メニュー

2019年9月5日木曜日

コラム:南インドの聖なる篝火の山・アルナチャラ その1

この旅行記は1994年1月「一瞥のアルナチャラ」として書いた、未発表原
稿に手を加えたものである。

今から40年以上前、私が20歳代後半に初めてインドを訪れたとき、ぼろぼ
ろですすけたカルカッタ空港の待合室で大きなヒンズー教寺院の写真を見た。
その大きな画像は手前に数本の高いヤシの木が写っていて、その背後にマヤの
神殿のようなピラミダルな高層建築が聳えているものだった。その画像は大変
迫力があり、何かを強烈にアピールしていた。「へー、インドにこんなすごい
建築物があるのか、どこだろう。」その画像は世界中の宗教的建築物に興味を
持っていた私の心に強い印象を残した。後年、その写真が南インド最大のミナ
クシ寺院のゴープラム(山門)を撮ったものであることを知った。

昭和58年8月、大陸書房より、おおえ・まさのり訳編の『南インドの瞑想』
が出版された。すぐに私はこの本を求めた。本の内容は近代インドの哲人、
ラーマ・クリシュナやオーロビンド・ゴーシュ、クリシュナ・ムルティと並び
称せられるラマナ・マハリシの生涯と弟子達との間で話された対話や質問を採
録したものである。なんと、その本の表紙がヒンズー寺院(アルナチャ・レシ
ュワラ寺院)のゴープラムのイラストであった。

本をめくっていくと、ラマナ・マハリシやアルナチャラ山、ラマナシュラムの
平和なたたずまいの写真にすっかり魅せられてしまった。そして、何としても
南インドへ行きたいと思った。昭和58年12月、心の高まりを抑えることが
できなくて、南インドへ一人旅に出た。それは、シュリナガールやラッダック
を旅した後、私にとって3度目のインドの旅になった。

旅行の目的地をタミールナドウ州だけにしぼり、カンチプーラム、マハバリプ
ーラム、マドゥライ、テルチラパッリ、スリランガム、タンジョールなどの街
々に泊まり、ドラビダ様式の代表的寺院を訪ね歩いた。アルナチャラ山のある
テルバンナマライにも行きたかったが日程の都合で割愛せざるを得なかった。

南インドを一人旅した夢のような日々から10年が過ぎた平成5年8月、下田
の沖ヨガ道場で龍村道場長から「南インド旅行のツアーに一緒に行きませんか?
」 と声をかけられた。その日程をみると、かつて私が一人旅をした場所と全
く重複していなかった。日程の中にアルナチャラとラマナシュラムを訪れること
になっているのが私の心を捉えた。しかし、滞在する時間があまりにも短いこと
が不満だった。しかし、内なる声が一瞥でも良いからアルナチャラを見に行くよ
うにと促す。カーニャ・クマリで沐浴するという目的も持ってツアーに参加する
ことを決めた。以下はその時の旅行記である。

テルバンナマライ

マドラスを朝食後に発って、テルバンナマライに着いたのは午後も遅くなってい
た。テルバンナマライでガソリンスタンドを経営しているジャイナ教徒・ネルマ
ール・クマールさんから我々は食事の招待を受けた。何が起こるかわからないハ
プニングの連続がインドの旅であることは充分承知しているけど、昼食の接待が
ぐずぐずと夕食の接待みたいに遅くなったのには参った。クマールさんの家から
憧れのアルナチャ・レシュワラ寺院のゴープラムとアルナチャラの全貌が手に取
るように近くに見える。早くお寺やアシュラムに行きたいと心は焦るけど、とに
かく全てがスローに進行する。せっかくの心を込めた接待も私はうんざりだった
。我々がテルバンナマライに滞在できる時間は20時間ぐらいしかないのだ。や
っと昼食の接待から解放されてラマナシュラムに着いたのは夕刻になってしまっ
た。アシュラムに着くと、私は行けるところまででいいとアルナチャラ目指して
先頭で登り始めた。「できれば、ラマナ・マハリシが瞑想した洞窟や祠も見てみ
たい。」と気持ちは焦る。

私の意識は少年の頃から何時も山に惹かれている。特に、このような聖山に来る
と意識は高揚してしまう。アルナチャラは樹木が少なくゴロゴロとした花崗岩の
大岩が積み重なった山で麓からの高さは5~600mほどである。Tシャツ1枚
になって登ってゆくが、すっかり汗ばんでくる。12月の夕方、涼しい今でこん
なだから、暑い日中や4、5月の酷暑期では山に登れないだろう。ラマナシュラ
ムから中腹のスカンダシュラムまでは石畳が敷かれていて歩きやすい。スカンダ
シュラムはラマナ・マハリシが37歳から42歳ごろの5年間住んでいた岩山の
小さなお寺である。樹木の少ないアルナチャラにあって、スカンダシュラムの周
囲は樹木が亭々と茂り、寺のすぐ傍らを豊かな水が滝のように流れている。もし
酷暑期であったならここは本当にオアシスのようなところだ。

スカンダシュラムのすぐ近く、足下にアルナチャ・レシュワラ寺院を一望できる
ビューポイントがある。そこは、ラマナ・マハリシが一時住んでいたマンゴ樹洞
窟やヴィルパクシャ洞窟とラマナシュラムを結ぶ山道のちょうど峠にあたり、峠
の頂き山道の傍らに大岩がある。大岩の東側は崖になっていて、アルナチャ・レ
シュワラ寺院の全貌が足下に臨まれる。素晴らしい眺めである。

スカンダシュラムは峠を北側に2,3分下った所にあって、時間的に遅かったの
か、門が閉じられていて中に入ることはできなかった。峠の大岩に戻ると後続の
人たちも登ってきていた。大岩に坐って再び足下に展開する絶景の風景を見る。
この峠の大岩はちょうどアルナチャ・レシュワラ寺院の真西にあたり、座ってい
るここから手前に西門、本殿、東門が一直線に並んでいる。左には北門、右には
南門、寺院の8のゴープラムが古代マヤ神殿のように高く聳え立つ様は感動的な
絶景である。

ドラビダ様式のヒンズー教寺院は山のように高いゴープラムと呼ばれる山門に取
り囲まれているのが一般的である。太陽の登る方向、東門が普通正門で一番大き
く高い。ゴーは牛という意味で、プラムは門の意味である。山門全体で聖なる牛
を表現していると言われる。アルナチャ・レシュワラ寺院を中心にした足下に見
えるテルバンナマライの町から、さまざまな音が混じり合って聞こえてくる。町
からの音はアルナチャラにぶつかってマントラのように反響する。私は夕闇が迫
る岩の上に坐ってシバ神のマントラを唱えた。

1オーム・ナマー・シバー、 オーム・ナマー・シバー、・・・・・・・。
2 ジャヤ・ジャヤ・シバ・シャンボー、 ジャヤ・ジャヤ・シバ・シャンボー、
マハ・ディヴァ・ シャンボー、 マハ・ディヴァ・シャンボー、 ・・・・。
3 オーム・アルナ・チャラ・シバー・ヤー、オーム・アルナ・チャラ・シバー
・ヤー、・・・・・・・・・・。

日はとっくに沈み、足元は暗くなり始めた。オーム・アルナ・チャラ・シバー・
ヤー、を唱えながら山を降りる。山の様子はだいたい解った。頂上まで2時間
から2時間半、山を下りながら「明日、早朝に頂上まで登って来よう」と決心
した。

ラマナシュラムに戻り、夜、アルナチャ・レシュワラ寺院をゆっくり見学した。
門前には多くの店や屋台の売店があり、日本の縁日の夜店を見て歩くようで楽
しかった。電球の光に浮かぶゴープラムは20階建てのビルを見上げるように
高く壮大で、10年前に尋ねたときのミナクシ寺院やシュリランガム寺院の山
門を見たときの感激が再び蘇ってきた。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/4月第80号からの転載です)

2019年8月15日木曜日

コラム:人類のカルマ・人類存亡の瀬戸際

地球温暖化の嘘は嘘
地球温暖化の脅威についてはこのメールマガジンでも過去に何度か取り上げ
ている。原稿を書いている今は8月の半ばで、今夏はまだ終わっていないが、
今年の夏は世界各地で気候変動による異常高温や洪水被害、大規模な山火事
の発生が多発している。国内でも昨年の九州北部豪雨に続き西日本豪雨災害
が起き、各地で40℃を越える猛暑が連日観測されている。埼玉県熊谷市では
7月23日、41.1℃を観測し国内観測史上最高気温を更新した。いまだに、地
球温暖化は人間活動、CO2の増加が原因ではないとして、地球温暖化は嘘だ
という論調を展開している馬鹿な学者(中京大学の武田邦彦教授など)が
存在しているが、今では地球温暖化の嘘は嘘だと否定する科学者の考えが
世界の主流になっている。

再び地球環境問題がクローズアップ
 私は1980年代から地球温暖化問題に強い関心をもっていて、ジャーナリズ
ムの報道に強い関心を寄せてきた。2006,7年ごろ元アメリカ副大統領のアル
・ゴアによる「不都合な真実」が出版されて地球環境問題は一気に盛り上が
ったが、数年後沈静化して、最近、日本ではあまり新聞やテレビに報道され
なくなっていた。マスコミ関係者は東日本大震災や原発事故の復旧、経済問
題やスキャンダルの報道を優先し、地球温暖化問題は不都合な真実として報
道自粛していたように思える。
その報道自粛で情報が少なかったこの10年間に地球温暖化問題は着実に進行
していた。今年になって積み重なった原因が一気に噴出してきて、世界中の
誰の目にもただならぬことが地球気象に起こっていると実感されるようにな
った。世界に異常気象と災害が続出しているのでマスコミも報道せざるを得
なくなってきている。世界で起っていることを総合的に見れば、何が今起こ
っていて将来どのようなことが起こるか大まかに知ることが出来ると思う。

世界各地で洪水起こる
 今年の4月、イスラエルからパレスチナ自治区ヨルダン川西岸にかけて、
大雨や洪水、雹などの影響で若者ら十数人が死亡。乾燥した中東でこのよう
な災害が起こることは非常に珍しい。5月には中東のイエメンやオマーンに
サイクロンが直撃し水害が起こった。以上はイスラエル在住のガリコ恵美子
さんの報告。ラオスでは7月23日に建設中のダムが長雨で決壊し大規模な洪
水被害をもたらした。7月上旬にはロシアのモンゴル国境付近のザバイカリ
エで観測史上最大の洪水が発生した。中国雲南省では毎年のようにどこかで
洪水が起こっているが今年も激しい豪雨により各地で河川が氾濫した。四川
省や甘粛省でも洪水が起こった。7月の西日本豪雨だけでなく世界中で未曽
有の豪雨や洪水被害が起きている。日本では7月に72時間降水量が全国の雨
量観測地点の一割強に当たる138地点で観測史上一位を更新した。中でも高
知県馬路村では1319mmになった。そして西日本豪雨が発生した。豪雨の後、
被災地に連日猛暑が襲った。気象庁はその猛暑を災害であるとした。

世界中で森林火災発生
 世界気象機関(WMO)の7月20日の記者会見によると、ノルウエーでは北部
の北極圏で7月17日、7月としては史上最高の33.5℃を記録し、翌18日には北
極圏の別の場所で夜間の最低気温が25.2℃と日本の熱帯夜に相当する高い気
温を観測した。読売新聞7月21日の記事ではスウェーデンで7月中旬だけで高
温と乾燥による森林火災が50件以上も起きて国家の危機的状況だと伝えてい
る。APPによれば、ヨーロッパ北部で長期化している未曽有の熱波で北極圏
で森林火災が頻発し、ラトビア西部で大規模な山火事が起こっている。ラト
ビア政府は農業部門で非常事態宣言を出した。8月8日の共同通信の報道によ
れば7月23日から始まったカリフォルニア州の山火事でサンフランシスコ北
部の火災の焼失面積は8月6日までに東京都の半分以上に相当する1150平方キ
ロに達し4万人が避難している。日経新聞の報道によればギリシャでも時を
同じくして29日、大規模な山火事が起こり死者が91人に達した。山火事がギ
リシャのチプラス政権をゆすっている。日経新聞8月1日の記事にはシベリア
で800平方キロの森林火災が起きていると報じている。

世界中で猛暑・最高気温の更新
 世界の異常気象を報じるインターネットのアース・カタストロフ・レビュ
ーによれば、地中海の海水温度が原因不明の異常状態で通常より5℃高い海
域もある。7月10日アリゾナ州南部で今まで見たこともないような超巨大な
砂嵐が発生した。7月15日フランス・リヨンで雹嵐によって風景が雪景色の
ようになった。巨大な積乱雲スーパーセルによるものである。北アフリカ
のアルジェリアのワルグラという町では7月5日、これまで一度も経験した
ことのない非現実的な気温51.3℃を記録した。カナダのケベック州では7月
16日、激しい熱波によって70人が死亡。
ニューズウィークの配信によれば、8月4日ポルトガル中部で46.4℃を記録。
スペイン南部で45.1℃になった。カリフォルニア州南部のインペリア郡
(人口17,000人)で7月24日世界史上最も暑い雨が降った。降り始め時点で
の気温が48.3℃だった。気温37.7℃以上で雨が降ることはほとんどない。
それ以上の気温の場合、高気圧がつきものだからである。

原因は
 どうしてこのようなことになるのかというと、東京大学名誉教授山本良一
氏によれば、地球温暖化による影響がさらなる温暖化を加速させるポジテブ
フィードバックが起こっているからだという。北極圏の海水温が高くなり海
氷が激減している。高緯度地域の気温が上昇し赤道付近の気温との温度差が
少なくなるとジェット気流の流れが遅くなり大きく蛇行するようになる。そ
のことで世界各地で異常気象がもたらされているのだと言っている。日本の
7月の記録的な猛暑は太平洋高気圧が居座り続く中、その上にチベット高気
圧が大陸から張り出してきて二階建て構造になったからである。その気圧配
置の元を辿っていくとインド洋の海水温が東西で逆転していたからである。
通常はインド洋の海水温は東が高く西が低い、これが逆転するダイポールモ
ード現象が起きていたからである。
根本原因は人間の欲望にあり、エゴの心にあり、科学技術の急速な発展にあ
る。それが人類のカルマである。

2018年は始まりの始まりの年
今までは地球温暖化は人間活動によるものではないとする科学者の見解も多
く、人間活動による化石燃料の消費、CO2の増加が起因していると断定できな
い事もあった。しかし観測結果が積み重なり、そして実際に得られるデータ
と気温上昇がはっきり人間活動の増加によるものと断定できるようになった。
そして、予測された通りの異常気象が起こった。私は、2018年は誰の目にも
温暖化がはっきりした事実と具体的な体験として、人類が引き起こしている
ものだと自覚出来た年になったと思う。そういう意味でエポックな年になっ
たと思う。これからは毎年このような気象災害が起こるだろう。そして、ま
すます激しくなっていくと予測する。

後戻りできない深刻なことが起こる
 私は中国やインド、東南アジア諸国の経済発展が始まった時に、「あー、
これで地球環境問題は深刻になる」と予想した。その時、思ったのは気温
上昇がどのくらいで、海面上昇がどのくらいになるか、だった。近年の海
面上昇は年間2mm前後である。2mmだったらさほど問題ではない。10年で2cm、
100年でも2cmだからだ。本当にそんな程度で済むかということである。南
極の氷が1/10融けると海面上昇は7メートルになる。これには海水温上昇に
よる膨張やグリーンランドの氷河融解は含まれていない。こうした中で、
8月7日インターネット上で驚くべきニュースが流れた。コペンハーゲン大学
、ドイツのポツダム気候影響研究所、オーストラリヤ国立大学などの研究者
がまとめた論文で、このまま極地の氷が融け、森林が失われ、温室効果ガス
の排出量が増え続ければ転換点となる、しきい値をこえる。そうなれば気温
は産業革命前よりも4~5℃上昇する。海面は現在よりも10メートルから60メ
ートル上昇する。という、衝撃的内容である。アメリカの気候科学者の第一
人者であるNASのジェームス・ハンセン氏が2012年講演した話では今世紀末
までに海面上昇は5メートルに達すると予測している。私たちの孫たちはそ
れを目撃することになる。

予測と対応
 海面上昇は人類が築き上げた都市文明を崩壊させるであろう。その前に世
界各地で河川が氾濫し、沿岸地域は巨大台風などの暴風被害により多大な損
失を被ることとなろう。気候変動で食料が生産できず世界各地で飢饉が起こ
るだろう。安全な場所を求めて民族移動が起こる。それが軋轢になって戦乱
が起こるだろう。気候変動はテクノロジーでは解決できないと私は考える。
私はどう考えても悲観的な結論になってしまう。我々は困難な状況に陥る前
に備えるときが来たと思う。我々は人間の暮らしの原点に帰って、何が起こ
っても大丈夫に暮らしていける方法を見出す時が来たと思う。人間に必要な
最低限は何か、昔の人の暮らしはどうだったか研究してほしい。この状況下
、AIも地方に移住することを勧めている。若い世代の皆さんに地方都市近郊
や中山間地域への移住を勧めたい。そこに新しい価値観の理想郷を築いてほ
しいと思う。今の生活を替えられない人はそのようなことが起こるだろうと
予測してビジネスに役立ててほしい。ピンチはチャンスと考えて積極的に生
きる生き方もあります。

結論・パニックにならないために一歩先を行く
 スーパーコンピューター・地球シミュレータは2027年に温暖化限界値+2℃
を越えてしまうと予測している。そうなれば温暖化が加速して、もう後戻り
できなくなる。負のスパイラルが始まる。福島第一原発事故よりも、もっと
大変なことが起こりつつあるのです。ノアの箱舟のような、未曽有の災害多
発の困難を乗り切るための『安全な砦』が必要な時代が始まったのかもしれ
ません。志ある日本の若者よ、機会を捉えて洪水の危険性がない中山間地域
に移住してください。それが自分と家族と子孫を安全に守る道だと私は考え
ています。世界中でそのように考える人が増えつつあります。これからの時
代は地方に移住した方が良いか、首都圏に住み続ける方が幸せかは意見が分
かれるところなので、それぞれの人の立場で広く情報を集め、分析し深く観
察し先の先を考えてください。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/8月第84号からの転載です)

2019年6月16日日曜日

コラム:肉体はリサイクル品

時間の経過とともに、この世の物質的な物は全て変化してしまう。この世の
中の柔らかい物も固い物も全てが変化する。流れて時が過ぎれば全ての物は、
違った場所で違った物になっている。

 諸行無常という変化の自然法則の中で、似たような現象が前後で少し形を
変えるがパターンになって繰り返し発生することがある。それが循環の自然
法則である。循環とは地球の回転によって生起している朝昼晩の繰り返しで
あり、季節の巡りである。陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ずる法則
でもある。春になれば桜の木が満開の花を咲かせるが、桜の木そのものは前
年の木と同じでも、一年の間に盛衰して違った木になっている。満開の桜の
花も咲き方が前の年とは違っている。経済現象や歴史も特定のパターンが繰
り返される。個々の株式相場の上げ下げも循環として考えることが出来る。
私たちの呼吸も循環そのものであり、血液の流れ、生命力の流れも循環で
ある。河の流れも大気も循環して変化はとどまることがない。

 そういう循環法則の中で宇宙そのものが変化して流れている。超新星爆発
で粉々に飛び散った岩石やガスを材料として新たな恒星が誕生する。新たな
星は爆発飛散した古い星の棄てた物質を素材として星自身を創っていく。循
環の中で陰陽が入れ替わり、拡散力と収縮力が入れ替わっている。

 私たち人間の肉体も宇宙的大きな流れの中の循環現象の現れであり、すべ
てリサイクル品によって成り立っている。私たちの肉体はリサイクル品なの
だ。以前、誰かが捨てたものを使って私たちは自分の肉体を作っている。そ
して私たちは自分が使って不要になったものを再度リサイクル品として廃棄
している。リサイクル品を使って自分の肉体を作り、使用済みのいらなくな
った物をリサイクル品として誰かに再度使って貰うべく捨てている。それを
受胎したときから死ぬまでずっと継続してやっているのだ。

 人間の死体は分解して全て地球上で原子・元素に還元される。その原子・
元素は植物や動物や他の人にも使われることがあるかも知れない。たとえす
ぐに使われないとしても、流れて時が過ぎれば、地球の崩壊とともに宇宙空
間にばらまかれる。さらに時が過ぎれば宇宙空間のどこかの惑星で全く別の
生き物がリサイクル品として私たちの肉体を構成していた原子・元素を使う
だろう。そう考えれば果たして墓を作ることが真実のことかどうか疑わしく
なる。その反対に地球そのものが私たちの実家であり、墓地であると考える
ことが出来るかもしれない。

 私たちが吸っている空気は地球上の他の生き物、植物や、動物や他の人間
がすでに使って棄てたものである。以前に誰かが吐いた空気を私たちは今、
吸っている。私が今吸っている空気の中には、大昔の聖者、仏陀やマハーヴ
ィーラが呼吸した空気の一部が含まれているかもしれない。そう考えれば呼
吸によって私は仏陀やマハーヴィーラとつながっているのだと思える。好き
な人だけでなく呼吸を通じて嫌いな人とも繋がっていると理解できる。混み
あった電車の中で乗り合わせた乗客たちは誰かが吐いた息を吸い、自分が吐
いた息を誰かが吸っている。呼吸を通じて乗り合わせた乗客たちはリサイク
ルの空気によって繋がっている。このように、私達は他との繋がり無くして
一人だけ単独では存在することが出来ないのである。

 私が今飲んだ水はかって誰かが使ったリサイクル品である。私が今日排泄
した小便はリサイクルされてビールその他の飲み物になるかも知れない。そ
の飲み物を誰かが飲む。私が排泄した大便は、やがて肥料になり作物の中に
養分として吸収されて、再び誰かの食物になるかもしれない。

 私たちが口から摂取している飲み物や食べ物は地球規模のリサイクル品、
使い回し品である。そのリサイクル品を通じて私たちは過去現在未来の全て
の存在達と御縁で結ばれている。私たちは個であると同時に全体である。私
たちが生涯の間に摂取するリサイクル品としての飲み物や食べ物は甚大な量
である。どれくらいの量になるかイメージすることすら難しい。その甚大な
量のリサイクル品が私たちの肉体を作り、活動のためのエネルギーを生み出
して、私たちの生存を支えている。

 私たちの肉体はリサイクル品なので本当の私ではない。本当の私はそのリ
サイクル物質を使用し廃棄しているアートマンと呼ばれる魂である。魂がリ
サイクル品でつくった肉体を使用しているのである。魂がその人にとって必
要な物質を集めて肉体を作り維持している。肉体を維持するために必要なも
のを集荷し取り入れ、使用し、不要になれば廃棄している。そのように肉体
をリサイクル品と思えれば、肉体への執着が希薄になる。肉体に対する執着
が無くなれば、恐怖や不安が無くなり非暴力が実践できる。

 魂はリサイクル品ではない。魂は変化するものではないからだ。魂は物質
ではない。作られたものではないから、無くならないし滅びもしない。魂は
あらゆるものの中に浸透し行き渡って偏在である。何処かに行くこともなけ
れば、何処からか来るものでもない。

 その魂であるアートマンがリサイクル品を使って人生を体験している。生
きていることの体験は魂にある種の汚れをもたらす。その汚れであるカルマ
がヴァーサナーになって使うべきリサイクル品の選別に関与している。だか
ら私たちはその魂に付いた汚れのことを知らなくてはならない。また、私た
ちは魂と肉体は完全に別物であるということを理解しなければならない。肉
体はリサイクル品でできているということ、その肉体は私ではないと言うこ
とを完全に理解しなければならない。諸行無常の物質世界の原則が当てはま
らない魂についても理解しなければならない。それらのことが理解できれば
魂を中心にした生き方が出来るようになる。魂を中心にした生き方のことを
正しい生き方と言うのである。魂に付着した汚れをとることがプレクシャ・
メディテーションの目的である。魂の汚れが完全に無くなり純粋になること
をモークシャという。モークシャに一歩でも近づくことが人生の意味である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/7月第83号からの転載です)

2019年5月5日日曜日

コラム:四つの身体と霊的色彩光

ヴェーダンタ哲学とジャイナ教哲学では、人間の身体は目に見える粗雑な物
質の肉体と、精妙な物質的身体である電磁気的な体と、最も微細な物質からな
る体原因と、物質でない魂が層のように結合したものだと説いている。
 ジャイナ教ではその四つを肉体、テジャス体(電磁気的な身体)、カルマ体
(原因体、汚れた魂、個我の源)、ドラビヤ・アートマン(純粋な魂)に分け
て説明している。
 ヴェーダンタ哲学では肉体(粗雑な体・アンナマヤ・コシャ・食物で出来た
体)、スークシュマ・シャリーラ(精妙な体)、カーラナ・シャリーラ(原因
体・潜在意識)、アートマン(魂)に相当する。
 仏教では魂を説明しないので身体の複合性・重層性を説かないが、四つの身
体を説くジャイナ教とヴェーダンタ哲学には共通の思想がある。『スワーミー
・メーダサーナンダ著「輪廻転生とカルマの法則」参照。』
 魂の二面性についても純粋なる魂をヴェーダンタ哲学でシュッダートマンと
言い、ジャイナ教ではドラビア・アートマンという。本性が覆い隠された魂を
ヴェーダンタ哲学ではジヴァートマンと言い、ジャイナ教ではパーヴァ・アー
トマンと言う。何によって魂が本性を覆い隠されるのか。ヴェーダンタ哲学で
は、それは無知・マーヤ(迷い)であると説いている。その迷いとは誤解、妄
想、迷信である。
 ジャイナ教では魂に付いた汚れであるカルマ(業)であるとして、中でもカ
シャーイが原因であるとしている。カシャーイとは怒り、慢心、虚偽、強欲の
ことである。ジャイナ教では全ての生き物の魂にはカルマが付着していて、カ
ルマが原因となって輪廻が起こっていると説いている。そして輪廻する魂を持
つ生き物全てをジーヴァと呼んでいる。汚れたジーヴァの魂が純粋になること
がモークシャ(解脱)であり、モークシャに到達することが全ての輪廻する魂
の目標である。人間として肉体を持った状態でモークシャに到達した人をアラ
ハン又はアラハトと言う。アラハトが肉体を捨てて魂だけになるとモークシャ
に到達しているので、もう輪廻転生が起こらない。その輪廻転生しない肉体を
持たない魂をシッダと言う。ジーヴァという言語、シッダという言語はジャイ
ナ教由来のものである。もしかするとヴェーダンタ哲学で説く四つの体は、い
つの時代か、ジャイナ教哲学の影響を受けているのかもしれない。
 ジャイナ教哲学では純粋なる魂は色彩を超越したまばゆく輝くものであるが
、純粋なる魂にカルマが結びつくと輪廻する魂、ジーヴァ、つまり生き物、生
命になる。生命の中の魂はある種のバイブレーションを起こしている。その精
妙なバイブレーション(ある種の周波数を持った波動)が周囲に存在している
様々な微細な物質を引き寄せる。その微細な物質が魂に付着してカルマの材料
となる。人間であれば、五つの感覚器官を通じて微細な物質が魂に引き寄せら
れてくる。色、音、味、匂い、触感として微細な物質が魂に入ってくる。それ
は外から内への方向性である。
 魂の内奥から常にある種の霊的精神的エネルギーが身体外部に放射されてい
るが、そのバイブレーションは内から外に向かって放射されるときに魂に付い
た汚れの影響を受けて着色される。それがジャイナ教哲学でいうレーシャとい
う霊的色彩光である。霊的色彩光はカルマ体(アートマンにカルマが結びつい
て出来た原因体であり、自我意識であり、個我でもある。)のカシャーイ領域
を通過するときにカシャーイに影響されて着色される。原因として蓄積されて
いるカルマによってカシャーイ(情欲・パッション)が出来てくるが、カシャ
ーイの領域を通過して着色されたレーシャは、次にカルマ体のアデヴァシャー
イの領域に入り、感情が生起する元となるエネルギーを生み出している。この
段階(カルマ体の段階)ではレーシャの周波数が高いので我々はまだ霊的色彩
光を知覚することはできない。
 レーシャがテジャス体に入ると周波数が低くなり、テジャス体に流入したレ
ーシャは生命力や内部感覚に影響し、テジャス体のレーシャの領域(霊的色彩
光の見える領域)に到達すると我々はレーシャの色を知覚することが出来るよ
うになる。更にレーシャが肉体のレヴェルに入ると中枢神経に到達し内分泌系
に影響を及ぼして、そこで化学物質・ホルモンが分泌され感情が生起する。感
情によって思考が生まれ、知性が心で考えたことを分析判断し決定する。決定
することで行動となる。行動の源を辿っていくとカシャーイがその根源となっ
ていることが解り、行為の結果であるカルマがそのカシャーイを生み出してい
ると理解できる。
 又、カルマはレーシャに引き寄せられていることがわかる。つまりレーシャ
が我々の行動の全ての根源だということがわかる。レーシャによって我々は行
動させられ、そしてその行動が新たなカルマを引き寄せ新たな原因を作ってい
るのである。
 だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい。それがジャイナ教
のカルマを変える瞑想法レーシャ・ディヤーナの理論である。霊的色彩光の知
覚を通じてレーシャの色をより良い色彩に変えていく、因果律の負の連鎖を正
の連鎖に変えて魂の純粋化を目指すのである。
 カルマによって汚れた魂となったパーヴァ・アートマンをもつジーヴァ(生
き物、特に人間)が修行によってアカルマ(純粋)になると、モークシャが達
成されて輪廻転生しない普遍的なドラヴィア・アートマンになる。このことを
解脱と言う。解脱がジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教の理想である。それは、
今も昔も変わらない。レーシャ・ディヤーナ(霊的色彩光の知覚)は瞑想の目
的と目的地とそこに到達する方法を示している。
 感情を生み出すホルモンの内分泌線と関係が深いケーンドラ(チャクラとも
いう)という霊的中心点に善い色彩をイメージし、善い言葉と共に潜在意識で
あるカルマ体に浸透させる。この瞑想の継続によって我々の潜在意識は変容し
カルマも変わり、カシャーイも善きものとなる。
 自分自身を知るというのは自己のカルマを知ることである。自己コントロー
ルとは自己の行為の結果であるカルマによって作られたカシャーイをコントロ
ールすることである。また、カルマによって形成された心の癖、願望、傾向、
好みであるヴァーサナー・サムスカーラをコントロールすることでもある。
 我々は自分自身を肉体としての体だけであると見ていたのでは救われない。
常に肉体だけでなく、自分の体を電磁気的な体として、原因の体として、純粋
なる魂として見なくてはならない。それが、自分で自分を救う道である。ジュ
ニヤーナの道、智慧のヨガ、論理的思考を好む人の歩む道、プレクシャ・メデ
ィテーションがそれである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/6月第82号からの転載です)

2019年4月13日土曜日

コラム:私のヴァーサナー

外は吹雪。夜中に風が吹いて、ここ二階の窓ガラスに風に運ばれてき
た粉雪がびっしり付いている。昨夜は電気炬燵に足を突っ込んで寝てい
た。温かい寝床から渋々起きて、階下に降りる。室温-6度。厳冬の朝、
先ずしなければならないことは居間の石油ストーブに火をつけること、
そして、電気炬燵をONにすることだ。今朝は室内でも素手がかじかんで
しまうぐらい寒い。昨夜、ストーブの上で湯が沸いていた薬缶は夜の間
に冷えきって中まで凍っていた。外の積雪はゆうに2mを超えている。

私は今、新潟県との県境の町、福島県只見町にある福島県指定重要文化
財古民家・叶津番所に2週間の予定で滞在している。叶津番所は250年程
前に建てられた奥会津地方最大規模の古民家で、そこに一人で夜を過ご
している。その歴史を刻んだ大きな古民家の圧倒的な雰囲気のもとでは、
孤独に強くなければ一晩たりとも過ごすことは出来ないだろう。吹雪の
夜は建物のあちらこちらでさまざまな音がする。建物がしゃべっている
ようでもあり、目に見えない精霊の声のようにも聞こえるからだ。
叶津番所の周りには、番所を核として100年以上前に建てられた伝統的な
「蔵」、13年前の2005年に新築した古民家風多目的道場の「みずなら只
見ユイ道場」、「小番所」と称する中古住宅がある。私はその4棟の建
物のオーナーなので、豪雪から建物を守るために滞在しているのである。
平成30年1月27日午後4時、アメダスランキング積雪量情報は只見が271
センチで青森の酸ヶ湯353セン、山形の肘折についで3位であると報じて
いる。

雪に閉ざされた中で、囚われの身になったような状態で日々を過ごして
いると、「何が原因で自分はこのようなことを体験しているのだろうか
?」という思いが強くなる。「なぜ叶津番所を買ったのか、どうして道
場を創ったのか。」「文化財の保護と活用を続けたこの30年間はなんだ
ったのか。」などと考える。何もすることがなく、ボーとした頭に反省
的な心が沸いてくる。そんな時、ふと、「今、私がこのような形で存在
し、このようなことを体験しているのは、原因と条件と結果の糸が必然
的に連綿と悠久の過去につながっているからだ。」と解った。

叶津番所を所有することになるまでに数えきれない御縁があった。その
、どんなに小さな御縁が欠けても叶津番所に出会うことは無かっただろ
うし、また所有することもなかった。私が高校一年生の時、山岳部に入
部しなければ、佐藤勉さんという山登りの先輩に出会わなければ、20歳
で肺結核にかからなければ、ヨガの導師・沖正弘先生に出会わなかった
ら、沖先生の言葉が無かったなら、私がヨガやインド哲学に興味を持た
なかったら、そのようなことは起こらなかったであろう。しかし、その
ような無数の御縁があって今の私が存在している。人間存在は孤独に思
えるがそうではない。あらゆる他のものとの御縁によって支えられてい
るのである。宇宙全体が私という存在を支えてくれているのである。

物を所有するということは、土地であれ建物であれ、家族であれ、美術
品、骨董品、職場、財産、ペット、その他なんでも後々、管理しなけれ
ばならない、世話をしなければならない苦労がつきまとう。所有し使用
する喜びと、それに伴う苦労は必ずついてまわる一体のものだ。人間だ
けがこの苦しみを喜びに替えることが出来る。それが人間の理性的な心
であり、他の動物にはない仏性というものなのだ。さまざまな経験をす
ることで人間の霊性が高まっていくのだと思う。どのようなことを経験
するのかはその人が自由意思で選んでいることである。その自由意思の
根源がヴァーサナーであり、サンスカーラーという。その人の持つ個性
、性向、志、夢や希望の出発点のことである。

番所の周りの4棟の建物で一番問題なのが、「小番所」である。小番所
は道路を挟んで番所と向かい合っている2階建ての中古木造住宅である。
私が2010年に買い受ける前は90歳近いおばあさんと息子が住んでいた。
おばあさんが高齢になったので、姉さんの居住地近く福島県郡山市に
二人で引っ越していった。番所の隣接地であり、建物からの山や川の
風景が絶景なのが気に入って、番所でのヨガ合宿や国際交流の利便性
が高まることもあり、その住宅を買ったのである。売り主の条件とし
て家具や什器備品を全て残置していくというものであった。私はその
条件を承諾して、建物の引き渡しを受けたが、建物内部は不用品でご
み屋敷のようだった。そのとき私は地獄のようなこの環境を天国にし
てみせると心に誓った。今では佐藤松義さんキエ子さん夫婦の協力も
あり地獄のような雰囲気が天国に替わった。近年、2階の一室を綺麗
に整えて只見での私のプライベートな居室にしている。

小番所は建物の構造上致命的な欠点があった。冬の只見の豪雪に対応
していない事だった。それに、極めて安普請で構造材も細かった。屋
根勾配が緩く、積もった雪が滑り落ちなかった。1階部分に下屋が6、
5間×1、5間で付いている。およそ畳20枚分の下屋屋根に雪が積も
る。さらにその上に2階屋根からの落雪が積み重なる。屋根に積もった
雪を放置するとこの家は雪に押しつぶされてしまうのだ。平成27年1月
母が亡くなり葬儀などに追われて只見に来ることが出来なかった。そ
の年は大雪の年だった。屋根に積もった雪が落雪せずに積み重なって、
その重量に押されて小番所二階の梁と柱が折れてしまった。保険に加
入していなかったので修理代は痛い出費となった。

番所や倉は管理を委託している三瓶こずえさんの家族が雪下ろしをし
てくれる。道場は地下水をスプリンクラーのように出しているので、
急こう配の屋根から自然に落雪したあと融けるので、手間がかからな
い。私が冬に只見に滞在する目的は主に小番所を雪害から守るためで
ある。

なぜ、これほどまでに小番所にこだわるのかと言えば、私はこの場所
で自分の理想を表現したいからである。私はここに借景を取り入れた
枯山水の庭を造ってみたい。チャンスがあれば建物を建て替えて、皆
がアッと驚くような素敵な建物を創ってみたいとも思っている。

60歳の時には前途があり、まだいろいろ出来ることがあると思ってい
た。今、70歳を超える年齢になってこの後、何が出来るのだろうか
と考えてしまう。私が只見で活動していることを引き継いでくれる人
は家族にも友人にもいない。妻が私にいつも言っている。「あんたみ
たいな馬鹿な人はいないよね。お金をみんな只見につぎ込んでしまって
・・・。」「あなたが死んだらどうするの?早く只見を始末してよね。
」「私は何も解らないんだから、あなたのやったことの後始末は出来な
いから・・・。」 もっともなことである。

どうやら、私の先が見えてきた。只見での活動は道半ばで終わりそうで
ある。私に働いていた求心力が拡散力に変わったことを感じる。今後、
10年程度かけて只見での活動の整理をしようと思う。成し遂げられなか
った夢を抱えて、今生で経験した様々なカルマを潜在意識に宿して、そ
れらによって熟成したヴァーサナーとサンスカーラが私を次の人生に導
くであろう。

私は過去を振り返り、現在の状況を考察することで、自分の未来が少し
ずつ見えてきた。前世で私を導いたキーワードは海と軍艦だった。今
生で私を導いたキーワードは山と健康と瞑想だった。来世で私を導く
キーワードはユニークな建築物と日本庭園と水晶のような気がする。
私は6のプレクシャ・メディテーションとアヌ・プレクシャで自己の
内部観察を深めていけば、自分の来世がどのような場所に生まれ、ど
のような人生を歩んでいくのか大まかに知ることができると思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/2月第78号からの転載です)

2019年3月23日土曜日

コラム:自分で自分の医者になる・無病の道

現代人は一般的に病気になると先ず身近な医療施設に出かけて診療を受ける。
そして、医師の診断を受け、処方箋に従って薬を飲むことで病気を治してい
る。癌などの重度の病では医師による手術を受けて病の原因を除去する方法
をとっている。現代では医学技術は目覚ましい発展をとげて、従来治療が難
しいとされてきた多くの難病も治療出来るようになってきた。医療に対して
の信頼感が増してきたので、ほとんど全ての人が病気になると、病院や医療
施設を頼りにしている。

現代のように医療技術や医療施設が発展し、整っていなかった時代、人々は
どのように病気に対峙していたのであろうか。多くは薬草などを使う民間療
法であったり、祈祷やさまざまなヒーリング技法に頼っていた。近年の食事
療法、色彩療法、指圧、霊気、ホメオパシー、整体、カイロプラクティック
等のような代替医療として知られている方法を使っていたのである。

もっと古代においては、自分の体調不調や病気は他に頼る方法がなかったの
で自分で自分を治すしかなかったのである。その場合、古代人は自分の身体
の内部を観察した。身体内部の痛みや不快な感覚を注意深く知覚した。内部
感覚を知覚することで自然に痛みや不快感がなくなっていくことを体験した
。それが瞑想の起源であると思う。

私たち現代人は痛みや病を悪いものと捉えている。しかし、痛みや病は決し
ては悪いものではない。それは自然法則が現れたものであり、命の働きが命
を守るために痛みや病を起こしているのである。もし痛みや病が無かったら
我々は命を長らく存続できないだろう。そう考えれば病は悪いものではなく
、むしろ善いものであると言える。痛みと病は原因と結果の法則に従って起
ってくる。痛みと病は原因と縁である条件が整わないと現れてこないし起こ
らない。例え遺伝子の中に弱点として病気の原因を抱えていても、魂のレベ
ルで条件が整わなければ病気は現れない。

ジャイナ教僧侶は自分に起こってくることの原因を自分の内側にある魂の汚
れに見ているので、病に対しても自業自得とみている。自業自得であるから
他に頼らない、自分で問題を解決するしか方法はない。病気になっても薬を
飲んだり手術することもない。同僚による手助けで代替医療などを受けるの
みである。戒律によって医師にもかかれないので、自己の病に対して一番の
治療手段が断食と瞑想である。断食と瞑想によって命の働きを高め、整えて
、病を治癒する方法をとっている。

プレクシャ・メディテーションは本当の自分を見つけるために皮膚の内側
に深く観じようとする意識を向ける内なる瞑想法である。それによって、
真我つまり魂を知ることが出来る。魂に到達するまでに私たちは身体内部
のあらゆる感覚、粗雑なものから超微細なものまで観察し調べつくさなく
てはならない。その過程で私たちは自分とは何かということがわかってく
る。自分とは何かが解ること、そして自己コントロールが実は自分の病に
対する最も優れた治療法なのである。

現代医学は肉体レベル、物質レベルで起こっていることしか治療出来な
い。検知器で検知できないようなもっと微細なことが原因になっている
ことに対して根本的な治療は不可能なのである。人間という存在は物質
的な肉体だけで出来ているのではない。目に見えない検知器にかからな
いような微細なレベルの物質で出来た身体や物質ではない魂の結合によ
ってできているのである。ジャイナ教哲学では肉体の内側に微細な物質
による電磁気体があり、更にその内側に超微細物質によってできた原因
体があり、更にその内側に物質ではない魂があると観ている。そのよう
に自分の身体が重層的になっていることを理解できなければ、本当の自
分を知ることも出来ないし、自分をコントロールすることも難しい。
自分で自分の医者になるとはそのように、深いレベルの自己コントロー
ルのことである。

プレクシャ・メディテーションは深いレベルの自己認識法である。それ
によって、自分自身を知ることが出来るし、自己コントロールが出来る
ようになる。肉体よりももっと内側の電磁気体のレベルで、原因体のレ
ベルで自己コントロール出来なければ本当の意味での自分で自分の医者
になることは出来ない。アカルマの道、自己解放の道が無病への道であ
る。悟りへの道、解脱への道すなわち精神性が高まらなければ無病は無
い。カルマが原因となって輪廻する魂に様々な苦しみと病がついてまわ
るのである。

知恵ある人というのは自己コントロールできる人のことをいう。プレク
シャ・メディテーションの技法は身体内部の感覚を知覚する技法と言っ
てもよいが、その実践よって身体内部に調和がもたらされ、生命エネル
ギーの流れがスムーズになり生命力、自然治癒力、免疫力を高めること
が出来る。その意味で瞑想とは自己ヒーリングと同義語なのである。

カーヤ・ウッサグは心身の完全なるリラックス法であり、もっとも優れ
たストレス軽減方でもある。ストレスに対応できなくて発症する病を発
病前にコントロールできる方法であり、同時に生と死の意味が理解でき
るようになる。カーヤ・ウッサグによって身体内部の調和が達成されて
精神世界への扉が開かれる。カーヤとはインドの言葉で身体という意味
であり、ウッサグは去る・分離するという意味である。つまり、カーヤ
・ウッサグとは心身分離ということで、意識が肉体から離れることを意
味する。最も深いリラックス状態では身体があってないような感覚が起
る。身体感覚が消滅して意識だけがはっきり目覚めている、そんな感覚
が起る。その時、内なる完全性が達成されて痛みも無ければ病も無い、
悩みもない平和な完全性がその人の内側に立ち現れている。カーヤ・ウ
ッサグを継続的に実習すればストレスによる悩みや病と無縁になる。

アンタール・ヤートラ(内なる旅)は電磁気的な体の流れをスムーズに
して生命力を高めることが出来る。シュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の
観察)は深い呼吸を通じて万病に効く特効薬の代わりになり得る。シャ
リーラ・プレクシャ(身体の観察瞑想)は身体内部に深い調和が起こり
電磁気体のレベルで完璧な健康がもたらされる。そして身体の観察によ
って自分とは何かが解ってくる。自分を知ることが自分をコントロール
することであり、自分を自分で癒す方法である。

チャイタニヤ・ケーンドラ・プレクシャは生命力が集中している中心点
を知覚することで特に内分泌線が活性化され、ホルモン分泌を正常化さ
せることが出来る。そのことで感情が調和安定する。感情が安定すれば
心も安定し正しい生き方、正しい行動が出来るようになる。

霊的色彩光の知覚瞑想は潜在意識に働きかけ、消極的態度を積極的なも
のに改善することが出来る。アヌ・プレクシャでは言葉によるアーファ
メーションを通じ潜在意識を積極的なものに変えることが出来るし、
考える瞑想がもたらす直観力によって、真実を知ることが出来るよう
になる。

プレクシャ・メディテーションは精神性の向上、人格の向上を目的にし
ているものであるが、その効果だけでなく、同時に私たちの健康を身体
の深いレベルから達成できる技法でもある。プレクシャ・メディテーシ
ョンはインドで古代から現代まで続いてきた宗教であるジャイナ教のセ
ンターや大学で研究しつくされ、体系化された優れた瞑想法であると同
時に、自分で自分の医者になる最も優れたテクニックであると言える。
プレクシャ・メディテーションこそ人類の宝である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/3月第79号からの転載です)

2019年3月16日土曜日

コラム:欲望とは何か

私たち人間が生きていて生活の中で求めているのは、如何にして幸せになるか
ということに尽きる。では本当の幸せとは何であろうか。仏陀は「人間の日常
生活は、ほとんど苦しみに満ちている。その苦しみの生活から脱却して絶対安
心、満足、至福、自由に満たされた悟りの世界に行くことが可能である。」と
提唱した。インドに起こった宗教のヒンドゥー教もジャイナ教も仏教も人間が
本当の幸せを得るために、世俗的、一般的な人間生活の放棄を勧めている。
さらに此岸(人間としての日常生活の苦しみの世界)から彼岸(悟りの世界)
に行かなければ本当の幸せになれないと説いている。

 なぜ日常的な人間生活では本当に幸せになれないのか?それは物質世界が限
定的な変化の世界であるからだ。我々は肉体という物質を使って物質世界を体
験しているからである。ヴェーダンタ哲学ではこのことをモーハ(迷い)と言
っている。迷いの世界では楽しみと苦しみがセットになっていて、苦しみだけ
を取り除いて楽しみだけ得ることはできない。呼吸を観察しても吸う息と吐く
息で苦楽がセットになっていることが解る。人間として生きていると楽しみよ
り苦しみの方が多いのだが、人は多くの苦しみを忘れて、楽しかった想いを増
幅出来るから、なんとか辻褄を合わせて生きていくことが出来るのである。

 唯物論者は否定するが、魂の永遠性や普遍性を信じる人は物質世界の背後で
物質世界を支えている非物質の存在を確信している。物質世界が此岸で非物質
世界が彼岸である。此岸は因果律に支配された輪廻転生の世界であり、彼岸は
輪廻転生を超えた、再び生き物に生まれない解脱の世界である。彼岸に行くこ
と、解脱することが真に幸福になることであると言える。解脱無くして真の幸
福、自由、安心、至福はあり得ないと仏教やジャイナ教、ヴェーダンタ哲学が
教えている。

 我々人間が解脱して本当に幸せになれないのは、人間の心身システムのソフ
トの中に本能的な欲望がインプットされているからである。全ての生き物の命
の働きの中に、命が命を守り存続させるために本能的な欲望がインプットされ
ている。この欲望が人間の自由を奪い、本当に幸せになることを妨げ、輪廻転
生に縛り付けているのである。

 欲望とは何であろうか。生き物には本能的に三つの欲望がインプットされて
いると言われている。一つが生存欲である。長く生きていたい、健康でいたい
、病気になりたくない、いつまでも若々しくいたい、それらは言葉を変えるな
ら 『食欲』 である。二つ目が自己拡大欲で、自分の分身を増やしたい、子
孫や種族を増やしたい、つまり 『性欲』 です。三つ目が自由欲で、好きな
所に行きたい、遊びたい、世界を知りたい、理解したいという知識欲、悟りた
いという欲、それらが言葉を変えるなら 『解脱欲』 です。人間だけが持つ
芸術的文化的な創作欲、権力欲、名誉欲、所有欲、金銭欲、は三つの基本的欲
望から派生した欲望と言える。人間は多くの人を愛し、多くの人から愛された
いとの欲望を持っているが、これも基本欲望が派生したものと考えることが出
来る。

 なぜ欲望が起こるのか、それは生きていると体の中に生命エネルギーが流れ、
それによって感覚が起るからである。感覚には苦楽がある。それは快感と不快
である。苦楽の感覚は生きる力であり苦楽の感覚無くして生き物の生存はあり
得ない。苦楽の感覚が肉体の生存を脅かす敵や病から自己の命を守っている。
その苦楽の感覚が欲望の根源である。

 生命の働きが起こす根本的な苦楽の感覚を仏教用語で『痴・ち』といい、ヴェ
ーダンタ哲学ではモーハ(迷妄)にあたる。生きている時に身体に流れる感覚は
止めることが出来ず、ほとんど制御が不可能である。だからそれを称してタンハ
ー(渇愛)という。身体に生ずる感覚は沢山あってほとんど自覚出来ないからア
ヴィッジャー(無明・無知)という。この自覚できない身体内部の微細な感覚が
中枢神経系とのやり取りで、盲目的な生の衝動を生み出している。その生の衝動
によって好き嫌いの欲望が起こる。欲望には2種類あって好きなものを求める欲
(貪・とん)と嫌いなものを避けたい欲(瞋・じん)がある。

コントロールが難しい身体内部の微細な感覚に促されて欲しい、避けたい、と
いう欲望が起こる。その欲望が私たちに行為と行動を促す。心地よい感覚によっ
て、好きなものを側に置きたい、手に入れたいという所有欲が起こる。欲望は一
つ達成されると、別のもっと良きものも欲しくなり、欲望の火はエスカレートし
て燃え上がる。欲望に際限はない。

 いろいろな欲望のなかでも、三大根本欲に関係する所有欲は誠に厄介なもので
ある。沢山のものを所有すれば我々は幸せになれると思って行動している。結婚
し家族を持つこと、仕事を持つこと、家や財産を持つこと、物を所有することで
渇望は満足に変わるが、その反面それらを管理しなければならないし、世話しな
くてはならない苦労が生ずる。所有の満足が管理の苦しみに変わるからである。
多くの快楽は多くの苦労が付きまとうという法則が所有にも当てはまる。

 自分にとって愛おしく、とても好ましいものを所有すると、それと長く一緒に
いたい執着が起こる。好きなもの愛おしいものを手放さざるを得なくなった時、
人はとても苦痛を感じる。どんなに良い物を持っていても、いつかは手放さな
ければならないし、多くを所有した人は多くを放棄しなければならない。これが
物質世界の掟である。お金でも、物でも所有したものを自分だけの為に使うとそ
れは悪いカルマとなって未来に悪い結果を招く原因となる。だから、所有を手放
して無所有を理想として出家が起こった。なるべく所有しないことで執着から離
れようとしたのである。欲望から起こってくる所有と執着によって私たちは不自
由になり輪廻の世界に縛られている。だからマハーヴィーラも仏陀も出家するこ
とで所有を放棄して無執着を目指したのである。無所有・無執着は欲望から離れ
た平和な心軽やかな生き方と言える。

 欲しい欲望が他人に妨げられたとき、所有を強引に奪われたとき、また、避け
たい欲望、嫌悪が原因で怒りが起ってくる。不平や不満も怒りの感情と言える。
嫉妬や憎しみ等のネガティブな感情も欲望が元になっている。暴力や争いご
とも欲望にもとづく悪行と言える。私たちは欲望に突き動かされて生活している。
願望や希望も形を変えた欲望と考えられる。欲望が私たちを行動させ行為させ
ている。その行為によってカルマが引き付けられ、潜在意識下にインプットされ
る。インプットされたカルマの蓄積が結果となって今、このような環境のなかで、
姿形で自分自身が存在しているのである。我々は欲望に基づき行動している
が、実は悪いことばかりしているわけでもない。行動の善悪は相半ばといった
ところである。それが一般的な人間だと思う。

 欲望の全てが悪いわけではない。善い欲望もある。そのことを煩悩即菩提と
言う。解脱欲、完全なる自由を求める欲望は善い欲望と言える。カルマのコン
トロールとは悪い結果を起こす欲望のコントロールである。それには自己中心
的な物質的な欲望を、他の全ての生き物たちの幸せのためになるように精神
的に昇華させて行為することにある。あらゆる欲望を魂の解脱に結びつけるこ
とにある。私はだんだんそれらが幸せになる道であると信じられるようになって
きた。他の誰かが私を救ってくれるわけではない。自分の行為が自分を救うの
である。魂が信じられなかったら、欲望のコントロールは出来ない。なぜならコ
ントロールする必要性が無くなるからである。人生の目的が物質的、肉体的な
感覚だけの喜びを追求するだけで良いことになるからである。人間の生き方
に善悪は関係ない、欲望だけを満足させればよいと、倫理を否定する考え
に陥るからである。人間は心の深いレベルで魂を信じているから、なるべく善
い行いをして、悪い行いをしないようにしているのである。欲望が少なくなり心
軽やかになることで差別心がなくなって、全てを平等に見ることが出来るように
なってくる。根本欲すなわちカルマのコントロールで個我の魂が清らかになっ
て、やがては真我を悟る本当の幸せに到達するだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/1月第77号からの転載です)

2019年2月16日土曜日

コラム:アートマン 魂 本当の自己とは何か

私達は皆、『なぜ自分という存在(肉体や意識)がここに居るのだろうか。』
あるいは『生きているという自分の根本的な仕組みが、何処から来て何処へ
行こうとしているのだろうか。』 と考えたことがあるのではないでしょう
か。つまり魂は存在するのか、生命は輪廻転生するのか、という形而上的問題
について考えたことがあると思います。私は長い間、魂の存在や輪廻転生につ
いて疑問に思っていましたが、身近にその問題を解りやすく教えてくれる人が
いなかったので、まったくの手探り状態で一人で探求していくしか方法はあり
ませんでした。

幸い現代は古今東西の宗教哲学や聖者の教えが書物になって沢山出版されてい
るので、疑問に思ったことをいろいろ比較検討することが出来ます。私はその
ような書物を数多く読んで、先人たちの教えを比較検討してきました。さらに
ジャイナ教僧侶の講話を聴き深く考察することを重ねて、だんだん魂について
理解を深めてきました。

魂とはなんでしょうか。魂の定義は『永遠で不変の実在』であるということで
す。私たちの生きているこの3次元+時間の物質世界は全てのものは変化して
しまうから、永遠で不変なものは存在しません。ですから魂はこの世の次元を
超越した、非物質のものだと考えられます。物質世界だけを論じようとすれば
、魂はどこにもないということが出来ます。BC8世紀ごろインドに現れた哲人
・ヤージュニヤヴァルキヤは、目には見えなくとも、この世のあらゆるものの
中にアートマン(魂)は浸透している。しかしアートマンである自己(認識主
体)は自己(認識対象の魂)を認識することはできない、と説きました。ヤー
ジュニヤヴァルキヤの説はその後のインド哲学思想の源流となったのです。

形而上的な論争を避けることの実用性と現実性を重視することから、仏教は非
物質的な考え方や魂・アートマンについて、言及を避けてきました。仏教では
魂を説明することもなく、魂についての定義もありません。しかし、仏教と同
じく古代インドに起こった宗教のジャイナ教やヴェーダンタ哲学は魂について
詳しく説明し定義しています。ヴェーダンタ哲学はヒンドウ教の拠り所となっ
ている古代インドの哲学です。魂について深く知りたいと思うなら、ジャイナ
教やヴェーダンタ哲学を勉強するしかありません。

魂を信ずる人達は、世界を物質だけの世界とは見ていません。私たちの存在を
物質やエネルギーだけでなく、非物質的なものを含めて重層的な存在であると
見ています。つまり身体とは肉体だけでなく、肉体よりも微細な物質の電磁気
的なエネルギー体があり、その奥にデーターベースになっている最微細物質が
関与した原因体があり、最奥に非物質の魂であるアートマンが存在していると
見ています。

多重的な身体の見方はさまざまなバリエーションがありますが、概ね3つの身
体と魂の4層構造になっているというのが、ジャイナ教とヴェーダンタ哲学で
共通の見方です。

ヴェーダンタ哲学では1.肉体をストゥーラ・シャリーラ(粗雑な体)、2.生命
エネルギーと感覚と心、知性、記憶で構成された精妙な体をスークシュマ・シ
ャリーラ、3.自我意識の体であり原因の体であるカーラナ・シャリーラ、4.ア
ートマン・魂、に分類します。  

ジャイナ教では1.肉体 2.電磁気体であるテジャス・シャリーラ 3.原因体で
あるカルマ・シャリーラ(純粋なる魂にカルマ的物質が付着して構成された体)
4.純粋なる魂・ドラビア・アートマン に分けて考えます。

このように比較してみると、身体の考え方や魂についての考えがジャイナ教哲
学とヴェーダンタ哲学では共通していることがわかります。

魂は非物質であることが共通した概念です。非物質的なものの特徴として魂を
定義付ければ、始まりもなければ終わりもない、無始無終である。成長もなけ
れば衰退もない、永遠不変である。何時でも何処にでも有り、全てのものの中
にあまねく充満していて、偏在遍満である。時間や空間、次元を越えていて無
限のものであると言えます。

一方、魂でない物質的なものの特徴は、始まりがあり終わりがあって、変化す
るものである。成長もあり衰退もある、一時的で有限なものである。時間と空
間に制限されていて、同じ時間に一つのものが別々の場所で存在することは出
来ない。魂以外の3つの身体は一時的で変化してしまう無常なものであると言
うことができます。諸行無常とは物質世界に適用される真理であって、魂には
適用できません。

非物質である魂がどうして生命をもち身体を持つようになったのか、ジャイナ
教は次のように説明しています。本来純粋なる魂であるドラヴィア・アートマ
ンが、ここにも有る、あそこにも有ると偏在している微細な原因物質であるカ
ルマと結びつくことで、汚染された魂・パーヴァ・アートマンになる。パーヴ
ァ・アートマンは輪廻する魂であり、輪廻する魂のことを称してジーヴァとい
う。地球だけでなく宇宙には沢山の生命体が存在していると考えられるが、そ
の生命体の基礎は汚染された魂のパーヴァ・アートマンである。生命体が魂の
汚れ(パーヴァアートマンについたカルマの汚れ)を払しょくして純粋になれ
ば(ドラヴィア・アートマンに戻れば)輪廻転生しなくなる。それが解脱であ
りモークシャという。全ての生き物たちの長い旅路の最終目的地はモークシャ
になることであり、モークシャになることが人間として生まれた理想である。
モークシャのことを全知全能、完全なる自由、無限の愛と至福の状態という。

仏教ではモークシャ・解脱・もう生まれない死なない、ことをニルバーナ・
涅槃寂静という。ニルヴァーナーとは吹き消してなにも残らない深い沈黙の
世界、無の状態である。全知全能とか至福の状態はないとする仏教の考え方は、
虚無的で暗く無気力になる恐れがあるように私には思える。

ヴェーダンタ哲学では魂の2面性をシッダ・アートマンとジーヴァアートマン
に分けて考えている。シッダ・アートマンは唯一の神であり普遍的な梵である。
これをブラフマンという。シッダ・アートマンから分かれた小さな分身のよう
な個我が迷いのうちに、自分の真実の姿を見失っている状態が我々生き物であ
り人間である。迷いの状態にあるジーヴァ・アートマン(個我)が迷いがなく
なり、実は自分はシッダ・アートマン(真我)なのだと解ることが梵我一如で
、神との合一であり、解脱であり、このことをカイヴァリアという。

輪廻転生、因果律、魂の法則を解りやすく合理的に説いているのはジャイナ教
哲学だと思うようになってきた。魂にどうして汚れが付くのか、それは心に思
い、考え、行為したからである。思い考え行為したことが魂に物質的な汚れの
カルマ惹きつけて付着する。そのカルマが原因となって我々に様々な結果をも
たらす。我々が今このような場所、このような姿、境遇に存在し幸不幸を受け
取っている原因の根本は、魂に着いたカルマの汚れや、汚れによって傾向づけ
られたサンスカーラという力が作用しているのである。私たちはカルマに縛ら
れ操られている限り真の自由はない。我々はカルマにコントロールされ奴隷に
なっているようなものだ。魂の汚れを取り除き、純粋なる魂になるのがジャイ
ナ教の修行であり、プレクシャ・メディテーションの目指すところである。そ
れが究極の自己コントロール法である。

魂の汚れとは、例えれば汚れた水のようなものである。水はH2Oで水素原子2個
と酸素原子1個が結びついて出来ている。水素はこの世(宇宙)で一番質量の
多い物質である。酸素は三番目に質量が多いことから宇宙には広く水が普遍的
に存在していると考えられる。水は非常に優れた溶解力を持つので、いろいろ
な物質を取り込むことが出来る。地球の自然環境の中で水は完全に純粋な形で
ほとんど存在しない。雲や渓流も何らかの形でミネラルなどを含んでいる。純
粋な水は工業的に人工で作り出すことが出来る。私たちが飲んでいる飲み物は
さまざまな種類があるけれど、その飲み物は実は全て汚染された水なのである。
お酒はお酒になる成分が汚染物質となって溶け込んだ水なのだ。牛乳も牛乳と
いう汚染物質が溶け込んだ水であり、味噌汁も味噌や他の具材によって汚染さ
れた水である。コーヒーも爽健美茶もビールもオレンジジュースも皆、我々が
飲み物として摂取しているものは汚染された水といってよい。水の中に溶け込
んだ汚染物質が飲み物の個性になっている。同じように普遍的な魂の中にいろ
いろな種類のカルマの汚れがついて輪廻する生き物、人間一人一人の個性にな
っている。汚れが違うから違う形で存在しているのである。

飲み物から汚染物質を取り除けばH2O、純粋な水になる。同じように魂から汚
染物質であるさまざまなカルマを取り除けば純粋なる魂・ドラヴィア・アー
トマンになる。それがモークシャであり全ての人間に課せられた最終目標で
ある。魂を純粋にすることは大変な努力と困難を要するが、より良い魂、よ
り良い個性と人格、より幸せになることは今日からできる。それには、プレ
クシャ・メディテーションを継続し、日常生活を通じて因果律を信じ、真の
カルマヨガを行うことである。それが自由という事であり自己責任であり、
自己の内に神を見ることであり愛という。

ヤージュニヤヴァルキヤや8世紀ごろインドで不二一元論を提唱したシャン
カラは認識主体は認識対象にはなりえないと説いた。しかしジャイナ教では
自己(魂)を知覚の対象としている。優れたメディテーターは深い瞑想の中
で魂をじかに知ることが出来るとしている。これが、ジャイナ教哲学の神髄
である。

プレクシャ・メディテーションの始めに 『サンピッカエー  アッパーガ
ー マッパエー ナム』『魂を通して魂を見てください。そして本当の自分
を見てください。』 と唱えるのは魂を認識、知覚の対象としているからで
ある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/12月第76号からの転載です)

2019年1月15日火曜日

コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか

インドには古代から続く宗教的流れとして、バラモン系(アーリア文化系)の
流れと、シュラマナ系(土着的クシャトリヤ系)の流れがあった。バラモン系
宗教の修行の主たるものは苦行であり、シュラマナ系宗教の修行の主たるもの
が瞑想であった。そしてシュラマナ系の宗教の中に輪廻転生思想が伝わってい
た。BC8世紀後半、ウッダーラカ・アールニーなどの思想家の登場によりバラ
モン系宗教の流れとシュラマナ系宗教の流れに思想的な合流が起こった。苦行
と瞑想、自業自得と輪廻思想が結びついて、その後、インドに発生した宗教を
特徴付ける解脱思想が起こった。解脱思想が広まることで出家が流行した。そ
のような時代背景があって、輪廻からの解脱を求めて、BC6~5世紀ごろ、ジ
ャイナ教の開祖マハーヴィーラと仏教の開祖ゴータマ・ブッダが登場した。

仏陀はマハーヴィーラと同じく、シュラマナ系の出家修行者であった。出家し
てから仏陀はアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のも
とで瞑想修行をしたが、悟りは開けなかった。仏陀は瞑想修行を捨て、次に苦
行の道に入った。仏陀の苦行は断食行と止息行が中心だったと伝わっている。
しかしどんなに苦行をしても悟りは開けなかった。苦行を止めた後、仏陀は考
察瞑想を行って、徹底的に原因と結果の法則について考えた。仏陀以前のカル
マ論は原因があれば結果は必ず起こるというものであったが、仏陀は原因と結
果の間にある縁としての条件や環境が重要な因果律の要素であることを発見し
た。『いくら原因があっても環境や条件が整わない限り結果は起こらない。』
と従来のカルマ論を修正した。また従来の輪廻説では欲望が原因となって輪廻
が起こると考えられていたが、たんなる欲望ではなく、もっと深いところにあ
る人間としての根本的な生存欲にあることを発見した。この二点の新発見が従
来の宗教哲学になかったものであり、仏陀の悟りの核心だと考えられている。

仏陀は苦行は何の意味もないとして排除した。仏陀は 『人間として正しい生
き方はどうあるべきか』 について考察したときに、ジャイナ教のように魂を
強調してしまうと極端な非暴力、不殺生の考え方に陥り、人間としての現実生
活に合わなくなると考えた。ジャイナ教では全ての生き物に魂があり、皆生き
たいと思っているのだから、人間生活を脅かす害虫の命でさえ奪ってはならな
いとした。ジャイナ教哲学では植物にも魂があるのだから、農業は出来ない。
実ったコメや麦を刈り取ることも出来ないし、種籾は生きているのだから煮炊
きすることは出来ないことになる。雑草を抜くことも樹木を伐採することも出
来なくなる。輪廻の中の生き物は皆、魂を持っているという考え方だ。その考
えは真実かもしれない。しかしそうだとすれば非暴力を徹底して、自分が生き
るためには殺生を他にしてもらわなければならなくなる。そういう行為は卑怯
だという批判になる。だから、仏陀は「あまり魂、魂と言うなよ」との立場を
とったのだと思う。そして苦行を排して苦楽中道を提唱したのだと思う。

仏陀が魂についてあまり語らなかったので、「ミリンダ王の問」(紀元前2世
紀頃書かれた仏典、最初に無我説を説いた。)などの論調に見られるように、
後の世の仏教徒は仏陀ともあろう人が魂を語らなかったのだから、きっと仏
陀は魂はないと説いたのだろうと解釈して、仏教が無我説(魂は無い)になっ
てしまった。

仏陀は魂についてよく理解していたと思う。なぜなら、仏教の根本思想は因果
律の教えであり、輪廻転生からの解脱がその中心思想であるからだ。仏陀の悟
りは「縁起の法」として知られる。縁起の法とは原因と結果の法則であり、
「カルマによって輪廻転生が起こっている。」との思想はジャイナ教やヴェー
ダンタ哲学とほぼ共通のものである。

仏陀が魂について無記(言及を避ける)の立場をとったので、本来、非我(体
や心は私ではない)であったものが後の仏教徒に無我(魂は無い)と解釈され
てしまった。そこで、行為の結果を受ける輪廻の主体があいまいになって、仏
教が他からの論争攻撃の対象になってしまった。仏陀在世の時は仏陀は形而上
学的な論争は無駄だとして論争を避けることが出来たが、仏陀亡き後はその攻
撃に対して苦し紛れの理論武装をしなければならなくなった。そんな理由で、
仏教理論が複雑化し解りにくくなり、今に続く混乱のもとになったと私は推察
している。無我説では自業自得や因果応報の説明がつかないので、輪廻転生説
がなりたたなくなるからだ。

仏陀は現実主義者であり実用主義者だった。一方、マハーヴィーラ・ジナは極
端な苦行を通してカルマを根絶し悟りを開いた厳格主義者であり理想主義者だ
った。ジナは魂を重要視して決して他の命を奪ってはならないとした。ジャイ
ナ教は非暴力・不殺生、無所有・無執着を徹底することを悟りに至る最重要課
題にした。絶対非暴力だから、他の命を奪うことはない。他と争うこともない。
自分の命が奪われようと他の命を害することはない。それがジャイナ教の理想
主義である。ジャイナ教は宗教の名のもとに他の宗教と戦争したことのない唯
一の平和宗教といってよい。仏教にも非暴力の考えがあるが現実主義をとるの
で非徹底にならざるを得ない。ジャイナ教の無執着は無所有と同義語であり、
魂の清らかさに重点をおいて、物質的なものや肉体的レベルのもの、快楽原理
に従う世俗的なもの等の価値に執着するな、との教えのことである。人は家族
や財産や地位や名誉や知識など、自分のものだと思うものに、どうしても執着
しがちである。その執着を手放せ、つまり所有してはならないと戒律で厳しく
制限した。ジャイナ教は執着しない所有しないことで輪廻の原因となる欲望か
ら離れようとしたのである。

仏陀の無執着は無執着にも執着するなとの教えであって、ジャイナ教の無執着
とは少し意味が違う。仏陀は苦行を排して苦楽中道を立てた。中道とは世俗的
な安楽な道と苦行的な厳格さの中間、つまりいい加減にしたのである。中道と
は厳格な人から見ればハードルを下げた堕落に見える。

仏陀は当時の出家者の厳格さを排して、屋根のある建物の中で起居するように
なり、綺麗な衣を身にまとい、食事の接待を受けるようになった。従来の出家
者の常識であった厳格な戒律などに執着するな、こだわるな、とらわれてはな
らないと主張した。

仏陀のこのような革新的で実用的、現実的な思想が当時台頭してきた新しい都
市国家の裕福な商工業階級の人達に絶大な支持を受けて仏教教団が大きくなっ
ていったと考えられる。

ジャイナ教と仏教はシュラマナ系の父母を同じくする兄弟宗教である。基本的
な哲学もほとんど同じと言ってよい。一つだけ違うところがあるとすれば永遠
で不変で無限で偏在で純粋なる魂を認めるか認めないかである。仏教は現実主
義、実用主義だから、非物質的なものは認めていない。仏教の世界観は基本的
に物質世界のみのことである。物質世界では変化しないものは無いのだから非
物質であると定義されている魂は無いことになる。

ジャイナ教やヴェーダンタ哲学では非物質なものの特徴として、始まりもなけ
れば終わりもない。永遠に存在し不変である。何時でも何処にでもあって偏在
している。無限であって時間と空間に制約されない。時空を超えていて次元も
超えている。そして穢れなき純粋なものであると定義している。それが真我、
魂であるとしている。

仏陀が沙羅双樹のもとで涅槃に入られるとき、弟子たちは「仏陀入滅の後、私
たちはどのようにしたら良いのでしょうかと」と質問した。仏陀は答えて曰く
「これからは法灯明、自灯明あるいは法帰依、自帰依でいきなさい。」と最後
の教えを残された。「私は充分お前たちに教えてきた、もう教えることは何も
ない、私の教え【真実】を頼りに、他に頼ることなく自分で道を歩んでいきな
さい。」と言った。仏陀の法とは縁起の法のことである。つまり、「因果律の
教えが真実なのだから、そのことを生活の全ての羅針盤にして、全て自己責任
で生きていきなさい。」と教えたのである。それが仏教の核心的教えだと私は
考えている。自分が神であり、全ての人が神である要素を持っている。仏陀は
自己の内側に神聖をみて自業自得、全責任を自分に見なさいと教えているので
ある。

仏教のカルマ論(因果律の教え)とジャイナ教のカルマ論、ヴェーダンタ哲学
のカルマ論はそれぞれ少し違うところがあるけれど、要約すれば、ーーー【こ
の世の中に偶然は無く、原因と結果の法則に従って必然的に起こっている。
そして、今自分が存在していることの全て、受け取っていることの全ては過去
の自分が為した行為の結果によるものだ。だから自業自得であり全責任が自分
にあるのだ。】ーーーとの基本哲学は同じものである。

ヴェーダンタ哲学は創造神としての神を認めていた。マハヴィーラの時代の
ジャイナ教、初期仏教では創造神というものはなく宇宙はカルマによって始め
もない始めから、終わりのない終わりまでただ変化が継続しているのだと説い
ていた。BC2世紀の後半ごろ仏教がヒンドゥー教の影響を受けて大乗仏教が起
こった。同じころ、ジャイナ教でもジナ像が作られ神様の概念のようなものが
登場した。救い、救われといった他力救済の概念が起こったのである。

およそ2000年以上に亘って、仏教もジャイナ教もヒンドゥー教も互いに影
響しながらその教義を発展させていった。原点に帰っていろいろ考えないと、
宗教とは何か、なぜ瞑想が必要かなどのことは良く理解できないのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/11月第74号からの転載です)

2019年1月8日火曜日

コラム:アカルマへの道・モークシャとサンミャク・ダルシャン 2017年3月20日(月) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演

今日はカルマから自由になる話をしたいと思います。ジャイナ教哲学では人間
にとって最高の理想状態になることをモークシャと言います。私たちはモーク
シャになることを目指すべきであり、そして、モークシャになる努力をすべき
です。モークシャになることはマハーヴィーラだけでなく偉大な教祖の示す道
でもあります。モークシャになることは印度哲学の最高の目標であり、仏教も
ジャイナ教もヴェーダンタも同じです。それら、どの哲学も人間にとって最高の
理想状態をモークシャといいます。モークシャになるには語るだけではだめで、
モークシャになるための訓練、修行を始めなければなりません。我々一人ひとり
がモークシャになることを最終目的とすべきです。

モークシャになるには3つの道があります。ずっと昔の古代の聖者の中には4
つの道を歩いた人もいます。しかし、一般的には3つの道を歩くことで実現され
ます。モークシャを目指すなら、それに値する人にならなければなりません。
解脱(モークシャ)するには、解脱するための資格が必要です。それには、まず
真実、本当のことと、嘘、間違いを見分けることが出来る力が必要です。

1.正見ー正しいものの見方が必要です。偏見や妄想でないものの見方が必要で
す。知識によってものを見るのではなく、言葉を変えるなら開けた目で全てを
観ることです。
2.正しい知識ー正しく観て 、正しく受け取ること(正知)です。
3.正しい行動ー正しく学び、正しい訓練、修行をする必要があります。

正しく見、正しく知り、正しく行動するとはどういうことかというと

正しく見るとは真実を信じられるということです。正しく見るとは物事を妄想を
抱かないで見ることをいいます。この世の中を正しく観るとはそういうことで、
この世の中を正しく観、そして我々自身を正しく観れば、我々は世の中を知るこ
とができるし、全てのことを理解できます。そして、私たちは世の中を理解し、
私たち自身を理解して、そのつながりを理解しようと努力することができます。
そこには迷いや妄想は生じて来ません。誤解も生まれて来ません。それをサンミ
ャク・ダルシャン(正しく観る)といいます。正しく観るとは真実を信じられる
ということです。

「サンミャク(Samyak)」 とは、正しいこと、真実、迷いがない悟りの状態
を表す言葉です。
「ダルシャン(Darshan)」とは、観ること、運命という意味もあります。

サンミャク・ダルシャンとは揺るぎもない、迷いもない状態のことで、正しい
見方、正しい生き方、正しい哲学のことをいいます。サンミャク・ダルシャン
は本当のことと、嘘のことを見分ける見方(知力)のことです。

何が正しくて何が正しくないかを見分けられるから、そこから全てが始まります。
まず、正しいものの見方は、本当の意味での明確な人間の目的を示してくれます。
そして、それは世界中の人間に共通していることです。それこそが人類が体験すべ
きことで、その方向が自分の修行、訓練の方向で、力を得る方向です。

世の中にはいろいろな悲惨なことや悪いことがありますが、その根底にあるもの
は何が正しくて何が間違っているかが解からないところにあります。もしサンミャ
ク・ダルシャンが自分の中に整ったと思ったら、次の6つのことについて自分自身
に問いかけてみてください。
1.魂は有る。
2.魂は永遠。魂は死なない。輪廻転生する。
  魂は永遠でないという考え方や魂はないという考え方もあるが魂は永遠と信じ
  られないと自分を律することが出来ないし、好き勝手に生きても構わないとい
  う生き方になります。
3.魂はカルマに従っていて、カルマに拘束されています。
4.魂は為したことを受け取ります。
  私たちは原因と結果の法則の中に生きています。何を考え、何を為したかで結
  果が起ります。今このようにある自分は、全て自分自身に責任があります。善
  因善果、悪因悪果。
5.魂はモークシャ(解脱)になれます。
6.モークシャの道を歩きたいと思っているか。
  我々は全てのカルマを打ち砕き、解消してモークシャになることが出来ます。
  それがモークシャへの道です。

以上6つのことを理解していれば正しいものの見方が出来ていると言えます。モー
クシャに至るには基本としてサンミャク・ダルシャン、正しいものの見方を持って
いることが必須で、6つのことを理解し信じていればその人をサンミャク・ダルシ
ャーニといいます。サンミャク・ダルシャーニとなることがモークシャに至る基本
で、建物でいえば基礎にあたります。

次にモークシャに至るには正しいマスター(導師)、正しいグル(教師)、正しい
宗教が必要です。
正しい指導者と真実の宗教によって我々は真のサンミャク・ダルシャーニになれま
す。

では正しいマスター、正しいグルとはどのような人でしょうか?
本当の智慧を授けてくれるマスターは完全に無執着です。好き嫌いが全然ない。
人間だけでなく、全ての生き物に対しても好き嫌いが全然ありません。全てを
平等に無差別に見ることが出来る人です。マスターは本当の智慧を授けてくれる
人ですが、グルはそれを人々に教えてくれる人です。
正しいグルとはどのような人でしょうか?
本当のグルは無所有を実践している人で、結婚していないし、お金を触りません。
貯金通帳も持っていないし、土地も家屋も財産もありません。自分のものを何も
持っていない人です。世俗生活から完全に離れた出家です。そのようなマスターや
グルを見つけることは大変難しいことであるがとても大切なことです。日本にい
なければ地球は狭いので旅をしてグルを探すのも善いでしょう。ジャイナ教では
出家と在家の支え合いシステムが出来ています。日本でもそのようなシステムを
作ることは可能でしょう。

間違ったマスターやグルを選んでしまったらどうなるでしょう。正しくないグル
についてしまうと人生を無駄にしてしまいます。そしてモークシャに至る正し
い道を歩くことが出来ません。だから、本当のマスターやグルを見つけるのに
注意深く慎重でなければなりません。

正しい宗教とは完全なる非暴力を実践するものです。どんなものにも生き物たち
にも暴力を加えないものです。
我々は生きていくために食、衣、住、仕事(活動するところ)の4つはどうしても
必要ですが、その必要なものに対してアヒンサー(非暴力)、サイグルタ(忍耐)、
サンヤム(節度、制限、慎み深さ)が必要だと思います。それが正しい宗教の基本
です。

正しいマスター、正しいグル、正しい宗教をもつことが本当の意味でのサンミャク・
ダルシャーニであり、モークシャへの道の基本になります。修行しても努力しても
サンミャク・ダルシャーニになっていなければ、得るものは少ないと思います。

サンミャク・ダルシャーニになると、恐れ、怒り、執着、混乱から離れられます。
多くの善くない習慣から離れられます。鬱や自殺から離れられます。サンミャク・
ダルシャーニになることで、多くの病気から私たちは守られます。

サンミャク・ダルシャーニになると、それがその人の行動に現れてきます。
1.シャムが出来るようになります。シャムとはネガティブな気持ちをちゃんと
コントロールできることをいいます。なので、ネガティブな感情はほとんど起こ
って来ません。
2.悟り(モークシャ)に対する強いあこがれを持っています。
3.全ての執着から離れることが出来ていて、完全なる無執着が実行できます。
4.慈悲の心が絶えることがありません。慈悲の心は全てのものに対してであり、
その心が自然に備わっています。
5.真実、真理を信じています。

だから、サンミャク・ダルシャーニは困難、否定的なこともポジティブに肯定的
に解決できます。どのような苦しい状態の時も気持ちは沈まないし、その困難を
突き抜けていくことが出来ます。本当の意味で真実を追求していけば薬物中毒
にはまるようなこともありません。サンミャク・ダルシャーニにならないとアカル
マになることはできません。

カルマから解放されることの障害になること、つまりサンミャク・ダルシャニー
の障害物は何でしょうか。
1.疑い。精神的なものに対して疑い深い人。人間の頭は常に疑いを作り出してい
ます。
2.間違ったことを期待してしまうこと。他力本願、資格がないのに救いを求めてし
まうことです。
3.自分の修行に対する結果に疑いを持ってしまうこと。例えば、この方法でモーク
シャに至ることができるかと疑ってしまうことです。
4.人々に間違ったことを教えてしまうこと。
5.間違った信念を持ってしまうこと。
これらのことがモークシャへの道の障害となるのです。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/10月第74号からの転載です)