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2013年5月24日金曜日

第44回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第44回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2013年6月3日(月)19:00~21:00
場所:市民センター集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)

テーマ:リラクセーション瞑想の科学(その1)―リラックスの理論と類型―

今回からいよいよ第IV期の課題「瞑想と現代科学の関係」に入ります。最初の
テーマは、カヨーウッサグ(完全リラクセーション瞑想)がもたらす効果の生
理学的理解です。リラクセーションを医学的観点からわかりやすく説明した一
般向けの本は意外に少ないのですが、まずは外堀から、このテーマの検討の糸
口を明確にするために、これまでリラクセーションに関してどのような理論が
展開され、どのような観点から整理されてきたか、リラクセーションの類型を
整理しておきたいと思います。様々なリラクセーション手法と比較して瞑想が
どのような意義をもっているかを考える前提を確認します。

※参加前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)を
  ご確認ください。急な連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村 
  (savita.nakamura@gmail.com)までご連絡ください。ご連絡をいただかな
  いと、資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
  等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
・2013年7月1日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2013年8月5日(月)19時~21時 場所:同上


※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

コラム[純粋とは何か]

沖ヨガの創設者、ヨガの哲人・沖正弘先生は生前ヨガの弟子達に「純粋さを学
びたかったら、インドのジャイナ教に学びなさい」と言っていました。30代の
私はその頃、(1984年頃)沖ヨガ修道場を時々訪れて、沖先生の語られるヨガ
哲学の講義の内容に深く感銘を受けました。

沖先生は「純粋」という意味をその時詳しく説明してくれませんでした。そし
て詳しい内容をお聞きする機会がないまま、先生は1985年7月イタリヤで入定
されました。そんなわけで、「純粋とは何か」という疑問が私の宿題として残
ったのです。

純粋とは完全に混じりけのない清らかさで、純粋の反対語が不純です。不純な
心は汚れていて、純粋な心は清らかな心だということぐらいはその時理解でき
ていました。沖ヨガ行持集によって、清い心は無要求な心、他に自分を捧げる
心、全てに感謝出来る心であると教わりました。しかし私が本当の意味での純
粋を理解出来るまでにその後、20年以上の歳月を要しました。最近になって少
し純粋という意味が解ってきました。

純粋とは良い悪い、正しい間違いを手放したことを言います。良い悪い、正し
い間違いを超越したところの真実のことです。私たちの体の中に生命があって、
その生命は変化し続けるエネルギーです。生命の働きは常に変化しつつバラン
スを取ろうと働いています。生命はエネルギーですからプラスとマイナスがあ
ります。プラスとマイナスの電磁気的な流れによって変化が起こります。収縮
と拡散、明るさ暗さ、暖かさ冷たさ、濃い薄い、重い軽い等身体内部の感覚の
変化です。感覚は感覚であって良い悪いはありません。その感覚を良い悪いと
区別することが不純です。

全ての生き物には意識と感覚があります。だから生命とは意識であり感覚とい
えます。プレクシャメディテーションでは意識的な心で身体内部にあるさまざ
まな感覚を観じとっていきます。身体内部の感覚は生命そのものです。生命が
休みなく継続的に変化するので身体内部の感覚も休みなく継続的に変化します。
その感覚の変化を意識的な心つまり純粋意識で知覚するのです。純粋意識は良
い悪い、正しい間違いを手放した無判断の心です。判断せずに只の心でありの
ままに観じることがプレクシャメディテーションの方法です。意識的な心が観
じる主体であり、内部感覚は観られている客体です。双方が生命ですから生命
で生命を観ることになります。つまり魂で魂を観る。神が神を観ることになり
ます。純粋意識で内部感覚を観じていって内部感覚の動きが静まり、ついには
静止した状態になり、感覚が消滅したようになったとき身体内部の感覚とは全
く別の感覚が立ち現れて来ます。全く静かで透明で無限の彼方まで広がり、喜
びに溢れ平和で時空間を超越したものです。この感覚はこの世の時空間に属し
ていません。生命はこの世に属していますが、魂や神はこの世に属していない
のです。

顕在意識(普段感じている自己の心)は汚れていても、感覚である生命はいつ
も純粋で汚れることはありません。感じようとする心を身体内部にある感覚に
浸すと純粋である感覚によって心が浄化され綺麗になっていきます。瞑想がカ
ルマの汚れを無くす最も優れた方法であるのはこのことによるのです。カルマ
をなくして純粋になる道をヨガと言います。

快不快、好き嫌いが執着を生み出します。不快に思うとき、嫌いと思う心が暴
力的心です。快適、好きと思うとき、欲しい手放したくないとの欲が起こりま
す。無所有、無執着は判断を手放さないと実行できません。求めない心(欲を
離れる)とは判断を手放さないと出来ません。

生命の働きは苦楽、快不快の感覚によって守られています。苦や不快がなくて
楽や快感だけしか存在しなかったら生物は生きられませんし宇宙も存在しなか
ったでしょう。

生きているとは呼吸していることに他なりませんが、どんなに吸う息が楽でも
吸い続けることは出来ません。吸い続ければ楽が苦に変わります。吸気が苦し
みになったとき息を吐けば苦が楽に変わり、吐き続ければ今度は楽が苦になり
ます。苦と楽は一如なのです。苦を避けようとして楽を求めてもそれは出来ま
せん。食べ続けることも出来ないし、食べないでずっといることもできません。
苦楽は生命を守るために起こっているのであって良い悪い、正しい間違いでは
ありません。だから判断することが不自然なのです。しかし全ての生き物は苦
と不快を厭い、楽と快適を求めています。それが本能で根本欲です。根本欲が
生命を守っていますが、それは不純な心、カルマが生命に結びついていること
だと言えるのです。

カルマによって生き物は輪廻転生するというのがジャイナ教の考えです。心が
純粋になったときつまりカルマが無くなった時、本当の自分に出会えるのです。
自分に現れている一切の事物と現象が自分のカルマの現れであると気づくとき
全てのものに感謝でき、自己を他に捧げることが出来ると思います。

全ての生き物はアカルマになるまで、純粋の解脱を得るまで、長い旅路を一緒
に旅する伴侶です。魂の兄弟です。お互いに助け合い友情を育むというのがジ
ャイナ教の非暴力、友好です。

非暴力・不殺生・友好と無所有・無執着の実践が純粋になる道です。これがジ
ャイナ教の基本的な教えです。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)