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2019年5月5日日曜日

コラム:四つの身体と霊的色彩光

ヴェーダンタ哲学とジャイナ教哲学では、人間の身体は目に見える粗雑な物
質の肉体と、精妙な物質的身体である電磁気的な体と、最も微細な物質からな
る体原因と、物質でない魂が層のように結合したものだと説いている。
 ジャイナ教ではその四つを肉体、テジャス体(電磁気的な身体)、カルマ体
(原因体、汚れた魂、個我の源)、ドラビヤ・アートマン(純粋な魂)に分け
て説明している。
 ヴェーダンタ哲学では肉体(粗雑な体・アンナマヤ・コシャ・食物で出来た
体)、スークシュマ・シャリーラ(精妙な体)、カーラナ・シャリーラ(原因
体・潜在意識)、アートマン(魂)に相当する。
 仏教では魂を説明しないので身体の複合性・重層性を説かないが、四つの身
体を説くジャイナ教とヴェーダンタ哲学には共通の思想がある。『スワーミー
・メーダサーナンダ著「輪廻転生とカルマの法則」参照。』
 魂の二面性についても純粋なる魂をヴェーダンタ哲学でシュッダートマンと
言い、ジャイナ教ではドラビア・アートマンという。本性が覆い隠された魂を
ヴェーダンタ哲学ではジヴァートマンと言い、ジャイナ教ではパーヴァ・アー
トマンと言う。何によって魂が本性を覆い隠されるのか。ヴェーダンタ哲学で
は、それは無知・マーヤ(迷い)であると説いている。その迷いとは誤解、妄
想、迷信である。
 ジャイナ教では魂に付いた汚れであるカルマ(業)であるとして、中でもカ
シャーイが原因であるとしている。カシャーイとは怒り、慢心、虚偽、強欲の
ことである。ジャイナ教では全ての生き物の魂にはカルマが付着していて、カ
ルマが原因となって輪廻が起こっていると説いている。そして輪廻する魂を持
つ生き物全てをジーヴァと呼んでいる。汚れたジーヴァの魂が純粋になること
がモークシャ(解脱)であり、モークシャに到達することが全ての輪廻する魂
の目標である。人間として肉体を持った状態でモークシャに到達した人をアラ
ハン又はアラハトと言う。アラハトが肉体を捨てて魂だけになるとモークシャ
に到達しているので、もう輪廻転生が起こらない。その輪廻転生しない肉体を
持たない魂をシッダと言う。ジーヴァという言語、シッダという言語はジャイ
ナ教由来のものである。もしかするとヴェーダンタ哲学で説く四つの体は、い
つの時代か、ジャイナ教哲学の影響を受けているのかもしれない。
 ジャイナ教哲学では純粋なる魂は色彩を超越したまばゆく輝くものであるが
、純粋なる魂にカルマが結びつくと輪廻する魂、ジーヴァ、つまり生き物、生
命になる。生命の中の魂はある種のバイブレーションを起こしている。その精
妙なバイブレーション(ある種の周波数を持った波動)が周囲に存在している
様々な微細な物質を引き寄せる。その微細な物質が魂に付着してカルマの材料
となる。人間であれば、五つの感覚器官を通じて微細な物質が魂に引き寄せら
れてくる。色、音、味、匂い、触感として微細な物質が魂に入ってくる。それ
は外から内への方向性である。
 魂の内奥から常にある種の霊的精神的エネルギーが身体外部に放射されてい
るが、そのバイブレーションは内から外に向かって放射されるときに魂に付い
た汚れの影響を受けて着色される。それがジャイナ教哲学でいうレーシャとい
う霊的色彩光である。霊的色彩光はカルマ体(アートマンにカルマが結びつい
て出来た原因体であり、自我意識であり、個我でもある。)のカシャーイ領域
を通過するときにカシャーイに影響されて着色される。原因として蓄積されて
いるカルマによってカシャーイ(情欲・パッション)が出来てくるが、カシャ
ーイの領域を通過して着色されたレーシャは、次にカルマ体のアデヴァシャー
イの領域に入り、感情が生起する元となるエネルギーを生み出している。この
段階(カルマ体の段階)ではレーシャの周波数が高いので我々はまだ霊的色彩
光を知覚することはできない。
 レーシャがテジャス体に入ると周波数が低くなり、テジャス体に流入したレ
ーシャは生命力や内部感覚に影響し、テジャス体のレーシャの領域(霊的色彩
光の見える領域)に到達すると我々はレーシャの色を知覚することが出来るよ
うになる。更にレーシャが肉体のレヴェルに入ると中枢神経に到達し内分泌系
に影響を及ぼして、そこで化学物質・ホルモンが分泌され感情が生起する。感
情によって思考が生まれ、知性が心で考えたことを分析判断し決定する。決定
することで行動となる。行動の源を辿っていくとカシャーイがその根源となっ
ていることが解り、行為の結果であるカルマがそのカシャーイを生み出してい
ると理解できる。
 又、カルマはレーシャに引き寄せられていることがわかる。つまりレーシャ
が我々の行動の全ての根源だということがわかる。レーシャによって我々は行
動させられ、そしてその行動が新たなカルマを引き寄せ新たな原因を作ってい
るのである。
 だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい。それがジャイナ教
のカルマを変える瞑想法レーシャ・ディヤーナの理論である。霊的色彩光の知
覚を通じてレーシャの色をより良い色彩に変えていく、因果律の負の連鎖を正
の連鎖に変えて魂の純粋化を目指すのである。
 カルマによって汚れた魂となったパーヴァ・アートマンをもつジーヴァ(生
き物、特に人間)が修行によってアカルマ(純粋)になると、モークシャが達
成されて輪廻転生しない普遍的なドラヴィア・アートマンになる。このことを
解脱と言う。解脱がジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教の理想である。それは、
今も昔も変わらない。レーシャ・ディヤーナ(霊的色彩光の知覚)は瞑想の目
的と目的地とそこに到達する方法を示している。
 感情を生み出すホルモンの内分泌線と関係が深いケーンドラ(チャクラとも
いう)という霊的中心点に善い色彩をイメージし、善い言葉と共に潜在意識で
あるカルマ体に浸透させる。この瞑想の継続によって我々の潜在意識は変容し
カルマも変わり、カシャーイも善きものとなる。
 自分自身を知るというのは自己のカルマを知ることである。自己コントロー
ルとは自己の行為の結果であるカルマによって作られたカシャーイをコントロ
ールすることである。また、カルマによって形成された心の癖、願望、傾向、
好みであるヴァーサナー・サムスカーラをコントロールすることでもある。
 我々は自分自身を肉体としての体だけであると見ていたのでは救われない。
常に肉体だけでなく、自分の体を電磁気的な体として、原因の体として、純粋
なる魂として見なくてはならない。それが、自分で自分を救う道である。ジュ
ニヤーナの道、智慧のヨガ、論理的思考を好む人の歩む道、プレクシャ・メデ
ィテーションがそれである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/6月第82号からの転載です)

2019年4月13日土曜日

コラム:私のヴァーサナー

外は吹雪。夜中に風が吹いて、ここ二階の窓ガラスに風に運ばれてき
た粉雪がびっしり付いている。昨夜は電気炬燵に足を突っ込んで寝てい
た。温かい寝床から渋々起きて、階下に降りる。室温-6度。厳冬の朝、
先ずしなければならないことは居間の石油ストーブに火をつけること、
そして、電気炬燵をONにすることだ。今朝は室内でも素手がかじかんで
しまうぐらい寒い。昨夜、ストーブの上で湯が沸いていた薬缶は夜の間
に冷えきって中まで凍っていた。外の積雪はゆうに2mを超えている。

私は今、新潟県との県境の町、福島県只見町にある福島県指定重要文化
財古民家・叶津番所に2週間の予定で滞在している。叶津番所は250年程
前に建てられた奥会津地方最大規模の古民家で、そこに一人で夜を過ご
している。その歴史を刻んだ大きな古民家の圧倒的な雰囲気のもとでは、
孤独に強くなければ一晩たりとも過ごすことは出来ないだろう。吹雪の
夜は建物のあちらこちらでさまざまな音がする。建物がしゃべっている
ようでもあり、目に見えない精霊の声のようにも聞こえるからだ。
叶津番所の周りには、番所を核として100年以上前に建てられた伝統的な
「蔵」、13年前の2005年に新築した古民家風多目的道場の「みずなら只
見ユイ道場」、「小番所」と称する中古住宅がある。私はその4棟の建
物のオーナーなので、豪雪から建物を守るために滞在しているのである。
平成30年1月27日午後4時、アメダスランキング積雪量情報は只見が271
センチで青森の酸ヶ湯353セン、山形の肘折についで3位であると報じて
いる。

雪に閉ざされた中で、囚われの身になったような状態で日々を過ごして
いると、「何が原因で自分はこのようなことを体験しているのだろうか
?」という思いが強くなる。「なぜ叶津番所を買ったのか、どうして道
場を創ったのか。」「文化財の保護と活用を続けたこの30年間はなんだ
ったのか。」などと考える。何もすることがなく、ボーとした頭に反省
的な心が沸いてくる。そんな時、ふと、「今、私がこのような形で存在
し、このようなことを体験しているのは、原因と条件と結果の糸が必然
的に連綿と悠久の過去につながっているからだ。」と解った。

叶津番所を所有することになるまでに数えきれない御縁があった。その
、どんなに小さな御縁が欠けても叶津番所に出会うことは無かっただろ
うし、また所有することもなかった。私が高校一年生の時、山岳部に入
部しなければ、佐藤勉さんという山登りの先輩に出会わなければ、20歳
で肺結核にかからなければ、ヨガの導師・沖正弘先生に出会わなかった
ら、沖先生の言葉が無かったなら、私がヨガやインド哲学に興味を持た
なかったら、そのようなことは起こらなかったであろう。しかし、その
ような無数の御縁があって今の私が存在している。人間存在は孤独に思
えるがそうではない。あらゆる他のものとの御縁によって支えられてい
るのである。宇宙全体が私という存在を支えてくれているのである。

物を所有するということは、土地であれ建物であれ、家族であれ、美術
品、骨董品、職場、財産、ペット、その他なんでも後々、管理しなけれ
ばならない、世話をしなければならない苦労がつきまとう。所有し使用
する喜びと、それに伴う苦労は必ずついてまわる一体のものだ。人間だ
けがこの苦しみを喜びに替えることが出来る。それが人間の理性的な心
であり、他の動物にはない仏性というものなのだ。さまざまな経験をす
ることで人間の霊性が高まっていくのだと思う。どのようなことを経験
するのかはその人が自由意思で選んでいることである。その自由意思の
根源がヴァーサナーであり、サンスカーラーという。その人の持つ個性
、性向、志、夢や希望の出発点のことである。

番所の周りの4棟の建物で一番問題なのが、「小番所」である。小番所
は道路を挟んで番所と向かい合っている2階建ての中古木造住宅である。
私が2010年に買い受ける前は90歳近いおばあさんと息子が住んでいた。
おばあさんが高齢になったので、姉さんの居住地近く福島県郡山市に
二人で引っ越していった。番所の隣接地であり、建物からの山や川の
風景が絶景なのが気に入って、番所でのヨガ合宿や国際交流の利便性
が高まることもあり、その住宅を買ったのである。売り主の条件とし
て家具や什器備品を全て残置していくというものであった。私はその
条件を承諾して、建物の引き渡しを受けたが、建物内部は不用品でご
み屋敷のようだった。そのとき私は地獄のようなこの環境を天国にし
てみせると心に誓った。今では佐藤松義さんキエ子さん夫婦の協力も
あり地獄のような雰囲気が天国に替わった。近年、2階の一室を綺麗
に整えて只見での私のプライベートな居室にしている。

小番所は建物の構造上致命的な欠点があった。冬の只見の豪雪に対応
していない事だった。それに、極めて安普請で構造材も細かった。屋
根勾配が緩く、積もった雪が滑り落ちなかった。1階部分に下屋が6、
5間×1、5間で付いている。およそ畳20枚分の下屋屋根に雪が積も
る。さらにその上に2階屋根からの落雪が積み重なる。屋根に積もった
雪を放置するとこの家は雪に押しつぶされてしまうのだ。平成27年1月
母が亡くなり葬儀などに追われて只見に来ることが出来なかった。そ
の年は大雪の年だった。屋根に積もった雪が落雪せずに積み重なって、
その重量に押されて小番所二階の梁と柱が折れてしまった。保険に加
入していなかったので修理代は痛い出費となった。

番所や倉は管理を委託している三瓶こずえさんの家族が雪下ろしをし
てくれる。道場は地下水をスプリンクラーのように出しているので、
急こう配の屋根から自然に落雪したあと融けるので、手間がかからな
い。私が冬に只見に滞在する目的は主に小番所を雪害から守るためで
ある。

なぜ、これほどまでに小番所にこだわるのかと言えば、私はこの場所
で自分の理想を表現したいからである。私はここに借景を取り入れた
枯山水の庭を造ってみたい。チャンスがあれば建物を建て替えて、皆
がアッと驚くような素敵な建物を創ってみたいとも思っている。

60歳の時には前途があり、まだいろいろ出来ることがあると思ってい
た。今、70歳を超える年齢になってこの後、何が出来るのだろうか
と考えてしまう。私が只見で活動していることを引き継いでくれる人
は家族にも友人にもいない。妻が私にいつも言っている。「あんたみ
たいな馬鹿な人はいないよね。お金をみんな只見につぎ込んでしまって
・・・。」「あなたが死んだらどうするの?早く只見を始末してよね。
」「私は何も解らないんだから、あなたのやったことの後始末は出来な
いから・・・。」 もっともなことである。

どうやら、私の先が見えてきた。只見での活動は道半ばで終わりそうで
ある。私に働いていた求心力が拡散力に変わったことを感じる。今後、
10年程度かけて只見での活動の整理をしようと思う。成し遂げられなか
った夢を抱えて、今生で経験した様々なカルマを潜在意識に宿して、そ
れらによって熟成したヴァーサナーとサンスカーラが私を次の人生に導
くであろう。

私は過去を振り返り、現在の状況を考察することで、自分の未来が少し
ずつ見えてきた。前世で私を導いたキーワードは海と軍艦だった。今
生で私を導いたキーワードは山と健康と瞑想だった。来世で私を導く
キーワードはユニークな建築物と日本庭園と水晶のような気がする。
私は6のプレクシャ・メディテーションとアヌ・プレクシャで自己の
内部観察を深めていけば、自分の来世がどのような場所に生まれ、ど
のような人生を歩んでいくのか大まかに知ることができると思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/2月第78号からの転載です)

2019年3月23日土曜日

コラム:自分で自分の医者になる・無病の道

現代人は一般的に病気になると先ず身近な医療施設に出かけて診療を受ける。
そして、医師の診断を受け、処方箋に従って薬を飲むことで病気を治してい
る。癌などの重度の病では医師による手術を受けて病の原因を除去する方法
をとっている。現代では医学技術は目覚ましい発展をとげて、従来治療が難
しいとされてきた多くの難病も治療出来るようになってきた。医療に対して
の信頼感が増してきたので、ほとんど全ての人が病気になると、病院や医療
施設を頼りにしている。

現代のように医療技術や医療施設が発展し、整っていなかった時代、人々は
どのように病気に対峙していたのであろうか。多くは薬草などを使う民間療
法であったり、祈祷やさまざまなヒーリング技法に頼っていた。近年の食事
療法、色彩療法、指圧、霊気、ホメオパシー、整体、カイロプラクティック
等のような代替医療として知られている方法を使っていたのである。

もっと古代においては、自分の体調不調や病気は他に頼る方法がなかったの
で自分で自分を治すしかなかったのである。その場合、古代人は自分の身体
の内部を観察した。身体内部の痛みや不快な感覚を注意深く知覚した。内部
感覚を知覚することで自然に痛みや不快感がなくなっていくことを体験した
。それが瞑想の起源であると思う。

私たち現代人は痛みや病を悪いものと捉えている。しかし、痛みや病は決し
ては悪いものではない。それは自然法則が現れたものであり、命の働きが命
を守るために痛みや病を起こしているのである。もし痛みや病が無かったら
我々は命を長らく存続できないだろう。そう考えれば病は悪いものではなく
、むしろ善いものであると言える。痛みと病は原因と結果の法則に従って起
ってくる。痛みと病は原因と縁である条件が整わないと現れてこないし起こ
らない。例え遺伝子の中に弱点として病気の原因を抱えていても、魂のレベ
ルで条件が整わなければ病気は現れない。

ジャイナ教僧侶は自分に起こってくることの原因を自分の内側にある魂の汚
れに見ているので、病に対しても自業自得とみている。自業自得であるから
他に頼らない、自分で問題を解決するしか方法はない。病気になっても薬を
飲んだり手術することもない。同僚による手助けで代替医療などを受けるの
みである。戒律によって医師にもかかれないので、自己の病に対して一番の
治療手段が断食と瞑想である。断食と瞑想によって命の働きを高め、整えて
、病を治癒する方法をとっている。

プレクシャ・メディテーションは本当の自分を見つけるために皮膚の内側
に深く観じようとする意識を向ける内なる瞑想法である。それによって、
真我つまり魂を知ることが出来る。魂に到達するまでに私たちは身体内部
のあらゆる感覚、粗雑なものから超微細なものまで観察し調べつくさなく
てはならない。その過程で私たちは自分とは何かということがわかってく
る。自分とは何かが解ること、そして自己コントロールが実は自分の病に
対する最も優れた治療法なのである。

現代医学は肉体レベル、物質レベルで起こっていることしか治療出来な
い。検知器で検知できないようなもっと微細なことが原因になっている
ことに対して根本的な治療は不可能なのである。人間という存在は物質
的な肉体だけで出来ているのではない。目に見えない検知器にかからな
いような微細なレベルの物質で出来た身体や物質ではない魂の結合によ
ってできているのである。ジャイナ教哲学では肉体の内側に微細な物質
による電磁気体があり、更にその内側に超微細物質によってできた原因
体があり、更にその内側に物質ではない魂があると観ている。そのよう
に自分の身体が重層的になっていることを理解できなければ、本当の自
分を知ることも出来ないし、自分をコントロールすることも難しい。
自分で自分の医者になるとはそのように、深いレベルの自己コントロー
ルのことである。

プレクシャ・メディテーションは深いレベルの自己認識法である。それ
によって、自分自身を知ることが出来るし、自己コントロールが出来る
ようになる。肉体よりももっと内側の電磁気体のレベルで、原因体のレ
ベルで自己コントロール出来なければ本当の意味での自分で自分の医者
になることは出来ない。アカルマの道、自己解放の道が無病への道であ
る。悟りへの道、解脱への道すなわち精神性が高まらなければ無病は無
い。カルマが原因となって輪廻する魂に様々な苦しみと病がついてまわ
るのである。

知恵ある人というのは自己コントロールできる人のことをいう。プレク
シャ・メディテーションの技法は身体内部の感覚を知覚する技法と言っ
てもよいが、その実践よって身体内部に調和がもたらされ、生命エネル
ギーの流れがスムーズになり生命力、自然治癒力、免疫力を高めること
が出来る。その意味で瞑想とは自己ヒーリングと同義語なのである。

カーヤ・ウッサグは心身の完全なるリラックス法であり、もっとも優れ
たストレス軽減方でもある。ストレスに対応できなくて発症する病を発
病前にコントロールできる方法であり、同時に生と死の意味が理解でき
るようになる。カーヤ・ウッサグによって身体内部の調和が達成されて
精神世界への扉が開かれる。カーヤとはインドの言葉で身体という意味
であり、ウッサグは去る・分離するという意味である。つまり、カーヤ
・ウッサグとは心身分離ということで、意識が肉体から離れることを意
味する。最も深いリラックス状態では身体があってないような感覚が起
る。身体感覚が消滅して意識だけがはっきり目覚めている、そんな感覚
が起る。その時、内なる完全性が達成されて痛みも無ければ病も無い、
悩みもない平和な完全性がその人の内側に立ち現れている。カーヤ・ウ
ッサグを継続的に実習すればストレスによる悩みや病と無縁になる。

アンタール・ヤートラ(内なる旅)は電磁気的な体の流れをスムーズに
して生命力を高めることが出来る。シュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の
観察)は深い呼吸を通じて万病に効く特効薬の代わりになり得る。シャ
リーラ・プレクシャ(身体の観察瞑想)は身体内部に深い調和が起こり
電磁気体のレベルで完璧な健康がもたらされる。そして身体の観察によ
って自分とは何かが解ってくる。自分を知ることが自分をコントロール
することであり、自分を自分で癒す方法である。

チャイタニヤ・ケーンドラ・プレクシャは生命力が集中している中心点
を知覚することで特に内分泌線が活性化され、ホルモン分泌を正常化さ
せることが出来る。そのことで感情が調和安定する。感情が安定すれば
心も安定し正しい生き方、正しい行動が出来るようになる。

霊的色彩光の知覚瞑想は潜在意識に働きかけ、消極的態度を積極的なも
のに改善することが出来る。アヌ・プレクシャでは言葉によるアーファ
メーションを通じ潜在意識を積極的なものに変えることが出来るし、
考える瞑想がもたらす直観力によって、真実を知ることが出来るよう
になる。

プレクシャ・メディテーションは精神性の向上、人格の向上を目的にし
ているものであるが、その効果だけでなく、同時に私たちの健康を身体
の深いレベルから達成できる技法でもある。プレクシャ・メディテーシ
ョンはインドで古代から現代まで続いてきた宗教であるジャイナ教のセ
ンターや大学で研究しつくされ、体系化された優れた瞑想法であると同
時に、自分で自分の医者になる最も優れたテクニックであると言える。
プレクシャ・メディテーションこそ人類の宝である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/3月第79号からの転載です)