相続するものである。神様が助けてくれる、神様が
恩寵を与えてくれると思うから、悪業を正当化するような考えが起こって、自
爆テロ等の悪業が絶えないのである。
私たちにとって近未来の解脱は無理であっても、幸福な未来を創り出すことは
できる。それが、真の意味の自己コントロール法で今に生きることである。今
に生きるとは、今の自己に結果として起こっていることに対して選択を間違え
ないように正しく行為することであり、なすべき時になすべきことを間違えな
いようにすることである。
生き通しの人生を考え理解しないと、正しく感じ、正しく思い、正しく考え、
正しく行うことはできない。来世や輪廻転生を信じなければ、心の平安や幸福
など望むすべはないだろう。生き通しの人生という倫理哲学が人類社会に共有
価値観として定着しない限り、世界に平和が訪れないだろう。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)