昨年12月に発売された五木寛之『下山の思想』(幻冬舎新書)が週刊売上1位
のベストセラーになっている。その骨子は次の文章に集約される。
「時代は『下山のとき』である。・・・登山しっぱなし、ということはありえな
い。登った山からは、必ず下りるのだ。そして安全に、確実に、できれば優雅
に麓にたどりつく。そして家へもどり、また新たな登山の夢をはぐくむ。・・・
下山する、ということは、決して登ることにくらべて価値のないことではない。
一国の歴史も、時代もそうだ。文化は下山の時代にこそ成熟するとはいえない
だろうか。私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。・・・少子化は進
むだろう。輸出型の経済も変わっていくだろう。強国、大国をめざす必要もな
くなっていくだろう。そして、ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望
が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。」「下山の時代
がはじまった、といったところで、世の中がいっせいに下降しはじめるわけで
はない。長い時間をかけての下山が進行していくのだ。戦後半世紀以上の登山
の時代を考えると、下山も同じ時間がかかるだろう。しかし、下山の風は次第
にあちこちに吹きはじめている。いつか人びとは、はっきりとそのことに気づ
くようになるはずだ。・・・宇宙へ向いていた視線は、逆に個々の身体の奥へ向
けられる。生を死の側からみつめる必要も生まれてくる。慈の思想にかわって、
悲の思想が大きく浮上してくるだろう。そんな時代に、いま私たちは、直面し
ているのだ。」
全体の内容は空疎だが、それでもベストセラーになっている背景にはおそらく、
高度成長期を謳歌した世代の時代観(あるいは人生観)が共有されている面が
あるのだろう。時代を読む一つの視点がそこに提示されている。
学生の頃、昼食をとりながらふと考えたことがある。資源を無尽蔵であるかの
ごとく消費しつづける社会は、その有限性を現実のものとして意識した瞬間か
ら退行がはじまるのではないか。第三世界の資源を搾取することで発展してき
た先進諸国。それが主導するグローバリズムの構造的問題を当時考えていた。
でもそれは遠い先の未来についての、漠然とした予想に過ぎなかった。
しかし・・・。
時代はその後、現実からかけ離れたバブル経済に酔いしれてゆく。やがてバブ
ルは崩壊し、「リストラ」が社会問題化する。使い捨ての文化は、資源のみな
らず人をも使い捨てる文化である。その頃から「リサイクル」や「循環型社会」
といった言葉が日本にも登場し、人々はまだ使えるのに捨てられてゆく廃棄物
に自分の姿を重ね合わせるかのように、もう一度社会の中で再生する道を模索
しはじめる。地球温暖化や環境問題は外的動因に過ぎないだろう。内面に生ま
れた心の空虚感は、さらに個人の癒し・健康ブームへと進んでいく。自殺者の
増加も無関係とはいえない。そんな時代の流れが想い起こされる。
マハトマ・ガンディーは1925年、次のような有名な言葉を残している。
「まだ知らない人がいたら、知っておいてほしいことがある。現代社会に巣食
う七つの大罪とは・・・。
理念なき政治(Politics without principles)
労働なき富(Wealth without work)
良心なき快楽(Pleasure without conscience)
人格なき知識(Knowledge without character)
道徳なき商業(Commerce without Morality)
人間性なき科学(Science without humanity)
献身なき信仰(Worship without sacrifice)
読者はこれを頭ではなく、心に刻みこんでほしい。こうした罪を決して犯さな
いために-。」(『ヤング・インディア』1925年10月22日号)
「わたしが理想とする社会のイメージは、水面に丸く広がる波紋である。それ
はひとつの人生のまわりに、また別の人生が広がっているようなものである。
そして、その中心に個人がいる。その個人は、次の波紋である村の輪の中に溶
け込んでいき、その村もまた、周囲の村々の輪に溶け込んでいく。このような
社会では、各々がこの大きな波紋をつくるための重要な波のひとつだと認識し、
常に謙虚に暮らすことができるだろう。」
(『ガンディー 魂の言葉』太田出版2011年9月)
日本や先進諸国は、長い間、罪を犯してきた。そのツケが今さまざまな場面に
表れている。3.11後の社会づくりは、人間を主役にしたこの「水の波紋のよう
な社会」であってほしい。「下山」というよりは、新しいムーブメントとして。
<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)