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2013年8月24日土曜日

プレクシャ・メディテーション合宿 2013年7月集中合宿終了のご報告

当協会開催のプレクシャ・ディヤーナ集中合宿が7月14日~21日までの7泊8日
の日程で開催されました。

参加された皆様におかれましては、お忙しい中ご都合を合わせていただき誠に
ありがとうございました。こうしてプレクシャの智慧を皆さんにお伝えできる
ことは、協会の使命であり喜びであります。

今回は雨でしっとりとした只見の自然の中で変則的なプログラムとなりました
が、登山や川の合流点での瞑想など自然と戯れながら自分自身と向き合う貴重
な時間を体験されたことと思われます。部分参加の方を含め、参加者の構成も、
まだ瞑想を学び始めたばかりの方から長年プレクシャ瞑想を学ばれている方ま
で様々な経験を持ち合わせ、お互いに良い刺激を受け合い、美味しいお料理を
囲んでの団らんや、豊かな湯量と質の良い温泉も楽しまれたようです。

合宿についての感想をいくつかピックアップしてご紹介したいと思います。


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<Tさん>
浦佐から小出駅までスムーズにるんるん気分で電車に乗ってきましたが、只見
線が動かないと言われ、え?どうするの?只見に行き着くのが車も途中で通行
止めで先には行けないとのことで、小出で4時間私達3人で楽しくお話をしなが
ら、これも修行と思いましょう!ということでヨガのポーズをしながら、17時
10分に動くことになった只見線を待ちました。

その後無事只見線に乗ることができ、道中外の景色の美しさを見ながら夜にや
っと到着することができました。よかった!今日中に着くことができて。。。
久しぶりのアラハン・マントラ、とても気持ちが良かったです。

久々の瞑想合宿。緊張して4時30分に目が覚め、マントラ、清掃行法を行いま
したが、久々の道場の清掃をさせて頂いて、感謝いたします。一昨年のレベル
2でこちらに来て以来でしたので、やはりくつろぎます。

アヌプレクシャの終わった後、前半眠くなりましたが、中間からどんどん自分
がなくなり、身体全体が温かくなりとても幸せに満ちてきました。瞑想しなが
ら、だんだんインド行きが楽しみになりました。やはり瞑想はいですね。

お風呂も行けて、ホタルも見れて、今日になって福島に来たという実感が湧き
ました。今回は私の教室の方2人の方と一緒に来ることができて喜んでいます。
初日どうなるかと心配しましたが、何とか楽しく過ごすことが出来ました。


<Yさん>
はじめて番所に来た時より、独特の雰囲気でこれがなるほど逆刺激というもの
かと感じ入りました。人は慣れた環境にいることで安心するものですが、それ
が膠着状態を生む。今この緑の連なりときれいでおいしい空気に囲まれて自分
がこれらのものをいかに必要としていたか気がつきました。

午後の4ステップ瞑想では居眠りをしてしまい反省。夜は足の組み方を変えて
みたところ、とても痛くて、まだゆがみや癖の満載の身体だなとがくっときま
した。翌日の瞑想も、午後の2回目こそはお腹もこなれてきたし眠らないぞと
固い決心をしたはずなのに、眠ってしまいました。通常クラスでは最近は眠ら
ずにできるようになってきたのに、身体の滞りを感じました。夜の瞑想では昼
間より集中できた気がします。

川の合流点での瞑想では、川の音を聞きながらそこを流れる自分がイメージさ
れました。私は五行易の勉強をしていて川は「1本の木」という意味で、水が
多く、大きな流れをゆく流木のようなものだそうです。ただ流れに流されてあ
ちらこちらに行くのではなく、意志を持って必要な所々に止まって学ぶ流木で
ありたいと思いました。

3日目には不要で不適なものを出し切り通りがよくなったためか、それまで眠
くなってしまっていた瞑想も、午後の瞑想では集中ができました。白いまゆの
中に入った時は自分が石造のように感じられて腕が重くてしばらくは合掌の手
が組めない程でした。その後はとても「しん」とした状態になりやすかったよ
うです。

翌日坂本先生のほぐしから入り、十分足を緩めたのですが、途中で足が痛くな
ってしまい、自分の内・外のバランスや浄化がまだだなぁと反省しました。

でも、意識がとんだり、痛みに完全にリラックスできなかったながらも2時間
を終えたという事で小さな達成した!という感覚は嬉しいものでした。3日目
にはこれは!と思う瞬間もあったのですが、、、この体験をぜひ続けることで
自分のものにしていきたいと思っております。


<Nさん>
プレクシャ・メディテーションとは何か、ジャイナ教とは何か、昨年12月の坂
本先生の特別講義で駆け足でお話を伺ったり、毎週のプレクシャクラスで少し
づつは伺っていましたが、今日はじっくり聞くことができ、少し理解が深まっ
たような気がします。カルマの意味も少し理解できたような気がします。

昼間の瞑想でスシュムナの中をエネルギーが行ったり来たりするイメージが全
然うまくできなかったのですが、途中カーッと腰と下腹が熱くなって驚きまし
た。いつも自分の腰が冷たくて通りが悪いと関係があるのかなと思いました。
(腰のあたりでつまってエネルギーがこもっているイメージ)

食事がとてもおいしくて嬉しかったです。夜のホタル見学も感動しました。自
然の中で天然のホタルを見たのは初めてのような気がします。幻想的でした。
夕方、雨が上がった後の青空、山並みの美しさ、温泉の気持ちよさすべてがと
ても印象深かったです。

ひとつ残念なのは、東中野のクラスの時にはそんなことはなかったのに、右足
が痛くて瞑想に集中できないことです。右足の痛みに気を取られてちっとも誘
導通りのイメージが上手くできませんでした。

初めて2時間の瞑想をやりました。正直恐怖でした。正座、座禅、ヨガ、柔軟
など足の悪い自分にとって恐怖でしたが、恐怖克服の一つ良いきっかけになっ
たと思います。今回はさらに自分の身体と対話を深めるきっかけになったと思
います。自分は足が悪いから自分にはできないと自分に言い訳していた瞬間に
できなくなるのだと思います。対話して、脱力して、試して、ゆだねることが
大切だと思いました。ベースの身体の問題でまだつまづいて、肝心の瞑想の方
まできちんと辿り着けていないのですが、もっともっと深めてゆきたいと強く
感じました。


<Sさん>
プレクシャ・ディヤーナ(知覚瞑想)の基本的な行い方を学び、みなさんの唱
和の中ですばらしい体験ができました。プレクシャ・ディヤーナの知覚対象、
そのための6種類の方法、その中でもレーシャ・ディヤーナ(霊的色彩の知
覚)の素晴らしさおよび自分にとっての必要性を感じました。深いレベルでの
自己コントロール法として体得していきます。瞑想の奥深さそして大切さを身
にしみて感じた講座でした。素晴らしい講座に参加できた喜びに満ちています。

2時間の不動の瞑想は何よりも時間的にも、経験的にも初めてで不安もありま
したが、良いチャンスに恵まれ、体験できたことが無上の喜びです。いつも憧
れのように思っていた瞑想がこのような形でできたことがすばらしくうれしく
思います。

プラーナヤーマも素晴らしく、終わった後の健康感および精神の充実感が私を
満たしています。スマブリッティ・シュヴァーサ・プレクシャでは、さらに呼
吸法の大切さ、素晴らしさが身を以て体験でき、と同時に自分の弱い部分、気
になっている部分も再認識できました。日々の実践の中で健康面に繋がること、
そして精神的なより高みへの糧となるものを追求していきたいと強く思いまし
た。声のバイブレーション、美声を目指して、、、努力!


<Yさん>
只見線不通のため小出駅にて約4時間、開通を待ちました。しかしながら疲れ
を感じず、ヨガをしながらの楽しい時間でした。なるようになれという気持ち
も良かったのかもしれません。お陰様でこんな素晴らしい体験ができました。

講義は難しくあまり理解できませんでした。瞑想は自分の体感としてとても気
持ちがよく全て無になれた様に思います。温泉、ホタルと自然に接しながら心
が洗われました。

この道場にいるだけで、すべての日常を忘れられ幸せと感謝でいっぱいです。


<Sさん>
番所の建物はとても素晴らしく、天井も高く過ごしやすいところだなと思いま
した。心の安定が欲しくてヨガを始めましたが、少しづつやすらぎを覚え始め
たところです。

数年前うつ病になり苦しい思いをし、今はだいぶ回復していますが、何かある
とすぐ不安に陥ることが多くあります。常に平常心でいられるようになりたい
と思っています。

あらゆることが自分が原因だということは前から気づいていましたが、今日あ
らためて確認いたしました。瞑想は難しいです。身体の痛さに気がいってしま
うので。


<Mさん>
倍音声明は、5人6人で声を合わせ響かせていく、とても興味深いものでした。
私は唱うことはどちらかというと苦手。マントラもなかなか慣れずに苦労して
おります。これは一音のみなので、とっつきやすく慣れてくるとお腹から声が
でて共鳴し合い、不思議な響き合いとなりました。

2時間の瞑想の後から安定座法で長くなるとひざや腰が痛み、瞑想に集中でき
にくくなってきました。これが修行でしょうか?何か残念に思います。瞑想そ
のものを深めていきたいのに、、、三昧の境地ははるか彼方、心身の浄化は叶
うのでしょうか。

シャリーラ・プレクシャは、瞑想の力は魂に効能があるとは思っていましたが、
健康に大きな影響があることを知り納得です。目に見えないことの重要さを改
めて思い知りました。ますます瞑想の必要性を感じます。

今日も合流点での瞑想は気持ちよく、ブナセンターでは自然の勉強ができ、美
味しい食事に温泉と、座学、瞑想と充実の一日。

とうとう最終日。長く苦しかった修行も終わり、、、となるかと思ったけれど
楽しく勉強ができました。やはり蒲生岳は素晴らしく、逆立ちが出来たのはと
ても良い思い出。細胞が生き生きとなる気がしました。

瞑想といえばそれまでは自分との闘いでどちらかというと苦痛が多く必要性を
感じながらも積極的に学ぼうとは思えませんでした。今回一週間、毎日学んで
自分を内側から変えるもの、浄化していくものとの感覚を少しずつ得ることが
できました。シャリーラ・プレクシャのテジャス体の知覚では、身体が輝くよ
うなオーラのようなものを感じる初めての体験をしました。

世の多くの方が知らないこの素晴らしい瞑想による生命エネルギーの流れ、検
診の代わりになるという心身を健康・健全にする奥義をぜひ広めたいです。生
まれ変わり新しくなった自分をこれからも磨き、さらに学んでいきたいと思い
ます。数々のご指導ありがとうございました。


<Kさん>
この合宿は私にとって、とてもためになるものでした。毎日沢山の行法や登山
や倍音声明などのレクリエーションがあって、とても充実していました。とて
もバランスの良いスケジュールだったと思います。また、佐藤先生が毎日作る
料理もおいしかったです。いつも食事を楽しみにしていました。レパートリー
も幅広く、合宿に来ている皆さんの注文にほとんど応えていたのが凄かったで
す。

今回のプレクシャ・メディテーションの合宿は行くことを決意して本当に良か
ったです。只見の風景は美しくて、番所もとても良い宿泊場所でした。番所は
昔の日本の、日本に適した建物でした。7月なのに涼しくて、湿気もなくて心
地よい空間でした。

2時間不動の瞑想も、家だとなかなかやる気にならないので、合宿で行うこと
ができてとてもよかったです。朝5時半からは、ジャイナ教のマントラや讃歌、
沖道ヨガの行持を唱えるのも楽しかったです。川の合流点での瞑想も良かった
です。今回の合宿では雨の天候が多く、あまり沢山できなかったのが残念でし
たが、少ない回数の中でもとても印象深いものがあります。川を見つめながら、
「変化とは何か?」と考えていると、川から変わっていくものと変わっていく
ことで存在すること、「生きていること」を学べました。川から学ぶというフ
レーズで、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を思い出しました。主人公シ
ッダールタと、川の渡し守りのヴァズデーヴァ。彼らが語る「川から学ぶ」と
いうことを、現実で経験することができました。

ふと就寝するときに思いました。「どうして私はここにいるんだろう」と。悪
い意味ではありません(笑)。いろんなきっかけが重なって、只見の地を訪れ
ることができました。2か月ぐらい前までは、自分が只見で合宿しているとは
全く思いませんでした。只見すら知りませんでした。坂本先生、私を合宿に誘
ってくださり、ありがとうございます。全ての求道者の内なる純粋なものへ敬
意を。Namo Loye Savva Sahunam.


<Kさん>
昨年は合宿が中止となり、今年は待ちに待った体験合宿です。この度は思いが
けなくもハイレベルなので、興味津々です。

合流点の瞑想では天候の具合がよくて気持ちが良かった。そして瞑想の課題に
対してですが、「川は全てを受け止め、受け入れて生きている」というインス
ピレーションを受け取りました。

次の癒しの森ハイキングでの瞑想では、森の入り口で森林の氣を感じました。
そして瞑想では樹木と風と葉音と虫・鳥のさえずりとひとつになった心になり
ました。

8つのケンドラについての瞑想では、眠さが強くあって集中が難しかった。最
後のアラハン斉唱とシュヴァーサ・プレクシャは今までに自分としては最高の
集中度で実践できました。

2時間不動の瞑想では時々身体が傾いてハッとしたことが度々ありました。い
つもは4ステップとか、その中の一つを念入りに行うことが多いですが、最後
まで完結した瞑想は圧巻でした。特に最後のステップはこれで終わりだと思っ
たのか、とても集中できたし、2時間座ったことに喜びを感じました。

今回は通して行えたので、幅広くじっくりやれたような気がしております。外
での瞑想では、自然と一体になれました。それに吐く・吸うだけの呼吸法だけ
ですが、予想以上にすごいエネルギー(例えば電気的)があることに驚きまし
た。

また、現代生活に失われている人間性(らしさ)を見ることは、それは「自分
自身を観ること」です。それには意識を集中させて「感覚を観なさい」「呼吸
を観じなさい」ということです。この基本的な命の営みを忘れると人は病むこ
とになるのだと思いました。

今後も「身体への限りない高度な気づき」を続けていきたいと考えております。
それに松義先生の工夫された食事に感謝申し上げます。ありがとうございまし
た。


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参加者の皆様、貴重なご意見・感想をありがとうございました。



【2013年今後開催予定の合宿】

プレクシャ・メディテーション 9月開催

開催日:2013年9月21日(土)~23日(月)  2泊3日
開催場所:福島県奥会津 只見「叶津番所」

「叶津番所」は、210年経った歴史ある藁葺き屋根の古民家(県指定重要文化
財)です。この合宿はそちらに宿泊し、隣接の 「みずなら只見ユイ道場」
(新築古民家風道場) にて研修を行っています。日本のリシケシのような山
と川の流れる空気の綺麗なエネルギースポットです。 

※入門合宿はどなたでも参加が可能です。 
※最低催行人数に満たない場合など予定がキャンセルされる場合もあります
 ので予めご了承ください。

参加お申込書や詳細については、以下よりパンフレットをダウンロード下さい。
http://jp.preksha.com/learn/PDJ_Retreat_beginner.pdf 

セミナー詳細ページはこちらからご覧ください。
http://jp.preksha.com/learn/#seminar

ご不明な点などは協会事務局にお問い合わせください。



コラム[食の非暴力 俗なる立場から]

台湾の友人、王さんから私のフェイス・ブックを見て、瞑想合宿最終日に熊肉
を食べたこと、お酒を飲んだことに対して質問が来た。坂本がいつも提唱して
いる非暴力・不殺生と矛盾しないかとの質問だった。

ちょうど良い機会なので食べ物の非暴力について私の考え方をまとめてみたい
と思った。

人間の生き方は聖の立場と俗の立場があると思います。聖なる生き方は出家の
生き方です。私たちがイメージする日本の宗教家や普通のお坊さんは出家であ
って出家ではないと思います。出家の顔をした俗人です。出家といわれる人が
王様のような暮らしをして、企業経営者のような金儲けをしています。私はジ
ャイナ教の出家僧に出会ったとき初めて本物の出家のことが解りました。彼ら
は本当に無所有を実践し、本物の非暴力を実践していました。

私達の生き方は俗の生き方です。結婚し家族がいて家族を養う為に仕事をしな
くてはなりません。様々なしがらみに縛られているので完全なる聖の生き方は
出来ません。世俗的生活では完全なる無所有も完全なる非暴力も実践出来ませ
ん。企業経営者であればライバルとの競争に勝ち抜かなくては企業を存続出来
ません。競争に負ければ業績不振となり従業員に給料も出せなくなり倒産もあ
りえます。倒産した会社の社員は失業し苦しむこととなります。スポーツ選手
も勝ち抜かなければ栄光は得られません。俗世界は一にぎりの勝者と多くの敗
者があって、良く考えれば競争と暴力うずまく社会といえます。

聖なる出家の世界には他との競争がありません。闘いは自分自身との闘いだけ
です。自分をいかに清らかにするかという実践が自分自身との闘いだから、他
に対する完全なる非暴力が実践できるのです。仏陀もジナも出家しない世俗的
生き方では解脱出来ないとして出家を勧めました。

出家の教えである完全なる非暴力は世俗的生活では困難です。そこで厳しい出
家の戒律と緩やかな世俗の戒律が出来たのです。世俗の人間に対して出家の戒
律をあてはめても無理があります。

私は世俗の立場の生活者なので、私に聖人に対するような要求をしても私には
実践できません。沖ヨガの沖正弘先生は生前、弟子たちに「お前たちには俺の
ような聖なる生き方は無理だから、半俗半聖で行けよ」とよく言われていまし
た。私の生き方は俗なる生き方の中に、聖なる生き方を取り入れて、バランス
よく人間的に生きるというのが今生のテーマです。

私は俗人の立場で聖なる生き方を実践し提唱しているのであって、私は出家し
た聖者ではありません。ヨガや瞑想を実生活で生かすにはどうしたらいいかを
実践し、俗の立場で提唱している単なる教師です。つまり私は「俗が聖をやっ
ている」のです。世に聖人、出家といわれている人の多くが全くの俗人で「聖
が俗をやっている」のがほとんどです。どちらがより善い生き方かと考えて私
は「俗が聖を行じる」方を選択しているのです。

以下は食べ物に対する宗教的な非暴力の考え方を半俗半聖の立場で考察したも
のです。人間が食べ物を食べるとき、その食べ物は何らかの生命を殺している
か傷つけていることになります。植物も生き物です。完全なる食の非暴力は全
く食べないことです。人間は生きている以上、何らかの食べ物を食べなくては
なりません。人間に近い哺乳動物を食べるのはなるべく避けて、穀物や野菜中
心の菜食にすべきだという見解は非暴力の実践として説得力を持っています。
そういう観点からすればバナナや果物、木の実だけを食べるのが一番善いこと
になります。

私は食べ物に善悪は無いと考えます。適応性拡大の為に食べ物の善い悪いの判
断を止めることだと思います。食べ物を区別すると自由を失います。外国に行
くと文化や食生活が違うので、時には食べた事の無いようなものを食べなけれ
ばならないときがあります。何でも食べることが出来れば何処へでも行けます。
子供のころ蛇が怖かったのですが、マムシを食べたら蛇に対する恐怖が無くな
りました。それからは蛇の生息する山にも行くことが出来るようになり、蛇と
出遭ったときには、私はお腹が空いていれば蛇を食糧とすることが出来るので
蛇が私を見て逃げていきます。以前は私が蛇から逃げていました。

非暴力の観点から日本人に魚を殺してはいけない、魚を食べてはいけないとは
云えないでしょう。魚を食べることは日本の文化であり伝統だからです。海に
囲まれた日本は新鮮でおいしい魚が身近で容易にとれます。我々の先祖は米と
野菜と魚を食べてきました。牛や豚など家畜を飼育して食べる習慣はありませ
んでした。明治以降西欧文化の影響を受けて肉食が始まったのです。

印度は暑い気候の国です。海から遠い印度の内陸では新鮮な魚は入手困難です。
家畜の肉も暑さで食べる前に腐敗が進んでしまいます。健康の面からも魚や肉
を食べる文化は育ちません。印度で魚や肉を食べてはいけないというのは道理
に合っています。印度は暑い国なので香辛料を使った辛い料理、砂糖を沢山摂
取しています。日本人が同じような食生活をしたら健康は保てないでしょう。
同じように印度では気候が暑すぎて発酵食品の文化は育ちませんでした。発酵
食品文化は日本で発達しました。日本は発酵食品の国といっても過言でありま
せん。台湾の食事は日本に比べて味付けが薄く、塩気が少ないのも気候の相違
によるのです。台湾の人が日本人に比べて身体が柔軟なのは気候によるのです。
日本人が風呂好き温泉好きなのは体の塩抜きの為に必要なのかもしれません。

草原の国の人々の肉食文化、エスキモーの人々のアザラシなど海獣の内臓まで
食べる文化、それを暴力と責めることは出来ません。その土地に生きる人にと
って必要なことであり、カルマなのです。ジャイナ教では印度に生まれて完全
なる食の非暴力を実践しないと解脱は得られないとしています。ならば、日本
人が解脱を願うなら来世で印度に生まれることを願うしかありません。

只見では江戸時代まで牛や豚は食べませんでした。古代から日本には鹿やイノ
シシ、カモシカ、熊などの野生動物を狩猟する狩人の食文化がありました。熊
狩りする特別な狩人をマタギといいます。只見にもマタギの伝統がありました。
今ではほとんどいなくなってしまったマタギの一人が、友人の長谷部義一さん
です。

瞑想合宿の終わる前日、厳しかった修行の最終日の夜は、俗界に帰る準備です。
今日まで7日間禁酒、ヨガ式自然食だったので、陰陽刺激の総仕上げとして、
緊張の反対、緩めて放下する刺激の一つとして夕食時にお酒を出す予定でいま
した。マタギの義一さんとは一年近く会っていませんでした。丁度その日の午
後、義一さんは坂本さんに会いたくなったと番所にやってきて、自ら仕留めた
貴重な熊肉を差し入れてくれました。私から熊肉を食べたくて求めたのでなく、
向こうからやってきたのです。チベットの聖者ミラレパがイラクサだけ食べて
体が緑色になり生きているのが不思議なくらい骨と皮だけになって洞窟で瞑想
修行していた時、猟師から獣の肉の喜捨を受けました。そのときミラレパは人
間らしい食べ物だと言って喜んで獣の肉を食べたと言う伝説もあります。

食べ物はまずいより美味しいほうが良いと私は考えています。食べ物は舌で食
べるのではなく、体を養う為に食べるのだとの主張は一見真実のようですが、
半分真実で半分は嘘です。確かに美味しいものだけ追求し美食に偏ったら体を
壊します。味はどうでもよく体に良いものを食べるというのも人間的でなく偏
りの一種です。欲望をコントロールする意味で食をコントロールするのは良い
ことです。本当の出家は托鉢によってしか食べられません。食べ物を選択出来
ません。現代仏教の托鉢は形骸化してミャンマーやタイの坊さんたちは毎日、
在家から食べきれないほど沢山の美味しい食べ物の喜捨を受けて糖尿病や高血
圧、肥満で苦労しています。皮肉なことに苦しくても沢山食べることが修行の
ようになっています。断食は食欲のコントロールと美食による弊害の体調回復
にとても良いので、短期の絶食や断食を日常生活に取り入れることを勧めます。

料理人にとってはより美味しく食べ物を作ることが愛です。また、世俗の人が
美味しいものを食べて味覚を満足させ人間的喜びを得ることは悪いことではあ
りません。美味しさを追求しなかったらテレビの料理番組は成り立ちません。

美味しい料理はその国の文化です。私たちは俗人なのですから、出家の立場の
非暴力・不殺生は困難です。現実というものを大事にしないと混乱し行き詰ま
ってしまいます。完璧に非暴力・不殺生を実践したかったらジャイナ教の出家
僧になるしかありません。

栄養補助剤・サプリメントはそのすべてが体の中で吸収されて栄養になるわけ
ではありません。食べ物も同じです。身体が食べた物の養分を不要と判断すれ
ば、それを排泄してしまいます。また、食べた物によって必要な栄養が得られ
ない時には身体は栄養を合成する能力を備えています。その良い例として、50
年ほど前まで、チベットの僧侶は麦粉がしを練ったツアンパとバター茶だけし
か食べていませんでした。それでも元気に生きていけたのです。身体を効率よ
く機能させるために微量元素も必要とされているわけですから、サプリメント
に頼るばかりでなく、いろいろな食べ物を食べるのが良いとされています。飲
用に適した温泉水を少量飲用すれば免疫力やアレルギーの予防になると思いま
す。

食品添加物の問題は深刻です。これからの時代は自分の食べる物を自分でつく
るのが最高の食の贅沢になるでしょう。ヨガの実践と食の自給自足が時代の
テーマになりつつあります。ジャイナ教哲学では農業が出来ないので、私達は
現実的、実際的な江戸後期の哲人・二宮尊徳の教えをあわせ学ばなければなら
ないと思います。

不殺生は殺すなという意味ですが、積極的には生かしなさい、活用しなさいと
いうことです。見捨てられて死んだものを活用することが本当の非暴力だと私
は考えます。人間や生き物だけでなく、食べ物を含めてあらゆる物を粗末にし
ないということも非暴力です。

私たちは他の命をいただいて生きていけるのだから、その御恩に報いる生き方、
恩返しの生き方をしなければならないというのが沖正弘先生の食養の言葉です。
感謝、懺悔、下座、奉仕、愛行が食べ物をいただく姿勢です。それが正しい生
き方であると信じています。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

第47回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第47回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2013年9月2日(月)19:00~21:00
場所:集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)

テーマ:アンタルヤートラの基礎と応用(その2)
    ―なぜ生命エネルギーが活性上昇するか―

前回は、まずアンタルヤートラの基礎を坂本先生の著書とA.マハープラギャ師
の叙述から再確認し、それを現代科学の知見、とくに詳細な脊髄の解剖図を参
照しながら、より精緻に、どこをどのように知覚すればよいのか理解しました。

次回は、その続きとして、最新(最後)のマハープラギャ師の著書に紹介され
ている応用技法を紹介した上で、アンタルヤートラによって何故生命エネル
ギーが活性化され上昇するのか、その原理を探ります。古代の叡智を現代的な
知見でどこまで説明できるのか、関連すると思われる生理学的説明を可能な限
り検討したいと思います。

(前回参加した人は必ずお配りしたレジュメを持参下さい。)


※参加前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)を
  ご確認ください。急な連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村までご連絡ください。
 (savita.nakamura@gmail.com)ご連絡をいただかないと、資料を受け取れ
 ないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
  等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
・2013年10月7日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2013年12月2日(月)19時~21時 場所:同上
(11月の研究会はお休みとなります)

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。