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2013年2月21日木曜日

コラム[資格]


私達は資格があるから人間に生まれて来るのであり、資格があるから病気や人
間関係、仕事で悩み苦しむのです。資格があるからその家に生まれ、その両親
を持ち、兄弟があり、その夫と結婚し、妻があり、子供が生まれます。資格が
なければ、入学試験に落ちるように、あらゆることはあるべきようにはなりま
せん。今あなたに起こっていることがなんであれ、それが起こっていてそのよ
うであったならば、それは、あなたにとってちょうど良い事であり、善いこと
でもなければ、悪いことでもありません。

資格があるから病気になり、悩み、苦しむのです。その人の資格、言葉を変え
るならその人に解決能力があるからある特定の病気になるのです。解決能力の
ない人に解決できない問題は起こりません。身体の老化は自然法則であって資
格ではありません。

資格は時に人と人の相互関係、お互いの学びとして与えられます。それは、時
には辛さと困難をともないますが、それは互いに一番必要な学びなのです。今、
あなたが持っているもの、家や車や仕事上の立場、富や名声も今のあなたにふ
さわしいから、丁度良いから資格があるから持つことができるのです。しかし
それらは、時が過ぎれば全て変化します。無常です。執着することは出来ませ
ん。資格があるから、その場所へ行くことが出来、資格があるからその出来事
に出会い、資格があるから見つけることが出来、資格があるから得ることが出
来ます。

資格というのは入学試験や何かの階級審査で得られるような単純なものではあ
りません。資格というのは一人ひとりの人間が全て違っているものなのです。
それは個性的なもので、束縛と自由が一つになっていて、苦楽善悪一体のもの
なのです。

資格は一見、人間にとって不平等のように思えますが、資格とは人間の自業自
得の説明であり、因果律の説明であり、自己責任のことです。自業自得、自己
責任において人は完全に平等なのです。欧米の宗教哲学では愛や救いという価
値観が主で資格というような考え方があまりありません。欧米の宗教哲学に基
づく価値観や文化が日本にも広く浸透して、その弊害として、行き過ぎた依頼
心増長社会、責任転化社会、訴訟社会になってきたと考えます。我々は傲慢に
ならず、卑下することもなく、もっと謙虚に強く自己責任を持つべきだと思い
ます。

この世に生まれてから死ぬまでの今生だけが私たちの生ではありません。命は
変化するものであり、生き通しで宇宙の生滅とともにあり、始めの無い始めか
ら、終わりの無い終わりまで継続して旅するものです。私たちの旅はほとんど
路半ばであり、この先長い旅路をたどらなくてはなりません。それぞれの人が
長い旅路で出会う諸々の事は、その人の資格によるのです。その資格のことを
先哲聖人がカルマと呼んだのです。カルマはコントロールすることが出来ます、
変えることができます。その方法が瞑想であり、ヨガというのです。

洞察瞑想、智慧の瞑想、沈思黙考の瞑想をプレクシャ・メディテーションでは
アヌ・プレクシャと言います。自分の資格について広く深く考察しましょう。
自分が心の奥底で、潜在意識のレベルで何を願い何を求めているのか考察しま
しょう。繰り返し繰り返し自分の資格について考えます。考えることも立派な
瞑想です。アヌ・プレクシャを継続することで他から教わるのではなく、内な
る智慧、内なる宝が輝き始める事でしょう。それがやがて本当の自由を得るた
めの資格になります。資格がなければ無限の自由もなければ、無限の愛もあり
ません。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)