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2019年9月5日木曜日

コラム:南インドの聖なる篝火の山・アルナチャラ その1

この旅行記は1994年1月「一瞥のアルナチャラ」として書いた、未発表原
稿に手を加えたものである。

今から40年以上前、私が20歳代後半に初めてインドを訪れたとき、ぼろぼ
ろですすけたカルカッタ空港の待合室で大きなヒンズー教寺院の写真を見た。
その大きな画像は手前に数本の高いヤシの木が写っていて、その背後にマヤの
神殿のようなピラミダルな高層建築が聳えているものだった。その画像は大変
迫力があり、何かを強烈にアピールしていた。「へー、インドにこんなすごい
建築物があるのか、どこだろう。」その画像は世界中の宗教的建築物に興味を
持っていた私の心に強い印象を残した。後年、その写真が南インド最大のミナ
クシ寺院のゴープラム(山門)を撮ったものであることを知った。

昭和58年8月、大陸書房より、おおえ・まさのり訳編の『南インドの瞑想』
が出版された。すぐに私はこの本を求めた。本の内容は近代インドの哲人、
ラーマ・クリシュナやオーロビンド・ゴーシュ、クリシュナ・ムルティと並び
称せられるラマナ・マハリシの生涯と弟子達との間で話された対話や質問を採
録したものである。なんと、その本の表紙がヒンズー寺院(アルナチャ・レシ
ュワラ寺院)のゴープラムのイラストであった。

本をめくっていくと、ラマナ・マハリシやアルナチャラ山、ラマナシュラムの
平和なたたずまいの写真にすっかり魅せられてしまった。そして、何としても
南インドへ行きたいと思った。昭和58年12月、心の高まりを抑えることが
できなくて、南インドへ一人旅に出た。それは、シュリナガールやラッダック
を旅した後、私にとって3度目のインドの旅になった。

旅行の目的地をタミールナドウ州だけにしぼり、カンチプーラム、マハバリプ
ーラム、マドゥライ、テルチラパッリ、スリランガム、タンジョールなどの街
々に泊まり、ドラビダ様式の代表的寺院を訪ね歩いた。アルナチャラ山のある
テルバンナマライにも行きたかったが日程の都合で割愛せざるを得なかった。

南インドを一人旅した夢のような日々から10年が過ぎた平成5年8月、下田
の沖ヨガ道場で龍村道場長から「南インド旅行のツアーに一緒に行きませんか?
」 と声をかけられた。その日程をみると、かつて私が一人旅をした場所と全
く重複していなかった。日程の中にアルナチャラとラマナシュラムを訪れること
になっているのが私の心を捉えた。しかし、滞在する時間があまりにも短いこと
が不満だった。しかし、内なる声が一瞥でも良いからアルナチャラを見に行くよ
うにと促す。カーニャ・クマリで沐浴するという目的も持ってツアーに参加する
ことを決めた。以下はその時の旅行記である。

テルバンナマライ

マドラスを朝食後に発って、テルバンナマライに着いたのは午後も遅くなってい
た。テルバンナマライでガソリンスタンドを経営しているジャイナ教徒・ネルマ
ール・クマールさんから我々は食事の招待を受けた。何が起こるかわからないハ
プニングの連続がインドの旅であることは充分承知しているけど、昼食の接待が
ぐずぐずと夕食の接待みたいに遅くなったのには参った。クマールさんの家から
憧れのアルナチャ・レシュワラ寺院のゴープラムとアルナチャラの全貌が手に取
るように近くに見える。早くお寺やアシュラムに行きたいと心は焦るけど、とに
かく全てがスローに進行する。せっかくの心を込めた接待も私はうんざりだった
。我々がテルバンナマライに滞在できる時間は20時間ぐらいしかないのだ。や
っと昼食の接待から解放されてラマナシュラムに着いたのは夕刻になってしまっ
た。アシュラムに着くと、私は行けるところまででいいとアルナチャラ目指して
先頭で登り始めた。「できれば、ラマナ・マハリシが瞑想した洞窟や祠も見てみ
たい。」と気持ちは焦る。

私の意識は少年の頃から何時も山に惹かれている。特に、このような聖山に来る
と意識は高揚してしまう。アルナチャラは樹木が少なくゴロゴロとした花崗岩の
大岩が積み重なった山で麓からの高さは5~600mほどである。Tシャツ1枚
になって登ってゆくが、すっかり汗ばんでくる。12月の夕方、涼しい今でこん
なだから、暑い日中や4、5月の酷暑期では山に登れないだろう。ラマナシュラ
ムから中腹のスカンダシュラムまでは石畳が敷かれていて歩きやすい。スカンダ
シュラムはラマナ・マハリシが37歳から42歳ごろの5年間住んでいた岩山の
小さなお寺である。樹木の少ないアルナチャラにあって、スカンダシュラムの周
囲は樹木が亭々と茂り、寺のすぐ傍らを豊かな水が滝のように流れている。もし
酷暑期であったならここは本当にオアシスのようなところだ。

スカンダシュラムのすぐ近く、足下にアルナチャ・レシュワラ寺院を一望できる
ビューポイントがある。そこは、ラマナ・マハリシが一時住んでいたマンゴ樹洞
窟やヴィルパクシャ洞窟とラマナシュラムを結ぶ山道のちょうど峠にあたり、峠
の頂き山道の傍らに大岩がある。大岩の東側は崖になっていて、アルナチャ・レ
シュワラ寺院の全貌が足下に臨まれる。素晴らしい眺めである。

スカンダシュラムは峠を北側に2,3分下った所にあって、時間的に遅かったの
か、門が閉じられていて中に入ることはできなかった。峠の大岩に戻ると後続の
人たちも登ってきていた。大岩に坐って再び足下に展開する絶景の風景を見る。
この峠の大岩はちょうどアルナチャ・レシュワラ寺院の真西にあたり、座ってい
るここから手前に西門、本殿、東門が一直線に並んでいる。左には北門、右には
南門、寺院の8のゴープラムが古代マヤ神殿のように高く聳え立つ様は感動的な
絶景である。

ドラビダ様式のヒンズー教寺院は山のように高いゴープラムと呼ばれる山門に取
り囲まれているのが一般的である。太陽の登る方向、東門が普通正門で一番大き
く高い。ゴーは牛という意味で、プラムは門の意味である。山門全体で聖なる牛
を表現していると言われる。アルナチャ・レシュワラ寺院を中心にした足下に見
えるテルバンナマライの町から、さまざまな音が混じり合って聞こえてくる。町
からの音はアルナチャラにぶつかってマントラのように反響する。私は夕闇が迫
る岩の上に坐ってシバ神のマントラを唱えた。

1オーム・ナマー・シバー、 オーム・ナマー・シバー、・・・・・・・。
2 ジャヤ・ジャヤ・シバ・シャンボー、 ジャヤ・ジャヤ・シバ・シャンボー、
マハ・ディヴァ・ シャンボー、 マハ・ディヴァ・シャンボー、 ・・・・。
3 オーム・アルナ・チャラ・シバー・ヤー、オーム・アルナ・チャラ・シバー
・ヤー、・・・・・・・・・・。

日はとっくに沈み、足元は暗くなり始めた。オーム・アルナ・チャラ・シバー・
ヤー、を唱えながら山を降りる。山の様子はだいたい解った。頂上まで2時間
から2時間半、山を下りながら「明日、早朝に頂上まで登って来よう」と決心
した。

ラマナシュラムに戻り、夜、アルナチャ・レシュワラ寺院をゆっくり見学した。
門前には多くの店や屋台の売店があり、日本の縁日の夜店を見て歩くようで楽
しかった。電球の光に浮かぶゴープラムは20階建てのビルを見上げるように
高く壮大で、10年前に尋ねたときのミナクシ寺院やシュリランガム寺院の山
門を見たときの感激が再び蘇ってきた。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/4月第80号からの転載です)

2019年8月15日木曜日

コラム:人類のカルマ・人類存亡の瀬戸際

地球温暖化の嘘は嘘
地球温暖化の脅威についてはこのメールマガジンでも過去に何度か取り上げ
ている。原稿を書いている今は8月の半ばで、今夏はまだ終わっていないが、
今年の夏は世界各地で気候変動による異常高温や洪水被害、大規模な山火事
の発生が多発している。国内でも昨年の九州北部豪雨に続き西日本豪雨災害
が起き、各地で40℃を越える猛暑が連日観測されている。埼玉県熊谷市では
7月23日、41.1℃を観測し国内観測史上最高気温を更新した。いまだに、地
球温暖化は人間活動、CO2の増加が原因ではないとして、地球温暖化は嘘だ
という論調を展開している馬鹿な学者(中京大学の武田邦彦教授など)が
存在しているが、今では地球温暖化の嘘は嘘だと否定する科学者の考えが
世界の主流になっている。

再び地球環境問題がクローズアップ
 私は1980年代から地球温暖化問題に強い関心をもっていて、ジャーナリズ
ムの報道に強い関心を寄せてきた。2006,7年ごろ元アメリカ副大統領のアル
・ゴアによる「不都合な真実」が出版されて地球環境問題は一気に盛り上が
ったが、数年後沈静化して、最近、日本ではあまり新聞やテレビに報道され
なくなっていた。マスコミ関係者は東日本大震災や原発事故の復旧、経済問
題やスキャンダルの報道を優先し、地球温暖化問題は不都合な真実として報
道自粛していたように思える。
その報道自粛で情報が少なかったこの10年間に地球温暖化問題は着実に進行
していた。今年になって積み重なった原因が一気に噴出してきて、世界中の
誰の目にもただならぬことが地球気象に起こっていると実感されるようにな
った。世界に異常気象と災害が続出しているのでマスコミも報道せざるを得
なくなってきている。世界で起っていることを総合的に見れば、何が今起こ
っていて将来どのようなことが起こるか大まかに知ることが出来ると思う。

世界各地で洪水起こる
 今年の4月、イスラエルからパレスチナ自治区ヨルダン川西岸にかけて、
大雨や洪水、雹などの影響で若者ら十数人が死亡。乾燥した中東でこのよう
な災害が起こることは非常に珍しい。5月には中東のイエメンやオマーンに
サイクロンが直撃し水害が起こった。以上はイスラエル在住のガリコ恵美子
さんの報告。ラオスでは7月23日に建設中のダムが長雨で決壊し大規模な洪
水被害をもたらした。7月上旬にはロシアのモンゴル国境付近のザバイカリ
エで観測史上最大の洪水が発生した。中国雲南省では毎年のようにどこかで
洪水が起こっているが今年も激しい豪雨により各地で河川が氾濫した。四川
省や甘粛省でも洪水が起こった。7月の西日本豪雨だけでなく世界中で未曽
有の豪雨や洪水被害が起きている。日本では7月に72時間降水量が全国の雨
量観測地点の一割強に当たる138地点で観測史上一位を更新した。中でも高
知県馬路村では1319mmになった。そして西日本豪雨が発生した。豪雨の後、
被災地に連日猛暑が襲った。気象庁はその猛暑を災害であるとした。

世界中で森林火災発生
 世界気象機関(WMO)の7月20日の記者会見によると、ノルウエーでは北部
の北極圏で7月17日、7月としては史上最高の33.5℃を記録し、翌18日には北
極圏の別の場所で夜間の最低気温が25.2℃と日本の熱帯夜に相当する高い気
温を観測した。読売新聞7月21日の記事ではスウェーデンで7月中旬だけで高
温と乾燥による森林火災が50件以上も起きて国家の危機的状況だと伝えてい
る。APPによれば、ヨーロッパ北部で長期化している未曽有の熱波で北極圏
で森林火災が頻発し、ラトビア西部で大規模な山火事が起こっている。ラト
ビア政府は農業部門で非常事態宣言を出した。8月8日の共同通信の報道によ
れば7月23日から始まったカリフォルニア州の山火事でサンフランシスコ北
部の火災の焼失面積は8月6日までに東京都の半分以上に相当する1150平方キ
ロに達し4万人が避難している。日経新聞の報道によればギリシャでも時を
同じくして29日、大規模な山火事が起こり死者が91人に達した。山火事がギ
リシャのチプラス政権をゆすっている。日経新聞8月1日の記事にはシベリア
で800平方キロの森林火災が起きていると報じている。

世界中で猛暑・最高気温の更新
 世界の異常気象を報じるインターネットのアース・カタストロフ・レビュ
ーによれば、地中海の海水温度が原因不明の異常状態で通常より5℃高い海
域もある。7月10日アリゾナ州南部で今まで見たこともないような超巨大な
砂嵐が発生した。7月15日フランス・リヨンで雹嵐によって風景が雪景色の
ようになった。巨大な積乱雲スーパーセルによるものである。北アフリカ
のアルジェリアのワルグラという町では7月5日、これまで一度も経験した
ことのない非現実的な気温51.3℃を記録した。カナダのケベック州では7月
16日、激しい熱波によって70人が死亡。
ニューズウィークの配信によれば、8月4日ポルトガル中部で46.4℃を記録。
スペイン南部で45.1℃になった。カリフォルニア州南部のインペリア郡
(人口17,000人)で7月24日世界史上最も暑い雨が降った。降り始め時点で
の気温が48.3℃だった。気温37.7℃以上で雨が降ることはほとんどない。
それ以上の気温の場合、高気圧がつきものだからである。

原因は
 どうしてこのようなことになるのかというと、東京大学名誉教授山本良一
氏によれば、地球温暖化による影響がさらなる温暖化を加速させるポジテブ
フィードバックが起こっているからだという。北極圏の海水温が高くなり海
氷が激減している。高緯度地域の気温が上昇し赤道付近の気温との温度差が
少なくなるとジェット気流の流れが遅くなり大きく蛇行するようになる。そ
のことで世界各地で異常気象がもたらされているのだと言っている。日本の
7月の記録的な猛暑は太平洋高気圧が居座り続く中、その上にチベット高気
圧が大陸から張り出してきて二階建て構造になったからである。その気圧配
置の元を辿っていくとインド洋の海水温が東西で逆転していたからである。
通常はインド洋の海水温は東が高く西が低い、これが逆転するダイポールモ
ード現象が起きていたからである。
根本原因は人間の欲望にあり、エゴの心にあり、科学技術の急速な発展にあ
る。それが人類のカルマである。

2018年は始まりの始まりの年
今までは地球温暖化は人間活動によるものではないとする科学者の見解も多
く、人間活動による化石燃料の消費、CO2の増加が起因していると断定できな
い事もあった。しかし観測結果が積み重なり、そして実際に得られるデータ
と気温上昇がはっきり人間活動の増加によるものと断定できるようになった。
そして、予測された通りの異常気象が起こった。私は、2018年は誰の目にも
温暖化がはっきりした事実と具体的な体験として、人類が引き起こしている
ものだと自覚出来た年になったと思う。そういう意味でエポックな年になっ
たと思う。これからは毎年このような気象災害が起こるだろう。そして、ま
すます激しくなっていくと予測する。

後戻りできない深刻なことが起こる
 私は中国やインド、東南アジア諸国の経済発展が始まった時に、「あー、
これで地球環境問題は深刻になる」と予想した。その時、思ったのは気温
上昇がどのくらいで、海面上昇がどのくらいになるか、だった。近年の海
面上昇は年間2mm前後である。2mmだったらさほど問題ではない。10年で2cm、
100年でも2cmだからだ。本当にそんな程度で済むかということである。南
極の氷が1/10融けると海面上昇は7メートルになる。これには海水温上昇に
よる膨張やグリーンランドの氷河融解は含まれていない。こうした中で、
8月7日インターネット上で驚くべきニュースが流れた。コペンハーゲン大学
、ドイツのポツダム気候影響研究所、オーストラリヤ国立大学などの研究者
がまとめた論文で、このまま極地の氷が融け、森林が失われ、温室効果ガス
の排出量が増え続ければ転換点となる、しきい値をこえる。そうなれば気温
は産業革命前よりも4~5℃上昇する。海面は現在よりも10メートルから60メ
ートル上昇する。という、衝撃的内容である。アメリカの気候科学者の第一
人者であるNASのジェームス・ハンセン氏が2012年講演した話では今世紀末
までに海面上昇は5メートルに達すると予測している。私たちの孫たちはそ
れを目撃することになる。

予測と対応
 海面上昇は人類が築き上げた都市文明を崩壊させるであろう。その前に世
界各地で河川が氾濫し、沿岸地域は巨大台風などの暴風被害により多大な損
失を被ることとなろう。気候変動で食料が生産できず世界各地で飢饉が起こ
るだろう。安全な場所を求めて民族移動が起こる。それが軋轢になって戦乱
が起こるだろう。気候変動はテクノロジーでは解決できないと私は考える。
私はどう考えても悲観的な結論になってしまう。我々は困難な状況に陥る前
に備えるときが来たと思う。我々は人間の暮らしの原点に帰って、何が起こ
っても大丈夫に暮らしていける方法を見出す時が来たと思う。人間に必要な
最低限は何か、昔の人の暮らしはどうだったか研究してほしい。この状況下
、AIも地方に移住することを勧めている。若い世代の皆さんに地方都市近郊
や中山間地域への移住を勧めたい。そこに新しい価値観の理想郷を築いてほ
しいと思う。今の生活を替えられない人はそのようなことが起こるだろうと
予測してビジネスに役立ててほしい。ピンチはチャンスと考えて積極的に生
きる生き方もあります。

結論・パニックにならないために一歩先を行く
 スーパーコンピューター・地球シミュレータは2027年に温暖化限界値+2℃
を越えてしまうと予測している。そうなれば温暖化が加速して、もう後戻り
できなくなる。負のスパイラルが始まる。福島第一原発事故よりも、もっと
大変なことが起こりつつあるのです。ノアの箱舟のような、未曽有の災害多
発の困難を乗り切るための『安全な砦』が必要な時代が始まったのかもしれ
ません。志ある日本の若者よ、機会を捉えて洪水の危険性がない中山間地域
に移住してください。それが自分と家族と子孫を安全に守る道だと私は考え
ています。世界中でそのように考える人が増えつつあります。これからの時
代は地方に移住した方が良いか、首都圏に住み続ける方が幸せかは意見が分
かれるところなので、それぞれの人の立場で広く情報を集め、分析し深く観
察し先の先を考えてください。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/8月第84号からの転載です)

2019年6月16日日曜日

コラム:肉体はリサイクル品

時間の経過とともに、この世の物質的な物は全て変化してしまう。この世の
中の柔らかい物も固い物も全てが変化する。流れて時が過ぎれば全ての物は、
違った場所で違った物になっている。

 諸行無常という変化の自然法則の中で、似たような現象が前後で少し形を
変えるがパターンになって繰り返し発生することがある。それが循環の自然
法則である。循環とは地球の回転によって生起している朝昼晩の繰り返しで
あり、季節の巡りである。陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ずる法則
でもある。春になれば桜の木が満開の花を咲かせるが、桜の木そのものは前
年の木と同じでも、一年の間に盛衰して違った木になっている。満開の桜の
花も咲き方が前の年とは違っている。経済現象や歴史も特定のパターンが繰
り返される。個々の株式相場の上げ下げも循環として考えることが出来る。
私たちの呼吸も循環そのものであり、血液の流れ、生命力の流れも循環で
ある。河の流れも大気も循環して変化はとどまることがない。

 そういう循環法則の中で宇宙そのものが変化して流れている。超新星爆発
で粉々に飛び散った岩石やガスを材料として新たな恒星が誕生する。新たな
星は爆発飛散した古い星の棄てた物質を素材として星自身を創っていく。循
環の中で陰陽が入れ替わり、拡散力と収縮力が入れ替わっている。

 私たち人間の肉体も宇宙的大きな流れの中の循環現象の現れであり、すべ
てリサイクル品によって成り立っている。私たちの肉体はリサイクル品なの
だ。以前、誰かが捨てたものを使って私たちは自分の肉体を作っている。そ
して私たちは自分が使って不要になったものを再度リサイクル品として廃棄
している。リサイクル品を使って自分の肉体を作り、使用済みのいらなくな
った物をリサイクル品として誰かに再度使って貰うべく捨てている。それを
受胎したときから死ぬまでずっと継続してやっているのだ。

 人間の死体は分解して全て地球上で原子・元素に還元される。その原子・
元素は植物や動物や他の人にも使われることがあるかも知れない。たとえす
ぐに使われないとしても、流れて時が過ぎれば、地球の崩壊とともに宇宙空
間にばらまかれる。さらに時が過ぎれば宇宙空間のどこかの惑星で全く別の
生き物がリサイクル品として私たちの肉体を構成していた原子・元素を使う
だろう。そう考えれば果たして墓を作ることが真実のことかどうか疑わしく
なる。その反対に地球そのものが私たちの実家であり、墓地であると考える
ことが出来るかもしれない。

 私たちが吸っている空気は地球上の他の生き物、植物や、動物や他の人間
がすでに使って棄てたものである。以前に誰かが吐いた空気を私たちは今、
吸っている。私が今吸っている空気の中には、大昔の聖者、仏陀やマハーヴ
ィーラが呼吸した空気の一部が含まれているかもしれない。そう考えれば呼
吸によって私は仏陀やマハーヴィーラとつながっているのだと思える。好き
な人だけでなく呼吸を通じて嫌いな人とも繋がっていると理解できる。混み
あった電車の中で乗り合わせた乗客たちは誰かが吐いた息を吸い、自分が吐
いた息を誰かが吸っている。呼吸を通じて乗り合わせた乗客たちはリサイク
ルの空気によって繋がっている。このように、私達は他との繋がり無くして
一人だけ単独では存在することが出来ないのである。

 私が今飲んだ水はかって誰かが使ったリサイクル品である。私が今日排泄
した小便はリサイクルされてビールその他の飲み物になるかも知れない。そ
の飲み物を誰かが飲む。私が排泄した大便は、やがて肥料になり作物の中に
養分として吸収されて、再び誰かの食物になるかもしれない。

 私たちが口から摂取している飲み物や食べ物は地球規模のリサイクル品、
使い回し品である。そのリサイクル品を通じて私たちは過去現在未来の全て
の存在達と御縁で結ばれている。私たちは個であると同時に全体である。私
たちが生涯の間に摂取するリサイクル品としての飲み物や食べ物は甚大な量
である。どれくらいの量になるかイメージすることすら難しい。その甚大な
量のリサイクル品が私たちの肉体を作り、活動のためのエネルギーを生み出
して、私たちの生存を支えている。

 私たちの肉体はリサイクル品なので本当の私ではない。本当の私はそのリ
サイクル物質を使用し廃棄しているアートマンと呼ばれる魂である。魂がリ
サイクル品でつくった肉体を使用しているのである。魂がその人にとって必
要な物質を集めて肉体を作り維持している。肉体を維持するために必要なも
のを集荷し取り入れ、使用し、不要になれば廃棄している。そのように肉体
をリサイクル品と思えれば、肉体への執着が希薄になる。肉体に対する執着
が無くなれば、恐怖や不安が無くなり非暴力が実践できる。

 魂はリサイクル品ではない。魂は変化するものではないからだ。魂は物質
ではない。作られたものではないから、無くならないし滅びもしない。魂は
あらゆるものの中に浸透し行き渡って偏在である。何処かに行くこともなけ
れば、何処からか来るものでもない。

 その魂であるアートマンがリサイクル品を使って人生を体験している。生
きていることの体験は魂にある種の汚れをもたらす。その汚れであるカルマ
がヴァーサナーになって使うべきリサイクル品の選別に関与している。だか
ら私たちはその魂に付いた汚れのことを知らなくてはならない。また、私た
ちは魂と肉体は完全に別物であるということを理解しなければならない。肉
体はリサイクル品でできているということ、その肉体は私ではないと言うこ
とを完全に理解しなければならない。諸行無常の物質世界の原則が当てはま
らない魂についても理解しなければならない。それらのことが理解できれば
魂を中心にした生き方が出来るようになる。魂を中心にした生き方のことを
正しい生き方と言うのである。魂に付着した汚れをとることがプレクシャ・
メディテーションの目的である。魂の汚れが完全に無くなり純粋になること
をモークシャという。モークシャに一歩でも近づくことが人生の意味である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/7月第83号からの転載です)