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2012年7月25日水曜日

コラム[エコ的生活は新しい非暴力運動です]


梅雨が明けて、各地で35℃以上の猛暑日となった。群馬県館林市では17日39℃
を上回り、従来では考えられない猛暑が続いている。日本近海の海水温が近年
上昇してきていて、それが原因で、筑波の大竜巻や近年の集中豪雨、猛暑など
が引き起こされているという。まさに地球温暖化を実感として感じざるを得な
い昨今である。地球温暖化の要因は大気中の二酸化炭素やメタンの増加による
ものであるが、元を質せば世界の人口増加と経済活動に行きつく。人間は、誰
でも安全に快適に豊かに幸福に生きたいと願っている。その願いである欲望が
行き過ぎて、逆に安全性や快適性が脅かされはじめているのが地球温暖化問題
であり、原発問題である。

また私達人間はある意味で動物である。動物として観た場合、自然から離れた
不自然な生き方は許されないように出来ている。現代先進諸国の人々の生活は
快適ではあるが不自然生活そのものであり、よほど上手に不便さと折り合いを
つけていかないと、心身が不調になる。自殺者の増加や鬱、アレルギー体質の
問題なども現代人の不自然生活に起因していることが多いのではないかと私は
考えている。もっと生の自然に接しなければ、真の意味の健康に達しないと云
うのが私の考えだ。焚火の煙を吸い、蚊、蜂、アブ、ブヨ等の虫達に予防接種
の注射を打ってもらったほうが良いと考えている。快適ばかりを追い求めて行
くと、心身の適応性が失調してしまうのだ。

便利や快適さをどのレベルに置くことが人間の真の幸福に繋がるのかを今私は
模索している。自分だけの幸せでなく、他の人々にとっても、未来の子孫に対
しても、地球上の他の生き物達に対しても、責任ある行動と生き方は何か、そ
して幸せな暮らしとは何かを考え始めた。不便や不快を良い事、楽しい事と積
極的に解釈できれば、今問題になっている人間としての正しい生き方は何かの
解決策が見いだせるのかもしれない。

自分たちの暮らしが幸せであるかないかを論ずる時、比較する対象が必要とな
る。只見に住んでいる人は只見と首都圏との生活を比較して苦楽や幸不幸を論
じている。つまり視野が狭いのである。只見とマダガスカルやミャンマーの田
舎と比べたり、明治時代の只見の暮らしと、現代の暮らしを比べて論じること
をしない。もし、そのような視点に立てば、いかに只見の暮らしが豊かで快適
で便利で幸福感に満ち満ちているかがわかる。

江戸時代の只見と現代の只見の暮らしぶりを比較してみる。雪に閉ざされる冬
の条件は同じである。今ある便利なものとして車、電気、照明、システムキッ
チン、灯油ストーブ、電気炬燵、羽毛布団など快適な寝具、快適な衣服、ゴム
長靴、テレビ、パソコン、携帯電話、宅配便、スーパーマーケット、豊富な食
料、学校、役所、その他沢山ある。年貢の重税はなく、補助金を貰える。江戸
時代の人が蘇ったらビックリするだろう。

山村や離島で暮らしていた多くの人がより良い快適さ、便利さ、幸福さ、自由
さ、やりたい仕事を求めてこの50年間に都会に移住していった。今では、山村
や離島は過疎化し、集落が消滅し、先祖が永永として築き上げてきた耕地が荒
廃してきている。日本人の悪いカルマ(過剰な贅沢)が積みあがっているので
はないかと思ってしまう。いまや、新しい価値観を創造して、新しい幸福観に
めざめなければならない時代に入ったのではないかと思っている。

地球温暖化防止の生き方は江戸時代に戻るのではなく、私は昭和30年代の暮ら
しに戻る事だと考える。
現代文明は大量生産大量廃棄でやりすぎだ。昭和30年代の暮らしに戻れば原発
を全廃してもエネルギーは足りるだろう。経済優先の政治を止めて、国民の幸
福優先の政治に転換すべきと考える。私は只見に移住したらシンプルライフを
実践したい。水道やガスを使わず。電気は自前でつくる生活をしたいと思って
いる。只見の三瓶章冶さんと相談して薪を燃料とするロケットストーブに続い
て、小番所の水路に廃物利用の手作り発電機を設置した。次はドラム缶風呂を
作る予定だ。そして、不快な事や不便な生活を楽しむことができる同志を集め
たい。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年6月25日月曜日

コラム[雰囲気と人格]


私達の潜在意識はコンピューターのハードディスクのような機能を持っている。
私達の体験や日常生活でどの様に反応したかが潜在意識にインプットされてい
る。インプットされているものは知識や記憶ではない。出来事に対してどの様
に反応したかが性格や人格となって根付いている。それらは外部情報に対して
のどの様に反応するかという心の癖のようなものだ。知識や記憶は身体機能と
しての脳が行っていて、それは例えれば取り外しできるパソコンのメモリーの
ようなものである。身体の死とともに知識や記憶は消滅する。

しかし、性格や人格、嗜好は潜在意識にインプットされていて肉体が死滅した
後、次の生に引き継がれていくものと云える。同時に性格や人格、嗜好は次の
生を引き寄せる原動力になっている。それがカルマである。人はカルマによっ
てそこに生まれ、そのような身体を持ち、そのように生活し、奴隷のように操
られ、カルマによって死ぬ。カルマは肉体の死によって終わるものでもない。
カルマは命や魂に付いて変化しながら継続する。

カルマは因縁とも云い、原因である種が、縁である土や水、気温、光によって
発芽し成長し実を結ぶと例えられる。リンゴの種にはリンゴが稔り、かぼちゃ
の種にはかぼちゃが稔る。リンゴの種にかぼちゃは成らないという自然法則の
事である。さらにカルマは意志であり行為でもある。意志や行為によって結果
が変わるからだ。又、結果(受業)の事をカルマという。その結果が潜在意識に
インプットされると原因としてのカルマ(因業)になる。カルマは輪廻転生の原
動力であり、私達に自業自得と自己責任、全肯定の生き方を教えてくれている。
自然界や人間社会を良く観察するとカルマの法則があらゆるところに浸透して
いることが理解できる。

全ての人間は個性的である。まったく同じ人は過去にも現在も未来も存在しな
い。人生は一度だけというのがそういう意味だ。人間は個別で大変ユニークな
存在である。つまり、全ての人のカルマは違うということである。人それぞれ
に雰囲気や人格が異なるのもカルマがあるからだ。いやしく愚鈍な雰囲気、清
らかで崇高な雰囲気それらは肉体レベルを超えた内部からのカルマの放射であ
るところのある種のエネルギーである。カルマとしてのエネルギー放射は身体
を繭のように取り囲むオーラになる。近年、オーラカメラによってそのエネル
ギーを写真に映すことが不完全ながら出来るようになった。

オーラは肉眼では見ることが出来ない霊的な色彩光である。私達の叡智はその
霊的な色彩光を感知して人格や人の雰囲気として解釈している。人の印象、雰
囲気、気が合う合わないは、叡智が知覚しているのだ。類は類を呼ぶの喩えで
はないが、同質なものの中では居心地が良い。一方、カルマは条件が整うと解
消されるべく現れてくる。解消されるために、都合の悪い人と出会わなければ
ならないし、時には好きでない条件や嫌いな環境が与えられるのだ。条件や環
境は誰かによって与えられるのではなく、自らがカルマの解消のために叡智が
選択しているのである。時が来て条件が整えば、受け止めなければならないこ
とは受け止めざるを得ないし、やらなければならないことはやらざるを得ない
のです。

ジャイナ教哲学では魂をカルマ体が覆っていて、魂からの霊的放射はカルマ体
を通過するときに善い悪いの霊的な色彩が付いて、それが電磁気的な身体、そ
して肉体へと広がってゆき肉体外部への霊的エネルギー放射となると考えられ
ている。そのエネルギーには霊的色彩がついている。この内部から外部への霊
的色彩光の放射をレーシャという。レーシャと云う概念を使うとカルマや人格、
雰囲気など矛盾なく説明できる。又、外部から内部へと向かう反対のレーシャ
を使えば、その人の雰囲気と共に性格やカルマと云った潜在意識下のインプッ
トを書き換えることが出来る。これを応用したのがレーシャ・ディヤーナであ
り、アヌプレクシャである。

カルマの改善、コントロールこそ仏教とジャイナ教が目指す修行であり、それ
が解脱への道である。仏陀は一瞬一瞬変化しつつ継続していく命はあるが、不
変の魂は無いといった。命がカルマによって輪廻転生すると説明した。心を観
ている叡智が命であるなら、命と魂は言葉の定義の問題で同じことを云ってい
るのではないだろうか。瞑想している時に自分の身体や心、意識を観じている
のは心ではなく叡智である。心で心を観ることは出来ない。カルマで汚れた不
純な心を、叡智である純粋意識が観ることは出来る。叡智を命といえば命にな
るし魂といえば魂になる。カルマが清められて変化する不純な心が純粋になっ
て消滅したとき魂の理想状態が現れる。「アカルマの道」は金鉱石を精錬して
純金にする過程にも似ている。心を清らかにする方法の事を、「魂の汚れをと
る」と表現したほうが多くの人々に解りやすい。不滅の魂があるかないかは古
代から続く未決着の論争だ。正しい間違いの問題ではない。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年6月21日木曜日

第36回 定期研究会のご案内


第36回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年7月2日(月)19:00~21:00
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅近く「市民センター」集会室1

テーマ:『ヨーガ・スートラ』の思想的背景と瞑想についての考え方

前々回の研究会では、パタンジャリの八支則とプレクシャ瞑想の体系を比較検
討し、とくに内的意識の持ち方において強調点の違いこそあれ両者が非常に近
い内容を有していることを確認しました。

次回は「ヨーガ・スートラ」の内的部門の解釈(瞑想の内容)を比較検討した
上で、パタンジャリの八支則とプレクシャ瞑想体系の異同を整理し、その思想
的な背景を探りたいと思います。ヨガと瞑想の本質とは何か。この大きな主題
に向けて、まずはこれらの思想的な系譜を分類整理していきます。
なお、出席される方でお持ちの方はすでにお配りしたレジュメをご持参くださ
い。

※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
 (savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと、資料を受け取
 れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料
 代等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
8月6日(月)19時~21時 場所:南行徳 「市民センター」集会室1
9月3日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。