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2015年12月31日木曜日

「瞑想とヨガ」坂本知忠講師による、プレクシャ瞑想教室 <東中野>

「瞑想とヨガ」坂本知忠講師による、プレクシャ瞑想教室 <東中野>
(*単位取得対象講座)

『勝利者の瞑想法』著者である坂本知忠による定期プレクシャ瞑想教室です。

日時:毎週木曜日 19:00~20:30

【プレクシャ・メディテーション指導者養成講座 レベル1】

指導者養成講座レベル1が2月からスタートします。基礎から学びたい方、前
回学ばれて途中お休みされた方など、ふるってご参加くださいませ。
※1月中は講座はお休みとなります。

第1回 2月4日 瞑想とは何か、どのように行うか
第2回 2月18日 カヨウウッサグの理論
第3回 2月25日 アンタル・ヤートラの理論
第4回 3月3日  ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点
第5回 3月10日 シュバーサ・プレクシャの理論
第6回 3月17日 呼吸法とプラナヤマについて
第7回 3月24日 マントラを唱える意味
第8回 3月31日 身体の宗教哲学的意味
第9回 4月7日  肉体、電磁気体、カルマ体、魂につぃて
第10回 4月14日 8つの主要なケンドラについて
第11回 4月28日 4ステップ瞑想の組み合わせ配分について
第12回 4月29日(祝・金)特別瞑想会13:00~16:00 レべル1の仕上げ

場所:NPO沖ヨガ協会 沖ヨガスタジオ
   中野区東中野3-6-14 小谷ビル301
電話番号:03-6908-5613
http://okiyoga.com/studio/index.php?Class
交通:JR東中野西口より徒歩5分、東京メトロ東西線落合駅より徒歩3分

アクセスマップにつきましては、下記URLにてご確認ください。
http://goo.gl/maps/qJtvK

※当日参加費として2,000円を頂戴いたします。
 (この講座は協会主催の講座ではないため、会員割引の適用はありません)
※NPO沖ヨガ協会(国際総合ヨガ協会)の会員でなくとも受講できます。
※初めて参加される方は予め連絡をいただき、日程や開催場所をご確認下さい。
※ヨガマットは不要です。

コラム[ラーナクプールのジャイナ教寺院]

ジャイナ教は一世紀頃、大きく裸形派と白衣派に分かれ、さらに偶像崇拝する
派と寺院を持たず偶像崇拝しない派に分かれている。白衣派の中から17世紀
に偶像崇拝を否定し寺院を持たない、スターナックヴァーシン派が出現した。
それに対して寺院に参拝しジナ像を崇拝する派はムールティプージャカと呼ん
でいる。私たちがプレクシャ・メディテーションを学んでいるテーラパンタ派
はスターナックヴァーシンから分派して1761年にアチャリヤ・ビークシュによ
って始められた。現在のアチャリヤ・マハーシュラマン師は11代目のアチャリ
ヤ(ダライラマのような宗派の最高指導者)である。テーラパンタ派は古代の
ジャイナ教への復帰を目指す復古主義グループであり、教団と在家信者の関係
及び宗教的形態や活動が古代ジャイナ教の姿を今にとどめている。

ジャイナ教の戒律であるアヒンサー(非暴力、不殺生)とアパリグラハ(無所
有、無執着)の実践は徹底したものであり、一切の妥協を許さぬ厳しいもので
ある。これに対して同じ戒律を持ち兄弟宗教とされる仏教各派の非暴力、無所
有の実践は中道といって中途半端で生ぬるい。ジャイナ教は魂を清らかにする
ための実践宗教と言える。輪廻転生の原動力になっている魂の汚れであるカル
マの浄化が修行の基本となっている。全ての生き物に魂を認めているので、他
の命を奪うことを厳しく諌めている。世界一平和な宗教であるといえる。

アチャリヤ・マハーシュラマン師は、世界平和のために2014年、テーラパンタ
派の根拠地ラジャスタン州のラドヌーンを出発してアヒンサー・ヤートラ(非
暴力の旅)に出られた。古代の伝統に基づく布教伝道の旅である。車や鉄道、
飛行機に乗れないので完全に徒歩による巡行である。5月にアチャリヤ一行は
ネパールのカトマンズで地震に遭遇したが、幸い一行の中から怪我人は出なか
った。さらに一行は巡行を重ね、11月15日から22日までの間、ネパールの4番
目に大きな街ビルトナガールで、プレクシャ・メディテーション国際キャンプ
が開かれた。この国際キャンプに私を含めて11名が日本から部分参加した。

テーラパンタ派は1年に一回、各地で活動している出家僧、尼僧、在家信徒が
一堂に会し家族的な団結を確認しあうという伝統守ってきた。2002年からは海
外に普及したプレクシャ・メディテーションの仲間もその会合に合わせて参加
し学ぶという国際キャンプが始まった。

会場がネパールだったということもあり、今年の国際キャンプはインド国内か
らの参加者は少なく、また海外からの参加者も極めて少なく盛り上がりに欠け
ていた。

ビルトナガールはインド国境に近いネパール東部の街で、インド系ネパール人
が多い。ネパールというイメージではなく、観光地でないインドの埃っぽい普
通の田舎町といった風情だった。ビルトナガールにはネパールでも有数な富豪
の実家があり、その富豪一族が有力なスポンサーになって今回の国際キャンプ
は開かれた。街全体がお祭りのような歓迎ムードに包まれていた。アチャリヤ
一行は、ネパールの後、再びインドに入り、ブータンを巡幸し、さらにインド
各地を7年間かけて15000キロを歩いて旅をされるという。

アヒンサー・ヤートラの巡行を終えれば、偉業を成し遂げたアチャリヤ・マ
ハーシュラマン師は9代目アチャリヤ・トウルシー師のように全信徒から心よ
り尊敬される偉大なる指導者になるに違いない。

私はお寺を持たない偶像崇拝しないというジャイナ教復古主義グループのテー
ラパンタ派で瞑想を学んでいるが、ジャイナ教の寺院やジナ像にも多大な感心
を持っている。初めて(1989年)ラーナクプールのアディナータ寺院やグジャ
ラート州のシャトルンジャヤ山の山岳寺院群に参拝したとき、白大理石で作ら
れたジャイナ教寺院に強く魅せられた。シャトルンジャヤ山は宇宙都市のよう
な異彩を放っており、ラーナクプールの寺院は瞑想空間として、その独創的な
立体的構成に驚嘆した。その後、ラーナクプールのアディナータ寺院やシャト
ルンジャヤ山にもう一度行きたいという思いが強まり、2000年に再訪する機会
を得た。

今も私の心の中にはラーナクプールのアディナータ寺院がある。神谷武夫著
『インド建築案内』(TOTO出版、1996年刊)は、全インドの古代から現代に至
るあらゆる様式の主だった建築について調査論考した労作で、甚大な労力と時
間を費やして著された大変優れた著作である。神谷武夫がその著書の中で「こ
れこそがインド建築の最高傑作というべきものである」と述べているのが、
ラーナクプールのアディナータ寺院である。「世界で一番好きな建築物はなん
ですか」と問われれば、迷わず私はラーナクプールのアディナータ寺院をあげ
る。伝承によると寺院は天才的な建築家であるデパーカという人物が瞑想によ
って啓示を受け、1439年に建てられた。

寺院は基壇となっている床部分を除いてすべて白大理石で造られている。建築
材料に使われている高品質の白大理石の産地が比較的近いところにあった。こ
の白大理石を使ったことで寺院の内部が清浄で荘厳な雰囲気になった。白大理
石で作られた柱や梁、壁やドーム型の天井全てが微細なまでに緻密な彫刻をび
っしりと彫り込んである。全く妥協を許さない完璧度である。寺院全体に使わ
れている大理石の柱が1444本、ドーム型天井は大小24作られている。24は
マハーヴィーラを含めて24人のテールタンカラ(救済者であり解脱者)を表
している。アディナータとはジャイナ教の最初のテールタンカラで始祖のリシ
ャバのことである。

ドーム天井は極めて音の響きが良く、ドームの下でマントラを唱えたり、賛歌
を歌えば身体内部にパワフルなバイブレーションが起こる。回廊を取り巻くよ
うに沢山の瞑想のための小祀祠が作られてある。どの小祀祠も一坪ほどの空間
で、中に3体のジナ像を祀っている。寺院全体が立体的な変化に富んだ構成と
なっていて、内部を回遊するように出来ている。寺院の屋上に上がってみたら、
そこにさらに驚くべき風景が広がっていた。屋上は屋根を構成する塔やドーム
によって、変化に富んだ魅力的な立体空間となっていて、そこかしこに瞑想の
ための理想的な場所があった。寺院を取り巻く丘のような山々も木々に覆われ
て美しかった。私が追い求めていた全ての理想がここにあった。今でこそ、こ
の寺院はあまり実際的に使われていないようであるが、600年前の創建当時、
ジャイナ教徒が寺院に参詣し賛歌を歌い、瞑想に使われていた光景を想像して
みると、これこそ地上に出現した天国だったのではないかと思う。しかし長い
年月の間にソフトとしての教団や瞑想の実践が失われてしまった。もしこの寺
院が往時のように修行の場として生きて使われたら、どんなにか素晴らしかっ
たことだろう。

私は今もこのアディナータ寺院を思い出すと胸が熱くなる。もう一度あの場所
に行って、今度は長く滞在してじっくり瞑想したいと思う。私の来世はラーナ
クプールのアディナータ寺院に関係したものになるのかもしれない。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2015年11月30日月曜日

インド瞑想キャンプから帰国しました! (伊東真知子)

28日(土)に「ディープな印度 プレクシャ・メディテーション研修」11日間
の旅を無事に終え、成田に全員元気に帰国しました。

今回のジャイナ教国際瞑想キャンプは、インド国境に近いネパールのビラトナ
ガールという観光地ではない本当に素朴な田舎町で開催されました。
11月18日に成田を出発して10時間近くかかってデリーで1泊。翌朝早くまた飛
行機に乗りカトマンズを経由して、国内線に乗り換え2日がかりで夜ようやく
現地に到着。キャンプそのものは、ネパールという地域的なことがあったのか、

海外からも国内からの参加者も少なく、小規模なものでした。一昨年の超ハー
ドな講座の連続ではなく、ゆったりとしたスケジュールで初参加の人たちもホ
ッとひと安心。坂本先生の受賞式も無事終了し、6日目にビラトナガールから
は、バスが通れないほどの細い山道を3台の乗用車で延々と行き、紅茶で有名
なインドのダージリンに。そこでは世界第3位の高峰カンチェンジュンガを畏
敬の念を持って眺め、8日目はシッキム王国だったガントックへ。さらに最終
目的地の中村天風さんが修行されたというカリンポンを廻ってきました。ガン
トックやカリンポンでは、これまでのラジャスタン州とは打って変わって文化
が全く違うように感じました。

チベット仏教のお寺が多く、お坊さんもずいぶんたくさん見かけました。
カリンポンのチベット仏教のお寺で、瞑想をしたのはとても素晴らしい体験で
した。

次回の12月7日(月)19:00からのプレクシャ研究会は、「お釈迦様の脳科学」
を基に仏教の話題をみなさんと交わしながら楽しい時間を共有したいと思いま
す。
みなさまのご参加をお待ちしております。

コラム[哲学論争]

人は誰しも「なぜ自分はここにいるのか、どこから来たのか、そしてどこに行
くのか」という疑問を持っていることと思う。それは、現代人に限らず古代の
人も同じ疑問を持っていた。その真実を知りたいと欲する気持ちから、心の働
きや意識の状態と現象及び行動によってとらえられる心的過程を追究すること
が始まった。それを哲学という。

仏陀の唱えた教えも哲学であり、当時の六師外道の思想も哲学である。古来
様々な哲学が論じられて来た。すでに哲学は出尽くした感があり新しい哲学も
すでにあるものの変形でしかない。宗教が人間としての正しい生き方や倫理道
徳観にかかわるものなので哲学をぬきにした宗教はあり得ない。

古代より哲学的に最大の論争になってきた問題は、宇宙は神が創造したかそう
でないか、魂はあるかないか、生き物は輪廻転生するかしないかに要約される。

マハーヴィーラや仏陀と同時代、古代ギリシャ哲学が起こった。BC4世紀ごろ
プラトンもその師であったソクラテスも魂を認め魂は不死であるとして、魂に
重点を置く生き方を説いた。近代では17世紀フランスのパスカルも魂は永遠
と説いた。20世紀フランスの哲学者サルトルは「神は存在しない、神が自分
を作ったのではない。自分の行為と選択が自分を作る」としてマハーヴィーラ
や仏陀が唱えたカルマ論と同じことを唱えた。

ジャイナ教と仏教は兄弟宗教と言われている。インド古代から続いてきたシュ
ラマナ系の宗教が共通する母体になっているからである。その核心的な哲学は
因縁果の法則、カルマ論の共通性であり、輪廻転生論である。違っているのは
ジャイナ教が仏陀以前からインドにあった「自己・我・魂は輪廻転生を貫く主
体であり、認識の主体であり、常住にして不変、不生不滅である」との哲学を
踏襲しているのに対して、仏教では魂は無いという考えが主流となっている。
仏陀が無記として論じなかった魂が有るか無いかという問題を、後世の仏教徒
が仏陀ともあろう人がそんなあいまいなことを言うはずがないとして、魂は無
いと仏陀は言ったに違いないと結論づけてしまった。「ミリンダ王の問」。し
かし魂は無いとしてしまうと、輪廻転生やカルマ論が論理的に破たんしてしま
う。そこで、論理の破たんを繕うために様々な理論を考え出し仏教哲学が難解
になってしまった。

それでは仏陀は魂についてどのように考えていたのであろうか。
仏陀は魂(我)が有るといえば固定不変な身体と心があると錯覚し、固定不変
な自己が永遠に続くという迷いに陥るであろう。無いといえば死んだら無にな
って自己は断絶するという迷いを深めると言った。

仏陀は現世の私の心身と来世に私が受け取る心身は同一でもなければ、別物で
もないと言った。常見(魂は有る)でもなければ、断見(魂は無い)でもない、
不常不断を説いた。また、同一でも別異でもない、不一不異といった。つまり、
仏陀は心と体は私ではないと非我を説いたが無我(魂は無い)と断言しなかっ
た。仏陀は私とは只、原因と縁(条件)によって成り立っている、だから、因
縁がなくなれば私は存在できなくなり滅する(輪廻転生しない)と説いた。こ
の世の全てのものは因縁が揃っている時だけ一時的に存在しているに過ぎない
と説いた。迷いの根本原因である無明とは因果律を知らないことである。

仏陀の言う「この世の全てのもので常住不変なものはない」というのは、確か
にその通りである。しかし、魂が物質でなくこの世の外側にあると仮定すれば
魂は常住にして不変、不生不滅という考えも成立するのではないかと思える。
我(魂)が無いなら生前の行為の結果としてのカルマを何が受けるのか受ける
主体が無くなってしまう。主体が無ければ輪廻転生論は成り立たない。仏陀は
たとえ今生で業の報い(結果)を受けなくとも次生かもっと先の生に必ず結果
が現れると説いているのだから、カルマ論と輪廻転生は仏教哲学の根本思想と
考えてもよい。仏陀は真実の自己は業の相続者であるとして本当の自己は目に
見えない業の流れであると説いた。仏陀はアートマン(魂)という言葉を使わ
ず生命エネルギー(生命力)という特殊な流れでカルマの結実を受ける主体を
説いた。

仏陀時代の哲学論争は宇宙とは何か、魂は有るか無いか、神のような他をコン
トロールするような存在が存在するかしないかなどであった。仏陀は現実実用
主義の立場で、考えても結論を得られないような問題に対しては時に、無記と
して明確に答えなかった。だから、魂の問題もそのように考えるべきであり、
魂は無いといったのではないと思う。このことに関して國學院大學哲学科の教
授宮元啓一先生は「仏陀は無我(魂は無い)を説いたのではなく非我(心身は
私ではない)と説いたのである。」と言っている。私もその解釈に賛同してい
る。テーラワーダ仏教のある長老は「魂は無い、魂を信ずるのは邪教であり妄
想にとり付かれている」と自分だけが正しく他は間違っていると極めて傲慢で
矛盾だらけの哲学理論を展開している。

当時の宗教哲学にあって仏陀の哲学の革新性はなんだったのだろうか。それは
仏陀の「中道」という言葉の中に隠されているのではないかと私は考える。厳
しい修行や戒律にたいして、こだわらない、とらわれない、ひっかからないと
いう無執着の考えを取り入れたのだと思う。仏陀の悟りの核心は無執着になる
こと、完全に心が無執着になればそれが解脱であると説いた。従来の解脱の状
態のハードルが下がったから仏陀の教団から解脱者が続出したのだとおもう。
仏陀は厳しい戒律を意味がないとして立派な衣を纏、建物の中に寝起きし、食
事の接待を受けるようになった。中道と無執着をそのように解釈していた。

一方、ジャイナ教は無執着を無所有と同義語に解釈し、出家僧ばかりでなく在
家信者も含めて苦行に近い厳しい戒律を完全に守ることを実践していった。戒
律(ブラタ)は妥協を許さぬものと解釈され厳しく実践された。

私はジャイナ教と仏教の違いを強調するのではなく、ジャイナ教と仏教は兄弟
であり本店、支店であり同じものだと訴え続けたいと思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

第65回 プレクシャ・メディテーション研究会開催予定

第65回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。


次回:2015年12月7日(月)19:00~21:00
場所:集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:中村正人

テーマ:
前回はマインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)とジャイナのプレクシ
ャ瞑想の共通点と相違点を検討し、意識のどのレベルにアクセスするかについ
て説明しました。古くからヴィパッサナーをしている人や10日間合宿体験者な
ど、いろいろな角度から比較でき面白い会になりました。

次回は、読書会形式で仏教瞑想を脳科学的な観点から考えます。素材は、下記
の文献を使用しますので、参加される方は読んでおくとより面白いと思います
(必須ではありません)。また、当日は、チベット仏教の文化の色濃く残る地
を訪れたインド国際キャンプ参加者の皆様からも興味深いお話をうかがう予定
です。ふるってご参加ください。

苫米地英人『お釈迦さまの脳科学-釈迦の教えを最先端科学者はどう解くか
-』(小学館新書101)

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は会員1,000円/非会員1500円です。

【今後の開催予定】
・2016年2月予定

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています。

2015年10月25日日曜日

コラム[自己コントロールの道]

ヨガとは何かとの定義は、ヨガの実践者がそれぞれの立場でいろいろな捉え方
をしているので一様ではない。ある人はヨガとは結ぶことであると定義する。
何と結ぶか「心と体を結び、自分と他を結び、神と自分を結ぶ」ことと定義す
る。また、ある人はヨガとは「本当の自分を求めての自己探求である」と定義
する。ヨガとは何かを最初に定義した古代インドの文献『カータカ・ウパニシ
ャッド』は「五つの感覚器官が、思考(意・マナス)とともにその活動を静止し、
意識(覚・ブッデイ)も全く動かなくなったとき、人々は、これを至上の境地と
いう。このように、諸器官を堅く抑制することを、人々はヨガとみなす」とし
ている。ヨガ・スートラでは「心の働きを死滅させるのがヨガである」と説く。

沖ヨガではヨガの10段階を総合的に、生活を通して実践することを冥想行法
と呼び、冥想行法だけがヨガの実践法と説いている。ヨガをどのように定義づ
けようとも、その目指すところは究極の幸福である。私たちが目指すところは
南伝仏教の理想としているような、吹き消して無に帰し命が消滅してなくなる
ことではないと思う。私たちは苦の消滅ではなく歓喜法悦に満たされる状態を
求めているのだと思う。私はヨガとは「究極の幸福を得る自己コントロールの
道」だと定義したい。

では、何をどう自己コントロールすれば良いのだろうか。

身体のコントロールなのか、心のコントロールなのか、呼吸のコントロールな
のか、感情のコントロールなのか、一体何をコントロールすればよいのだろう
か。

私たちが存在しているということは過去にも存在していたのであり、未来にも
存在するのである。だとすれば今に集中し、今、なすべきことに最善を尽くす
ことだと思う。未来を良くするための自己コントロール、それがヨガだと私は
考える。身体や心は瞬間、瞬間、変化するものであり、現れては消えてゆく幻
のような存在である。時間の流れとともに変化してしまうので実体はなく、身
体や心はそのような観点から無であるといえる。しかし、一方で内的な深いレ
ベルで子供の頃からほとんど変わらない自己があることに私は気づいている。
時間の流れの中でほとんど変らない自己、ユニークで個性的な自己、それがカ
ルマの束縛を受けた真我に近い自己である。その、霊的な自己をコントロール
することが何より大切だと思う。ほとんど変らない自己があるから私達は良い
ことをなして悪いことをなさないようにしているのだ。

宇宙始まって以来、個々の存在は無数の体験と行為を積みかさねてきた、そう
した時間の流れの中で原因となった行為の結果を受けて今の自己がある。その
受けた結果としての今ある自己が、今、自己に起こっていることをどのように
受け止め、反応し、行動したかが新たな原因となる。私たちが生きているとは、
常に考え、選択し、行為しているということである。

今、まさに時空を越えた過去の原因が、条件と環境が整い自分の周りにあらゆ
る現象として起きている。私は自由ということを今まで誤解していた。自由と
は業の束縛から離れること、アカルマ(無業)になることだと思っていた。完全
なる自由とは確かに業の束縛から離れることかもしれない。それは、遥か彼方
の目的地である。自由とは自己に現れて、押し寄せてくるあらゆる現象の中か
らの選択であり、それに伴う行為であると思う。それが霊的な自己コントロー
ルである。私たちが生きているとき、さまざまな局面で、二者択一や選択を迫
られる。そのときに何を基準にして選択するのか、身体や心の喜びか、それと
も未来に受け継ぐ霊的原因かである。未来に続く霊的な自己が受け継いでいく
もの、それを生き方の判断、選択基準とする。それが自由への道であり真の意
味の自由ということだ。何をしても良いというのが自由ではない。悪い原因を
作らないということが自由ということである。

自分の身の回りに起こっている全てのことは必然であり、原因無くして起こる
ことはありえない。外なる神様が気まぐれに処罰を与えるような偶然のことで
はないのだ、天網恢恢粗にして漏らさずの真意は自業自得、因果応報、善因善
果・悪因悪果という意味である。そうでなければ道理に合わない。どんなこと
をしても死ねば帳消し、ご破算になるのであれば、悪事の限りを尽くすような
権力者にとってこんな都合の良いことはない。

私たちが死んであの世に持っていけるもの、次の生で受け取れるもの、それは
過去と現世でなした行為の原因だけである。現世での身体も、お金や財産も、
家も、家族も、集めた美術品も、地位や名誉も持っていくことはできない。自
分が未来に持っていけるもの、それは、原因としての行為、未顕現の結果であ
る。何をしたかという原因だけが自己相続できるものである。

自分を助けるものも、自分を損なうものも自分自身であって、自己をコント
ロールしている外なる神のようなものは存在しない。賞罰は神が与えるもので
はない。賞罰は自己が自ら相続するものである。神様が助けてくれる、神様が
恩寵を与えてくれると思うから、悪業を正当化するような考えが起こって、自
爆テロ等の悪業が絶えないのである。

私たちにとって近未来の解脱は無理であっても、幸福な未来を創り出すことは
できる。それが、真の意味の自己コントロール法で今に生きることである。今
に生きるとは、今の自己に結果として起こっていることに対して選択を間違え
ないように正しく行為することであり、なすべき時になすべきことを間違えな
いようにすることである。

生き通しの人生を考え理解しないと、正しく感じ、正しく思い、正しく考え、
正しく行うことはできない。来世や輪廻転生を信じなければ、心の平安や幸福
など望むすべはないだろう。生き通しの人生という倫理哲学が人類社会に共有
価値観として定着しない限り、世界に平和が訪れないだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2015年9月27日日曜日

2015年秋 インド瞑想ツアーのお誘い

今年のプレクシャ・メディテーション国際キャンプは、ネパールのヴィラトナ
ガールで11月15日から22日に開催されます。

その際、国際的にプレクシャを広めることに多大な貢献があった人に授与され
るプレクシャ・アワード賞が、今年、坂本会長に授与されることが決まりまし
た。そこで、この期間にあわせて国際瞑想キャンプに参加することを計画して
います。授賞式に出席し、後半4日間に僧侶たちから直接瞑想を学ぶセミナー
に参加します。キャンプ終了後は、ダージリンとシッキム王国の首都だったガ
ントク地方を旅行します。

日程は11月18日成田発、28日帰国になります。ジャイナ教の本物の聖者
に会い、驚くようなジャイナ教哲学やプレクシャ・メディテーションを学ぶ貴
重な機会です。まったくはじめての方も参加できますので、ふるってご参加く
ださい。10名以上の参加表明で催行しますが、すでにほぼ確定です。ご希望
の方はお早めに事務局までお知らせください。

インド瞑想ツアーのお問い合わせ・申込先
協会事務局:japan@preksha.com
坂本知忠:tomotada@icnet.ne.jp

コラム[空の思想とマントラ]

般若心経、正確には摩訶般若波羅蜜多心経は玄奘三蔵(七世紀)が訳した大乗
経典で日本人にもっとも多く親しまれている仏教経典である。般若とは智慧の
ことであり、その智慧とは、全てのものは縁起しているから無常であり、有っ
て無いようなものだから執着してはならないと説いている。般若心経で説かれ
ている無常は、それ以前にインドにあった無我の思想を人間の問題だけでなく、
大乗仏教的にあらゆる事物に拡大解釈したものでありその内容を「空の思想」
という。

沖ヨガ行持集の般若心経の意訳を読むと、空について無と表現し、また空無と
表現している。こういう観点から空とは何かと考察すれば空と無は同じであり、
空無は無常のことを指していることが解る。無常とは時の流れの中であらゆる
ものが変化することであり、起こってくることの全ては諸縁(原因と条件)が
関係しているのだから、どんなものでも独立して存在することが出来ないとい
うものの見方の説明である。般若心経のなかで、観音菩薩がシャーリープッタ
に、全てのものは縁起していて独立して存在できないから実体がないのだと説
明している。体や心も変化するものなので私という実体は無い、つまり無我で
ある。般若心経は無常が解かれば無執着になれると教えているのである。

大乗仏教の空の思想はなぜ空の思想と言うのだろうかとの疑問がおこる。どう
して無常の思想または無の思想ではいけないのだろうか。

私は空と無には違いがあるような気がする。空と無の違いについてアヌプレク
シャしている時に内なる声のひらめきがあった。同じことの別な角度の表現の
違いなのではないかと思った。無とは私たちが感覚的に有ると思っていたこと
が、深く考察すると実は無いということが解ることであり、「有即無」のこと
だと思う。陰陽で言えば陽でありプラスであり現れていることとなる。逆に空
とはカラッポ、無いと思えることが実は満々と満ちていて有るのだと解ること
だと思う。つまり空とは「無即有」のことではないだろうか。陰陽で言えば陰
でありマイナスであり見えないことである。目に見えている形ある世界は、目
に見えない形のない世界から現れてきたと言っているのだと思う。空無という
時、それは有るものは無く、無いものは有り、満ち満ちているものは空っぽで
あり、空っぽは満ち満ちていることを言っている。陰陽一対、空無一対と考え
ればわかりやすい。

大乗仏教は出家の為でなく在家の信者のために易しく仏道修行ができる方法を
提唱している。一般大衆に南無阿彌陀仏と唱えるだけで死後、阿彌陀仏のおら
れる仏国土に往生できるというのがこれに当たる。同じように、大乗経典であ
る般若心経の最後の呪文、つまりマントラはこれを唱えるだけで、観音菩薩が
到達した悟りの霊力を手に入れることができると言っているのである。多くの
般若心経の解説書にはこの点の説明が完全に抜け落ちている。

「ぎやてい ぎやてい。はら ぎやてい。はらそう ぎやてい。ぼじそわか」
このサンスクリット語をカタカナ表記にすると
「ガテー ガテー パーラ ・ ガテー パーラ ・ サンガテー ボーディ
スヴァーハー」
となりその意味は
「往こう 往こう 彼岸に往こう。完全に彼岸に往こう。目覚め(悟り)に
幸いあれ」
である。
(この日本語訳は私がマントラとは何かに焦点をあて独自に意訳したものであ
る)

般若心経ではこのマントラが大事であり、このマントラをいつも唱えていると、
そのマントラが潜在意識化して、その潜在意識の力によって必ずそうなります
よと説いているのである。

般若心経はともすると、我々には色即是空 空即是色に代表される空の思想を
説いたものとの認識しかない。しかし、「だから知るべきである。潜在意識化
した言葉の力の知恵を。これは偉大なマントラである。叡智のマントラである。
これ以上無いマントラである。比類なきマントラである。これを唱えれば全て
の苦しみが除かれる。それは真実で疑いないことである。このマントラは悟り
の智慧と同じである。」と最後の部分で力説しているように、マントラを唱え
ることを奨励しているのである。

マントラの意味がわかってマントラを唱えればマントラの霊力を手に入れるこ
とができる。皆さん、もう一度般若心経を読んで深く味わってみてください。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

第64回 プレクシャ・メディテーション研究会開催予定

第64回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

次回:2015年10月5日(月)19:00~21:00
場所:集会室2(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:中村正人

テーマ: マインドフルネス瞑想とプレクシャ・メディテーション
―その相違、共通点および有用性―

マインドフルネスの瞑想法は特に米国で盛んに実践・研究され、さまざまな医
療機関でうつ病対策にも活用されています。プレクシャ瞑想も精神疾患や心身
症対策に有用ですが、両者はアクセスする位相が異なるように思われます。今
回この点を一緒に考えたいと思います。マインドフルネス瞑想について、ご存
知の方はぜひ積極的なご発言をお願いします。 

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は会員1,000円/非会員1500円です。

【今後の開催予定】
・2015年12月7日(月)19時~21時 場所:南行徳

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています。

新規開講 プレクシャ瞑想指導士養成講座@千葉 開講のお知らせ

新規開講 プレクシャ瞑想指導士養成講座@千葉 開講のお知らせ 
 ~自分で自分の医者になる~

坂本知忠によるプレクシャ瞑想教室を来月、千葉で開講します。お近くの方は
ぜひご検討ください。(*単位取得対象講座)

日時:10月1日~ 毎週木曜日10:00-11:30
受講料:2000円/各回

お申込み&お問い合せ先:
マクロピオティック料理教室「たなごころ」山本久美子
e-mail : tana5colo@gmail.com 

※お名前、お電話番号、参加日を明記の上、直接メールにてお申し込み下さい。
 (単発での受講も可能です)

《講座プログラム(Level1)》10月~3月全12回

第1回:10月1日 講義:瞑想とは伺かどのように行うか 
           実習:カヨーウッサグ
第2回:10月8日 講義:カヨーウッサグの理論
           実習:カヨーウッサグ
第3回:10月15日 講義:アンタルヤートラの理論
           実習:アンタルヤートラ
第4回:11月5日  講義:ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点
                  実習:アンタルヤートラ
第5回:11月12日 講義:シュヴァーサ・プレクシャの理論
                  実習:シュヴァーサ・プレクシャ
第6回:12月3日 講義:呼吸法とプラーナ・ヤーマについて
           実習:プラーナ・サンチャラ二一・ムドラ
第7回:12月10日 講義:マントラを唱える意味
                  実習:スマブリッテイ・シュヴァーサ・プレクシャ
第8回:12月17日 講義:身体の宗教哲学的意味
           実習:シャリーラ・プレクシャ
第9回:2月4日   講義:肉体、電酪気体、力ルマ体、現について
           実習:シャリーラ・ブレクシャ
第10回:2月18日 講義:8つの主要なケンドラについて
           実習:ジョーテイ・ケンドラ・プレクシャ
第11回:2月25日 講義:4ステップ瞑想の組み合わせ時間配分について
           実習:4ステップ瞑想
第12回:3月3日  講義:レベル1のまとめ
           実習:4ステップ瞑想履修書授与


2015年8月26日水曜日

9月より プレクシャ メディテーション レベルIIのクラスがはじまります

「瞑想とヨガ」坂本知忠講師による、プレクシャ瞑想教室 <東中野>
(*単位取得対象講座)

『勝利者の瞑想法』著者である坂本知忠による定期プレクシャ瞑想教室です。

日時:毎週木曜日 19:00~20:30

<内容>
指導者養成のレベル2を目指す方、今までの復習をしたい方、瞑想を基礎から
学びたい方向けの講座ですが、プレクシャ・メディテーションが初めてという
方も参加できます。

9月3日  ディープ・カヨーウッサグ ジャイナ教哲学講義
9月10日 4ステップ瞑想復習  ジャイナ教哲学講義
9月17日 シャリーラ・プレクシャ上級1 講義と実習  (代講:中村正人)
10月1日  シャリーラ・プレクシャ上級2 講義と実習
10月8日  チャイタニヤ・ケンドラ・プレクシャ 1 講義と実習
10月15日 チャイタニヤ・ケンドラ・プレクシャ 2 講義と実習
10月22日 アヌ・プレクシャ沈思黙考 講義と実習
11月5日  アヌ・プレクシャ自己暗示 講義と実習
11月12日 レーシャ・デイヤーナ 講義と実習
11月19日 レーシヤ・ディヤーナ 講義と実習
11月26日 6種瞑想連続実習

※9月24日、10月29日は講師の都合によりお休みです。

場所:NPO沖ヨガ協会 沖ヨガスタジオ
   中野区東中野3-6-14 小谷ビル301
電話番号:03-6908-5613
http://okiyoga.com/studio/index.php?Class
交通:JR東中野西口より徒歩5分、東京メトロ東西線落合駅より徒歩3分

アクセスマップにつきましては、下記URLにてご確認ください。
http://goo.gl/maps/qJtvK

※当日参加費として2,000円を頂戴いたします。
 (この講座は協会主催の講座ではないため、会員割引の適用はありません)
※NPO沖ヨガ協会(国際総合ヨガ協会)の会員でなくとも受講できます。
※初めて参加される方は予め連絡をいただき、日程や開催場所をご確認下さい。
※ヨガマットは不要です。
   

第63回 プレクシャ・メディテーション研究会開催予定

第63回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

次回:2015年9月7日(月)19:00~21:00
場所:集会室2(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:中村正人

テーマ: シャリーラ・プレクシャの基礎理論
          ―アチャーリヤ・マハープラギャ師の原典を読み直す―

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は会員1,000円/非会員1500円です。

【今後の開催予定】
・2015年10月5日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2015年12月7日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています。

コラム[アイデンティティー 日本人としての自分]

Identityという言葉を辞書で引いてみると、その人個人の身元や正体の他に、
その人の本質や個性、独自性という訳語が出てくる。個人のアイデンティテ
ィーはその人が暮らしている地域や国等が位置する地理的自然環境に強く影響
を受けている。自分とは何かと探求してゆくとき、自分が帰属している日本人
としてのアイデンティティーとは何かが気になってくる。

私たちはこの世に生まれると、生まれた環境に強く影響を受けながら人格が形
成されていく。どのような両親、家族、家庭のもとに育ったか、生まれ育った
地域の自然環境や友達、地域の人々、教育を受けた先生、その時の国際情勢、
社会情勢に強く影響を受ける。人間は教育されたようになるとは、そのような
ことを言っている。教育とは学校の先生から受けるものだけではない。だから
教育が大事なのだ。ところがその個人の教育が、今ではテレビ報道などマスコ
ミによって大きな影響を受けている。我々の潜在意識は知らず知らずのうちに
自分が生活している外部環境に影響をうけ、それによって思考や行動、生活が
コントロールされていると言っても過言ではない。

私は日本人と外国人の考え方や行動の仕方に大きな違いがあるような気がして、
その根本的な要因はなんだろうとずっと思いを巡らしてきた。そして気がつい
たことは、日本という国土が世界でもまれに見る自然災害頻発地帯に位置して
いるということが、日本人の国民性形成に深く関与しているのではないかとい
うことに思い至った。近年、日本では地震や竜巻、火山の噴火など自然災害が
頻発している。阪神淡路大震災や東日本大震災では一瞬のうちに多くの犠牲者
が出た。このように自然災害の多い国土に暮らしている日本人は世界の例外の
ような気がする。

日本の地理的特徴は温帯に位置し、海岸線が複雑で島嶼が多いこと、南北に長
い国土の縦軸に山脈が連なっていて国土を大まかに太平洋岸側と日本海側に分
断していること、山地が多く平野部が少ないこと、雨が多く河川は急流で大河
となることなく海に注ぐということ、4つの地殻プレートが国土でぶつかり合
い極めて地震や火山の噴火が多いことなどが挙げられる。また、台風の通り道
にもなっていて風水害が多いことも特徴としてあげられる。

四季の変化がはっきりしていることと、自然災害が多いことが私たち日本人の
ユニークな思考様式や行動パターン、勤勉で清潔好きな国民性を生み出してき
たと言える。日本の自然環境は世界で最もダイナミックでアクティヴである。
そこに住む我々日本人はダイナミックな変化に対応して独特のアイデンティテ
ィーを形成してきた。

日本人の国民性の第一に挙げられるのは、変化にたいして極めて適応性が高い
ということである。地震や洪水、津波によって一瞬のうちに家族や建物や家財
までも失う。被災者の絶望感、憤りは自然災害だけに矛先をどこにも向けよう
がない。だから生き残った者たちは助け合い協力しあって生活を再建し生きて
いく以外になかったのである。このことは、太平洋戦争に敗北し国土が焼夷弾
攻撃と原爆投下によって灰燼に帰したとき日本人はそのことを自然災害と同じ
ように受け止めた。だから民間人を無差別に殺戮したアメリカに対して恨みを
持つこともなく友好関係を築くことができたのである。日本人の国民性の一つ
は、「全ては水に流す」という言葉にあるように、こだわりを持たない執着し
ない性格であり、辛い過去は早く忘れて未来に希望をみいだす未来志向の生き
方という側面が強いといえる。 

中国や韓国、ヨーロッパの国では人間が大量死するような突発的な自然災害は
日本と比べれば格段に少ない。それらの国では人間の大量死は戦争や権力争い
といった民間人を捲き込む殲滅戦だった。彼の国では人間が大量死するのは自
然災害ではなく人為的なことだった。そのような場合、被害者意識が深く恨み
となって残り、いつまでも加害者を許すことはできない。

日本では突発的災害があまりにも多すぎる。いつどこでどんな災害が起こって
もおかしくないし、また、次に何処でどんな災害が起きるか予測もたてられな
い。必然的に対応が全て泥縄式となる。災害に事前に備えることや最悪の状態
を想定して準備することも不得意である。だから福島第一原発事故のようなこ
とが起こってしまう。しかし、災害が起こった後の対応は、ここまでしなくて
もと思えるほど入念で完璧であった。

今でこそ大多数の日本人は首都圏や名古屋、京阪等の大都市で居住し隣人が見
えなくとも生活出来る環境にも暮らせるようになった。しかし日本人は長らく
小さな共同体の中でお互いが顔見知りという範囲で暮らして来た。渡辺尚志氏
の『日本人は災害からどう復興したか: 江戸時代の災害記録に見る「村の
力」』によれば、江戸時代の初め元禄十年の全国の村の数は63、276であ
り、幕末の天保五年には63、562で200年間ほとんど変わらなかった。
その頃の平均的な村の単位は耕地面積50町歩前後、人口400人ぐらいだっ
た。村人は生活していくためにすべてのことを共同で行う必要があった。その
ために村内での揉め事は避けなければならなかった。何事も全戸参加の話し合
いによって問題を解決してきた。この感覚が日本人の秩序感覚、共同意識、和
の心を育てて来た。日本人は仲間意識を大切にするが、年貢を取り立てられる
のは仕方がないとしても、村人に権力は必要なかった。権力は忌避されるもの
だったので強い国家権力に反発する気持ちは今でも我々日本人に根強い。

北朝鮮の国家体制など日本人の理解を絶している。中国共産党の国家権力も独
裁的と言えるほどだ。中国歴代王朝は国民の不満の高まりによって覆される時
には凄まじい殺戮を伴う争いがあり、その勝者が新たな国家権力者となる。中
国は国土が広大であるのでそこに住む人は強大な権力者を必要としているので
ある。今の中国も司法の上に国家権力者があるのであり、民主主義ではない。
共産党王朝とも言える政治体制である。そう考えないと今の中国人の思考や行
動が理解できない。日本では徳川幕府が成立しても幕府は和を尊び、薩摩や長
州、上杉等の敵対した勢力をも抹殺せず、外様大名として一定の権力支配を認
めたことと大きく異なっている。

世界の国々や地域に暮らす人々が、暮らしを育む地理的自然環境にいかに影響
を受けてきたかを探ることは、人間とは何かを理解する上で興味深い示唆を与
えてくれる。そういう観点からその国の歴史や国民性を探ると他国の人々と
我々の発想の違いや、外国人が何を考えているのかが解ってくる。宗教哲学も
人間の生活に必要なものとして発生してきたのだとすれば、宗教が発生したと
きのその地域での社会情勢やその地域の地理的な自然環境を理解しないと本当
のことは解らない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通聖典になってい
る旧約聖書には、「正義の実現ためには人命の犠牲が伴うことがあってもやむ
をえない」としてモーゼに異を唱えた人々の皆殺しを正当化している物語が描
かれている。欧米諸国の精神的支柱となっている宗教の基本、自由と平等と博
愛に富むべきという正義の名のもとに繰り返し大量殺戮が行われてきた歴史的
事実があることも、日本人が国際舞台に出る際には忘れてはならないことであ
る。国際テロ組織ISと欧米諸国の間の紛争も原点に立ち帰って考察しないと
解らないことが多い。

真理(真実)とは、どの時代、どの国、どの地域、どの民族、どこの場所に持
って行っても全ての人が受け入れることができ、そのとおりだ、それが人間に
とって一番良いことだと賛成され、また実行されて人間に幸福をもたらすもの
である。我々は真実だけを求め、嘘に惑わされず、真実だけを拠り所にしなけ
ればならないのだ。嘘に惑わされないようになるために、深く自分自身を理解
しなくてはならない。自分の中に真実を見つけなければならない。それが、メ
ディテーションである。メディテーションを深めていくと、自己のアイデンテ
ィティーつまり自己のカルマに気づくようになる。カルマの気づきが自己変革
を促し、自己を悟りに導くだろう。そして、もう一つ大事なことは、広く深く
体験して、広い視野と洞察力を身につけることである。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

只見沖ヨガ国際キャンプ開催のお知らせ 9月19日(土)~23日(水)

9月のシルバーウイークに、只見(福島県)にて『みずなら・ユイ道場』の開
設10周年記念イベントが開催されます。特別ゲストとして、イタリアで「瞑想
指圧」を指導されご活躍中の八尋雄二先生をお迎えし、日本とイタリア、さら
にはオーストラリアからリンダさんを 交えてのワークショップも行われます。
また、映画『ガイアシンフォニー第六番』に出演された奈良裕之さんによる演
奏会もあります。

定員まで、残り2名です。先着順で参加を受け付けます。

参加料:50,000円(部分参加不可)
(現地での宿泊料や食事代、各種ワークショップ参加料などを含みます)

開催日時:9月19日(土)~23日(水)
  9月19日(土)現地集合
     11:30~受付開始、14:00~オリエンテーション
  9月23日(木)昼頃解散予定

お問い合わせ・申込先
協会事務局:japan@preksha.com
坂本知忠:tomotada@icnet.ne.jp

2015年7月30日木曜日

コラム[身体とは何か]

宇宙は目に見える物質的なものと、目に見えないエネルギーや情報の結合に
よって成り立っている。人間の身体も物質的な目に見える肉体と目に見えない
心や精神、意識や生命エネルギーの結合によって出来ている。現代テクノロ
ジーが発達したことで、目に見えない様々な宇宙エネルギー等の検知器が開発
され、今までわからなかった宇宙の成り立ちがだんだん解ってきた。私たちの
身体についても様々な検知器が開発され電磁気的な身体の仕組みなどもだんだ
ん検査できるようになってきた。しかし、心や精神、意識や魂等の精妙なもの
は検知器で捉えることはどんなにテクノロジーが発達しても不可能だろう。

私たちの身体は宇宙の法則が身体になったものと言える。身体の発生の起源は
目に見えない部分から目に見える肉体が発生したのであり、成長、変化してい
く過程で目に見えないものが深く肉体に影響している。現代医療は身体の目に
見える物質的な肉体そのものだけが対象で、症状を肉体レベルで検査して病気
を特定することは出来る。原因が細菌やウイルスの感染症や短期的に急激に起
こった毒物中毒や怪我等のような場合は極めて有効で価値ある治療法が確立さ
れている。

しかし、原因が身体内部の深いレベルの次元の異なる目に見えない極めて微細
なものであった場合、原因と結果を結びつけて根本的な適切な治療は出来ない。
つまり、感情的な問題が原因となっている病気や意識のあり方、潜在意識下の
カルマのようなものが原因になっている病気については精神科医といえども現
代医学はその治療法を持っていない。症状となって現れてきた病気のうち半数
程度は、原因を特定出来ない身体内部の極めて微細なものから起こって来てい
ると考えられる。

私たちが幸せになるために、より自由に精神的に高まるために、全ての責任を
自己に見なければならないと思う。幸せや自由を人任せにして本当の幸せや自
由は手に入らない。病気についても全て人任せにしないで、出来るだけ自分で
自分の医者になる道を探るべきであり、必要、適切な時だけ専門医師の手助け
を受けたら良いと思う。自分で自分の医者になる方法はヨガや瞑想の実践にあ
る。

そのためには、自分の身体に対する理解を深めることが不可欠である。その身
体の目に見えない部分を深く知るための方法がプレクシャ・メディテーション
(知覚瞑想)である。私たちの観じようとする心が宿る中枢神経系は極めて優れ
た検知器であり、その検知器、自己意識を使って身体内部のさまざまな感覚を
観じていくのが知覚瞑想である。意識的な心、感じようとする心、意識を使っ
て内部感覚を細かく観察すると、命の働きが外部刺激に反応し変化してバラン
ス状態を求めて流れていくので、それとともに生起している内部感覚に気づく
ことができる。内部感覚を細かく、より微細に知覚していくことで、深いレベ
ルで身体の気づきが私たちに起こる。生命エネルギーと内部感覚は一体のもの
であり、感覚を観ることは命を観ることになる。生命エネルギーはいつも意識
とともに有り、意識があるから生命があるのであり、生命は意識そのものと言
える。内部感覚を観じるとは生命そのものを観ることである。そのことを意識
で純粋意識を観るという。また、魂で魂を観るともいう。自己意識で内部感覚
を観じることがプレクシャ・メディテーションである。

徹底的に細かく身体内部を探ることが本当の自分を知ることであり、本当の自
分を見つけることが自分で自分の医者になる方法である。瞑想によって身体内
部の変化や流れを理解することは、原因と結果の法則の理解を深める。自分の
生活や身体に起こってくるさまざまな現象が身体内部のカルマ(業)に起因して
いることが解る。私たちが不幸になるのも幸福になるのも、病気になるのも健
康に生きることができるのも、生まれることができるのも死ぬのも、カルマに
よって起きていることが解ってくる。

どうして生き物は身体を必要としているかといえば、身体が精神的発達のため
に必要だからである。身体を宗教哲学的に解釈すると、身体は精神的成長のた
めの道具であると定義できる。精神修行のためには身体以外の道具は何も必要
としない。身体だけが必要であり、身体がなかったら私達は修行できない。身
体がなければ私達は見ることも聞くことも話すことも食べることも考えること
も触れることも出来ない。苦楽の感覚を感じることも出来ない。苦楽の相反す
る感覚が身体内部に起こるから身体が生存できるのであり、身体が生存できる
から私達は修行できるのである。

私達が生まれてくるのは修行のためである。カルマが深いレベルで私たちを必
要な修行に導いている。修行に良い悪いはない。ただその人に必要で資格があ
るから起こってくるのである。そして地球は人間だけでなく全ての身体ある生
き物たちの修行道場なっている。全ての生き物たちは相互に関わりながら修行
しているのである。

自分が自分の主人公になるために、自分自身を知らなくてはならない。本当の
自分を知るために、自分の身体の仕組みを肉体レベルだけでなく、電磁気体・
エネルギー体のレベルで、カルマ体(業の体、原因体)のレベルで理解する必要
がある。それを可能にするのがプレクシャ・メディテーションである。プレク
シャ・メディテーションによって私達は深い自己認識のレベルに到達すること
ができる。

プレクシャ・メディテーションは自己認識の高度な技法であると同時に、自己
コントロールの高度なテクニックでもある。自己コントロールによって神経系
や内分泌系のシステムまでコントロールして変化させることができる。私たち
の感情はホルモン分泌と一体のものであり、真の健康状態も神経系を通して内
的生命エネルギーの流れが大きく関係している。このようなことがわからない
と心身の本当の健康は達成されない。

プレクシャ・メディテーションの技法は単なる知覚を超えて高度な自己コント
ロールをともなうものである。ヨガとは何か、瞑想とは何かと問われれば、そ
れは自己コントロールの道であるといえる。自分が自分の主人公になって無限
の自由に到達する道であるといえる。無限の自由に至るために必要な道具が身
体であり、身体を観察し知覚し本当の自分を知ることがプレクシャ。メディ
テーションである。解脱とは自己が消えてなくなることではない、無限の自由
と歓喜に満たされることである

身体の知覚を通じて自分とは何かが解った分だけ病気や死に対する不安が消え、
たとえ病気になってもその原因が解るので平常心で受け入れ、対処することが
できるようになる。深いレベルの自己認識によって自分の死までコントロール
できるようになるだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

インド瞑想ツアーについてのお知らせ(速報)

今年のプレクシャ・メディテーション国際キャンプはネパールのヴィラトナ
ガールで11月15日から22日に開催されます。国際的にプレクシャを広め
ることに多大な貢献があった人に授与されるプレクシャ・アウオード賞が、今
年は坂本会長に授与されることが決まりました。そこで、この期間にあわせて
久しぶりに国際瞑想キャンプに参加することを計画しています。授賞式に出席
し、後半4日間に僧侶たちから直接瞑想を学ぶセミナーに参加します。キャン
プ終了後は、ダージリンとシッキム王国の首都だったガントク地方を旅行しま
す。日程は11月18日成田発、28日帰国になります。ジャイナ教の本物の
聖者に会い、驚くようなジャイナ教哲学やプレクシャメディテーションを学ぶ
貴重な機会です。まったくはじめての方も参加できますので、ふるってご参加
ください。10名以上の参加表明で催行いたします。

2015年6月27日土曜日

第62回 プレクシャ・メディテーション研究会開催予定

第62回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さい
ますよう、宜しくお願い申し上げます。

次回:2015年7月6日(月)19:00~21:00
場所:集会室2(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:中村正人

テーマ: うつと瞑想~うつ対策プログラム構築への試み(理論編/実践編)

前月は開催がなかったため、引き続き上記のテーマを検討します。瞑想は何故
「うつ」にいいのか。代替医療(自然治癒論)の権威、アンドルー・ワイル博
士の最近の著書『うつが消えるこころのレッスン』(2012年)を整理しながら、
精神医療における瞑想の効果を検討します。そのうえで、プレクシャ瞑想の特
長に照らして、独自の「うつ対策プログラム」を模索します。できれば同書を
読んだ上で参加されると深い話し合いができます。

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は会員1,000円/非会員1500円です。

【今後の開催予定】
・2015年8月3日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2015年9月7日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています。

コラム[妄想の未来]

瞑想とは妄想をやめることである。好き嫌いの感情から離れ、正しい間違いの
判断を手放し、思考を停止し只ありのままに起こってくる身体内部の感覚を観
じることである。私たちの思考のほとんどは妄想であってそれは誤解に基づい
ている。誤解に基づいているから誤ったことを真実と思ってしまう。

ニューエイジ系のスピリチャル・グループの勉強会に行ってきた。そのグルー
プのリーダーは著名な外国人である。そのリーダーが言うには近年、地球が宇
宙空間の新しいエネルギー領域に入りつつあるので、その影響をうけて地球に
新文明が起こりつつあるという。地上に新しい救世主が現れて人類を救済し救
世主の行動によって悲惨な世界が全く希望に満ちた輝かしい世界に一変するの
だという。未確認飛行物体UFOが世界各地で目撃されているのは救世主が現れ
る前兆なのだと言っている。どういう目的、意図があってそういう不確実な荒
唐無稽なおとぎ話のような話をするのだろうか。私は理解できなかった。

地球が宇宙空間を移動しているので、常に宇宙空間から変化のエネルギーを受
けているのはこの時代に限った事ではない。地球は誕生してから今日まで変化
のエネルギーを受けて継続変化してきたといえる。又、偉人や聖人として救世
主のような人が時々現れてくるのも現代にかぎった特殊なことではなく、必要
な時に必要な所に救世主は出現している。人間に心の弱さがあって、神のよう
な存在に救ってもらいたいと思う願望が強い時、人間はこの手の話に引っかか
ってしまう。たとえ善良な人でも、理性的でない人、自己責任の弱い人、依頼
心が強い人がこの手の話に引っかかってしまう。

リーダーが妄想家で科学的な裏付けのない特殊な理論や話題を組み合わせて壮
大なおとぎ話をつくる。おとぎ話や童話、SF小説のうちだったらまだ害はない
が、話し手が妄想に酔って真実のように人々に語りだすと困ったことになる。
小さな嘘はすぐわかるが、大きな嘘や判断しようもない情報や架空の話を我々
は時として本当のことと信じてしまう事がある。世の中に詐欺師が多いが、宗
教的詐欺師も困ったものである。嘘の事を本当のことのように信じさせてしま
う。騙すほうも悪いが騙される人がいなければ、騙すことはできない。宗教的
リーダーが誇大妄想狂で、ある種の精神障害者であった場合、このような笑え
ない悲劇が起こる。指導者が間違っていたら、それについてきた弟子たちも皆間違ってしまう。カルト教団等の問題もこのようにして起こってくる。だから
私達は精神世界を志すなら理性的でなければならない。そして無知であっては
ならない。真実とは世界中の人間に人種を超え、国境を超え、時代を超えて共
通にそのとおりだと当てはまることである。私たちは真実だけを求めなくては
ならない。ある時代やある地域だけのローカルにしか通用しないものは真実で
はない。真実でないものを真実と思い込まされてはいけないのだ。信じるな、
疑うな、確かめよという学びのスタンスが大事で一人一宗の学び、つまり自分
自身が教祖になり宗派に属して属さず、弟子ももたないことが良い。本当の精
神世界の学びは他をコントロールしないコントロールされない無執着、無対立
でなければならないと思う。

さて、私に妄想させていただくことをお許しいただきたい。

時間とはなんだろうか。時間とは過去から未来へと経過してゆく物質変化のエ
ネルギーの流れとともにある。時が流れると全てのものは違った場所で違った
ものになっている。人類と人類が地球上に作り上げた文明はどうなるのだろう
か?50年後の未来を妄想してみた。妄想の中で人間とは何かと考えてみた。
予言や未来予測のほとんどははずれる。未来とは不確実で予測することなどで
きない。明日のことも我々は正確にわからない。私は予言や占いは参考にする
が信じない。もし私が明日の新聞を読むことができたら大金持ちになれるだろ
う。50年後100年後を正確に予測できたら大聖人になれるだろう。

人間の欲望は限りない。自己拡大欲、自己保存欲も無限であるが人間は無限の
自由を求めている。社会の発展や文明の進歩は人類全体が無限の自由を求めて
無意識的に共同でとりくんでいることといえる。近年のテクノロジーの発展は
驚くべきものがある。コンピューターの登場と進化、小型化、高性能化は専門
知識を持つもの以外には理解を絶している。人工頭脳が作られ人間の思考を凌
駕するようになってきた。人工頭脳はロボットに組み込まれ、アンドロイドが
作り出されるようになってきた。人工皮膚や人工骨格、人工粘膜なども作り出
され、見た目には人間と全く変わらないアンドロイドが作られる。そして、つ
いにはアンドロイドがアンドロイドを作り出す世の中になる。アンドロイドが
できないのは動物的な生殖と出産だけになる。アンドロイドは食事や睡眠が不
要なので人間を越えた超人となる。人間はアンドロイドのペットのような存在
になるのかもしれない。人間の男女間で行われていたセックスの衝動も人間対
アンドロイドに置き換わってしまう。性的欲望のはけ口が変わって性犯罪がな
くなるのかもしれない。人口が激減しアンドロイドの住む地球になっているか
もしれない。

アンドロイドは人間と違って細胞で身体が構成されているのではないから病気
が無い。壊れた部品は交換するだけだから不死となる。専門分野に特化した
様々なアンドロイドがアンドロイドによって作り出され、昆虫型ロボット、海
中生物型ロボットが人間に置き換わって様々な仕事をすることとなるだろう。

人間とアンドロイドの違いは生命があるか無いかの違いだけになる。生命は細
胞の再生に働きかけていて、自分で自分の体を常に再構成している。生命は消
化器系という仕組みを通じて外部から食料を取り込み、呼吸器系、循環器系と
いう仕組みを使って細胞に生体エネルギーである命を吹き込んでいる。生命現
象は生体内部で常に破壊と再生を行っている。それはコピー機で印刷物をコ
ピーしていく作業に似ている。コピーは繰り返すと元の原稿より不鮮明になる。
だから人間の身体に老化が起こるのだ。アンドロイドの身体は生命がなく細胞
で構成されているのではないので内部感覚がない。身体内部からの感覚情報に
左右されないので好き嫌いの感情がおこらない。外部に向けられた様々なセン
サーと人工頭脳と身体を動かす電気的配線、細胞再生に替わる形状記憶合金な
どの連携だけで身体を動かすことができる。高度に進化したアンドロイドに霊
的な魂が結びつくだろうか? もし、アンドロイドに魂が結びついたとしたら
地球は想像を絶する超人社会となるだろう。そのような可能性は限りなく低い
と思うが、昨今のテクノロジーの急速な発展進化を見ているとありえない話で
はなくなる。

アンドロイドや昆虫型ロボットの開発と並行して様々な人間身体の補助具が登
場するだろう。鳥の羽やトンボの羽ソックリな身体補助具をつけて人間が空を
飛んでいる。海の中で自由に泳げるスーツをつけて人間が魚のように自由に海
の中を泳いでいる。絶対滑らない補助具をつけて昆虫のように岩壁を登る人が
いる。そんな近未来が思い浮かぶ。不可能が不可能でなくなり自由全開になっ
ても、人間はアンドロイドとは違うので老いて死ぬ時がやってくる。人間の身
体は不死になれない。人間の生涯を終えたときアンドロイドに転生することが
起こるのだろうか? 私の妄想はつづく。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

ニュース:新しい指導士が誕生しました!  (中村)

うれしいお知らせです。
6月25日、久しぶりに新しい指導士が生まれました。
武田裕之さん、加藤智子さん、田村縁さん、岩渕和恵さん、
準指導士、合格おめでとうございます!

そして、伊東真知子さんが一つ上の「指導士」になりました。
インド研修に何度も参加され、国内の教室や研究会にも継続して出席して研鑽
を積まれました。指導士、合格おめでとうございます!

プレクシャ・メディテーションの資格は「絵に描いた餅」ではありません。小
さな、小さな、目立たない気づきを積み重ねた末に、ようやく得られる無形の
財産です。これからは感(観)じたことをひとりでも多くの人に、自分の言葉
で(!)伝えるための学びが始まります。協会も可能な限りお手伝いさせてい
ただきます。どうぞこの「種子」を大切に育ててください。

他の会員の皆様も、お手元に届いた「単位履修カード」を活用して、ぜひもう
一歩上を目指してください。指導にまわると、また違った「景色」が望めて、
日々の練習が一層充実してきます。

2015年5月27日水曜日

メールマガジン発行第50号記念 新刊プレゼントキャンペーン

当協会メールマガジンをご購読いただいている皆様、いつも御覧いただき、あ
りがとうございます。2011年4月にスタートしましたメールマガジンも、お陰
様で50回目の配信をさせていただくことができました。

50号を記念して、協会より抽選で3名の方に4月25日に発行されたばかりの新刊
『坐禅の源流印度へ―プレクシャ・メディテーション随想録』をプレゼントい
たします。

【プレゼント応募要領】

記念品:『坐禅の源流印度へ―プレクシャ・メディテーション随想録』
著者:坂本知忠
出版元:日本プレクシャ・ディヤーナ協会
初版発行日:2015年4月25日
全:180ページ(A5サイズ モノクロ)
(参考販売価格:1,000円※自費出版のため一般書店では扱っておりません)

当協会のメールマガジンを最初から講読なさっている方も、最近になって講読
を始めた方も、ヨガや呼吸法、そして瞑想に興味のある方にはぜひ読んでいた
だきたい一冊です。

この新刊は当協会の自費出版のため、一般書店では扱っておりません。もし惜
しくも抽選にはずれたけれど読みたいという方は、本年度の会員にご登録くだ
さい。今年度のみの会員特典としてもプレゼントしております。

当協会の会員入会方法は下記をご覧ください。
http://jp.preksha.com/preksha/member.htm

また、追加で本書を購入希望の方は、協会または坂本会長まで直接お問い合わ
せください。(協会事務局宛メールアドレス:japan@preksha.com)

<応募方法>

下記協会メールアドレス宛に「プレゼント希望」の件名でメールをお送りくだ
さい。
メール内には必ず、お名前、〒、住所、電話番号、ご職業、年齢を記載くださ
い(当選の発表をペンネームで希望される場合はペンネームもお書き添えくだ
さい)。よろしければ、メールマガジンに対する感想や協会に対するご意見な
どもいただければ幸いです。


※ご記載いただいた個人情報は厳守いたします(協会プライバシーポリシー:
http://jp.preksha.com/preksha/PDJ_privacypolicy.pdf)。

応募締切日:2015年7月20日

プレゼント応募用メールアドレス:prekshajapan@gmail.com

当選者の発表は7月号のメールマガジンにて発表させていただく予定です。
ふるってのご応募をお待ちしております!

お問合せはこちらまで(協会事務局メールアドレス:japan@preksha.com)

プレクシャ瞑想合宿のお誘い

2015年のプレクシャ瞑想合宿の日程が決定いたしましたのでお知らせいたしま
す。今年は1回のみの開催となります。ふるってご参加ください!

合宿開催期間:2015年6月26日(金)~28日(日)
参加費(宿泊・食事・講習費含む)※現地までの交通費は含まれません
2泊3日:25,000円(協会会員は5%割引あり) (前後の宿泊も可能です)

今回はどなたでも初心者から上級者まで参加が可能な合宿となっております。
様々なレベルの人が交流し、熟練者は原点を、初心者は道筋を学べる貴重な機
会になります。普段の教室では行わない、合宿ならではのプログラムをどうぞ
お楽しみに!

なお、合宿内容詳細につきましては、下記よりチラシのPDFデータをダウン
ロード下さい。参加を希望される方は、チラシ裏面の申込書にてお申し込みく
ださい。

・プレクシャ・メディテーション合宿 チラシPDF
http://jp.preksha.com/learn/PDJ_Retreat_2015.pdf

※今回の合宿は、期間中であればいつでも参加ができ、入門の方から上級者ま
 でどなたでも参加可能な、自由参加型の合宿です。
※予定は変更されることもありますので、あらかじめご了承ください。
※指導員資格を取得された方は、特待受講が可能ですのでお問合せください。

コラム[水晶を使って心身を整える]

我々の興味や関心、趣味は人それぞれ違っている。花が好きな人もいれば、鳥
や動物が好きな人もいる。私は花や動物より石や鉱物が好きである。石や鉱物
となら話ができる。話ができるというのは会話ができるという意味ではない。
石や鉱物と接していると心の中に様々な思いが湧き上がってきて、あたかも石
や鉱物が私に語りかけているような気がするのだ。

石や鉱物の中で一番好きなのが水晶だ。水晶ほど興味深く面白い自然物はない
ように思う。天然水晶の外観を見てみると六角柱を形成するサイド面と屋根面
を形成するファセット面で出来上がっていることがわかる。サイド面は必ずど
の面も反対側の面とパラレル(並行)になっている。屋根を形成する六つのフ
ァセットは3角形から8角形の組み合わせで出来ている。これは全ての天然水
晶に当てはまる原則だ。ちょうど、人間に人種の違いがあり、全人類の外観が
共通しているのと同じだ。共通原則は同じなのに、地球上の全ての人間はただ
一人として同じ人がいないように、水晶も似ているものはあっても、同じもの
は一つもなくて個性的だ。まるで、水晶の結晶が形成されるとき結晶の種がか
くありたい、そういう形態になりたいと意思を持っているかのようだ。

水晶は結晶が育つ環境で一群の似たような特徴をもつ結晶となるが、産地によ
って完璧に透明なものもあれば不純物を含んだもの、さまざまな色、大きさや、
経と長さの比率の違いなどがある。水晶というのは二酸化珪素、つまり酸素原
子とケイ素が結びつき結晶したもので、結晶してゆくとき4面体構造で原子が
螺旋を描きながら連なって成長いく。この螺旋構造によってピエゾ電気効果が
生まれ、結晶の表面は4面体構造にならずに7×7の正六角形のグリッドにな
なる。水晶には半導体としての性質とともに、エネルギーを増幅、蓄積保存、
変換、収縮集中、移動伝達するなど優れた能力があるため、その性質や能力を
現代テクノロジーはさまざまな分野で応用している。水晶は単なる石ではない。
生き物に近い意思を持つ石だと思う。今では人工水晶が多量に工場でつくられ、
現代テクノロジーを支える重要な基礎となっている。日本は世界一の人工水晶
産出国で、有名なメーカーとして、日本電波工業、大真空、リバーエレテック
がある。

人工水晶を作る時、種水晶として高純度のマザークリスタルという天然水晶が
必要だが、人工水晶はマザークリスタルの性質が転写されて育つため決してマ
ザークリスタルの性質を超えることはできない。文書をコピーしてゆく時、コ
ピーを繰り返していくとだんだんコピーが不鮮明になっていくのと同じである。
天然の高純度マザークリスタルをもとめて世界各国のメーカーが競い合ってい
る。その争奪戦を小説に描いたのが、2014年12月に出版された篠田節子の『イ
ンド クリスタル』だ。インドの片田舎の鉱山を舞台にした冒険小説で、小説
を読んでみて今まで知らなかった天然水晶から人工水晶を作り出す方法がよく
理解できた。

人工水晶が使われている分野は、主にスマートホン等の通信機器、放送局やテ
レビなど送受信機器、コンピユーター等の情報機器関連が多い。ケイ素という
元素は、もしかすると宇宙において他とのコミュニケイションをとる仲立ちを
役割として存在しているのかもしれない。

現代は水晶文明と言われる程に水晶はなくてはならない存在となっているが、
古代から人間の感性は水晶の持つ優れた性質を直感的に感じ取って、ヒーリン
グや占い瞑想の道具としてつかってきた。考えてみればすぐ分かることだが、
私たちの感情も思考も言葉もエネルギーで、水晶にはそのエネルギーを増幅し
たり、保存蓄積したり、変換できる能力があるので、水晶を使って様々なワー
クが可能となる。私はそのことに興味を持ち研究し、1996年にたま出版より
『虹のクリスタルワーク』を出版し、その著書の中で、水晶による瞑想法と
ヒーリング法を発表した。それ以前またそれ以降も沢山の水晶や貴石の本が出
版されているが、私の書いたもの以外に具体的な水晶の使い方を詳述した本は
日本ではほとんど出版されていない。

皆にお勧めしたいのは、フィンガーサイズの水晶を二本使う方法である。水晶
を呪文によって浄化しさらにパワーアップしたあとで、瞑想の座法をとりギ
ャーナムドラの手のひらに載せる。右の手のひらの上には先端を指先に向けて
水晶を置き、左手は逆向きに先端を手首に向けて置く。これだけで、体内エネ
ルギーのバランスがとれ流れが良くなる。自律神経系が整い深い瞑想、ディ
ヤーナに入る準備になる。なかなか瞑想感覚がつかめない人におすすめしたい
方法である。

鶏卵ほどの大きさの天然水晶が5個用意できれば、畳二枚の正方形のコーナー
に水晶を4個置き、残りの1個をその中心に置く。そして5個の水晶の外側に
立ち、別の水晶を使って5個の水晶を意識の線で一筆書きに繋ぎ、中心の水晶
に思いを込めるとエネルギーフィールドが出来上がる。さらに、そのエネル
ギーフィールドの中で瞑想すれば、ピラミッドエネルギーやパワースポットの
コズミックエネルギーに類似したエネルギーに包まれて、集中力が高まり深い
知覚瞑想に入っていける。

瞑想を継続していると集中力、知覚力、認識力、意識力が高まり内なる智慧が
開発されるが、水晶と常時接していることでも知覚力や認識力が高まってくる。
水晶を使って瞑想すれば、それらの相乗効果が得られる。瞑想によって水晶と
は何かがわかり、水晶によって瞑想が格段に進歩する。

とは言え、水晶は単なる道具である。瞑想の初歩的段階で使えば水晶は瞑想を
手助けしてくれる有効な道具となるが、瞑想に上達したあとでは水晶は不要な
ものとなる。

古代から伝わってきた霊性開発テクニックを神秘的・迷信的に捉えることなく、
現代科学の知見を加えて考察し論理的に理性的に解釈しなおすと新しい側面が
見えてくる。インドポンデチュリーにあるオーロビンド・アシュラムの瞑想
ホール、マトリ・マンデールには大水晶球が置かれ、コンピユーター追尾で太
陽光線が水晶球に当たるようになっているそうだ。太陽光線が照射されて水晶
がパワフルになり、水晶エネルギーに満たされた瞑想空間になるだろう。その
空間を想像しただけでもワクワクする。私はダウクリスタル型(ファセット面
が7・3・7・3・7・3の形状になっている)の水晶寺院を只見に建てたい
という夢を持ち続けているが、貴石や天然水晶、人工水晶、さまざまな色と形
のLED電球を使い、その建物の中にいるだけで、病気が癒され元気になり、瞑
想が進み人格が向上するようにできたらと願っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2015年4月23日木曜日

5月からスタートするレベル1の瞑想講座について

「瞑想とヨガ」坂本知忠講師による、プレクシャ瞑想教室 <東中野>
(*単位取得対象講座)

『勝利者の瞑想法』著者である坂本知忠による定期プレクシャ瞑想教室です。

5月からは新しい講座がスタートしますので、下記日程および講義内容をご確
認の上、ご参加ください。

日時:毎週木曜日 19:00~20:30

<内容>

【5月開催 プレクシャ メディテーション レベル1】

指導者養成のレベル1を目指す方、今までの復習をしたい方、瞑想を基礎から
学びたい方向けの講座です。

5月14日 講義:瞑想とは何か どのように行うか
    実習:カーヨウッサグ
5月21日 講義:カーヨウッサグの理論
    実習:カーヨウッサグ
5月28日 講義:アンタルヤートラの理論
    実習:アンタルヤートラ(講師:中村正人)
6月4日  講義:ジャイナ教と瞑想 仏教瞑想との相違点と類似点
    実習:アンタルヤートラ(講師:中村正人)
6月11日 講義:シュヴァーサ・プレクシャの理論
    実習:シュヴァーサ・プレクシャ(講師:中村正人)
6月18日 講義:呼吸法とプラーナヤーマについて
    実習:プラーナ・サンチャラニー・ムドラ
6月25日 講義:マントラを唱える意味
    実習:スマブリッテイ・シュヴァーサ・プレクシャ
7月2日  講義:身体の宗教哲学的意味
    実習:シャリーラ・プレクシャ
7月9日  講義:肉体、電磁気体、カルマ体、魂について
    実習:シャリーラ・プレクシャ
7月16日 講義:8つの主要なケンドラについて
    実習:ジョーテイ・ケンドラ・プレクシャ
7月23日 講義:4ステップ瞑想の組み合わせ時間配分について
    実習:4ステップ瞑想
7月30日 講義:レベル1のまとめ 実習:4ステップ瞑想


場所:NPO沖ヨガ協会 沖ヨガスタジオ
   中野区東中野3-6-14 小谷ビル301
電話番号:03-6908-5613
http://okiyoga.com/studio/index.php?Class
交通:JR東中野西口より徒歩5分、東京メトロ東西線落合駅より徒歩3分

アクセスマップにつきましては、下記URLにてご確認ください。
http://goo.gl/maps/qJtvK

※当日参加費として2,000円を頂戴いたします。
※NPO沖ヨガ協会(国際総合ヨガ協会)の会員でなくとも受講できます。
※初めて参加される方は予め連絡をいただき、日程や開催場所をご確認下さい。
※ヨガマットは不要です。


コラム[過去と現在と未来をつなぐ出会い]

新刊書『坐禅の源流印度へ』のあとがきに、「誰かが五十年後百年後にそれ
[私が書いた拙い文章]を見つけて、その人の心の琴線に届けば嬉しい」と書
いた。なぜそのように書いたかといえば、私自身が50年以上前に書かれた文章、
今では誰からも顧みられることがなくなった文章に心惹かれ愛読しているから
である。

私は今ではディズニーランドで有名になった海辺の漁師町浦安に生まれた。生
家は浦安で採れたあさりやハマグリなどを漁師から買い取り、船で東京に運ん
で卸売商売をしていた。海と船と釣りに多大な縁がある幼少期を過ごした。戦
後の食料難だった時代に家族も多く、使用人や居候の警察官などが出入りする
賑やかな家だった。漁師の操る船よりもずっと大きな木造の焼玉船(重油エン
ジン)に時々、祖父に乗せてもらった。船上から冬の東京湾の澄んだ空気を通
して、前衛の箱根や丹沢の黒々とした山並みの背後に白い富士山が浮かぶのが
望まれた。海上から遠く山々を眺めたとき、まだ見ぬ世界、知らない世界に対
して強烈な憧れが起こった。小学校、中学校と父母に連れられて箱根や塩原、
伊香保などの山の温泉にも行った。その時目にした渓谷や森の木々の美しさに、
岩や石の面白さに気づいて、夢中になった。そして高校生になった時、私は山
岳部に入ることしか頭にない、そんな青年になっていた。高校一年生の夏、日
本でも一番険しいとされる北アルプスの剱岳に登った。今までこんなに凝縮さ
れた充実感、達成感を味わったことがないとその時思った。剱岳に登った後、
私の頭の中と心は山に対する憧れでいっぱいになった。山に対する若き日の思
いは今も継続している。

私はスポーツ観戦には全く興味がない。野球もサッカーもバレ-ボールも卓球
もフィギュアスケートも、テレビで放映されていても関心がなく観ない。私の
家内はスポーツ観戦が大好きなのでその点では全く趣味が違う。登山はスポー
ツのようでスポーツではない。競い合うものではなく、第三者が競技として観
戦するものではないからである。しかし登山家も、自分の体験を文章にして読
者に読んでもらうことはできる。日本には明治以来、有名、無名の沢山の登山
者が優れた山岳紀行文を書いてきた。私はそうした山岳紀行文を読むことが好
きである。登山がスポーツであるとすれば、他のスポーツにおける観戦にあた
るものが山岳紀行文や随筆を読むことであると言えるかもしれない。

私が好きな登山家は冠松次郎である。代表的な著作は昭和3年にアルスから発
表された「黒部渓谷」である。「黒部渓谷」は昭和37年にあかね書房より刊行
された『日本山岳名著全集第3巻』に収録されていて、高校2年生の夏に購入
して読んだ。冠松次郎の著作は20代の頃古本屋で探してもなかなか見つからず、
たまたま見つけても高価で手が出なかった。

近年、そうした入手しにくかった書物も蔵書家が高齢で亡くなるせいか市場に
出回ることが多くなった。そして価格も下がり入手しやすくなった。『黒部渓
谷』の初版本も状態の良い完全な装丁で神保町の悠久堂で見つけた。価格は18
00円、30年前の十分の一の価格だ。それ以来、冠松次郎の著作を見つけると状
態が良ければ悠久堂で買うようにしている。昭和4年第一書房刊『立山群峯』、
昭和5年第一書房刊『黒部』、昭和10年梓書房刊『白馬連峰と高瀬渓谷』、昭
和13年書物展望社刊『峰・渓々』、昭和14年三省堂刊『峯・瀞・ビンガ』、昭
和15年三省堂刊『廊下と窓』、昭和17年墨水書房刊『わが山・わが渓』等々。
刊行されてから80年ほど経過した古書である。今ではこれらの書物を読む人は
登山愛好家の中でもごくごく少数の人だけである。文章を書くことが苦手だっ
た私が文書を書くのが好きになったきっかけも山岳紀行文をよく読むようにな
ったことと、自らも山岳紀行文を書くようになったからである。

私がヨガや瞑想に興味を抱いたのは登山がベースになっている。80歳ぐらいま
で元気で登山をしたいと思ったことと、20歳で肺結核を患ったことが私をヨガ
に向かわせた。

肺結核の病が癒えたとき、すぐには激しい登山は無理だったので、山麓歩きや
ハイキング程度の軽い山歩きから再開した。その頃、奥会津の山深い村々に魅
せられて峠を越えて集落を訪ね歩いた。美しい古民家と古風な山村の暮らしぶ
りに惹かれて、3、4年かけて奥会津の村々集落をくまなく歩いた。そうした体
験があったからこそ私は只見の叶津番所に出会い、叶津番所の保護と活用とい
う活動に私を向かわせたのである。

その後、番所の活用とヨガの実践が結びついて「みずなら只見ユイ道場」を作
った。子供の頃から今までエポックな出来事を点として捉え、それを繋いでみ
ると、バラバラに生起していると思った出来事が実はある法則性をもって相互
に関連して生じていることが解る。それが原因と結果の法則、因果律である。
生まれる前の私の潜在意識の中に既に過去の体験の結果による種があった。そ
の種に導かれて私は生まれた。それはたまたまでもなく、偶然でもなく慎重に
計画されたもののような気がする。20年以上も前のこと、私はジャイナ教の高
僧ムニ・シュリ・キーシャンラール師と全米パストラル・リグレッション協会
会長のネビル・ロウ師から個人セッションで過去生回帰瞑想を体験した。過去
生回帰瞑想によって私は潜在意識下にある自分の種を知ることができた。

私たちの命の本質は過去の上に今が重なっていて、今の上に未来が重なって行
くものだとすれば、今生の人生の流れが解かれば、忘却の彼方に消えていた過
去生のことがなんとなく解ってくる。現在と過去が解ってくれば、次にどうな
るかおおよそ見当がつくものだ。次にどのような所に生まれどのような人生に
なるかは、現世で心惹かれたものがキーワードとなって導きだされるだろう。

キーワードとなって導くものは知識でなく記憶でもなく、ある種の願望であり
成し遂げたい夢であり嗜好でありイメージである。私の場合は、山 源流 石
 岩石 水晶 石庭 ヨガ 瞑想 プレクシャ・メディテーション 古民家 
田舎の村 桃源郷 寺院建築 温泉 修行の場 自給自足 油絵 日本刀 武
道 ヒマラヤ 奥会津 早い移動手段 空を飛ぶ 平和 他との一体感 等で
ある。

高齢の域に達した今、今生を振り返ってみると、山というキーワードが私の足
元を照らし導いていたことが解った。多分、次の人生ではプレクシャ・メディ
テーションが私の足元を照らし導くだろう。

私がどんな時代、どんな場所に生まれても、きっとどこかで再びプレクシャ・
メディテーションを見つけることができると確信している。瞑想というキー
ワードが私の次の人生のエポックな出来事を引き寄せ、出会った事、起こって
きた事をどう受け止め解釈し行動するかで次の人生が展開していくだろう。い
ずれの人生でも、その時々でやるべき時にやるべき事をきちんとやることしか
ないのである。いつか私にも原因と結果の法則、生まれ変わりに飽きる時が来
るだろう。苦を離れて楽がないことを疎ましく感じるようになるだろう。その
時、真剣にモークシャ(解脱)になることを望むだろう。モークシャを望む時、
今、経験していること実践していること練習していることが必ず役に立つ。プ
レクシャ・メディテーションが必ず役に立つと確信している。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

新刊『坐禅の源流印度へ―プレクシャ・メディテーション随想録』発行

この度、当メールマガジンの名物コラム「勝利者の瞑想法」が一冊の本になり
ました。

タイトル:『坐禅の源流印度へ―プレクシャ・メディテーション随想録』
著者:坂本知忠
出版元:日本プレクシャ・ディヤーナ協会
初版発行日:2015年4月25日
全:180ページ(A5サイズ モノクロ)
販売価格:1,000円

メールマガジン発行当初の2011年4月から今年3月までの選りすぐりの作品を集
めた著書となります。目次には下記のタイトルがつけられたことにより、より
分かりやすく読みやすい内容になりました。著者の今までのヨガ・瞑想歴を振
り返りつつ、プレクシャ・メディテーションや瞑想・哲学など、そしてそこか
ら著者が学んだ智慧を様々な観点から書かれております。

<目次タイトル>
1、瞑想とは何か
2、カルマについて
3、仏教とジャイナ教
4、非暴力・環境問題
5、深く考える

この協会のメールマガジン自体は以前から構想を考えてはおりましたが、震災
直後の精神的に困難な2011年の4月に、プレクシャを伝えることが人々の心の
平安を取り戻すためにも大切なことだという信念を胸に、協会発足当初たった
3名でスタートを切ったメールマガジンです。それから5年が経ち、著者の坂本
会長が1回も休むことなく、全てを出し切る思いで努力を重ねて毎月綴られて
きたコラムをまとめられたことは、著者そして協会にとりましても、大きな意
味があると思います。今回編集を担当した私自身、全編をまた改めて読み直す
と、今になって響いてくる言葉や、共感できること、ようやく理解できた内容、
そしてまだ未熟な自分には未知の部分など様々な発見があり読み応えがありま
した。

当協会のメールマガジンを最初から講読なさっている方も、最近になって講読
され始めたかたも、ヨガや呼吸法、そして瞑想などにご興味のある方にはぜひ
読んでいただきたい一冊です。ぜひこの機会に改めて読んでみられてはどうで
しょうか。

なお、当協会の自費出版の著書となるため、一般書店では扱っておりません。
購入希望の方は協会または坂本会長まで直接お問い合わせくださいませ。

また、当協会会員の皆様に嬉しいお知らせがございます。
坂本会長のご厚意により、平成27年度の協会会員の方にもれなく新刊をプレゼ
ントします。会員の継続がまだの方はお早めにお手続きください。間もなく発
行される会報誌と一緒に郵送させていただきます。また、登録が未だの方もこ
の機会にぜひ入会してみませんか?

会員特典や入会方法は下記をご覧ください。
お問合せはこちらまで(協会事務局メールアドレス:japan@preksha.com)

2015年3月31日火曜日

第4回プレクシャ・コミュニティ交流会開催のお知らせ

直近のお知らせとなりましたが、来たる4/4(土)18時より、ジャイナ教の開
祖マハーヴィーラの生誕祝賀集会に合わせて「第4回プレクシャ・コミュニテ
ィ交流会」の開催が急きょ決まりました。下記のテーマで、在日ジャイナ教徒
の皆さんとざっくばらんに、楽しく意見交換をしたいと思います。参加は無料
です。ふるってご参加ください。

テーマ: 「アヒムサ(非暴力・不殺生)と食文化あるいはアネカンタ(非独
善主義)はどこまで両立できるか?

日時: 4月4日(土)17:45集合

集合場所:完全菜食インド料理店「ヴェジハーブサーガ」入口前集合
     (→会場に移動)
     住所:上野5-16-9サンエイビル地下
    (JR御徒町駅or地下鉄仲御徒町駅から徒歩2分)
    (店舗ホームページhttp://www.vegeherbsaga.com/shop.html)

会場:ジャイナ教寺院(御徒町)にて、18時過ぎ~開始

※ジャイナ教徒の皆さん(インド人)の集会にお邪魔する形となりますので、
 本物の賛歌なども聴くことができます。

※一連の会の終了後、自由参加にて「ヴェジハーブサーガ」で夕食・歓談を予
 定しています。

平成27年度 日本プレクシャ・ディヤーナ協会 年次総会開催のお知らせ

当協会では、第四回年次総会を4月の研究会開催時に執り行う予定です。会員
の皆様へ平成26年度の会計報告ならびに来期27年度の開催予定行事や今後の協
会運営について話し合いの場をもちたいと思いますので、ふるって出席くださ
い。

当日は簡単なお菓子とお茶などをご用意いたします。参加費は無料ですので、
お早めに協会事務局(メール:japan@preksha.com)まで出席のご連絡をよろ
しくお願いいたします。なお、この日に限り、プレクシャ・メディテーション
研究会にも無料で参加いただけます。

会員の皆様からご提案などございましたら、事前に協会事務局までご連絡くだ
さい。

日時:2015年4月6日(月)18:00~(総会終了次第研究会となります)
場所:市川市南行徳市民センター3階 集会室1
千葉県市川市南行徳1丁目21番1号  TEL: 047-359-5451
東京メトロ東西線南行徳駅下車、徒歩1分
アクセスマップにつきましては、下記URLにてご確認ください。
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html
参加費:無料

※会員様のための総会となりますが、新規会員希望の方や協会の活動内容に
 興味がある方のご参加も歓迎いたします。

以上、皆様のご参加をお待ちしております。


第61回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第61回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さい
ますよう、宜しくお願い申し上げます。

次回:2015年4月6日(月)19:00~21:00
場所:集会室2(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:中村正人

テーマ: うつと瞑想~うつ対策プログラム構築への試み(理論編/実践編)

瞑想は何故「うつ」にいいのか。代替医療(自然治癒論)の権威、アンド
ルー・ワイル博士の最近の著書『うつが消えるこころのレッスン』(2012年)
を整理しながら、精神医療における瞑想の効果を検討します。(総会終了後、
時間の許す限り、理論→実践プログラムの順で進めます。)そのうえで、プレ
クシャ瞑想の特長に照らして、独自の「うつ対策プログラム」を模索します。

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は通常、会員1,000円/非会員1500円ですが、
今回は総会開催のため無料参加いただけます。

【今後の開催予定】
・2015年6月1日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2015年7月6日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています

コラム[利己心と依頼心]

人類社会が混乱し争いが絶えない根本の要因は、人間の心の奥に巣食っている
自己中心的なエゴの心と他者への依頼心である。この心を正し、取り除いてい
かないと個人として幸福になれないし、社会に平和が訪れることもないだろう。
宗教が必要とされる理由は、その二つの心から起こる問題を取り除くためであ
る。

世界中にある宗教の根本教義を要約すると、宇宙は神によって創られたもので
あるという創造神を認める立場と、宇宙は神によって作られたものではなく始
めもなく終わりもなくただ無限の変化を繰り返しているに過ぎないという立場
の二つに分類できる。創造神を認める立場の主な宗教はユダヤ教、キリスト教、
イスラム教である。一方、創造神を認めない立場が仏教やジャイナ教である。
ただし、後世の変容した仏教やヒンドウ教には創造神を認める立場もある。

創造神を認めると神様が人間の人生をコントロールしていると考えるようにな
る。それに対して、創造神を認めない立場の人間は神様にコントロールされて
いるのではなく、自分の為した行為に支配されていると考える。自分の行った
行為は潜在意識下の深いレベルに蓄えられていて、それが人間をコントロール
していると考えた。それが自業自得、自己責任、因果律の考え方、教えである。

創造神を認める立場の人は人間的に成長するために、そして神に救われる為に
は、他に対する奉仕、社会救済活動が必要と考えた。自分が他を救うことによ
って神様からの救い、恩寵を受けることができると考えた。神による救いと救
われを理想とし、他に対する思いやりの心を育むことと愛の実践を重視した。
この立場はエゴの心を取り除き自己中心的になることを防ぐ利点があるが、と
もすると依頼心を育て他に依存するようになってしまう。責任を自己に見ない
で他に転嫁する考えを育む。訴訟事案の多い社会となる弊害がある。良いこと
をすれば神に救われるが、悪いことをすれば地獄に落ちて劫火に焼かれると勧
善懲悪を教える。近年の日本人の考え方から責任感が希薄になってきたのは、
創造神を認める欧米文化の影響が強くなって来ているのではないかと私は考え
ている。

ジャイナ教や初期仏教は解脱(輪廻転生からの離脱)を理想として、輪廻転生
の元である原因と結果の法則を断ち切ることを理想とした。今、自己に起こっ
ていることの全ての原因は自己にあるとして、他を助けること、他から助けて
もらうことに力点を置かなかった。このような考えはともすると他を突き放し、
自己中心的になりやすく傲慢になってしまう欠点がある。良いところは、自分
のことは自分でするという自主独立の精神が養われ、強い責任感を持ち、責任
を他に転嫁しない考え方を育む点である。しかし社会的弱者に対して突き放し
た冷たい社会になる恐れがある。原因と結果の法則、魂の輪廻転生を説いて悪
を為さないように教える。

社会救済を主とする活動は、自己を皮膚の外側に拡大していく方向性を持つ。
人類救済のために菩薩行、愛の実践を行う。地上天国の創造を目標にし、神に
救いを求める祈り、他を助けるための救いがその方法である。自己拡散的なこ
の方法を通して今まで自分でないと思っていたものが自分となる。他人が自分
となり、動物や植物が自分になり、他物が自分になり、地球が自分になり、つ
いには宇宙が自分になる。

自己救済を目的にした修行は、自己の皮膚の内側に集中していく求心的方向性
を持つ。解脱のために瞑想を通して徹底的な自己観察を行う。自己観察によっ
て今まで自分だと思っていたものが自分でないと解る。体は自分ではない。心
は自分ではない。怒りや悲しみ等の感情も自分ではない。悩みや癖や反応も自
分ではないと解る。自分ではないものを取り除いていって最後に本当の自分が
残る。不純物が混ざり合った金鉱石を精錬し純金にするように、不純物で汚染
された水を清らかにして純水を作るように、魂の本質は純魂というべき純粋な
ものである。

世界中の宗教は大まかにどちらに重点をおいていかによって二つのいずれかの
カテゴリーに分類できるので、今自分が学んでいるスピリチュアルな学びはど
ちらに属しているのか常に念頭に置いておかなければならない。そのことが分
かっていないとスピリチュアルな学びが混乱して何がなんだかわからなくなる。
創造神を信奉する宗教は神の偉大さを強調するために壮大な寺院を必要とした。
バラモン教の時代には大寺院を必要としなかったが、ヒンズー教化すると壮大
な寺院が建てられた。仏教も救いの概念が入って大乗化すると大寺院が立てら
れるようになった。ジャイナ教も祈りや救いが入ると壮大な寺院が建てられた。
偶像崇拝する心に祈りと救いの概念が入る。初期仏教や初期ジャイナ教には救
い救われの哲学は乏しく自力修行と自己責任が強調される教えであった。ジャ
イナ教のマハーマントラは救いを祈るものではなく、悟りを開いた先人に対す
る敬慕と感謝の想いを言葉に出している。

私は一般に言われている自己救済を目的にしたメディテーションを「瞑想」と
いうのに対して、自己拡大していく社会救済的な活動を「冥想」と呼びたい。
本当の瞑想とは、「瞑想」と「冥想」を合わせたものである。沖正弘先生は創
造神を認める宗教と創造神を認めない宗教を統合してその全ての修行を総合的
に行うことを冥想行法と表現された。パタンジャリのヨガ8段階に不足してい
る社会救済的な面、愛や祈り救いの行法を加えてヨガの10段階を構成した。
総合ヨガの10段階には冥想行法という段階はない。一般にメディテーション
と言われている段階は統一行法(ダラーナ)と禅定行法(ディヤーナ)に相当
する。ヨガの10段階全ての行法を含む意味合いを持つ冥想行法の中で最も重
要なものは統一行法、禅定行法であると言っている。

沖先生の提唱されたヨガは総合ヨガであり、生活ヨガ、求道ヨガ、冥想ヨガで
ある。そしてそれらを実践することが「生きている宗教」である沖ヨガ、沖道
である。創造神を認める宗教と創造神を認めない宗教を統合し、その欠点を利
点に変え、日常生活の中で実践していくとした宗教哲学である。

身体の動的訓練が素晴らしい沖ヨガと霊性の静的訓練が素晴らしいプレクシ
ャ・メディテーションが融合したら、人類史上最高の身心訓練法になるのでは
ないかと常々思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2015年2月24日火曜日

コラム[完全なるリラックス]

私達は日常生活の中で様々なストレスを受けている。ストレスは心身にとって
不快なもの出来れば生活環境から無くしたいものである。しかし、生きている
限り嫌なこと、不快なことは私達についてまわる。外部からストレスが私達に
加えられると、心と身体が反応し、身体内部で坑ストレス反応が起こる。坑ス
トレス反応が様々な病気を誘発する。代表的な坑ストレス反応が自律神経失調
症であり、高血圧症、胃潰瘍や十二指腸潰瘍、不眠症、鬱などである。

こうしたストレスによる発症を防ぐにはストレスに対応する心身の適応性を高
める工夫が大事である。日常生活で心身が癖づかないように工夫し、全ての物
事に対して自ら変化を起こして対応するという能動的な姿勢がストレスに強い
生き方である。また、無所有、無執着の生き方を実践するのがその方法でもあ
る。ジャイナ教哲学のアネカンタ=非独善主義(相手の立場を尊重する。自分
だけが正しいとは限らない。無対立。)もストレスを軽減する生き方である。

ストレスは緊張刺激として体の筋肉を固くする。ストレスを取り除くためには
リラックスが必要である。積極的なリラックス刺激は筋肉を完全弛緩させて血
流や生体エネルギーの流れを促進させる。その方法がインドに古代より伝わる
瞑想法の一つでカヨーウッサグである。カヨーウッサグは現代医学療法にも取
り入れられて自律訓練法として知られている。

仰向けに寝て身体各部に順番に意識を向けながら、自己暗示で一つずつリラッ
クスさせていき、深いリラックスを導き出すものである。ヨガのアーサナ、シ
ャバアーサナ(屍のポーズ)はヨガの女王と呼ばれる重要なポーズである。ヨ
ガの身体訓練をした後で、全てを投げ出すように仰向けになる。緊張した後の
深いリラックス感がその時、身体内部より導き出される。緊張が大きく深けれ
ば深いほど深いリラックスが起こる。シールシャ・アーサナ(逆立ち)=ヨガ
の王様とシャバアーサナを組み合わせればストレスを取り除き深い瞑想状態の
リラックスが得られる。

プレクシャ・メディテーションにも取り入れられている心身分離の瞑想法・カ
ヨーウッサグ、ヨガのシャバアーサナ、自律訓練法などのリラックステクニッ
クと同種の方法としてアメリカのジョン・リリーが1954年に考案したのがアイ
ソレーション・タンクである。

アイソレーションとはカヨーウッサグのウッサグと同じ「分離」という意味で
ある。カヨーは身体という意味でアイソレーションの分離とは心身分離を意味
している。人間が仰向けに横たわれる空間の箱(タンク)の中に濃度の高い硫
酸マグネシュウムの溶液を25cmの深さに満たしてある。溶液は非常に濃い溶液
となっていて、その濃さは死海やグレートソルトレイクよりも濃い。浮力が強
いのでタンクの中で仰向けに横たわると人間は簡単にコルクのように水面に浮
かぶことが可能になる装置だ。

そのアイソレーションタンクを先日初めて体験した。場所は東京、三田線白金
高輪駅近くのフロートセンター、インターネットで内容を検索でき、体験予約
も可能だ。

アイソレーションタンクに入る前の注意事項の説明を受ける。溶液が目に入る
と沁みるので入らないようにすることと、入ってしまった場合の対処法を教わ
る。横たわった時に耳まで水没させ頭を深く沈めて首の力を抜くことが肝心で
あると説明を受けた。タンクに入る前にシャワーを浴びて体や頭髪を洗う。耳
栓をして素っ裸でタンクに入る。タンクの中はヌルヌルしていて滑りやすい。
タンクの入口の蓋を閉じると真っ暗になる。溶液にゆっくり横たわると体がフ
ワッと持ち上げられて水面に浮かび上がる。水と接触している全ての皮膚が均
等に押されて浮かび上がる感覚である。外部の音も遮断されとても静かである。
ゆっくり頭を下げて両耳を均等に水没させ、額の中程まで水没させる。水温は
体温と同じ温度に調整されてあるので寒くもなく暑くもない。体が浮くことで
重力からも解放される。

重力から解放され音もなく光もない空間。暑さ寒さの刺激もなくなって、感じ
ようとする心は身体内部に向かった。自分がしている呼吸の音と心臓の鼓動が
驚く程大きく感じられた。時間の経過とともに様々な感覚が起こっては変化し
ていった。呼吸が自然に激しくなったり静かになったりが繰り返された。ふと
気付くと皮膚と溶液の境目が完全に無くなっていた。内部感覚は残っているが
宇宙空間に漂っているかのような感覚が起こった。内部感覚を完全に消滅させ
て身心分離の深いリラックス感を期待していた。内部感覚が消えないのでふと
思いついてクリスタル・ヒーリングに使う呪文「光の導き」を心の中で唱えた。
すると全ての内部感覚が消えて深い沈黙の闇の中に入っていった。全ての肉体
感覚が消え何も無い均一の闇、自分が何処に存在しているかもわからない。静
けさと喜びも悲しみも何も無い深い沈黙の世界だった。こんな感覚が生ずると
は思ってもいなかった。しかし私の内部の深いところからもっともっと深い感
覚が先にあると告げていた。その時、タンクの浄化装置の作動音が始まった。
終わりの合図である。60分の体験、ゆっくり体を動かしてタンクの扉を押し上
げた。

初めての体験から1週間後、再びアイソレーションタンクでのフロートを体験
した。前回感じた肉体感覚の喪失と沈黙の世界の体験の更に先にあるものを探
りたかったので、体験時間を90分に延ばした。水面に浮かぶ感覚、皮膚と水と
の境目の消失が起こったが、内部感覚は腰のあたりに感覚が残って無になるこ
とが出来なかった。体が左右不均一に伸びたり縮んだりの感覚が起こった。又、
空間に漂う体がどんどん膨張して広がっていく感覚がやってきた。どこかで期
待していた心身分離や幽体離脱は起こらなかった。70分を過ぎる頃フローティ
ングしていることに飽きてきた、リラックスでなく緊張刺激が欲しくなった。
そっと目を開けてみたが目を開けた状態も閉じた状態も暗闇の内部感覚は同じ
だった。マントラを心の中で唱えてみたがついにそのときは肉体感覚の消滅は
起こらなかった。

皆さんもアイソレーションタンクという現代テクノロジーを使って、古代の瞑
想法カヨーウッサグを別の角度から体験してみて下さい。カヨーウッサグの本
当の意味と効用が手軽に理解できるでしょう。お腹を空かせた状態での体験を
勧めます。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

第60回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第60回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さい

ますよう、宜しくお願い申し上げます。

次回:2015年3月2日(月)19:00~21:00
場所:集会室2(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:中村正人

テーマ: 現代型うつと瞑想

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は会員1,000円/非会員1500円です。

【今後の開催予定】
・2015年4月6日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2015年6月1日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています。

2015年1月28日水曜日

新年会のご報告と今年の抱負

新年会にお集まりいただきました皆さま、お疲れさまでした。はじめての方も
参加され、有意義な時間となりました。期待していた「特別料理」はどこ?と
いう感もありましたが、ふたを開けてみなければわからないのがインド流。ハ
プニングを含め、最近は何でも心穏やかに受け流すことができるようになりま
した(笑)。参加者の皆さま、ありがとうございました。

さて、会の中でお話させていただいた今年の協会の抱負について、簡単に述べ
ておきたいと思います。昨年後期の会報誌ですでに記しましたように、今年、
当協会は今まで以上に積極的に社会に貢献していくことを目指しています。そ
の最初の試みとして現在、「被災者支援プログラム」を計画中です。東日本大
震災からもうすぐ4年になりますが、今なお多くの人々が苦しんでいます。事
故直後の混乱した状態から、次第に落ち着きを取り戻しつつあるかのような幻
想が蔓延していますが、現実には未だに問題が山積したまま人々は取り残され
ています。ライフラインや生活物資をはじめとする「物の復興」は進んでも、
「心の復興」はむしろ深刻さを増すばかりです。とくに、住む場所や故郷を奪
われた人々の精神的苦痛、放射能の影響を受けやすい子供たちの健康問題、親
たちの不安は、落ち着くどころか今後ますます心身の不調を伴って顕在化して
くると思われます。

そうした心と体の問題に対して当協会にはできることがあります。それは、同
じ福島県でありながら放射能の影響をほとんど受けていない場所(奥会津只
見)にある我々の施設(古民家とユイ道場)に子供たちや被災地の人々を受け
容れ、豊かな自然の中で瞑想やヨガ、食養生をしてもらうことです。これまで
年1、2回のペースで開催していた合宿の対象を拡げ、できるだけ多くの被災
者に数日間滞在してもらい、放射能の毒を排出させ、心身ともにリフレッシュ
して健全さを取り戻してもらうプログラムを目下準備中です。そして、それを
実行に移すための資金支援を模索しています。すでに一つ、或る大型支援プロ
ジェクトに応募しました。採用されるかどうかは未知数ですが、福島県や地域
の自治体、民間団体の資金支援も視野に入れ、今後より積極的に展開していき
たいと考えています(もし、そのような支援情報を入手されましたら、ぜひお
知らせください)。

どこかから資金援助を受けられることになったら、準備中のプログラムを直ち
に実行に移します。その時には皆さまにも最大限ご協力していただかなければ
なりません。どうぞ、できるだけ早めに指導員の資格を取得して、実質的な活
動に参加するための準備をお願いいたします。資格取得の方法については、昨
年秋の会報誌をご確認ください。

(文章:中村正人)

第59回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第59回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さい

ますよう、宜しくお願い申し上げます。

次回:2015年2月2日(月)19:00~21:00
場所:集会室2(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:坂本知忠

テーマ: プレクシャ・メディテーションと沖ヨガ行法の融合を考える。

1.プレクシャ瞑想と沖ヨガ冥想の同じところと違うところを明確にします。

2.社会貢献の為に行う只見や伊豆で行う合宿のプログラムを一緒に考えます。
又、準指導士及び指導士を目指す方でポイントが足らない人に4ポイント加算
します。

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は会員1,000円/非会員1500円です。

【今後の開催予定】
・2015年3月2日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2015年4月6日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています。

コラム[瞑想・二つの流れ]

アーリヤ人がアフガニスタンやパキスタン方面からインドに進出してきたのは
紀元前13世紀から11世紀頃のことである。アーリア人は遊牧を生業とする人達
であった。彼らが奉ずるのはヴェーダという宗教であり、司祭をバラモンと呼
んだ。バラモンは施主から祭祀を頼まれると荒野に結界を作り祭壇を作った。
結界に炉を作り火を燃やして火の中に生贄をくべ、施主の願いを叶えるべく呪
文を唱え、神々を召喚した。ヴェーダというのは神々を召喚し願いを聞き届け
てもらうための様々な呪文の事である。

祭祀が終わると祭壇は壊されて更地に戻された。遊牧民であったアーリア人は
当初固定的な寺院を作らなかったのである。バラモンはインドに流入してくる
以前には神々から天啓を受けるためにアムリタを使っていた。アムリタとは最
近の研究によればベニテングダケだということがわかってきた。インドではベ
ニテングダケが入手出来ないので、天啓を受けるための別な手段の必要性が出
てきた。そこで彼らが採用した方法が苦行である。苦行によって天啓を得た。
またアーリア人は自業自得の宗教哲学を持っていた。

一方インド在住の人々の間には長い伝統としてのシュラマナ系の宗教があった。
シュラマナ系の起源は極めて古くインダス文明にまで遡ると言われる。シュラ
マナ系宗教では修行としてメディテーションが行われていた。そして教義とし
て輪廻転生を信じていた。

紀元前8世紀頃、ヴェーダの流れとシュラマナ系の流れの宗教哲学が合流し、
自業自得と輪廻転生の哲学が融合して解脱思想が起こった。何回も何回も生ま
れては死ぬのは嫌だと考えて大出家ブームが起こった。世俗的な生活ではどう
しても沢山の業を作ってしまうので、業を作らないようにと世俗的な生活を捨
て、行為をなさないようにと出家した。出家とは世捨て人、社会からドロップ
アウトした人の意味が強く、ぼろ布を纏っていた。ヴェーダの流れの中からも、
シュラマナ系からも沢山の出家者が出た。

紀元前5世紀から6世紀頃、シュラマナ系出家者の中からマハビーラと仏陀が現
れた。マハビーラや仏陀の時代、沢山の宗教哲学が起こり宗教論争が盛んであ
った。今日、世界中に見られる様々な宗教哲学がこの頃既に全て存在していた
と言っても過言でない。六師外道が有名であるが、そのほかに沢山の宗教指導
者が存在した。ジャイナ教の経典「スーヤガタ」では363の異なる宗教哲学が
あったとされる。マハビーラや仏陀以外では運命決定論・無因無縁論者のマッ
カリ・ゴーサーラ、快楽主義・唯物論者のアジタ・ケーサカンバリン、不可知
論者のサンジャヤが主な思想家である。輪廻や魂を否定する彼らも又、出家で
あり質素な生活を営み苦行をしていたのである。

インドでは古代から輪廻転生が既定の事実として考えられていた。又、因果応
報のカルマの支配も疑う余地のないものであり、仏教では六道輪廻からの解放
を切に願った。ジャイナ教では地獄の7層、植物界、動物界、人間界、天界の
26界に分かれるが、天界の最上階モークシャに入ることを理想とした。

修行によってカルマを根絶し輪廻の輪から離れてモークシャ(解脱)になると
いう点では仏教もジャイナ教も根本教義は同じである。見解の違うところはカ
ルマがどこに蓄積されるかということと、輪廻の主体は何かということだけで
ある。ジャイナ教は輪廻の主体として真我である魂を想定した。そしてカルマ
が魂に付着すると考えた。だから魂の汚れであるカルマを取り除けば魂は純粋
になる。純粋になった魂がアラハンでアラハンが死んで肉体がなくなるとモー
クシャに入り、解脱してシッダとなり再生しないと説いた。

一方仏陀は実用主義者だったので証明できないものは有るとも無いとも断定し
なかった。架空のはなしの論争を避け、そんなことに時間を費やさず心の安定
に励めと弟子達を指導した。そして八正道の実践を奨励した。仏陀は体は私で
はない、心は私ではないと言った。私は魂だとも云わなかった。

後世の仏教者たちは仏陀ともあろう人が曖昧な事を言うはずがないとして本来
非我説であった仏陀の説を無我説(魂はない)にしてしまった。シャーリープ
ッタやモンガラナーは初め懐疑論不可知論者のサンジャヤの弟子であったが、
後にブッダが因果律を説くというので仏陀の弟子になった。仏陀が証明出来な
い仮定の話にのらりくらりと断定を避ける姿勢をとったのは、シャーリープッ
タやモンガラナーをとおしてサンジャヤの影響を受けていたのかもしれない。

部派仏教の時代に仏教は「魂は無い」とする無我説を採用したので、輪廻の主
体が不明確になり、カルマ論や輪廻転生からの解脱が曖昧になってしまった。
現代のテーラワーダ仏教系は無我説の立場に立っている。

仏教にはニルヴァーナ寂静としての解脱があり、解脱の方法(実践方法・修
行)があるが、無我説に立つと何のための修行かの説明が十分でなくなる。魂
を否定するとそういう矛盾がおきてしまう。

ジャイナ教と初期仏教は教義や修行体系が驚く程よく似ていて、兄と弟、本家
と分家、本店と支店のような類似性がある。小異を捨て大同につけば兄弟宗教
と言っても良い。仏教側から見てジャイナ教を外道と蔑めば、ジャイナ教から
は仏教が外道となる。

ジャイナ教は魂を認める宗教であり、カルマと輪廻転生を信ずる宗教である。
プレクシャ・メディテーションの目的はアカルマ(無業)になることであり、
魂を純粋にすることにある。そして魂があるか無いかに関係なく、瞑想修行の
過程で健康と幸福を得る恩恵が間違いなくある。

古来ジャイナ教の出家者は自然法則を深く洞察し、今日でいう宇宙物理学や原
子物理学のレベルの考察をしていた。それらの見解が古代のジャイナ教聖典に
記述されている。現代科学に照らしてみて荒唐無稽なものも多いが、現代にも
通ずる優れた見識も見受けられる。科学が発達していなかった古代において宗
教哲学を科学的に説明しようとしていたジャイナ教僧侶の洞察は驚嘆すべきも
のがある。

私たちは本に書かれたものをまるごと信じたり、人の学説を鵜呑みにすること
なく、あくまで自分で考え経験・体験し学ばなければならない。宗教哲学を論
じる際にはアネカンタ、つまり非独善主義、無対立にならなければならない。
他が信ずる宗教を否定してはならないし、侮辱してもいけない。他を尊重する
ことが平和の道であり、争いを無くす道である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)