あるときヨガの指導員から、「何もしない行為とはどんな行為ですか」と聞か
れたことがある。禅問答のような話であるが、「人間は生きている限り、何ら
かの行為をしているのだから、何もしない行為は成り立たないのではないの
か」とその時は答えた。
しかし今は明快に「何もしない行為とは、瞑想することである」と言える。
ジャイナ教哲学では、カルマとは意思であり、行為であるという。何かをする
というのは行為であり、その行為がカルマを作っていると考えられている。本
を読むこと、食事をすること、遊ぶこと、スポーツすること、音楽を聴くこと、
仕事をすること、日常生活すること、それらの全ての活動が行為であって私た
ちのカルマを作っている。
古代インド人はカルマによって人間は輪廻転生すると考えた。何回も何回も生
まれてきては死ぬのが嫌だと考えた。私たち日本人は、死んでも又生まれてく
るのなら、マ、いいかと輪廻転生を肯定的に考えるが、古代インド人は、又生
まれてきて死ぬのは嫌だと輪廻転生を否定的に考えた。不死を求めて古代イン
ド人は輪廻転生しない境涯を理想として求めた。
ジャイナ教ではモークシャ、仏教ではニルヴァーナ、ヒンドゥ教ではカイバリ
ヤである。言葉は違うが意識が不死不生になって輪廻転生しなくなった状態で
ある。これを解脱という。解脱を求めての修行がインドに起こった宗教の基本
であり、カルマ論が哲学の精髄である。
解脱を求めて古代インド人は出家した。行為によるカルマの蓄積を避けるため
に、世俗的な生活からドロップアウトすることが出家である。出家の理想は行
為をしないことである。マハヴィーラは12年半の修行の中で何も行為をしな
かった。食事も一週間に一回程度、つまり通常の人の20回に一回程度の食事
で命を繋いだ。つまり食事もしなかったのである。何もしないで只、立ち尽く
し、座り尽くした。黙って立っていた。考えることもやめて只、荒野に日差し
を避けてボーッと立っていた。
あるときマハヴィーラが荒野に立って瞑想していた時に、ある牛飼いがマハヴ
ィーラのもとにやって来て、「迷子になった俺の牛を見なかったか」と尋ねた。
深い瞑想状態に入っていたマハヴィーラは無言で立ち尽くしていると、牛飼い
は「俺の言葉が聞こえないのか、聞こえない耳ならこうしてやる」と言って、
真っ赤な焼き火箸をマハヴィーラの耳に差し込んだ。それでもマハヴィーラは
苦痛に耐えて只、立ち尽くしていた。
何もしない行為というのはまさに深く瞑想に入っているということである。デ
ィヤーナやサマーディーの深い瞑想状態では、何かをしているということがな
くなる。することが無くなって只、起こることだけが起きている。
私たちが生きていて、行為を何もしなかったら意識は純粋になってゆく、完全
に純粋になった状態をアカルマという。アカルマは無業の状態、原因がなくな
った状態である。原因が無くなれば、原因と結果の法則から外れて輪廻転生し
ない。アカルマすなわちモークシャであり解脱である。
解脱を求める人は行為を何もなさないために、世俗的な生活から離れて、出家
する必要性があった。だから、初期仏教やジャイナ教は出家しなければ解脱出
来ないと出家主義をとったのである。個人救済を重視した。
普段私たちは体を動かさないこと、何もしないことの重要性が理解出来ない。
何もしないことは何かすることよりもずっと価値がある。スポーツやダンスで
体を動かすことは好きでよくするが、じっとしている座禅は苦手であまり好き
ではない。常に姿勢を変えながら心身のバランスを取らざるを得ない人間にと
って、じっとしているのは苦痛に感じてしまうからだ。
経験してみればわかることだが、動いているよりじっと動かない事の方がずっ
と価値がある。考えないことは、考えることよりもずっと良いことである。黙
っていることは話すことよりずっと良いことである。
瞑想によって体と心と感情の動きが静まり、安定する。瞑想とは思考が止まり、
心が安定し、観じようとする意識が沈黙の場、静けさの場所に入っていって、
さらに深く入っていくことである。
波静かな池に名月がありありと映るように、瞑目して思考が無くなり、外部か
らの音も気にならず、心と感情が波静かな池のようになって自分自身に反射し
ている。そのようなとき、自分自身を自分で観る事が出来るのだ。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)
れたことがある。禅問答のような話であるが、「人間は生きている限り、何ら
かの行為をしているのだから、何もしない行為は成り立たないのではないの
か」とその時は答えた。
しかし今は明快に「何もしない行為とは、瞑想することである」と言える。
ジャイナ教哲学では、カルマとは意思であり、行為であるという。何かをする
というのは行為であり、その行為がカルマを作っていると考えられている。本
を読むこと、食事をすること、遊ぶこと、スポーツすること、音楽を聴くこと、
仕事をすること、日常生活すること、それらの全ての活動が行為であって私た
ちのカルマを作っている。
古代インド人はカルマによって人間は輪廻転生すると考えた。何回も何回も生
まれてきては死ぬのが嫌だと考えた。私たち日本人は、死んでも又生まれてく
るのなら、マ、いいかと輪廻転生を肯定的に考えるが、古代インド人は、又生
まれてきて死ぬのは嫌だと輪廻転生を否定的に考えた。不死を求めて古代イン
ド人は輪廻転生しない境涯を理想として求めた。
ジャイナ教ではモークシャ、仏教ではニルヴァーナ、ヒンドゥ教ではカイバリ
ヤである。言葉は違うが意識が不死不生になって輪廻転生しなくなった状態で
ある。これを解脱という。解脱を求めての修行がインドに起こった宗教の基本
であり、カルマ論が哲学の精髄である。
解脱を求めて古代インド人は出家した。行為によるカルマの蓄積を避けるため
に、世俗的な生活からドロップアウトすることが出家である。出家の理想は行
為をしないことである。マハヴィーラは12年半の修行の中で何も行為をしな
かった。食事も一週間に一回程度、つまり通常の人の20回に一回程度の食事
で命を繋いだ。つまり食事もしなかったのである。何もしないで只、立ち尽く
し、座り尽くした。黙って立っていた。考えることもやめて只、荒野に日差し
を避けてボーッと立っていた。
あるときマハヴィーラが荒野に立って瞑想していた時に、ある牛飼いがマハヴ
ィーラのもとにやって来て、「迷子になった俺の牛を見なかったか」と尋ねた。
深い瞑想状態に入っていたマハヴィーラは無言で立ち尽くしていると、牛飼い
は「俺の言葉が聞こえないのか、聞こえない耳ならこうしてやる」と言って、
真っ赤な焼き火箸をマハヴィーラの耳に差し込んだ。それでもマハヴィーラは
苦痛に耐えて只、立ち尽くしていた。
何もしない行為というのはまさに深く瞑想に入っているということである。デ
ィヤーナやサマーディーの深い瞑想状態では、何かをしているということがな
くなる。することが無くなって只、起こることだけが起きている。
私たちが生きていて、行為を何もしなかったら意識は純粋になってゆく、完全
に純粋になった状態をアカルマという。アカルマは無業の状態、原因がなくな
った状態である。原因が無くなれば、原因と結果の法則から外れて輪廻転生し
ない。アカルマすなわちモークシャであり解脱である。
解脱を求める人は行為を何もなさないために、世俗的な生活から離れて、出家
する必要性があった。だから、初期仏教やジャイナ教は出家しなければ解脱出
来ないと出家主義をとったのである。個人救済を重視した。
普段私たちは体を動かさないこと、何もしないことの重要性が理解出来ない。
何もしないことは何かすることよりもずっと価値がある。スポーツやダンスで
体を動かすことは好きでよくするが、じっとしている座禅は苦手であまり好き
ではない。常に姿勢を変えながら心身のバランスを取らざるを得ない人間にと
って、じっとしているのは苦痛に感じてしまうからだ。
経験してみればわかることだが、動いているよりじっと動かない事の方がずっ
と価値がある。考えないことは、考えることよりもずっと良いことである。黙
っていることは話すことよりずっと良いことである。
瞑想によって体と心と感情の動きが静まり、安定する。瞑想とは思考が止まり、
心が安定し、観じようとする意識が沈黙の場、静けさの場所に入っていって、
さらに深く入っていくことである。
波静かな池に名月がありありと映るように、瞑目して思考が無くなり、外部か
らの音も気にならず、心と感情が波静かな池のようになって自分自身に反射し
ている。そのようなとき、自分自身を自分で観る事が出来るのだ。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)