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2016年3月1日火曜日

コラム:美しき日本刀と非暴力

あるヨガの先生から質問された。「坂本先生は刀をどうおもいますか?」「実
は夫の兄が刀剣収集が趣味で、先日、その方から夫に刀が送られてきて、お前
も刀の趣味を持ってはどうかと勧められた。」というのである。彼女は刀に対
して怖いもの、武器としてのイメージが強く、身近におきたくないらしい。そ
の時私は「刀ほど美しいものはなく、絵画や陶器と同じく素晴らしい鉄の芸術
品として鑑賞すべきものであり、決して武器ではない。」「刀は折り返し鍛錬
されて火に熱し水に冷却し鍛え上げられたものであり、素材の玉鋼から不純物
を取り除いて純粋な鉄の芸術として造られたものである。刀は気高い人格と魂
を象徴するものである。」「日本刀にはそれを制作した刀匠が、刀が武器とし
て使われることのないように、平和への祈りがマントラになって込められてい
るのだ。」と答えた。

私の刀への憧れは、少年時代まで遡る。私は団塊の世代の先駆けとなる、昭和
21年9月に千葉県東葛飾郡浦安町に生まれた。小学校2,3年生の時NHKラ
ジオ放送で「笛吹童子」や「紅孔雀」などがラジオドラマとして放送されてい
た。ラジオから流れる主題歌「笛吹童子:ひゃらーり ひゃらりっこ ひゃ
りーこ ひゃられーど 誰が吹くのか 不思議な笛だ・・・・。紅孔雀:まだ
見ぬ国に住むという 赤い翼の孔雀鳥 秘めし願いを知るという 秘めし宝を
知るという」や物語に熱中した。その後、「笛吹童子」も「紅孔雀」も東映で
映画化され、娯楽が少なかった時代、私はそんな時代劇映画の虜になった。中
村錦之助、東千代之介、大友柳太朗、高千穂ひづる、月形龍之助等の映画ス
ターのファンになったのもこの頃である。

この頃の子供たちの遊びと言えば、男の子ではメンコ、ビー玉、ベーゴマ、そ
してチャンバラごっこであった。「俺は那智の小天狗だ。俺は浮寝丸だ。」な
どと言いなから手作りの木剣を振り回していた。隣の家の木の枝が木剣に恰好
だったので、木剣を作りたいという気持ちが抑えられなくて、その枝を切って
木剣を作り、隣のオヤジに大いに怒られた。隣のオヤジに怒られたけれど、悪
ガキの知ちゃんは小刀を上手に使って、反りのある刀身は木を削り出し、柄の
部分に樹皮を残した自慢の木剣を作った。

小学校低学年で時代劇の立ち回りや刀、侍に憧れた知ちゃんは中学校に入ると、
剣道部に入部した。中学高校を一貫教育する私立中学校だったので、高校生の
先輩から厳しい稽古をさせられた。

ヨガを始めた頃、自宅の近所に居合道を教える道場が出来た。道場主は私の父
の小学校時代の同級生だった。榎本富夫先生が自宅に遊びに来て、先生から居
合道の話を聞いたご縁で私はヨガと並んで居合の稽古を始めた。ヨガの稽古は
三上光治先生について週1回だったが居合は週二回練習した。昭和57年居合
道初段に合格した。私は初段に合格したら、稽古の刀を模擬刀から真剣に変え
ようと思っていた。

古い刀は従前の持ち主の念やネガテブなエネルギーが宿っていることもあるの
で、現代刀匠の作刀を求めた。その頃、名高かった岐阜県関の刀匠、藤原兼房、
兼氏親子が合作で作ったものを実際手に持ち振ってみたところ、長さと手にな
じむバランスの良さが気に入って、それを買い求めた。真剣身とは良く言った
もので、真剣を使うようになって模擬刀で練習している時とは全く違って真剣
身になった。

「関の兼房」は私の愛刀となりその後の5年間、あらゆる刀の使い方に練習を
重ねた。1984年春(昭和59年)居合道の2段になっていた。静岡県三島市
の沖ヨガ修道場には沖正弘先生がおられて世界中から参加者が集まり「ライ
フ・エンカウンター・セミナー」が行われた。大勢の外国人の前で、ビール瓶
に刺し立てた2メートルほどの篠竹を、瓶を倒さずに「関の兼房」で切り払い、
それから、皆が静まり返って見守る中、居合の型を演舞した。1987年(昭
和62年)私は居合道の4段になっていた。沖先生が亡き後、私は成瀬雅春先
生からもヨガを習っていた。その年、成瀬ヨガの10周年記念祭が品川区の体
育館で行われたとき、私は壇上で連続早抜き居合を演舞した。私はこの頃、あ
らゆる手の内で刀を使えるようになっていた。

1988年沖ヨ修道場主催の第2回プレクシャ・メディテーション研修旅行で
インドへ行った。国際親善と日本文化や武道を紹介する目的で私は日本から羽
織袴と模擬刀を持っていった。交流会の機会に私は居合の演舞をした。それを
見ていたジェイン・ヴィシュバ・バーラティの道場長メータ師から居合はバイ
オレンスだといわれた。私はそのことを日本に帰って深く考えた。型を演舞し
ているといっても、一つ一つの型で実際に人を切っているようにイメージする。
イメージが強烈すぎて実際に人を切っているような気がすることがあった。相
手の血潮が吹き出すイメージが起こることもあった。練習したあとで、その日
の練習のイメージで30人から40人の人を殺してしまったと感じる日もあっ
た。瞑想の世界ではイメージしたことは実際に起こったことといえる。そう考
えたときに私は居合が出来なくなった。そして現代の居合が実践的でなく、室
内だけの型の演舞だけに終始していることに物足りなさを感じたからでもある。
非暴力と日本人としてのアイデンティテイ・武士道精神文化の整合性がとれな
くなってしまったのである。
 
居合道から離れてしまったが、私は今も日本刀が好きである。ウィキペディア
によれば「日本刀とは日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。
それは平安時代末に出現し、反りがあり片刃の刀剣をさす。」世界史的に見て
も日本刀はユニークなものであり、日本人の物づくりと芸術、文化、精神性を
象徴したものと言える。日本刀は外装(拵え)とは別に刀身自体が美しい鉄の美
術品である。その姿、形は極限まで機能を追求した結果、一切の無駄がなく美
しい。刀の外装である刀身を納める鞘、防御のための鍔、手持ちを良くするた
めの柄、その他刀の外装に使われる部品(ハバキ、目貫、頭)の一つ一つがいに
しえの職人が丹精込めてつくった美術品として美しい。

私は室町時代の「備州長船住盛光」と江戸時代初期の「陸奥大掾三善長道」を
美術的にも価値ある外装付きで所持している。数百年を経て全く錆びずよく手
入れされたこの刀を見るとき、刀が日本人とは何かと語り始めるのを聴くこと
ができる。

先ごろ、東中野の沖ヨガスタジオで「知心流」の宗家を継ぐ大野雅司師の武術
演舞を見た。それはかって、私が求めていた実践的な刀操法であった。大野師
は真剣を抜くと同時に峯返しした。抜刀と峰打ちが一体になった技である。手
の内が理想的に柔らかくなければすることが出来ない技である。戦わずして勝
つことが居合であるが、たとえ刀を抜いたとしても相手を殺さないで屈服させ
る。これが抜き峰打ちである。それはまさに非暴力の居合であった。私はそこ
に到達できないで居合から離れた。若い頃に「知心流」に出会っていればもう
少し居合を続けることが出来たのかもしれない。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/3月第60号からの転載です)

2016年2月29日月曜日

第67回 プレクシャ・メディテーション研究会開催予定

第67回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。


次回:2015年3月7日(月)19:00~21:00
場所:集会室2(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:是松宏明
テーマ:ジャイナ教の分派

来年度から大学院へ進んで本格的にインド哲学を研究する是松宏明さんから、
大学の卒論をベースにしたお話を伺います。プレクシャメディテーションは
テーラバンタ派で復興された瞑想ですが、ジャイナ教の他の宗派の様子は現
在どのようになっているか、フィールドワークを含めた勉強の成果をお話し
いただきます。

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は会員1,000円/非会員1500円です。

【今後の開催予定】
・2016年4月4日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2016年6月6日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています。


コラム[『シッダールタ』を読んで]

10年ぶりに岡田朝雄訳『シッダールタ』(2006年草思社刊)を再読した。
今回、10年前には理解出来なかったこの小説の内容の濃さ、ストーリー構
成の完璧さがよく解った。『シッダールタ』はヘルマン・ヘッセによって大
正11年10月ヘッセ45歳の時に初版出版された。内容はゴータマ・ブッ
ダの悟りとは別の悟りを開いた小説の主人公シッダールタの思索を通じて、
真我とは何か、輪廻転生とは何か、瞑想とは何か、解脱とは何か、梵我一如
とは何かなど、インド宗教哲学の精髄を語りきり、描ききり、説明しきって
いる。

私が30歳頃から今日まで40年間探求してきたインド哲学全般、そしてヨ
ガや瞑想の奥義を、この小説ほどわかりやすく解き明かした著作を他に知ら
ない。今や『シッダールタ』は私が今までに読んだ小説及び精神世界本の中
で最も感動し、その哲学的内容の深さを高く評価するベストワンに位置づけ
るものとなった。

この小説を読みながらドイツ人のヘッセが45歳の年齢でなぜここまで深く
仏教やインドの宗教思想を理解できたのだろうかとの疑問が起こった。この
ようにインド宗教思想を理解し洞察できるまでには相当の勉強と思索と体験
が必要だったと思うが、それをヘッセはどのように行ったのだろう。ヘッセ
はキリスト教文化圏に生まれながら若い頃からインドや中国の宗教思想を探
求し続けたようであるが、小説を書く動機としてヘッセ自身が梵我一如を体
験したのかもしれない。

物語はバラモン教司祭の世襲後継者として育ったシッダールタがヴェーダー
ンタ哲学を習得しても心の渇きが癒されず、刎頚の友ゴーヴィンダとともに
輪廻からの解脱を求めて沙門に出家するところからはじまる。岡田朝雄の翻
訳は誠に素晴らしく一字一句無駄なく完璧な原文を美しい日本語に訳しきっ
ている。

朗読すると、同じような表現がリズミカルに三度繰り返されるこの小説の、
詩のような独特な文体を日本語で感じることができる。また文章を読んでい
くと物語の情景が鮮やかにイメージとなって脳裏に浮かんでくる。出家の決
心を、長らく自分を慈しみ育ててくれた父親に告げた時、父と子の心情が絵
のように美しく描き出されていた。

この小説は登場人物が極めて少ない。まず一番目にあげられるのが主人公シ
ッダールタを敬愛する幼馴染で、沙門修行を共にし、後にシッダールタと袂
をわけてブッダの弟子になった親友のゴーヴィンダである。ゴーヴィンダは
シッダールタの生涯全般に常に関わっていて、この小説の最初から最まで登
場する脇役である。ゴーヴィンダは我々読者の視点であり、シッダールタが
ゴーヴィンダに語るのを通して我々はヘッセの思想を聞くこととなる。

遊女カマラーからシッダールタは性的快楽を通して、現実に生きることを学
び、この世にあるものは全て良きものだということを学んだ。そして聖なる
ものと俗なるもの、賢いことと愚かなること、良いことと悪いことの対極を、
経験を通して学んだ。聖から俗のどん底を体験することで、シッダールタは
性格的欠点だった自惚れがなくなり謙虚になった。

河の渡し守ヴァースデーヴァは自然から真実を読み解くことができる、名も
無い貧しい賢者である。老子の思想にも通じるヴァースデーヴァはシッダー
ルタの本当の師匠であり、影になりシッダールタを見守り、究極の悟りに至
るのを助ける。古代インドのシュラマナ系宗教では彼岸に渡して悟りに導く
聖者をテールタンカラと言った。まさにヴァースデーヴァはテールタンカラ
(渡し場を渡す人)であった。

登場人物ではないが、この小説で重要な役割を演じているのが「流れる河」
である。流れる河はシッダールタにさまざまなことを話す。聞く耳をもった
シッダールタに河はさまざまな真理、自然法則、宗教哲学を語る。河がシッ
ダールタのもうひとりの師匠だった。シッダールタは河からさまざまなこと
を学んだ。仏教用語に山川草木悉皆成仏というのがあるが、その意味は自然
を深く観察すると真理に到達するということである。河の流れを観察するこ
とで、シッダールタは過去現在未来がひとつにつながっていることがわかっ
た。それは仏陀の無我とは別の、無時間という新しい悟りであった。時が実
在しないという悟りによって、無常と永遠、苦悩と歓喜、善と悪の間に見え
る隔たりも一つの迷いであることに気づいた。「世界は不完全なものではな
い、徐々に完全なものになりつつあるのでもない、世界はあらゆる瞬間に完
全だ。」ということがシッダールタにわかった。「罪人の中に、今そして今
日、すでに未来の仏陀がいるのだ。あらゆる子供は自らの中にすでに老人を
持ち、あらゆる乳飲み子は自らのうちに死をもっている。ずべての瀕死のも
のは自らのうちに永遠の生をもっている。」とわかった。この世のあらゆる
ものは相互に関連性を持ち、苦悩と歓喜の叫びとともに、河のように流れて
すべてが一如につながっていることがわかった。12章に分けられた小説の
最後の2章「オーム」とゴーヴィンダで語られる哲学的内容は圧巻であった。
まさに悟りを開いた聖者にしか語れない内容を作者であるヘッセは私たちに
わかりやすく示してくれる。最終章を読み終えたとき、私に深い感動が訪れ
た。

小説の序章「バラモンの子」ではヴェーダーンタ哲学が、2章ではジャイナ
教を思わせる沙門の苦行や修行が語られ、3章ゴウタマでは仏陀と仏教哲学
が語られる。シッダールタは教えによって学ぶことは出来ないとの考えから
仏陀に帰依することなく、体験によって真実をつかもうと遍歴する。求めて
も得られない我が子への溺愛に苦しみ、故郷を、父母を捨てたことを悩んだ。

そして、シッダールタはついに完全なる悟りに達した。仏陀の悟りは自分を
知ること、世界を苦と見て、もう生まれないこと輪廻転生からの解脱を理想
として涅槃寂静を目指すものであった。一方、シッダールタの悟りは世界を
知ること、世界を苦と見ないで、ありのまま真実として受け入れ、すべて良
きもの善として解釈して他と融合し、自然法則と完全一体一如になったので
ある。

瞑想には内なる方向性と外なる方向性がある。外なる方向性の悟りは教えに
よっては学ぶことができず、生活を通して体験によって掴むことしかできな
いのである。ヘッセはこの小説で外なる方向性の完全なる悟り、梵我一如、
聖愛を語った。全く素晴らしい小説としか言いようがない。

この小説『シッダールタ』は読めば読むほど味わい深い。私は小説を深く
味わうためにインド宗教哲学の幅広い理解が欠かせないと思う。インド宗
教哲学の全般を理解するために宮元啓一著『インド人の考えたこと』
(2008年、春秋社刊)を熟読されることを勧めます。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)