私たちが体験している物質世界は絶え間なく変化し動いている。物質世界で形
をもち存在しているあらゆるものは背後に相反する性質の影響下に置かれてい
る。相反する性質とは電磁気的な-と+でありそれを陰と陽と云う。電磁気的
な相反する-と+があるから宇宙に動きが起こり物質が存在することが出来る。
もし、電磁気的な-+の差異がなかったら宇宙は始まらず、存在できないであ
ろう。
陽と陰は明るさ暗さ、濃密と希薄、重い軽い、集中と拡散、緊張と弛緩、熱い
冷たい、硬い柔らかい等があり、同種のものを他と比較するときの物差し基準
となる。70℃のお湯は30℃の水より熱いと言い、水はお湯より冷たいと云う。
夜は昼間より暗く、昼は夜より明るいと表現する。
私たちの体の中には電磁気的な生命エネルギーが流れている。生命エネルギー
が流れているので身体内部に様々な感覚が生起する。呼吸は吐く息と吸う息が
セットになっている。息を吐いたら次に吸わなければならない、吐き続けるこ
とも出来なければ吸い続けることもできない。吐く息は拡散・弛緩であり、吸
う息は集中・緊張である。命の働きは常に相反する二つの性質を求めている。
それが緊張(獲得)と弛緩(放下)である。食べることと排泄すること、起き
て活動することと寝て休むこと、バランスが崩れると病気や苦悩という形でバ
ランス回復運動が起こる。そのことを苦楽一如と云う。苦を離れて楽はなく楽
を離れて苦はないという意味だ。
太陽は陽、月は陰。ヨガの哲学では私たちの体の中にも陰陽があると説いてい
る。右半身がピンガラまたはスーリヤで太陽、左半身がイダまたはチャンドラ
で月。右鼻だけで呼吸すると体は温まり、左鼻だけで呼吸すると体は涼しくな
る。体温のバランスが崩れると必ず命の働きがバランス回復運動をおこして体
温を一定に保っている。つまり緊張あるところには弛緩を、弛緩あるところに
は緊張が自然に起こってくる。
ダラーナとは身体に緊張刺激あるいはリラックス・放下刺激を起こして命の働
きに反対刺激を起こさせるテクニックと言える。緊張は強ければ強いほどが良
く、リラックスは深ければ深いほど良い。アンバランスが大きいほど命の働き
は強く復元運動を起こす。命の働きのバランス回復維持能力が高いほど身心の
健康度が高く安定している。ダラーナは集中するという意味だが緊張と弛緩を
合わせるという意味もある。その場合緊張から始めてもよく、リラックスから
始めてもどちらでも良い。日本の禅宗各派は形から座法を固める方法で緊張か
ら入ることを採用している。それに対してインドの瞑想法の系統はリラックス
から入ることが多い。いずれにしても瞑想の時間が経過すると、やがて自然に
緊張と弛緩のバランスが拮抗しバランスがとれてディヤーナが起こる。テクニ
ックであるすることと環境が整って起こってくることのダラーナとディヤーナ
の境目がここにある。
瞑想とは、緊張と弛緩を同時に強め高め拮抗させて命の働きを調和させること
であると定義出来るかもしれない。力を抜くと力が入る。静と動、緊張と弛緩
を一つのものとすることを静動一如という。これらは武道の極意であり生き方
の極意でもある。そのようにして達成された無体、無心の状態を侍は不動心、
または明鏡止水と言った。
瞑想とは座るだけが瞑想ではない。座る瞑想、静的な瞑想は自分とは何かを理
解するためのものであり自己救済を目的としている。静的な瞑想によって、普
段自分と思っていた自分が自分でないと解る。静的な瞑想は皮膚の内側を対象
として細かく細かく、深く深く内部を深耕するものである。皮膚の外側に拡大
していく瞑想は、瞑想と区別して「冥想」と表現する。社会救済、地上天国の
創造を目的にして、全てを愛し全てから愛されるように行動することを意味す
る動的な冥想である。動的な冥想によって、普段自分でないと思っていたもの
が自分だと解る。本当の冥想とは内側と外側に行うものである。静的な座禅で
掴んだことを日常生活の動的冥想に応用していくのでなければ瞑想の意味がな
い。静的な座禅が出来なければ動的な立場の愛の行動が充分に出来ない。まず
静的な瞑想から練習する意味がここにある。
座る瞑想を始めたとき、初心者に障害になるのは、じっとしている事が出来な
いということである。初心者にとって体を動かさないということは苦痛である。
体を動かさないことを心が苦痛と判定し座ることを拒否する反応が起こる。拒
否する心が体を硬直させ、脚や膝、腰の痛みが起こる。痛みがさらに身心を緊
張させ雑念が次から次へと起こって集中どころではなくなる。そんなことで初
心者が瞑想は私に向いていないと誤解してしまう。少し瞑想を継続し日常的に
行うと、そのような拒否反応もだんだんなくなって来るが 、継続することが
出来なくて断念してしまう人が多い。極端に歪んだ体、病んでいる体、悩んで
いる心では瞑想出来ないので、瞑想の前提として正しい姿勢、健康な身心が必
要であることは言うまでもない。
瞑想をするとき、まず姿勢・座法が大事である。背筋を前後左右垂直に立て、
身体の力を込める部分には力を込め、力を抜く部分は力を抜くようにして、仏
像のように体をきちんと固めて動かさないようにする。これが緊張刺激である。
座法を固める前にマントラを唱えるなどしてリラックスしておくとさらに良い。
座法が固まったら、背筋、背骨だけは傾かないように注意深く心を緊張させて
おく必要がある。その緊張に対して身心をリラックスさせ、リラックスを深め
なければならない。それが瞑想の最初に行うカヨーウッサグ・完全なるリラッ
クス法である。リラックスが深ければ深いほど命の働きが内部から反対の静的
緊張感を引き出す。緊張とリラックス・放下の拮抗調和が高ければ高いほど瞑
想の質が高くなる。
瞑想とは緊張と弛緩・放下をあわせることである。これを動的冥想、日常生活
に応用するには全力を尽くして事に当たり「最大限の緊張」、結果は任せきっ
て放下する「弛緩」という生き方をすることである。日常生活を通して緊張す
る力とリラックス力を高める訓練をしていくと良い。緊張する力とリラックス
する力を高めていくと生命力、バランス維持回復能力が高まる。だから時々わ
ざとアンバランスなこと反対刺激を身心に与えて、バランスをとる工夫、偏り
をなくすようにすると良い。生活の中に緊張とリラックスの刺激を交互に行う
と疲れも少なく活き活きと生きられる。それが健康的な正しい生き方であり、
日常生活を冥想とする生き方である。
をもち存在しているあらゆるものは背後に相反する性質の影響下に置かれてい
る。相反する性質とは電磁気的な-と+でありそれを陰と陽と云う。電磁気的
な相反する-と+があるから宇宙に動きが起こり物質が存在することが出来る。
もし、電磁気的な-+の差異がなかったら宇宙は始まらず、存在できないであ
ろう。
陽と陰は明るさ暗さ、濃密と希薄、重い軽い、集中と拡散、緊張と弛緩、熱い
冷たい、硬い柔らかい等があり、同種のものを他と比較するときの物差し基準
となる。70℃のお湯は30℃の水より熱いと言い、水はお湯より冷たいと云う。
夜は昼間より暗く、昼は夜より明るいと表現する。
私たちの体の中には電磁気的な生命エネルギーが流れている。生命エネルギー
が流れているので身体内部に様々な感覚が生起する。呼吸は吐く息と吸う息が
セットになっている。息を吐いたら次に吸わなければならない、吐き続けるこ
とも出来なければ吸い続けることもできない。吐く息は拡散・弛緩であり、吸
う息は集中・緊張である。命の働きは常に相反する二つの性質を求めている。
それが緊張(獲得)と弛緩(放下)である。食べることと排泄すること、起き
て活動することと寝て休むこと、バランスが崩れると病気や苦悩という形でバ
ランス回復運動が起こる。そのことを苦楽一如と云う。苦を離れて楽はなく楽
を離れて苦はないという意味だ。
太陽は陽、月は陰。ヨガの哲学では私たちの体の中にも陰陽があると説いてい
る。右半身がピンガラまたはスーリヤで太陽、左半身がイダまたはチャンドラ
で月。右鼻だけで呼吸すると体は温まり、左鼻だけで呼吸すると体は涼しくな
る。体温のバランスが崩れると必ず命の働きがバランス回復運動をおこして体
温を一定に保っている。つまり緊張あるところには弛緩を、弛緩あるところに
は緊張が自然に起こってくる。
ダラーナとは身体に緊張刺激あるいはリラックス・放下刺激を起こして命の働
きに反対刺激を起こさせるテクニックと言える。緊張は強ければ強いほどが良
く、リラックスは深ければ深いほど良い。アンバランスが大きいほど命の働き
は強く復元運動を起こす。命の働きのバランス回復維持能力が高いほど身心の
健康度が高く安定している。ダラーナは集中するという意味だが緊張と弛緩を
合わせるという意味もある。その場合緊張から始めてもよく、リラックスから
始めてもどちらでも良い。日本の禅宗各派は形から座法を固める方法で緊張か
ら入ることを採用している。それに対してインドの瞑想法の系統はリラックス
から入ることが多い。いずれにしても瞑想の時間が経過すると、やがて自然に
緊張と弛緩のバランスが拮抗しバランスがとれてディヤーナが起こる。テクニ
ックであるすることと環境が整って起こってくることのダラーナとディヤーナ
の境目がここにある。
瞑想とは、緊張と弛緩を同時に強め高め拮抗させて命の働きを調和させること
であると定義出来るかもしれない。力を抜くと力が入る。静と動、緊張と弛緩
を一つのものとすることを静動一如という。これらは武道の極意であり生き方
の極意でもある。そのようにして達成された無体、無心の状態を侍は不動心、
または明鏡止水と言った。
瞑想とは座るだけが瞑想ではない。座る瞑想、静的な瞑想は自分とは何かを理
解するためのものであり自己救済を目的としている。静的な瞑想によって、普
段自分と思っていた自分が自分でないと解る。静的な瞑想は皮膚の内側を対象
として細かく細かく、深く深く内部を深耕するものである。皮膚の外側に拡大
していく瞑想は、瞑想と区別して「冥想」と表現する。社会救済、地上天国の
創造を目的にして、全てを愛し全てから愛されるように行動することを意味す
る動的な冥想である。動的な冥想によって、普段自分でないと思っていたもの
が自分だと解る。本当の冥想とは内側と外側に行うものである。静的な座禅で
掴んだことを日常生活の動的冥想に応用していくのでなければ瞑想の意味がな
い。静的な座禅が出来なければ動的な立場の愛の行動が充分に出来ない。まず
静的な瞑想から練習する意味がここにある。
座る瞑想を始めたとき、初心者に障害になるのは、じっとしている事が出来な
いということである。初心者にとって体を動かさないということは苦痛である。
体を動かさないことを心が苦痛と判定し座ることを拒否する反応が起こる。拒
否する心が体を硬直させ、脚や膝、腰の痛みが起こる。痛みがさらに身心を緊
張させ雑念が次から次へと起こって集中どころではなくなる。そんなことで初
心者が瞑想は私に向いていないと誤解してしまう。少し瞑想を継続し日常的に
行うと、そのような拒否反応もだんだんなくなって来るが 、継続することが
出来なくて断念してしまう人が多い。極端に歪んだ体、病んでいる体、悩んで
いる心では瞑想出来ないので、瞑想の前提として正しい姿勢、健康な身心が必
要であることは言うまでもない。
瞑想をするとき、まず姿勢・座法が大事である。背筋を前後左右垂直に立て、
身体の力を込める部分には力を込め、力を抜く部分は力を抜くようにして、仏
像のように体をきちんと固めて動かさないようにする。これが緊張刺激である。
座法を固める前にマントラを唱えるなどしてリラックスしておくとさらに良い。
座法が固まったら、背筋、背骨だけは傾かないように注意深く心を緊張させて
おく必要がある。その緊張に対して身心をリラックスさせ、リラックスを深め
なければならない。それが瞑想の最初に行うカヨーウッサグ・完全なるリラッ
クス法である。リラックスが深ければ深いほど命の働きが内部から反対の静的
緊張感を引き出す。緊張とリラックス・放下の拮抗調和が高ければ高いほど瞑
想の質が高くなる。
瞑想とは緊張と弛緩・放下をあわせることである。これを動的冥想、日常生活
に応用するには全力を尽くして事に当たり「最大限の緊張」、結果は任せきっ
て放下する「弛緩」という生き方をすることである。日常生活を通して緊張す
る力とリラックス力を高める訓練をしていくと良い。緊張する力とリラックス
する力を高めていくと生命力、バランス維持回復能力が高まる。だから時々わ
ざとアンバランスなこと反対刺激を身心に与えて、バランスをとる工夫、偏り
をなくすようにすると良い。生活の中に緊張とリラックスの刺激を交互に行う
と疲れも少なく活き活きと生きられる。それが健康的な正しい生き方であり、
日常生活を冥想とする生き方である。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)
(協会メールマガジンからの転載です)