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2018年12月18日火曜日

コラム:2017年3月19日(日) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演「ジャイナ教のカルマ論と輪廻転生」

ジャイナ教のカルマ論はヴェーダーンタ哲学や仏教とは少し違っている。ジャ
イナ教でカルマのことを考える理論では5つの事柄を中心に考えている。その
5つのこととは、1.魂  2.カルマ的な要素  3.バイブレーション  
4.物質的カルマの解放  5.魂が純粋になった状態

カルマの理解の基本は魂(輪廻の主体となる魂つまりジーバ)について知るこ
とが大切である。魂が無ければカルマは無い。宗教によっては魂はないと考え
る宗教もある。ある宗教哲学では宇宙の5大要素が集まった時、魂が出来て、
肉体が死ぬと5大要素はバラバラになって魂は消滅すると説くものもある。
ジャイナ教の魂はそのように消滅する物ではなく、永遠のものである。永遠
なる魂がベースになってそこにカルマが付いたときジーバと呼ばれる。宗教
によっては魂は無いという考え方がある。仏陀は魂を語らず説明しなかった。
ジャイナ教では魂は説明できるという立場をとっている。魂とカルマが結び
ついたとき、その魂をジーバと呼ぶ。ジーバとは輪廻の中にある魂のことで
ある。

魂のことをアートマンともいう。魂(アートマン)は一つのことであるが、
二つの性質側面がある。それはドラビア・アートマンとパーヴァ・アート
マンである。
ドラビア・アートマンは基本的な魂のことで、まったく純粋な魂のことで
ある。
パーヴァ・アートマンはカルマ体によって影響を受けた魂をそのように呼ん
でいる。愛とか怒りとか感情や意識によって作り出された汚れのようなもの
が魂に付着している。魂の中にいろいろ感情的なものの凝りとか、活動した
ことの結果によるものとかが付着している、それらを含めてパーヴァ・アー
トマンと呼ぶ。
基本的な純粋な魂ドラビア・アートマンは永遠。輪廻の中にある汚れた魂パー
ヴァ・アートマンも永遠なものである。パーヴァ・アートマンはそれぞれ違う
体に宿りながら輪廻の中を動いている。

カルマもアートマンと同じように二つに考えることができる。
ドラビア・カルマは宇宙全体に広がっていて、ずっと私たちの魂にくっつい
てくる素材のカルマである。宇宙のどこにでもある。ここにもある。あそこ
にもある。しかし我々には見ることは出来ない。意識的なものではなく、生
きているものではなく、物質のようなものだが我々には見ることができない、
宇宙全体に満ちている原材料のようなものである。ドラビア・カルマの中に
は色、匂い、味、触覚が含まれている。それは、肉体的なものに関係する。
本当のカルマとは言えないがカルマの素材になっている、生き物ではない
物質である。パーヴァ・カルマはカルマによって実った結果をいう。

(注:物質は魂に付着して、その下降性ゆえに魂を身体のうちに押しとどめ
、魂の本来の特徴である上昇性が発揮できないようにしている。 
渡辺研二「ジャイナ教p171」)

アートマンにカルマが結びつくとバイブレーションが生ずる。私たち人間、
生き物はカルマとアートマンを持っているから、魂は四六時中いつも、寝
ている時もバイブレーションを起こしている。
バイブレーションが起こることで、色々なものを引き寄せている。しかし
通常意識ではこのバイブレーションは感じることはできない。魂にカルマ
が付くことで二つが一つになり波動が起こり、その波動によってさまざま
なものを引き付ける力が生まれる。波動によって宇宙に漂っている、充満
している小さな粒々、カルマのもととなるドラビア・カルマを引き付けて
いる。ちょうど、磁石が砂鉄を引き付けるように。魂はドラビア・カルマ
を全方向から、魂に一番近いところからより沢山、受け取っている。思考
だけでも宇宙からカルマを引き寄せている。肉体はスカスカである。その
スカスカの空間に物質を引き付けている。

なぜ、魂が縛られてしまっているのか。それは、カルマがあるから。では
カルマは何によって縛られてしまうのか。それは迷いによってである。
なぜカルマを引き寄せてしまうのか。マーハーヴィーラはゴータマに話
した。それには二つ理由があって、一つは無知と行為によっておこるのだ。
もう一つは執着と精神的な誤解、妄想、混乱によっておこると説いた。
また、プロマーダとカシャーイも身(行動)、口(言葉)、意(意識、
マインド)によってカルマを引き寄せている。引き寄せられたものがま
た、新しいカルマを引き寄せている。

1.プロマーダ (Pramaad)  惑わすもの(迷い、妄想、誘惑)。永遠な
る喜びでなく、一時的な快楽を本当のものと思ってしまうこと。魂(スピ
リチュアル)なことでなく、肉体的な喜びの迷い。肉体は永遠でなく、魂
は永遠。
2.カシャーイ(Kasaay)  もう一つの惑わすもの。4つの情欲のこと。
すなわち、
  1、怒り・アンガー  2、慢心・エゴ  3、強欲、貪り・グリード
  4、偽り、虚偽、騙す・デシード

カシャーイすなわち情欲がなくなれば、物質は付着する可能性が少なくなる。

カルマによって我々の行動は違ったものとなる。いろいろな人の違い、個性
別はカルマによって起こる。アートマン(魂)の性質は、生まれることも死
ぬこともないというもの。永遠の智慧と永遠の理解と永遠の至福が備わって
いる。魂は苦しみがない。魂は形がない。魂に高いとか低いとかはない。皆
同じである。
そして、魂の奥には永遠の力が備わっている。その力は私たちの魂が持って
いる自然のものである。もとからあるものである。しかし、我々はそれをな
かなか信じられないし、感じることは出来ない。なぜなら、我々の知識は極
めて限られたものであるからだ。例えれば、それは大海の中の一滴の水でし
かない。我々は極めて少ない知識しか持っていない。
それぞれの知識は又、違っている。知識を沢山持っている人もいれば、持っ
ていない人もいる。知識の理解度も人それぞれ違う。ある人はすぐ理解でき
るし、ある人はなかなか理解できない。我々の苦しみも違う。沢山苦しむ人
もいる。そうでない人もいる。我々の呼吸もみな違う。社会的に高い地位に
ある人も、低い地位にある人もいる。我々は生まれたり死んだりする肉体を
持っているので限られた時間しか持っていない。魂は永遠なのに、なぜ私た
ちはこんなに限られた生き方をしているのか? この違いはどこに原因があ
るのか? それがカルマというもので、カルマがそれを生じさせている。

ジャイナ教の8のカルマ
1.ギャーナ・ヴァラニーヤ・カルマ  知識障害や知識の容量に関係してい
る。魂の持つ知の能力、理解力を覆い隠してしまう。
2.ダルシャナ・ヴァラニーヤ・カルマ  信仰障害。魂に備わる見(信仰)
の能力を覆い隠してしまう。
3.ヴェーダニーヤ・カルマ  感受の障害。
4.モーハニーヤ・カルマ  迷妄によって執着心を生じさせる。信仰と行為
を惑わすカルマ。
以上4つのカルマは善くないカルマで、善くない結果を生じさせる。
以下の4つのカルマは善いことをすれば善くなり、悪いことをすれば悪くな
る。
5.アーユシュ・カルマ  寿命に関係している。
6.ナーマ・カルマ  身体上の相違をもたらすカルマ。男女に生まれる違い。
健康に恵まれる恵まれない。肉体的な不調和、美醜。尊敬される、されない。
7.ゴートラ・カルマ  社会的なステータスに関係している。生まれる家柄
の上下貴賤を決定する。
8.アンターラヤ・カルマ  内部障害に関係している。目的に到達できるこ
との困難度に関係している。ある人は目標達成が簡単であるが、ある人にと
っては大変困難である。
我々は悪いカルマに気づき、カルマに縛られないようにしなければならない。
ジャイナ教では苦行者は苦行の実修によってカルマが結果を作る前に原因を
除去できるとしている。

カルマ体にカルマ(物質)が結びつくとカシャーイ(4つの情欲)が生まれ
る。そのカシャーイがもとになってアドバシャーイ(感情)的動きを作って
いる。

魂はバイブレーション波動のようなものを起こしている。周波数が高い極め
て微細なものである。カルマ体からアドバシャーイまではとても微細なもの
である。バイブレーションはレーシャの領域に来ると、色がつけられている
わけではないが、我々が色として知覚できるレヴェル(段階)となる。ここ
からは色が力になっていく、色の力が我々に影響する。肉体的にホルモンが
出る。ホルモンが脳の機能に影響し科学物質が生成される。頭に浮かんだこ
とで行動する。そのプロセスが逆に内側に影響する。魂から外へのプロセス
と逆の外から魂へのプロセスがある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/9月第72号からの転載です)

2018年12月11日火曜日

コラム:火とは何か

火とは何かについてアヌプレクシャした。火について考察するとき私の脳裏に
まっさきに思い浮かぶのは焚火である。今の若い世代や私の孫たちは焚火の経
験が少ないか全くないといってよい。また、どのように薪を燃やすのか、その
技術を知らない。私は若いころ、北関東から東北北部の白神山地まで未知なる
渓谷を求めて沢登りに熱中した時期がある。道のない山を渓谷伝いに登るとき、
渓畔での野宿の友は焚火であった。山での焚火は調理のための燃料であり、体
を温めるための暖房であったが、それ以上に心の安心や暗闇を照らし、友との
語らいを引きだしてくれる媒体であった。薪を刈るための山道具として私は秋
田県角館の喜一鍛冶に特別注文の鉈を作らせたほど、渓流歩きと焚火の達人に
なった。

南アルプス北部の白岩岳に8月に登った時のこと、滝もない登りやすい門口沢
を登り予定より早く白岩岳に登頂し、前小屋沢に下った。登行記録のなかった
前小屋沢は、登りの時の門口沢とは全く違って険しい谷だった。下山途中で不
運にも雨になった。我々3人は誰も雨を予期していなかったので雨具を持って
いなかった。雨に打たれて全身びしょ濡れになった。雨に打たれているので下
山を急いだが夕暮れ時、どうにもならない大きく高い滝に遭遇した。無理して
滝を下降して滑落したら命にかかわる。3人で協議して滝の落ち口の安全な場
所でビバーグすることにした。我々は日帰りでベースキャンプまで降りてくる
予定だったので食料も持参していなかった。ひもじく、寒さに震えながらの長
い一夜を過ごした。遭難一歩手前の夏の夜が明けた。幸い雨が止み流木を集め
て焚火を盛大に起こし、濡れた衣服を乾かした。雨具や食料は持っていなかっ
たが、マッチと鉈だけはサブザックに入れていた。地図を焚きつけにして、火
を起こした。この時の焚火のありがたかったこと、一生の思い出である。

火を扱えるようになって人類はほんとうの意味で人類になれたのではないかと
私は思う。火は暗闇を照らす明かりであり、食物を食べやすくする煮炊きの燃
料であり、寒さから暖をとったり、獣から身を守るありがたいものとなった。
ホモサピエンスの登場以前、今から40~50万年以前、原人の時代から人類
はすでに日常的に焚火としての火を使っていた。

火を巧みに扱えるようになって初めて人類は文明を持つ余裕ができたと言える。
石炭や石油などの化石燃料が広く使われるようになる以前、人類史の長い間、
人間が火を作るための燃料は主に薪と炭であった。火は調理、照明、暖房、合
図として使われてきた。焚火で調理する方法として土器や金属器がなかったと
きには調理する物を串にさす、木の葉に包む、焼石を使う方法がとられた。火
を使うことが出来るようになって、食べることが困難だった豆や穀物、芋など
多くのものが食用可能となり農業が起こる礎となった。火を通すことで肉に付
着している寄生虫や病原菌を熱消毒できる利便性も得られた。

さらに火を扱うことに上達して土器が焼けるようになり、陶器や磁気まで焼け
るようになった。火が使えることで銅と錫を混ぜて青銅器をつくれるようにも
なった。文明とは火を上手に扱える技術のことだといえる。照明器具として菜
種油や魚油を燃やす行燈やランプが作り出され、化石燃料を安価に大量に扱え
るようになって、蒸気機関から自動車、航空機まで作れるようになった。さら
に現代ではエネルギー源として原子力や燃料電池、風力発電や太陽光まで火の
カテゴリーとして扱えるようになり、文明は加速度的に進歩発展している。

火という言葉の定義づけは、「熱と光を出す現象のこと」といえる。科学的に
は、「物質の燃焼に伴って発生する現象のこと」である。燃焼とは物質の急激
な酸化である。火が燃えるとき熱や光とともに様々な化学物質が生成される。
炎は煙が熱と光を持った状態になった気体の示す一形態である。それを科学的
にいうと、気体がイオン化してプラズマを生じている状態という。

火は大地の重力や引力、大気の対流や、湿度などとも関係している。ろうそく
の炎は炎心と内炎と外炎によって構成されている。最も明るいのは内炎である。
内炎では炭素(すす)が多く含まれていて不完全燃焼を起こしている。最も熱
いのは外炎で酸素と最も多く接している。ろうそくの炎の先端では1000℃
になっている。地球では火は地球独特の火の燃え方をしている。他の惑星では
火は違った燃え方をするだろう。宇宙船内部など無重力状態では対流が起きな
いので炎は球形になってしまうという。そして、完全燃焼するために青くなる
らしい。丸く燃える炎はゆっくり動かさないと消えてしまうらしい、丸く燃え
る炎の周りに発生した二酸化炭素が炎を包み込み酸素を遮断してしまうからで
ある。

火が燃え続けるには適正な温度と燃料と酸素の継続的な供給が必要となる。火
を消すにはその条件を奪えばよい。調理には炎が小さくて長くゆっくり燃える
小さな火が都合よい。燃えても炎が小さい炭はその点で使いやすく、灰をかけ
るなどの方法で燃料を長持ちさせることもできる。

火は人間に多大な恩恵を与えてくれる半面、時には大きな災いをもたらす。不
注意から家屋が火災で焼け、時には燃え広がって大火となり多くの家屋を焼き
尽くす。第二次世界大戦時、日本の主だった都会はB29による焼夷弾攻撃をう
け焼け野原となった。広島や長崎に落とされた原爆も人為的な火の大災害であ
る。火は善悪の両面がある。優しさと恐ろしさの両面を備えている不動明王の
ようだ。不動明王は体から火炎を放射した御姿をしている。それは究極的な火
の神像である。私の家の床の間には代々、慈覚大師が版木を彫って制作された
下総御瀧山の不動明王像の掛け軸が掛けられている。光背の炎は人間の血液で
彩色したものである。私はずっとこの掛け軸を見て育った。今でも毎日それを
見ている。

火は熱であり、光であり、エネルギーである。その根源、生まれたところは宇
宙の誕生とおなじ所である。今から138億年前、空間もなく、光も電波も物
質もなく、時間もない、点もないところにビックバンが起こった。天文学用語
でいう特異点から急激な膨張する動きを伴って宇宙は生まれた。なぜ急激な膨
張、天文学用語のインフレーションが起こったか?それは宇宙全体が急に加熱
された結果、急激に膨張が起こったのである。その熱は真の真空から現在の真
空に相転移することで想像を絶する高温が発生した。それが宇宙の誕生ビック
バンである。全ての元素やエネルギーや物質や星々や生物や火や水や風や地球
や我々一人ひとりの出発点がその特異点、ビックバンにある。

光も熱も火も、地球も大地も樹木も我々自身も、宇宙空間の膨張と共に時間が
始まり、時間の経過で継続する変化が起こり、その変化の中で最初の相転移の
熱が形を変えて今、このように違った形で違った場所に存在しているのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/4月第70号からの転載です)

2018年12月4日火曜日

コラム:自分が自分の主人公になる

全ての人間が望んでいることは幸福になることである。幸福とは何だろうか?

幸福とは無限の愛に満たされることである。沢山の人を愛し、沢山の人から愛
されることである。そして、全てのものと一体になり、宇宙と合一することで
あると言える。幸福とはまた、自由自在を獲得することであり、全知全能を得
ることだと言える。自由自在で全知全能、そして無限の愛に満たされた状態に、
肉体をもって生きながら達成した聖者をジャイナ教ではアラハンという。アラ
ハンになることが我々人間に生まれた目的・目標なので、アラハンというマン
トラを唱えるのである。アラハンとは人間としての最高の状態であり、それを
達成した聖者は死んだ後、魂だけになってモークシャの世界に入り、二度と生
き物に生まれることはない。

モークシャの世界に入り輪廻の環から外れた純粋なる魂をシッダという。アラ
ハンのマントラを繰り返して唱えていくと、言葉の意味とかくありたいとの意
識が結び付いて潜在意識化する。潜在意識化した願いや思いはある種の周波数
をその人の周囲に放射するように働き始める。するとその周波数に応じて宇宙
空間にある目に見えない、音に聞こえないレベルのエネルギーが引き寄せられ
て、目に見えるものが形づくられ現れてくるのである。

私たちの潜在意識と強い思いは常に結果を出そうと周囲に周波数を出し続けて
いる。問題はどのような周波数を自分が放出しているかである。周波数に呼応
して条件が整えば、善いことも悪いことも、どんなことでも結果として起こり
うる。人間が自由に生きようとして自由に生きられない、誰かにコントロール
されているかのように感じるのは、潜在意識の働きを知らないからである。私
たちの背後で私たちを操っているものは偶然なる運命でもなければ、気まぐれ
な神の仕業でもない。私たちを操っているものはカルマと呼ばれる潜在意識で
ある。これをコントロールしない限り、自分で自分の医者になることもできな
ければ、自分が自分の主人公になることもできない。

ヨガの修行と訓練と方法は自己をいかにコントロールするかである。瞑想法が
ヨガに含まれているのはカルマのコントロールが最も大事だからである。

私たちの潜在意識下には善いものと悪いものを結果として引起こす、原因とし
てのカルマがごちゃごちゃと蓄積されている。原因は条件・環境が整うと結果
として現れてくる。自己の人生に善いことも悪いことも起こってくるのは、善
い原因と悪い原因が潜在意識下にあるからである。悪いことが自分に起きたと
き、悪いことだけが起きたのではない。善いことも同時に起きたのである。善
悪一如。つまり、悪いことが起こったということは、過去の行為の原因として
の悪いカルマが消滅したのである。結果が起こった時、過去の悪い原因は消滅
した、つまり過去が善くなったのである。原因が起こって消滅したので二度と
全く同様な結果は起こらない。同じように善いことが起こった時、善いことだ
けが起こったのではない、悪いことが同時に起こったのである。善いことが起
こったときは善い原因が消滅している。二度と全く同じ善いことはもう起こら
ない。貯金を使って減らしているようなものだ。幸せになりたかったら、未来
に貯金することである。今という一瞬に、悪いことを為さず善いことだけをす
る。いつもそのように意識し行動すれば、やがて悪い原因は出てい行って無く
なるか、変質するから潜在意識は善い原因だけになってしまう。善い原因だけ
になれば、善いことしか起こらなくなる。それが、最高の幸せと喜びの心の状
態、プラサード状態である。

善いこととは何か、それが般若心経などで言われている波羅蜜である。仏教で
は六波羅蜜という。波羅蜜とは本当の幸福に至る方法のことであり、六通りの
方法がある。どれか一つでも徹底して行えば、悟りにいたるという方法である。
私は六通り全部することが、自分が自分の主人公になる道だと思っている。六
波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若(智慧)の六種をいう。布施
波羅蜜とは他に親切にすることである。自分が持っていて他が持っていないも
の(体力、能力、知識技、技術、お金)を他に分かち与えることである。あら
ゆる社会奉仕救済行は布施である。持戒とは言行一致で行動し約束は必ず守る
ことである。忍辱とは忍耐のことで怒りの心を堪え忍ぶことである。精進とは
努力することそして努力を継続することである。一枚一枚日々の紙の積み重ね
が年月を重ねると分厚い積層になるように努力することといえる。禅定は瞑想
することを意味するのでなく、反省を意味する。後悔や悩みは感情であって反
省ではない。反省は原因と結果を分析することである。般若波羅蜜は優れた人
格を形成しようと努めることである。それには、因縁果の法則を知り、正しく
行動することである。また、今現在に最善を尽くすことでもある。般若の意味
は智慧ということであり、正しい生き方をするということでもある。

私たちの人生はカルマの鎖に縛られている。完全なる自由・モークシャへの道
のりは果てしなく長い。モークシャに入ることが難しくとも、私たちは幸福に
なることはできる。自分のカルマに気づき、カルマをコントロールすることが
その第一歩である。ジャイナ教も仏教も同じ教えであり『諸悪莫作、諸善奉行』
という。全ての悪いことを為さず、善いことだけをするということだ。それが
カルマを無くす道であり、心と魂を清らかにする方法であり、自分が自分の主
人公になる方法である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/2月第69号からの転載です)