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2018年11月26日月曜日

ご案内「インドツアー報告会&忘年会」


皆さま

今年も早いもので、師走も目の前に迫ってまいりました。

プレクシャ・インドツアーは大変充実した旅だったようです。

今年最後の西池袋のプレクシャクラスでは、坂本先生の瞑想クラス、合宿、インドツアーでご縁のあった方々と合同で忘年会をおこないます。

瞑想クラスとインドツアー報告会&忘年会の2部制とし、いつもより早めに瞑想クラスを行いますが、報告会と忘年会だけのご参加もOKですので、お時間にご都合のつくほうをお選びください。

なお、2部の会場はそのまま瞑想会場のHiraya・平舎で行います。

日程:1220日(木)

時間:18:0019:00 瞑想 特別講座 参加費1000
19:0021:00 インドツアー報告会&忘年会

(インド・ベジお弁当 1000円~1500円程度、飲み物は各自持ち寄り
でご持参ください。ソフトドリンクorアルコールなんでもOK

1年を振り返りつつ、インドツアーのお話を伺ったり、
親交を深めましょう。

ご参加をご希望の方は、担当:伊東真知子(machiko@kej.biglobe.ne.j)1215日(土)までにご連絡をください。

皆様のご参加をお待ちしております。

以下、インドツアーの写真の一部になります。当日は写真と動画で現地の様子をご報告させていただきます。
















2018年11月20日火曜日

コラム:虫たちのこと

プレクシャ・メディテーションの終わりに、「自分の内側に真実を探しましょう。
そして全ての生きもの達と仲良くしましょう。」と毎回唱えている。全ての生き
ものには当然害虫も含まれる。果たして私は害虫と仲良く出来るのか考えてみた。

家内も子供たちもあまり虫が好きでない。嫌いなので見ることも触ることも嫌が
る。私の家族は、子供が好きなカブトムシやトンボもあまり好きではないらしい。
私は子供のころから虫に親しんでいるのでどんな虫でも特に嫌いではない。ヤン
マやカブトムシ、玉虫、カミキリムシ、トノサマバッタなどは子供のころ良く捕
まえて遊んだので好きな虫である。子供のころ稲田でイナゴの大群をみた思い出
がある。沢山捕まえたイナゴをどうしたか覚えていないが佃煮にして食べたのか
もしれない。

小学生のころ夏の終わりに、ある日突然、家の周りに無数の赤とんぼが飛び回っ
ていた。母親に針に糸を通してもらって虫網で捕まえた赤とんぼを針糸に刺して、
赤とんぼのレイを作ったことがある。なんて残酷なと今の若者は思うだろう。私
が子供だった頃はおもちゃがない時代だったから、遊びも自分で工夫しなければ
ならなかった、虫たちは良い遊び相手だったのである。虫にしてみれば人間の子
供は天敵だっただろう。

昆虫と虫は厳密には違う。昆虫の定義は動物界に属し節足動物門、昆虫網に分類
される。節足動物門とは外骨格、つまり鎧のような固い外皮でその中に筋肉が詰
まっているものをいう。エビやカニやダンゴ虫のようなものを思い浮かべればよ
い。それに対し、脊椎動物は部分部分の中心に骨が通っていて、その周りに筋肉
がついているので、体のつくりが全く違う。昆虫は大まかに頭部と胸部と腹部で
体が出来ている。頭部は食べ物をとるための機能が集まっている。そこには目(
複眼と単眼)があり、触覚があり、咀嚼のための口や吸引器が付いている。胸部
は三節になっていて、そこに1対ずつ計6本の脚がある。腹部は10節に分かれて
いて、消化器や生殖、産卵、排泄の機能が詰まっている。昆虫の胸部には2対の
翅があって99パーセントの昆虫は飛ぶことができる。飛べない昆虫は少数派であ
る。また、昆虫の80パーセント以上が変態する。変態とは幼虫から繭の時期を
経て全く異なる成虫となる。完全変態(卵・幼虫・繭・成虫)繭(蛹)にならず
に成虫になるものを不完全変態という。蝉やトンボ、カメムシなどは不完全変態
である。蜘蛛は脚が8本で頭部と胸部が一体化しているので昆虫ではない。ムカ
デは各節に1対ずつ数十の足があるので昆虫ではない。その他にダンゴ虫、ヤス
デ、ダニ、サソリが昆虫でない虫である。

私も昆虫に含まれない虫はあまり好きではない。昆虫も2、3匹と少なければ不
快ではないけど大群になるととても不快感が起こる。季節感がはっきりしていて、
自然環境が豊かな只見は当然昆虫が多い。只見で毎年、大量発生して暮らしに影
響を与えているものにメジロアブとカメムシがいる。カメムシは卵から幼虫にな
り蛹や繭にならずにそのまま成虫になる。カメムシは夏に成虫になり、秋の晴れ
た日に越冬のために大挙して人家に入ってくる。壁や網戸の隙間から侵入して、
さらに押入れの中、布団や毛布などの隙間に潜り込む。本を取り出そうとすると
本棚の奥に数十匹のカメムシが身を寄せ合って潜んでいることもある。そのまま
にしておいても害を及ぼすことはないのだけれど、触ると臭いので、許せなくて
つい外へ掃きだしてしまう。カメムシは10月中旬ごろ人家に入り、越冬して5月
の中旬温かく晴れた日に戸外に飛び出していく生態をもっている。体力を使い切
って越冬できなかったものはカラカラに乾燥してミイラになって、ちょっと触れ
るだけで粉々になる。カメムシは危険を感じるととても臭い体液を放出する。カ
メムシの体液がちょっとでもかかると食べ物はまずくなってとても食べられたも
のではない。メジロアブは8月の中旬に水のきれいな渓流に大量に出現して、人
間をこまらせる。里にも出てきて噛みつかれるととても痛い。昆虫にたいして完
全なる非暴力を実践するなら、やはり、人間生活に多大な影響を及ぼす昆虫の生
息域に居住しないことである。また、害虫被害で困る農業にも従事しないことが
良いこととなる。魂の輪廻転生を信じるジャイナ教徒は何が何でも絶対に非暴力
を貫くことを義務づけられている。非暴力は不合理でも絶対的なものであり妥協
は全く許されず完全に履行されなければならないのである。昆虫を殺すことなど
もってのほか、いじめることすらしない。鳥インフルエンザに罹った鳥を全て殺
処分することなどジャイナ教徒には考えられないことなのだ。

昆虫は子孫を残すことだけが生きる目的である。そのために生まれて死ぬ。人間
のように脳が発達していないので、考えることなく、刺激と反応系が直接つなが
って行動している。体が小さいので重力の影響が少ないから、ハエなど敏捷なも
のや蚤などは跳躍能力に優れている。昆虫は生きている機械と言ってもよい存在
に思える。これから人間はさまざまな用途で昆虫型ロボットを作るに違いない。

カメムシを愛することが出来るようにと、いろいろ観察しているうちに、ふとあ
ることに気づいた。カメムシを上からよく見ると6角形の形に見える。そして昆
虫の脚が6脚だということが、バクテリア・ファージと呼ばれる細菌ウイルスの
姿に共通性があるのではないかと思った。

ウイルスは鉱物特有の結晶の側面があり、細胞がないので生物とはいいがたいが、
自己増殖するので一応生物としてみなされている。ウイルスの一種、バクテリア・
ファージは細菌に感染し菌体を溶かして増殖する。バクテリア・ファージは機械
的な6角形構造をしていて6脚の足がある。カメムシに良く似ている。カメムシ
は植物の栄養素をストローのような口で吸引しているが、バクテリア・ファージ
は脚のような尾部からRNAを細胞に注入する。侵入したRNA(リボ核酸)は細胞
内で自分のコピーをどんどん作り出す。作り出されたウイルスの構造物は外に飛
び出し、また別の細胞に侵入する。細菌ウイルスの6角形構造物は昆虫の外骨格
に極めて構造が似ているようにおもう。

ウイルスも昆虫も生きる目的は自分の遺伝子を存続させることだけである。ホモ
サピエンス・人類の歴史は16万年前からであるといわれる。人類は地上に?栄
し大都会を築き、今では地球は人類の惑星といった位置を占めているけれど、
地球が人類の惑星となったのはたかだか近、数百年に過ぎない。昆虫の出現は
4億年以上前のことである。植物が地上に進出した初期段階で昆虫が登場した
のだと思う。その時、宇宙空間から生命と鉱物の中間であるウイルスが胞子の
ように地上に降り注ぎ昆虫誕生に影響を及ぼしたのではないかと私は考えてい
る。鳥や翼竜よりもずっと以前、昆虫が地上の生き物として最初に空を飛行し
たのである。その飛行能力によって、広く生育域を拡大し、環境に適応して生
き残るために様々に工夫、進化した結果、今では1000万種以上に分化して
いる。たった一つの種である人類が滅亡しても地球はさまざまな昆虫の惑星で
あり続けるだろう。

日本のカメムシだけで55科に分類され1000種以上に上る。我々の遺伝子
をさかのぼれば昆虫からさらに先まで、魂の輪廻転生を遡れば昆虫として過ご
した時もあったのかもしれない。昆虫の生態を観察すれば、昆虫もかくありた
いと意志をもって生きていることは間違いない。カメムシの身になっていろい
ろ考えれば、仲間のような親しい感情が起こってくるのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/1月第68号からの転載です)

2018年11月13日火曜日

コラム:皮膚と触覚と意識について

人間は他から侵害されたくない境界を持っている。集団としての国は国境を設け、
小集団では砦や城に堀をめぐらし、町村境を設けて自らの権益を守ってきた。家
族として家を構え塀や外壁で外と内を区別している。生物の個体である自己と世
界の境界は樹皮や皮膚である。皮膚の内側が自己で外側が他物すなわち世界であ
る。人間は触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚の五感によって外側の世界を探ってい
る。味覚、視覚、聴覚、嗅覚は特別につくられた特殊感覚器官と呼ぶべきもので、
舌、目、耳、鼻がその役割を担っている。触覚は皮膚表面だけでなく内臓諸器官
にもそのセンサー機能がある基本的な感覚神経である。舌、目、耳、鼻の感覚受
容器にも触覚が備わっていることに注目したい。

植物は舌、目、耳、鼻を持っていないが、触られたことがわかる触覚を持ってい
る。根や樹皮、葉に存在する特殊な感知器で光や温度、水の存在を感じることが
できる。植物は一感しか持っていないが、その一感が触覚であることは注目すべ
きところである。地球上に生息する全ての生き物(植物を含めて)には触覚が備
わっている。触覚が受け取っている感覚こそ自己が外界を知り、自己を守り、生
存し、子孫を残すための根源的な感覚なのだ。生まれて間もないころの人間の子
供を観察してみると、主に触覚で環境や世界を把握しようとしていることがわか
る。

人間でいえば、自己と世界の境界は皮膚である。皮膚の表面には外界(自己以外
のもの)を探るセンサー機能が備えられている。皮膚は触覚の感覚器の役割を担っ
ている。皮膚が感じることが出来る刺激は、触られている(触覚)、押される(
圧覚)、痛み(痛覚)、かゆみ(痒覚)、温かさ(温覚)、冷たさ(冷覚)の6
種の刺激である。それぞれを圧点、痛点、温点、冷点が対応している。皮膚表面
の触覚は重さ軽さ、温かさ冷たさ、固さ柔らかさ、ザラザラ・つるつるなどであ
り、これらの感覚は好き嫌いの感情を招来し、心に影響を与えている。例えば、
初対面の人を堅い椅子に座らせると相手は座らせた人を固い奴だとおもう。自動
車の販売デーラーは顧客を固い椅子に座らせると値引きされないで済む。

PRESSURE(圧)、TOUCH(触)、VIBRATION(振動)、TICKLE(くすぐったさ)な
どの感覚を生理学用語で機械的感覚という。機械的感覚の受容器は指先と口唇に
多数分布していて、上腕、大腿上部、背部には少ない。肌があう肌が合わないな
どというように、触覚は人間にとって究極のコミュニケーションの手段でもあり、
触ってみなければ解らないというように、美術品や骨董品など見た目の印象と実
際触れて感じたものでは違うことが多い。インターネットで画像だけ見て商品を
購入して失敗するのも実際手に取って触らなかったからだ。

人間の皮膚の総面積は約1.6平方メートルでおおよそ畳一畳分に相当する。皮膚の
表面には1平方センチメートルあたり触点が25個、痛点が100~200個、温点
が0~3個、冷点が6~23個分布している。全皮膚表面には200~300万の
痛点があり、侵略刺激を受けて反応する。皮膚や粘膜に分布する3万点の温点が温
度に反応している。触点や痛点などの下には各種の感覚受容器があって、それら
受容器はそれぞれ固有の刺激に反応するようになっている。受容器が受けた反応・
興奮は1次知覚神経によって伝達され脊髄を上行して視床で中継され頭頂葉の体性
感覚野に到達する。体性感覚野には体の各部についての情報を取り扱うもののほか
に触れる対象の特徴を取り出せるようなニューロンがある。それらは、硬いものに
触れたときのみ反応したり、ザラザラしたものに触れたときのみ反応するもの、角
のあるものに触れたときのみ反応するものがある。体性感覚野でこれらの情報が統
合されて能動的に獲得する感覚をもっている。

意識とは考えることであり感じることも含んでいる。心を意識と言い換えてもよ
い。知覚とは考えることではなく感じることである。感覚と知覚の違いは感覚が
観られる対象であり、知覚は観る主体者の意識的な心である。熱いものに触れた
とき皮膚の温度受容体が作動し、電気信号として神経を通じて脊髄に到達する。
その時パッと手を離す行為が脊髄反射として起こる。これが感覚である。このと
き脳によって知覚されたわけではない。知覚とは情報が大脳皮質の皮膚の感覚に
対応する場所にとどいて「熱いと」感じることをいう。知覚には脳による意識が
必要である。脳のない生物は植物であれ、ゾウリムシやクラゲ、ウニなどは感覚
機能は持っているが知覚機能をもっていない。熟睡しているときに、誰かに触ら
れても感覚機能は作動しているが知覚されているわけではない。知覚には脳によ
る意識の働きが必要である。睡眠は脳の働きの休眠状態なので、知覚することが
できなくなる。より良い瞑想は意識がはっきりしていなければならない。脳が感
じようとして鋭敏に働いていなければならない。

人間には特殊感覚器官である舌、目、耳、鼻の他に触覚として身体の内側と外側
からの刺激信号をとらえて、中枢神経系に伝える働きをもった受容器(感覚器)
が皮膚の表面だけでなく、身体の全ての組織に存在している。これらの感覚系を
生理学で体性・内臓感覚という。体性感覚は皮膚の表面で感じる感覚の他、皮下
の筋肉や腱、関節などの受容器が内部感覚(深部感覚)としても感じている。そ
れから胃、腸、肝臓、肺、心臓などの内臓は内臓感覚をもっている。

人間が生きているとは、「生体を成長させ維持し動かすために外部からエネルギ
ーを取り込み、呼吸が継続し血液が流れ、神経系を電磁気的な信号が途切れなく
伝わっていき、その流れによってさまざまな身体組織と臓器に感覚が起こってい
て、生起している感覚の粗雑なものから精妙なものまで、意識的なレヴェルから
無意識レヴェルまで」、中枢神経系がさまざまな身体感覚を感じとって、それに
対応して命を守るために、身体が健全に動くように、適切な指令を身体各部に発
信していることをいう。

粗雑な感覚から精妙な感覚まで、我々は瞬間瞬間に生起する全触覚情報の数千万
分の一しか知覚できていない。知覚できない情報は全て無意識情報になっている。
その無意識情報が潜在意識化して我々の思考や行動に莫大な影響を及ぼしている
のである。プレクシャ・メディテーションは知覚することが難しいレヴェルの精
妙な感覚を、訓練によって知覚できるようになることを目指している。その達成
によって我々は深いレヴェルの自己認識に到達する。

皮膚の表面は自己と世界の境界になっているので、自己防衛のための兵士がたく
さん存在する場所である。その兵士が触覚器である。皮膚はアンテナのようにセ
ンサーとして働き、とても鋭敏である。そのような鋭敏な皮膚表面に感じようと
する心を向けるとき、高い集中力によって見逃していた精妙な感覚を知覚するこ
とができる。最も高度なダラーナ(集中のテクニック)は身体内部の精妙な感覚
の知覚である。これをヴィパッサナーといい、プレクシャという。好き嫌い、良
い悪いの判断を手放してありのままに感じ観察することを意味する。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/12月第67号からの転載です)