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2012年12月24日月曜日

特別講演「ジャイナ教の環境についての考え方とライフスタイル」の報告


<報告:S.L.ガンジー博士講演会を振り返って(中村正人)>

11月29日、インドから来日したガンジー博士の特別講演会が無事終了いたしま
した。出席者の皆さま、お手伝いいただいた方々、ありがとうございました。
ここに講演会の様子を報告いたします。

今回、大変タイトなスケジュールの中講演いただいたガンジー博士は、著名な
ジャイナ教学者であると同時に、世界的に知られた非暴力活動家・平和研究者
です。これまで世界24カ国以上で講演を行い、英国貴族院、ハーバード大学、
世界宗教者平和会議(国連公認のNGO)等でもジャイナ教の価値観、非暴力の
考え方や平和・環境問題について発言をしてきました。特に2006年に開催され
た世界宗教者平和会議京都大会では、国連から正式にジャイナ教の代表として
招請され、宗教者の立場から宗教・宗派間の対立が如何に無意味なことである
かを訴えられました。今回の講演後の座談会でも出席者からジャイナ教の宗派
間の関係(対立)について質問がありましたが、ジャイナ教では宗派間に「対
立」は無く、活動上の「相違」があるに過ぎないこと、頻繁に相互訪問を行う
など交流も盛んであることが説明されました。つまりジャイナ教では宗派対立
が存在しないということです。このように、あらゆる「対立」を避け、徹底し
た平和共存を全うするジャイナ教の非暴力主義は、かのマハトマ・ガンジーに
も大きな影響を与えたことで有名です。

さて講演会では、ガンジー博士の到着に先立ち、まず坂本知忠先生からジャイ
ナ教の概略と思想について説明いただきました。講演会には当協会員以外にも
大勢の方々(30名以上)が出席されましたので、予備知識として大変役立った
ことと思います。


続いて19時頃から始まったガンジー博士の講演の内容は、次のようなものでし
た。


<講演要旨>

題目:『ジャイナ教の環境についての考え方とライフスタイル』

ジャイナ教は「環境にやさしい宗教」として知られています。その理由は、不
必要な暴力を避け、あらゆる生き物の命を尊重しなさいとする教義にあります。
ジャイナ教では感受性(感覚を含む、外界から影響を受ける能力)をもつもの
はすべて「生き物」と考えます。そして、生き物には魂があります。生き物は
さらに動くものと動かないもの、心を持つものと持たないものに別れます。た
とえば、前者には動物や人間が、後者には大地・水・火・空気・植物(いわゆ
る自然)が含まれます。あらゆる動く生き物は、動かない生き物すなわち「自
然」によって支えられています。

この世に肉体をもった魂は、生存するために、何らかの形で「暴力」を働かざ
るを得ません。人は生きていくためには完全に暴力を回避することはできませ
ん。それはこの世の道理です。しかし、それを最小限にすることはできるはず
です。


マハーヴィーラは次のように言っています。「地、火、水そして草木の存在を
無視したり軽視したりする者は、それらと密接に結びついている自分自身の存
在を軽視するものだ」と。現代の生態学は個々の生き物が互いに関係している
ことを明確にしましたが、ジャイナ教徒にとってそれは自明のことでした。マ
ハーヴィーラは、あらゆる命は互いに支え合い依存しあうことによって強く結
ばれている。命とは独自の存在に満ちた世界における共存と協力そして調和の
産物である、とも述べています。

殺されたくないと願う(感じる)生き物の命を、自らの欲望のために奪うこと
は暴力です。 欲望には怒り、プライド、欺き、貪欲といった強い感情も含ま
れます。 生き物や自然に対するあらゆる形の暴力の原因は、欲望です。他の
生き物と人間自身を破壊するのは、人の故意による、理不尽で、強欲な行動で
す。生態系の調和と環境の保護は、私たち自身が自らをコントロールし、衝動
的な行動・欲望から自由にならなければ果たせません。

ジャイナ教の非暴力的なライフスタイルは、このような価値観に基づいていま
す。現代の生活は競争と自制の欠如によって特徴づけられます。そして、社会
の規律は自らを律することなく実現することはできません。


こうしたジャイナ教の価値観を実生活と環境問題にどう活かしたらよいか。そ
のために「ジャイナ教の非暴力ライフスタイル」モデルが考案されました。そ
れは次の9つの要素から成り立っています。

1. 正しい信仰ないし真に精神的な見識
2. アネカンタ(非独善主義)
3. アヒムサ(非暴力)
4. 苦行者的生活-冷静・節制・労働
5. 欲望を抑えること
6. 生計のための正しい選択
7. 正しい教育
8. 清らな食事
9. 連帯と共有

このジャイナ教の「非暴力ライフスタイル」モデルは、エコロジカルな価値・
倫理を共有するすべての人が実践できる普遍的なモデルになると確信していま
す。そこには宗派も国境もありません。この地球を破滅から救い、将来にわた
り生存を守る有意義な方法になるのではないでしょうか。

(以上、講演要旨)


日本に初めてジャイナ教を紹介したとされる南方熊楠は、比較宗教論として次
のような趣旨のことを述べています。信仰の優劣をきめる基準は何か。それは
一つは科学の成果に合致するかどうかであり、もう一つは人類(そしてもっと
広くいえば生類の)間の差別をなくす方向に向かっているかどうかである。仏
教はキリスト教よりも近代科学と整合する点で前者についてはまさっている。
しかし人類の平等という点では仏教はキリスト教よりも堕落した。しかし、仏
教よりも、キリスト教よりもまさっているのはジャイナ教である。「すなわち
考思、言語、行為を善にして、語ることなき動物のみか、植物にまでも信切に
するなり。この動植物を愍(あわ)れむことは、仏教またこれをいうといえど
も、ジャイン教は一層これを弘(ひろ)めたり。すなわち動植物みな霊魂あり
と見て、病獣のために医療を立つるを慈善業とす。…階級の差をもって得道を
妨ぐることなく、誰人にても涅槃に入り得ると主張す」。キリスト教は人類の
平等を説くが、ジャイナ教はその上に生類の無差別を主張し実践する点でより
すぐれているのだと南方は評価した(鶴見和子『南方熊楠』講談社学術文庫)。
このたびの講演で提唱されたジャイナ教の「非暴力ライフスタイル」モデルは、
このように高く評価されるジャイナ教の考え方を、ジャイナ教徒でない私たち
の生活においても活かせる道筋を示した、たいへん現実的なものでした。

講演終了後は、完全ベジタリアンの食事とともに素晴らしいウェルカムパーテ
ィーとなりました。出席者が次々とガンジー博士を囲み、和やかな雰囲気の中
で談論が続きました。


その時ガンジー博士が教えて下さったインドの宗教観は
大変興味深いものでした。マハトマ・ガンジーの宗門は何か(ヒンドゥー教徒
かジャイナ教徒か)との質問に対し、博士の回答は、ジャイナ教の非暴力主義
を信奉した点では彼はジャイナ教徒であり、ヒンドゥーの教典を信奉した点で
はヒンドゥー教徒であるというものでした。つまりインド人にとって宗教とは、
その人が丸ごと何教に属するかということよりも、各人がその信条として何を
大事にするかということの方が重要だということです。我々が一般にイメージ
する、仏門に生まれたから仏教徒、洗礼を受けたからキリスト教徒というよう
な外的な整理は無意味なことで、それよりも内面的に個々人が何を思い、どう
実践しているかが大切なのです。この観方は日本人の宗教の定義とは違うと反
論があるかもしれません。しかし、少なくともジャイナ教(英語で「ジャイニ
ズム」=ジャイナ主義)の信者たちは宗教をそのように捉え、他の宗教の考え
方も否定しない(アネカンタ)のです。そういえばマハトマ・ガンジー自身も
晩年、「自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また原始キリ
スト教という意味ではキリスト教に賛同するとして宗教グループ間や世界の
人々に対話を呼びかけ」(ウィキペディア)ています。私たちも、ジャイナ教
徒ではありませんが、日本人として、もう一度自らの生活態度を見直し、環境
を保護する――否、そんな大それたことではなく、環境を壊さない――生き方
を選択する余地はあるのではないでしょうか。そんなことを考えさせられた講
演会でした。


(S.L.ガンジー博士の講演会の全文は、次号の会報誌『アネカンタ・ジャーナ
ル』第5号(4月発行)に掲載する予定です。ジャイナ教の「非暴力ライフスタ
イル」モデルの詳細についてはそちらをご覧ください。)

2012年12月23日日曜日

コラム[別れと出会い]

別れと出会いは私たちの体のなかで、瞬間、瞬間に起こっています。私たちは

生まれた瞬間から瞬間、瞬間年をとり、老人に向かって、死に向かって変化し
ています。生きるとは変化していくこと。時間の流れとともにあらゆるものが
継続的に変化しているのです。

愛別離苦、怨憎会苦はいつも私たちの体のなかで心の中で起こっています。
苦の感覚と楽の感覚がいつも私たちの内側にあります。苦の感覚が命を守って
います。私たちは苦しみがあるから生きていられるのです。苦の感覚があるか
ら動かなくてはなりません。止まり続けると苦痛がやってきます。苦の感覚が
起こるから生きている限り止まることは出来ません。私たちは苦の感覚によっ
て何ごとにも執着出来ないようになっています。それなのに執着して喪失を嫌
がるから心が苦しむのです。

苦の感覚がなくて楽の感覚だけだったら生命は生きていけません。どんなに吸
う息が楽でも、あるいは吐く息が楽でも、楽だからと言って吸い続けることは
出来ないし又、吐き続けることも出来ません。吐いた息は吸わなくてはならな
いし、吸った息は吐かなければなりません。呼吸を止めれば大きな苦しみがや
って来ます。生命は楽だけで存在することは出来ないし、苦だけで存在するこ
ともできません。苦と楽がセットになっているから生き物や人間が存在出来る
のです。

私たちは本当の自分でないもの、変化してしまう身体や心に執着するから悩む
のです。つねに心身の無常と変化を見続ければ心の迷いがなくなります。妄想
しなくなります。

人間は生きているときに、沢山人生を楽しみたいと思って行動すれば、同じ量
だけ苦しみがセットで付いて来ます。苦しみを無くすには、楽しまなければ良
いでしょう。何物も持たず、人生を楽しまないのが本当の出家の道です。世俗
の道は苦楽一如の道です。

私たちはこんにちはと言わなくても毎日たくさんの人や物と出会い、さよなら
と言わなくても毎日たくさんの人や物と別れています。今までに出会って、別
れたものは想像も出来ないほど甚大です。しかし、持つことも執着することも
出来ないのが本当です。

自分に起こっている一切はカルマの現れです。因果律によって起こっています。
今、現れ起こっている状況に対して、まさに今、自己の意志と行動によってど
のように対応するかが未来を作ります。過去の原因に縁である条件が加わって
結果が起こります。どんなに辛く苦しいことが起こったとしても結果や過去に
こだわらず、今どうする、次にどうすれば一番良いかと考えて行動することが、
今に生きる純粋行動であり、無業への道であり、本当の「冥想」です。




<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2012年11月25日日曜日

コラム[ジャイナ教と仏教は兄弟宗教]


ゴータマ仏陀の仏教(仏陀在世から入滅後100年まで)と現在印度で行われて
いる白衣派ジャイナ教を比較してみると、驚くほど教義と修行体系が似ている
ことに気づく。

仏陀の仏教は2500年の間に変貌をとげ、北伝仏教では仏教のカテゴリーに入ら
ないのではないかと思うほどに変化してしまった。ジャイナ教は裸行派、白衣
派の違いこそあるが、2500年の間伝統を守りほとんど変化することなく現代に
伝わってきている。

世の中には理想主義と現実主義がある。私はジャイナ教が本家、仏教が別家あ
るいはジャイナ教が本店で仏教が支店、新店だと考えている。ゴータマ仏陀は
もともとあったジャイナ教の哲学や思想、修行体系に若干の手直しと新発見を
加えて別家を作ったのだと思う。そして改革派であり現実主義をとった別家
(仏教)が時代のニーズをつかみ当時の大衆や金持ち達に支持され繁栄したの
だと思う。

仏陀の改革は輪廻転生からの解脱法として苦行を止め、智慧の瞑想を重視した
点にある。只そこだけが違っている。仏陀は実際主義者、実用主義者だった。
厳格主義者ではなかった。現実妥協の面が多々あった。仏陀の時代、出家の立
場からすれば、糞掃衣、食物は托鉢で得る、屋根の下で寝起き出来ないのが通
例だった。

金持ちの信者が増えると仏陀は信者からの新品の衣をつけ、食事の接待を受け、
寄進された精舎の屋根付きの家の中で寝起きするようになった。在家信者は出
家に布施することで多くの功徳を積むのであるから、その機会をシャットアウ
トしてはならないというのがその理由だった。

このような仏陀に対して反旗を翻したのが、悪名高き?デーヴァダッタ(仏陀
の従兄弟)である。彼は極端な厳格主義者、理想主義者だった。仏陀のやり方
に不満を持った。このことについて仏陀の留守に投票にかけた。デーヴァダッ
タの圧勝だった。しかし同じ仏陀の従兄弟のアーナンダの説得で多くの弟子は
仏陀に戻った。デーヴァダッタは少数の仲間と別の教団を作った。

仏陀入滅後百年ほど経って、再び戒律をめぐる対立が起こった。戒律を時代に
あった緩やかなものにしてはどうかという提案だった。主なところは、当時教
団で食料の貯蔵は認められていなかったが、食材(特に塩)の貯蔵を認めては
どうか、布施を金銀で受け取ることを認めてはどうか だった。ここに仏教の
根本分裂が起こった。厳格派が上座部(後のテーラヴァーダ仏教の前身)にな
り、改革派が大衆部(大乗仏教の前身ではない)となった。その後、教団は分
裂を繰り返し20程のグループになった。これを部派仏教という。いずれも出家
主義をとり大乗仏教とは区別される。

大乗仏教はそれよりずっと後に起こったもので、ヒンドゥ教の影響を受けてい
る。そして在家主義的な面が出てくる。仏塔信仰や讃仏運動がベースとなって
起こってきたと考えられる。仏教ではゴータマ仏陀が過去仏の最後、過去仏は
七仏、二十五仏、二十八仏の説があり未来に弥勒仏が出現する。ジャイナ教で
はマハーヴィーラが最後のジナで24人のティールタンカラ(過去仏と同じ)を
挙げている。未来においてジナを輩出する時代がくる。このような教義もジャ
イナ教と仏教は同じルーツを持つと予見させる。

現代印度、ジャイナ教白衣派のテーラパンタ派はジャイナ教復古主義者のグ
ループでジャイナ教の原型が比較的よく保たれている。非暴力のシンボル、マ
スクと箒がなければ形態の上でも教義の上でも古代の仏教そのもののような感
じを受ける。ジャイナ教にとって非暴力の教義は厳格なもので、この点ではジ
ャイナ教は今も苦行を重視している宗教として仏教とは区別される。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

プレクシャ・メディテーション合宿 11月入門合宿終了のご報告


日本プレクシャ・ディヤーナ協会のプレクシャ・ディヤーナ入門合宿が11月
3日~5日までの2泊3日の日程で開催されました。

秋の深まる紅葉の美しい只見の大自然の中での瞑想合宿となりました。冬支度
の始まった只見は少し肌寒い空気に包まれており、朝の川の合流点での瞑想も
身の引き締まる思いだったようですが、常に変化していく季節の移り変わりを
肌に感じられたのではないでしょうか。今回瞑想の合宿は初参加の方もいらっ
しゃいましたが、皆さんそれぞれにご自身の学びを得られたようで、主催側と
しても何よりと喜ばしく思っております。参加者の皆様、ご参加いただきあり
がとうございました。

参加者の方の感想をいくつかの点をピックアップしてご紹介したいと思います。

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<Nさん>
三日目にしてようやく晴れました。紅葉して紅くなった蒲生岳を前にして、川
の合流点で瞑想をすることができました。自然のエネルギーが後押ししてくれ
ていつもより容易に瞑想することができました。30分という時間が大変短く感
じられ、1時間でもあっという間だったでしょう。眼を開けた瞬間、視界が大
変クリアーになっていて、頭もすっきりしていて日常の雑事や寒さは全く忘れ
ていました。坂本先生がいっていた通り、合流点はパワースポットだと思いま
した。街中ではできない体験をすることができました。


<Eさん>
瞑想の実習は、以前よりは姿勢を保つことができるようになってきているもの
の、やっぱり動かずにいることがとても難しいと感じました。今回何度と座る
中で、意味もなく動きたいという欲求が神経を通じて走っていくにもかかわら
ず、動かすという行為をせずにいられたことは収穫でした。4ステップ瞑想を
まずしっかり自分が身につけてヨガのクラスでも生かせるようになれればと思
っています。マントラを唱えることの面白さ、楽しさにも気づかせていただき
ました。響きが自分を包み、まわりの方々の響きと交じり合ってとても清々し
い気持ちになりました。まだ身につけられていないことばかりですが、入り口
にはしっかりと立たせていただいたと感じています。


<Kさん>
最初の講義でのジャイナ教と仏教とヒンドゥ教の中心的な人間観のとらえ方は
私により広いパワーをもたらしたようです。アラハンのマントラ瞑想ではたっ
たの四文字の繰り返しが、私にどちらかというと「もの哀しさ」を与えました。
その実感は「なつかしさ」のようなものでもありました。2回共にマントラを
唱えると涙が出てきました。私のことよりもマントラの方からきた力なのかも
しれないが、よき体験でした。

川での瞑想の時とその早朝からの感じを俳句もどきにしました。

蒲生岳 水神 ゆい聖(ひじり)
アラハン アラハン むすんでむすんで ゆい聖


<Sさん>
讃歌の斉唱、マントラの学びを通じて日常の自分の足らざるを知り、心地よい
場の設定にある幸福感に包まれました。以前から求めていたものも含めて体系
化できた部分も多々ありました。特に「身体の中を知る」の中でジャイナ教の
マントラを唱える中で、「後頭部のへこみ、空っぽ、目の前に光、体内のコア
に意識、血液の流れや活性化」を体験することができました。これまで学んだ
こと、疑問点だったこと、さらに深めていきたいと思っていた課題も瞑想の中
でずいぶん解決され、満たされていく自分にわくわくしています。カルマを取
りながら未来に向かってプラス思考で歩いていこうと思いました。真理の追及
ですね。家に帰ってしっかり整理し実践・努力していきたいと思います。


<Mさん>
とても迷って迷って参加した合宿でした。
プレクシャのクラスにでてもまだ自分の中に受け止められず参加する資格がな
いのでは?と思いつつ、でも変われる期待を持って決めました。カルマの浄化
になること、良い方向へ変えられること、智恵のある生き方ができること、す
べての病気の根源的な健康法となることなど、知らなければ気づかない様々な
知恵や能力や考えを授けてくれる瞑想は、知れば知るほど素晴らしく惹かれま
す。これからも学ぶことにより向上していけることと希望を持ち、多くの機会
に瞑想にふれ、学んで、いつの日にか素晴らしさを深く味わえる時がくること
を願っています。

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スタッフ一同、みなさんにご参加いただけたことを深く感謝しております。瞑
想の扉を開いて、内なる自分を見つける旅をこれからも少しずつ深めていただ
ければ幸いと思っております。

今期はこれで合宿は終了ですが、来期にも只見にて合宿を行って参りますので、
皆様のご参加をお待ちしております。


セミナーの詳細はこちらからご覧ください。
http://jp.preksha.com/learn/#seminar

ご不明な点などは協会事務局にお問い合わせください。


2012年11月19日月曜日

特別講演「ジャイナ教の環境についての考え方とライフスタイル」のお知らせ



この度、インドからジャイナ教テーラパンタ派の重鎮S.L.ガンジー博士が来日
されるのを機に、当協会でも特別講演が開催される運びとなりました。世界最
古の宗教といわれるジャイナ教は、エコロジーの観点からも、環境にやさしい
宗教です。

ガンジー博士は現在、ANUVIBHA(ジャイナ教の世界平和非暴力センター)の所
長を務められており、国連をはじめとする国際的な平和会議にジャイナ教の公
式代表として出席する立場の方(ジャイナ教の外務大臣的存在)で、非暴力的
な生き方(人間同士だけでなく環境エコロジーに対しても)を提唱されていら
っしゃいます。

特別講演では、ぜひ皆様にこのジャイナ教の叡智のエッセンスに触れ、人間生
活にとって本当に必要なものとそうでないものを考えるきっかけにしていただ
ければと思っております。質疑応答や議論をする時間もつくります。皆様のご
参加を心よりお待ち申し上げております。

日時: 2012年11月29日(木) 18:30~
場所: 沖ヨガスタジオ
東京都中野区東中野3-16-4 小谷ビル301 TEL: 03-6908-5613
参加費:2,000円(当日受付)
※講演後、会場にてガンジー博士と軽食を伴にしながらの座談会を予定してい
 ます。数に限りがありますので、ご希望の方は、是非事前(27日まで)に協
 会までお申し込みください。(1500円/ベジタリアン食のケータリング)

詳細パンフレットは下記からご覧ください。
http://jp.preksha.com/lifestyle_lecture.pdf

お問い合わせ・お申込みは当協会事務局までご連絡ください。
メールアドレス:japan@preksha.com



第40回 定期研究会のご案内

第40回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます

日時:2011年12月3日(月)19:00~21:00
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅そば(集会室1)


テーマ:ヨーガの思想のその後の変遷と分化(その2)
    ―ハタ・ヨーガの現代的展開と瞑想―

前回は、「ヨーガ・スートラ」=サーンキャ学派がどのような背景・経緯によ
ってヨーガの歴史から後退し、代わってハタ・ヨーガが発展したかを概観しま
した。そしてラージャ・ヨーガとハタ・ヨーガの特徴を比較し、さらに後者の
中核概念であるプラーナ、ナーディ―、チャクラの原理を確認して、その思
想・哲学史上の位置付けを整理しました。

次回は、主流となったハタ・ヨーガがその後現代に至るまでどのように展開し
たか、それとともに瞑想の内容がどのように変質してきたかをみていきます。
ともすれば怪しい神秘主義に陥りがちな瞑想というものを、より確かな心理学
的基礎をもつ技法として捉えなおすための根拠を思想史的に掘り起こしたいと
思います。

※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村
 (savita.nakamura@gmail.com)までご連絡ください。ご連絡をいただかな
 いと、資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
 等を含む)を頂戴いたします。



【今後の開催予定】
2013年2月4日(月)19時~21時 場所:「南行徳」駅そば(集会室1)
2013年3月4日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

2012年10月25日木曜日

コラム[カルマを無くす瞑想]


生命とは何か、それは「感覚を持っていて意識がそなわっている」と定義でき
る。地球上の生き物はアメーバーのような微細な生き物から植物、動物、人間
まで全て意識があって感覚を持っている。その感覚は快楽と苦痛がある。生き
物は苦痛を厭い快楽を求める。それをヴェーダンタ哲学でヴェーダナーという。
生き物がヴェーダナーに支配されているのでそこにカルマが結びつく。前世の
行為の結果を刈取るために何度も生まれ変わらなければならない。それが、生
き物の輪廻転生である。輪廻転生から解脱するためにはカルマを消滅させるこ
と、あるいは自分は魂だと悟ることが生き物たちに課せられている。それがイ
ンドで起こった宗教、ジャイナ教、仏教、ヒンドゥー教の基本的教理である。
宇宙空間には無限に近い数の形態と進化段階が違う生き物が満ち満ちていると
考えられる。輝く星そのものがより高いレベルの生き物で意識と感覚をもって
いるのかもしれない。

ジャイナ教は命を意識ある魂と見ていて、魂が物質宇宙に接触し活動し反応す
る為の肉体(物質で出来た粗雑な体)を纏ったとき、魂に汚れであるカルマが
付着する。カルマの汚れを取り除けば鏡の塵を払うがごとく、魂本来の輝きが
立ち現れる。ジャイナ教は個別の魂を永遠不変の実体と観た。

仏教は永遠不変の魂はないが、常に変化しながら輪廻転生していく生命という
特殊なものがあると考えた。生命が原因と結果の法則に支配されているから、
このカルマの連鎖を悟りによって断ち切れば、生まれる原因がなくなって涅槃
に入る。その時生命は消えてなくなって後には何も残らない。それが仏教の立
場だ。

ヒンドゥー教、ヴェーダンタ哲学は生き物の中に魂と生命が別々に存在してい
て最深部の魂が生命にパワーを照射している。魂からの照射を受けた生命は自
らが経験と活動の主体として、感覚と意識をもつようになる。生命が自分の本
質は魂だと理解したとき生命は魂と一体になる。この時、生命は幻が消えるが
ごとく消滅して魂だけが残る。残った魂(真我)が宇宙の唯一の神(梵)の一部で
あって同じ物である。梵我一如である。

病気や障害、不幸が現在起こっているとすれば、それは悪いことではない。原
因があって結果が起こるのは真実である。今悪い結果を刈り取っているとすれ
ば、過去の悪いカルマが消滅しているのだ。過去の悪いカルマが消滅すること
はすなわち良いことである。また、現在、良いことが起こっていれば過去の良
いカルマが消費されているのだから良いとは言えない。物事はただ縁起してい
るのだから本質的には善悪を超越しているのだ。今良いことをすれば未来は必
ず良い結果が起こる。

今、最も良いこととは何か、それは一瞬と一つになることだ。観じようとする
心(意識)を皮膚の内側に起こっている内部感覚に向ける。内部感覚に観じよ
うとする心が浸りきると心(汚れた意識・カルマ)がきれいになる。起こって
いる感覚は純粋であるが快・不快を判断すると汚れは取れない。判断を手放し
て純粋に知覚することがプレクシャ・メディテーションである。内部感覚は肉
体のレベルで電磁体のレベルで原因体(カルマ体)のレベルで、魂のレベルで
内側に観じることができる。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年9月25日火曜日

コラム[なぜ瞑想したくない、出来ない、解らないのか]


私は少年の頃からずっと今まで登山や海外旅行を通じて、風景や自然の移ろい
の中に地球の美しさ宇宙の偉大さを感じてきた。それに比べてなんと自分はち
っぽけなんだろうと思っていた。30代前半の私は、ヒマラヤや西チベットのラ
ダックを旅して自問自答した。「考えている私っていったい何だろう。感じて
いる私っていったいなんだろう。見ている私っていったい何だろう」「なぜ私
はここにいるのだろうか、どこから来たのか、どこへ行こうとしているのか」
と考えた。考えても何も解らず、ただ自然景観の美しさ崇高さに圧倒されるだ
けだった。

厳しい環境のラダックの荒涼とした風景やラマ教寺院が初めて来た所なのにと
ても懐かしく、私は前世の体験がここへ私を呼び寄せたという気がした。さら
に20歳で肺結核になったことや結婚における出会いの縁、ヒマラヤ、チベット、
インドへと私の興味を突き動かす衝動が必然的なもののような気がして、その
原因を知りたいと強く思った。

ヨガに興味を持ち沖正弘先生の『ヨガによる病気の治し方』を読んでヨガ教室
に通い始めたのは31歳の時で、西船橋の三上光治先生の沖ヨガクラスだった。
そこで8年間、三上先生の薫陶を受けた。三上先生の御縁で沖先生に出会い、
沖ヨガ修道場にも通うようになった。

私はヨガの行法の中でも一番関心があったのが瞑想だった。どこかに瞑想を教
えてくれる人はいないものかと探し求めていたが身近にはいなかった。座禅も
してみたが、形ばかりで私の求めているものとは違っていた。そんな時、成瀬
雅春先生に出会った。1986年ごろ五反田のヨガ教室に2年程通い、合宿や倍音
声明のイベントの数々に参加した。成瀬先生の指導は私の興味を満たすもので、
先生から瞑想の基礎を叩き込まれたと言ってもよい。

1987年、沖先生亡き後、沖ヨガの仲間と共にタチヤ博士同行のジャイナ教研修
ツアーに参加した。この時初めてジャイナ教僧侶の厳しい出家の姿に接し、ジ
ャイナ教哲学を学ぶことやプレクシャ・メディテーションこそ私が求めていた
瞑想だと解った。それから、手探り状態から始めたプレクシャ・メディテーシ
ョンの納得いく理解までに20年以上の探求の年月を必要とした。

一緒にインドへ行った多くの仲間がその後、プレクシャ・メディテーションに
魅せられたかといえばそうでもない。同じような体験をしたはずなのにどうし
て結果や方向性が違ってくるのか?それは人それぞれが内在しているものが違
うからである。カルマ、経験の蓄積、潜在意識が違うので受け止め方、反応が
違ってしまうのである。受け止め方、反応が違うので種、原因のカルマが変わ
ってしまうのである。カルマは自分の身に起こってくることに対しどのように
反応したかで別のものとなる。だから同じ体験をしても人によって受け止め方
が違うので人それぞれ別の結果が現れる。

何に価値を見出すかはまさにその人のカルマそのものである。何時でもその時、
人間は自らなりたい自分になっているのだ。瞑想できない人はまだその人がそ
こに入っていけないカルマを持っているということだ。何事も機が熟さないと
始まらない。機が熟せば自然に起こる。物質的な物、外に向いていた関心が精
神的なもの、内側に方向を変えるとき、自然に瞑想ができるようになる。

人間は生理的に体を動かす事、スポーツやダンスが好きである。じっと身体を
動かさずにいる事は苦痛を感じることなのでやりたくない。常識的なことから
離れ反対の事に価値を見出すようになった時、人は瞑想できるようになる。悪
いものと思っていた身体の病気や痛みが実は最高の教師であり、恩人なのだと
解り始めたとき人は瞑想できるようになる。また、その時、座法が安定し長時
間楽に座れるようになる。

身体の健康を求めてヨガをしている人は沢山いるが、瞑想に興味ある人は極め
て少ない。もっと多くの人に瞑想に興味をもってもらいたいと思うが、パソコ
ンやスマホ、iPadの情報機器とあふれる情報に振り回されて自己を失ってしま
った現代人にとって「瞑想」は遠い国の遠い出来事のように感じられるのかも
しれない。

 たとえ少数派であっても瞑想に興味を持っている、縁ある人と共に瞑想体験
を深めて行くことが今私がやるべき大事なことなのだと思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2012年9月21日金曜日

第39回 定期研究会のご案内

第39回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年10月1日(月)19:00~21:00
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅そば(集会室1)

テーマ:ヨーガの思想のその後の変遷と分化①
前回は、坂本先生からご報告をいただきました。宗教を考える際には「神」と
次回は、その後ヨーガの思想がどのように変遷し、現在インド以外の諸国で主
※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
【今後の開催予定】
※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

    ―ハタ・ヨーガとチャクラの体系―

いう概念との関係を整理しないと混乱してしまうためそこをまず整理し、世界
の主な宗教を分類したうえでサーンキャ哲学の内容を噛み砕いて説明していた
だきました。

流となっているハタ・ヨーガが発展したか、その過程でサーンキャ哲学の二元
論(プルシャとプラクリティの関係)はどう変容したか、あるいはチャクラの
考え(クンダリニーの概念)はどこから生じたか等を検討したいと思います。


※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
 (savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと、資料を受け取
 れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料
 代等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
12月3日(月)19時~21時 場所:「南行徳」駅そば(集会室1)
2月4日(月)19時~21時 場所:同上


2012年9月5日水曜日

英語版プレクシャ・メディテーション瞑想アプリ公開のお知らせ


9月3日にインド本部より英語のプレクシャ・メディテーションのスマートフォ
ン用瞑想アプリが公開されました。

アプリの検索画面にて、「Preksha」と入力し検索すると出てきます。
(カテゴリ: ヘルスケア/フィットネス)

内容としましては全て英語となりますが、基本の4ステップとカヨーウッサグ
の瞑想のガイダンスを聴くことができます。その他瞑想用のタイマーや賛歌の
オーディオ、インドのキャンプへのウェブページリンクもあり充実しています。
ぜひダウンロードしてご活用ください。

2012年8月25日土曜日

シリーズ[日本人の魂とジャイナ教の霊魂]


お盆には田舎へ帰って祖先のお墓参りをしたり、一族が集まってあの世から祖
先の霊を迎える習慣が日本にはまだ残っている。この風習の起源については諸
説あるが、その根底には日本固有の祖霊信仰と縄文時代から続く「あの世」観
が存在する。

「古代日本人にとって、死は魂が肉体から離れることを意味していた。古代日
本人は生命という観念のかわりに魂という観念を使ったように思われる。あら
ゆる生命のあらゆるところ、そこに魂がある。魂こそ植物も動物もすべての生
命を生命たらしめるものなのである。古代日本人は人間や動物や植物ばかりか、
天地万物すべてに魂があり、その魂によってそれぞれ活動するものだと信じて
いた。人間にももちろんそのような魂があり、魂が人間をして人間たらしめて
いるのである。死はこの魂の肉体からの分離なのである」(梅原猛『日本人の
魂―あの世を観る』光文社p. 37)

この魂の観念は一見してジャイナ教の霊魂(ジーヴァ)思想に非常に近いもの
がある(たとえば、渡辺研二『ジャイナ教入門』現代図書p.110-115参照)。
その点ではプレクシャ・メディテーションはわれわれ日本人にとって受け入れ
やすい瞑想かもしれない。

しかしながら、死によって肉体から分離した魂がその後どうなるか、その魂の
ゆくえについては両者は方向を異にする。すなわちジャイナ教では個々の魂は
解脱しない限り永遠に輪廻(サンサーラ)転生を繰り返し、そこから離脱する
ためには業(カルマ)を払い落して魂を浄化しなければならないと説く。そこ
では魂は全体として常に一定数存在しかつまた個別的である(個我)。一方、
日本人の魂は、死後、「あの世」に向かう。あの世はどこにあるかというと、
天の一角すなわち太陽(生命の根源)の沈む西方のあまり高くも低くもない適
当なところに在ると観念されてきたらしい(梅原p.42-3)。天国でも地獄でも
なく、子孫の住む此の世に近い天の何処か、である。そして場合によっては死
後すぐにあの世へは行かず、しばらくの間、里近い山々(神聖とされる山や連
山、端山)に留まり、魂が清められた後にあの世に向かうという考え方(霊山
崇拝)もある。そこから鎮魂として様々な祭祀が生まれた。もしかしたら日本
人が臨死体験として語る霊的世界(立花隆『臨死体験』上・下 文藝春秋)は
われわれの中に脈々と受け継がれるこうした潜在観念によって生み出される仮
想体験かもしれない。そして祖先の住むあの世に逝った魂(祖霊と融合した魂
=非個我)は年に数回、子孫の家に帰ってくる。それがお盆や正月、お彼岸の
時なのである。輪廻転生的な考え方もあるが、日本のそれはあくまでも家族単
位での転生で、必ず子孫の誰かに生まれ変わると考えられている(「よみがえ
る」とは黄泉すなわちあの世から帰ることを意味する)。またそれが万世一系
の天皇制や家制度、氏神信仰の思想的基盤にもなっている。(ちなみに「カ
ミ」(神)は「タマ」(魂)が善の方向に分化したもので盆の時期などに山か
らやって来れば山神、海の方から来れば海神になり、逆に悪の方向に分化した
ものが「オニ」(鬼)と呼ばれ、さらに第三の分化として「モノ」(木や石な
どの物体)に化体する場合があるという。つまり日本が多神教たる由縁もここ
にある。)

こうした日本人の霊魂観は、歴史的に大きく二度、外来の思想によって揺すぶ
られ変容してきた。最初が仏教の伝来と普及であり、次がキリスト教を背景に
もつ欧米思想の流入と文明の受容である。

まず仏教思想に関しては、和辻哲郎を持ち出すまでもなく、日本は「国民的宗
教としての祖先崇拝と普遍的宗教としての仏教が互いに他を排除することなく、
二種の異なった信仰様式が…一つの生活の中でともに生かせられ」ている(山
折哲雄『日本人の霊魂観―鎮魂と禁欲の精神史』河出書房新社p.7-8)ことは
われわれ自身も実感するところである。本来的に原理を異にする仏教が国策と
してのみならず、このように広く日本人一般に受け入れられた背景には、浄土
教(法然と親鸞)の功績が大きかったと言われる。つまり、南無阿弥陀仏を唱
えれば誰でもあの世ならぬ極楽浄土へ往生でき、一旦極楽浄土へ行った人間は
菩薩として此の世に還ってくると説いたことが受け入れられた(梅原p.147-15
8)。ただし、日本古来の「あの世」観に類似したために広まった浄土仏教で
あるが、帰還の先が自分の家族ではない点において決定的な違いがある。柳田
國男はこの点で「仏教は、祖霊の融合を認めずして、無暗に個人についての年
忌の供養を強調したとし、常設の魂棚を仏壇に改変し、古代の国魂、郡魂の思
想を複数的な機能神にねじまげ、総じて家々の先祖祭や墓の管理に口を出した、
という。タマ観念に凝縮される家の信仰を、個人解脱としての往生の方向(つ
まり往生安楽国)へと誘い、次世へと繋がることを願いかつ信じた人々に対し
ては紫雲のたなびく仏の来迎を期待させようとばかりした」(山折p.24)と批
判するのである(柳田國男『先祖の話』参照)。この批判をどう受け止めるか。
それは、ジャイナ教の瞑想を追究する上でも極めて重要である。なぜなら、プ
レクシャ瞑想も、その究極的な目的はあくまでも個人の魂(個我)の救済(浄
化)にあるからである。そして言うまでもなく、今や日本人は欧米の個人主義
にどっぷり浸かり、魂の存在も死後の世界さえも疑うようになった。そうした
現代日本人にとって本当の魂の救いとは何かということを、私たちは自分自身
の潜在意識を深く掘り起こしながら確認していかなければならない。瞑想を通
じて追求したいものは何なのか。欧米流に現世における利益(健康や金銭)や
快楽のみを求めるのか、仏教やジャイナ教的な個人の魂(個我)の救済をめざ
すのか、それとも身近な人や社会との精神的なつながりを取り戻すことによっ
て自己実現をはかりたいのか。本当の自分の心の落ち着く先を見定めなければ
ならない。



<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)



コラム[非対立主義について]


私はジャイナ教の戒律アネカンタを今まで、不定主義とか非独善主義と訳して
きた。今後は非対立主義の意味も含めたいと思う。世界には沢山の宗教哲学が
ある。なぜ沢山の宗教哲学があるかと言えば、それらがどれも完璧でないから
だ。それぞれの宗教哲学が皆正しいと言えるし、同時に皆間違っているとも言
える。

南伝仏教では神もなければ魂もない(無元論)と言い、北伝仏教では神も魂も
認める宗派(二元論)がある。ジャイナ教では宇宙を創造した神はないが魂が
あり、それを純粋にすることを修行の第一としている(魂だけの一元論)。ヴ
ェーダンタ派は唯一の神としてブラフマン(梵)を認め、真我であるアートマ
ンと梵は本来一つのものだとする梵我一如(一元論)を唱えている。サーンキ
ャ哲学はプルシャ(魂)とプラクリティ(現象)を説く二元論である。

また、世界には沢山の国々とそこの人々の政治と生活と文化、伝統、習慣があ
る。これもどれが正しくどれが間違っているという問題ではない。その時の必
要性からそういうものが存在するのだ。韓国が竹島は韓国のものだと強引に既
成事実を積み上げている。中国は尖閣諸島を中国領だと主張し始めた。お互い
に領有権を主張しあえば争いになり戦争になる。このような場合アネカンタで
解決するにはどうしたらよいか。国家間の重要問題である。

アネカンタの理想は、争わない、主義主張しない、抗議しない、要求しない、
決めつけない、腹を立てない、自分から変わることだが、もう一つ大事なこと
はすぐに反応したり即答せずに、相手にゆっくり考えさせるということもある。
どうしたら平和で双方の利益になるかを考える時間を相手に与える意味も含ん
でいる。

軍事的に強い国が周辺諸国に覇権の手を伸ばす事は、歴史上、沢山の実例があ
る。私見では、チベットは中国では絶対ないのに強引に中国にされてしまった。
新疆ウイグル自治区も歴史的にみて中国ではないだろう。中国は本来大陸の国
であり、また万里の長城の内側の国である。そういう観点からみれば台湾は島
なので中国ではないし、南沙諸島の島々も中国領であるはずがない。中国が軍
事的にも経済的にも強くなったため周辺諸国に触手を伸ばしているようにみえ
る。人類史も動物と同じで、弱肉強食がその真の姿である。平和を望むなら相
手の要求を飲み忍耐するしかない。土地争いは人類史上、生存権を賭けた熾烈
な争いであった。ロシアには北方領土を返す意思はないだろう。土地は実効支
配した者の物になる。盗られたくなかったら打ち払うしかないが、そうすれば
戦争になる。所有や領有を争うのではなく、人類の幸せの観点から条約をつく
り平和に相互利用できたら一番良い。

かって韓国は日本の植民地だった。中国は日本と戦争をしていた。日本は太平
洋戦争でアメリカに敗れたが、中国や韓国と戦争して敗れたわけではない。中
国や韓国の国民が日本に対して複雑な感情を持っているのは事実である。中国
や韓国の国民生活が豊かになり、日本と同等意識・ライバル意識を持ち始めた
ことが、竹島問題であり、尖閣諸島問題であると私は見ている。竹島は取り返
すのが大変だと思う。尖閣諸島は早急に日本が施設を造り防人を置かなければ
難しいことになる。付け入る隙を与えないこと、油断しないことが大事である。
相手に考える時間を与える方法がこの事である。

自分から変わる方法として、戦国時代、江戸時代はどうだったかと考えること
だ。江戸時代は幕府が全国統治していたが沢山の旛に国が分断されていた。そ
の頃、会津旛の人に隠岐や対馬の問題は関係なかっただろう。琉球の話をして
もピントこなかっただろう。今、世界人類が国境を無くし、人類が相互に混じ
り合い、混血を繰り返す方向に動いている。世界中、好きなところに自由に住
めると考えてみる。すると民族主義もなくなり、領土問題も解決することだろ
う。民族主義、国家エゴは平和の敵である。グローバリゼーションは経済の分
野で、金融の分野で、情報の分野で急速に進展しているが、世界が一つの国に
なるまで越えなければならない壁がまだいくつもあるだろう。世界が一つの国、
一つの人類になれば、このような領土問題は存在しなくなる。それを可能にす
るのがアネカンタの哲学だ。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年8月24日金曜日

第38回 定期研究会のご案内


第38回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年9月3日(月)19:00~21:00
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅そば(集会室1)

テーマ:サーンキャ哲学とは

前回の研究会では、前々回でヨガの歴史と思想史的な背景を概観したので、そ
の思想・哲学の中身をおさらいしました。具体的には『ヨーガ・スートラ』の
基本概念すなわちプルシャとプラクリティ、チッタとモクシャの関係をスート
ラに則して確認するとともに、その基盤となっている哲学すなわち古典ヨーガ
学派ないしサーンキャ哲学の理論の骨子を説明しました。

次回は、前回時間切れで報告できなかった部分(ヨーガ・スートラにおける解
脱への最終プロセスの哲学的意味)を皮切りに、坂本先生からサーンキャ哲学
を解りやすく解説していただく予定です。先生からいただいた予告は下記のと
おりです。

今回の勉強会は坂本知忠が担当します。
宗教哲学の話をするとき、話の内容の根本的拠り所になっている大元の概念哲
学が何なのかの理解がないと、話す人も聞く人も何が何だか相互に理解不能の
状態に陥る。例えば有神説か無神説か、一神教か多神教か、一元論か二元論か、
魂を認めるか認めないのかについて何のどれを話しているのかがはっきりしな
いと話が噛み合わないし、話が矛盾する。宗教哲学の本を読む時、聖者から講
話を聞くときにその点が明確でないと混乱する。

神様という概念、魂や真我という概念にたいして世界中に色々な考え方、哲学、
宗教がある。沢山ある宗教哲学をカテゴリーに分類し類似性と相違を明確にし
ておくことは、自分が今何を勉強し実践しているかを把握する点で重要である。
ヨガとは何か、仏教とジヤイナ教の違い、プレクシャ・メディテーションと他
の瞑想の違い等を理解する上で重要な事である。パタンジャリのヨガスートラ
に影響を与えたサーンキャ哲学について理解することはジャイナ教哲学を理解
する上にも大事である。

今回はサーンキャ哲学を学び、プレクシャ・メディテーション理解の一助にし
たいと思います。


※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
 (savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと、資料を受け取
 れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料
 代等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
10月1日(月)19時~21時 場所:「南行徳」駅そば(集会室1)
12月3日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

2012年7月26日木曜日

第37回 定期研究会のご案内


37回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時: 201286日(月)19:0021:00

場所: 営団地下鉄東西線「南行徳」駅そば(集会室1

テーマ:   ヨーガとジャイナの思想の交錯―その予備的検討―

前回の研究会では、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』とプレクシャ瞑想体系の類似性を念頭に置きながら、なぜそうした類似性が存在するのかを探るため、ヨガの歴史と思想史的な流れを概観しました。そしてヨガの起源と展開はバラモン教(ヴェーダ)→ヒンドゥー教というインドの正統的な系譜よりも、むしろジャイナ教や仏教の草創と発展に大きな影響を受けているとする学説を確認しました。

次回は、この両者の思想の骨子にも触れながら、思想の内容がいかに交錯し、展開してきたかを検討したいと思います。瞑想をする時、あるいはヨガをする時、われわれはそれを「する」自分と、している自分を「観る」自分を区別し、それらを「結合」(yuj)することを目指しています。それが何を意味するのかについても考えていきます。

出席される方はすでにお配りしたレジュメをご持参ください(お持ちの方)。

開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村までご連絡ください(savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと、資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
93日(月)19時~21 場所:同上
10
1日(月)19時~21 場所:同上
※本研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

2012年7月25日水曜日

コラム[エコ的生活は新しい非暴力運動です]


梅雨が明けて、各地で35℃以上の猛暑日となった。群馬県館林市では17日39℃
を上回り、従来では考えられない猛暑が続いている。日本近海の海水温が近年
上昇してきていて、それが原因で、筑波の大竜巻や近年の集中豪雨、猛暑など
が引き起こされているという。まさに地球温暖化を実感として感じざるを得な
い昨今である。地球温暖化の要因は大気中の二酸化炭素やメタンの増加による
ものであるが、元を質せば世界の人口増加と経済活動に行きつく。人間は、誰
でも安全に快適に豊かに幸福に生きたいと願っている。その願いである欲望が
行き過ぎて、逆に安全性や快適性が脅かされはじめているのが地球温暖化問題
であり、原発問題である。

また私達人間はある意味で動物である。動物として観た場合、自然から離れた
不自然な生き方は許されないように出来ている。現代先進諸国の人々の生活は
快適ではあるが不自然生活そのものであり、よほど上手に不便さと折り合いを
つけていかないと、心身が不調になる。自殺者の増加や鬱、アレルギー体質の
問題なども現代人の不自然生活に起因していることが多いのではないかと私は
考えている。もっと生の自然に接しなければ、真の意味の健康に達しないと云
うのが私の考えだ。焚火の煙を吸い、蚊、蜂、アブ、ブヨ等の虫達に予防接種
の注射を打ってもらったほうが良いと考えている。快適ばかりを追い求めて行
くと、心身の適応性が失調してしまうのだ。

便利や快適さをどのレベルに置くことが人間の真の幸福に繋がるのかを今私は
模索している。自分だけの幸せでなく、他の人々にとっても、未来の子孫に対
しても、地球上の他の生き物達に対しても、責任ある行動と生き方は何か、そ
して幸せな暮らしとは何かを考え始めた。不便や不快を良い事、楽しい事と積
極的に解釈できれば、今問題になっている人間としての正しい生き方は何かの
解決策が見いだせるのかもしれない。

自分たちの暮らしが幸せであるかないかを論ずる時、比較する対象が必要とな
る。只見に住んでいる人は只見と首都圏との生活を比較して苦楽や幸不幸を論
じている。つまり視野が狭いのである。只見とマダガスカルやミャンマーの田
舎と比べたり、明治時代の只見の暮らしと、現代の暮らしを比べて論じること
をしない。もし、そのような視点に立てば、いかに只見の暮らしが豊かで快適
で便利で幸福感に満ち満ちているかがわかる。

江戸時代の只見と現代の只見の暮らしぶりを比較してみる。雪に閉ざされる冬
の条件は同じである。今ある便利なものとして車、電気、照明、システムキッ
チン、灯油ストーブ、電気炬燵、羽毛布団など快適な寝具、快適な衣服、ゴム
長靴、テレビ、パソコン、携帯電話、宅配便、スーパーマーケット、豊富な食
料、学校、役所、その他沢山ある。年貢の重税はなく、補助金を貰える。江戸
時代の人が蘇ったらビックリするだろう。

山村や離島で暮らしていた多くの人がより良い快適さ、便利さ、幸福さ、自由
さ、やりたい仕事を求めてこの50年間に都会に移住していった。今では、山村
や離島は過疎化し、集落が消滅し、先祖が永永として築き上げてきた耕地が荒
廃してきている。日本人の悪いカルマ(過剰な贅沢)が積みあがっているので
はないかと思ってしまう。いまや、新しい価値観を創造して、新しい幸福観に
めざめなければならない時代に入ったのではないかと思っている。

地球温暖化防止の生き方は江戸時代に戻るのではなく、私は昭和30年代の暮ら
しに戻る事だと考える。
現代文明は大量生産大量廃棄でやりすぎだ。昭和30年代の暮らしに戻れば原発
を全廃してもエネルギーは足りるだろう。経済優先の政治を止めて、国民の幸
福優先の政治に転換すべきと考える。私は只見に移住したらシンプルライフを
実践したい。水道やガスを使わず。電気は自前でつくる生活をしたいと思って
いる。只見の三瓶章冶さんと相談して薪を燃料とするロケットストーブに続い
て、小番所の水路に廃物利用の手作り発電機を設置した。次はドラム缶風呂を
作る予定だ。そして、不快な事や不便な生活を楽しむことができる同志を集め
たい。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年6月25日月曜日

コラム[雰囲気と人格]


私達の潜在意識はコンピューターのハードディスクのような機能を持っている。
私達の体験や日常生活でどの様に反応したかが潜在意識にインプットされてい
る。インプットされているものは知識や記憶ではない。出来事に対してどの様
に反応したかが性格や人格となって根付いている。それらは外部情報に対して
のどの様に反応するかという心の癖のようなものだ。知識や記憶は身体機能と
しての脳が行っていて、それは例えれば取り外しできるパソコンのメモリーの
ようなものである。身体の死とともに知識や記憶は消滅する。

しかし、性格や人格、嗜好は潜在意識にインプットされていて肉体が死滅した
後、次の生に引き継がれていくものと云える。同時に性格や人格、嗜好は次の
生を引き寄せる原動力になっている。それがカルマである。人はカルマによっ
てそこに生まれ、そのような身体を持ち、そのように生活し、奴隷のように操
られ、カルマによって死ぬ。カルマは肉体の死によって終わるものでもない。
カルマは命や魂に付いて変化しながら継続する。

カルマは因縁とも云い、原因である種が、縁である土や水、気温、光によって
発芽し成長し実を結ぶと例えられる。リンゴの種にはリンゴが稔り、かぼちゃ
の種にはかぼちゃが稔る。リンゴの種にかぼちゃは成らないという自然法則の
事である。さらにカルマは意志であり行為でもある。意志や行為によって結果
が変わるからだ。又、結果(受業)の事をカルマという。その結果が潜在意識に
インプットされると原因としてのカルマ(因業)になる。カルマは輪廻転生の原
動力であり、私達に自業自得と自己責任、全肯定の生き方を教えてくれている。
自然界や人間社会を良く観察するとカルマの法則があらゆるところに浸透して
いることが理解できる。

全ての人間は個性的である。まったく同じ人は過去にも現在も未来も存在しな
い。人生は一度だけというのがそういう意味だ。人間は個別で大変ユニークな
存在である。つまり、全ての人のカルマは違うということである。人それぞれ
に雰囲気や人格が異なるのもカルマがあるからだ。いやしく愚鈍な雰囲気、清
らかで崇高な雰囲気それらは肉体レベルを超えた内部からのカルマの放射であ
るところのある種のエネルギーである。カルマとしてのエネルギー放射は身体
を繭のように取り囲むオーラになる。近年、オーラカメラによってそのエネル
ギーを写真に映すことが不完全ながら出来るようになった。

オーラは肉眼では見ることが出来ない霊的な色彩光である。私達の叡智はその
霊的な色彩光を感知して人格や人の雰囲気として解釈している。人の印象、雰
囲気、気が合う合わないは、叡智が知覚しているのだ。類は類を呼ぶの喩えで
はないが、同質なものの中では居心地が良い。一方、カルマは条件が整うと解
消されるべく現れてくる。解消されるために、都合の悪い人と出会わなければ
ならないし、時には好きでない条件や嫌いな環境が与えられるのだ。条件や環
境は誰かによって与えられるのではなく、自らがカルマの解消のために叡智が
選択しているのである。時が来て条件が整えば、受け止めなければならないこ
とは受け止めざるを得ないし、やらなければならないことはやらざるを得ない
のです。

ジャイナ教哲学では魂をカルマ体が覆っていて、魂からの霊的放射はカルマ体
を通過するときに善い悪いの霊的な色彩が付いて、それが電磁気的な身体、そ
して肉体へと広がってゆき肉体外部への霊的エネルギー放射となると考えられ
ている。そのエネルギーには霊的色彩がついている。この内部から外部への霊
的色彩光の放射をレーシャという。レーシャと云う概念を使うとカルマや人格、
雰囲気など矛盾なく説明できる。又、外部から内部へと向かう反対のレーシャ
を使えば、その人の雰囲気と共に性格やカルマと云った潜在意識下のインプッ
トを書き換えることが出来る。これを応用したのがレーシャ・ディヤーナであ
り、アヌプレクシャである。

カルマの改善、コントロールこそ仏教とジャイナ教が目指す修行であり、それ
が解脱への道である。仏陀は一瞬一瞬変化しつつ継続していく命はあるが、不
変の魂は無いといった。命がカルマによって輪廻転生すると説明した。心を観
ている叡智が命であるなら、命と魂は言葉の定義の問題で同じことを云ってい
るのではないだろうか。瞑想している時に自分の身体や心、意識を観じている
のは心ではなく叡智である。心で心を観ることは出来ない。カルマで汚れた不
純な心を、叡智である純粋意識が観ることは出来る。叡智を命といえば命にな
るし魂といえば魂になる。カルマが清められて変化する不純な心が純粋になっ
て消滅したとき魂の理想状態が現れる。「アカルマの道」は金鉱石を精錬して
純金にする過程にも似ている。心を清らかにする方法の事を、「魂の汚れをと
る」と表現したほうが多くの人々に解りやすい。不滅の魂があるかないかは古
代から続く未決着の論争だ。正しい間違いの問題ではない。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年6月21日木曜日

第36回 定期研究会のご案内


第36回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年7月2日(月)19:00~21:00
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅近く「市民センター」集会室1

テーマ:『ヨーガ・スートラ』の思想的背景と瞑想についての考え方

前々回の研究会では、パタンジャリの八支則とプレクシャ瞑想の体系を比較検
討し、とくに内的意識の持ち方において強調点の違いこそあれ両者が非常に近
い内容を有していることを確認しました。

次回は「ヨーガ・スートラ」の内的部門の解釈(瞑想の内容)を比較検討した
上で、パタンジャリの八支則とプレクシャ瞑想体系の異同を整理し、その思想
的な背景を探りたいと思います。ヨガと瞑想の本質とは何か。この大きな主題
に向けて、まずはこれらの思想的な系譜を分類整理していきます。
なお、出席される方でお持ちの方はすでにお配りしたレジュメをご持参くださ
い。

※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
 (savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと、資料を受け取
 れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料
 代等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
8月6日(月)19時~21時 場所:南行徳 「市民センター」集会室1
9月3日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

2012年5月25日金曜日

シリーズ[苦痛を経験する、ということ]


前号では「苦痛を受け容れる、ということ」について哲学的な観点と精神医学
的な観点からその意義を記したが、痛みを受容するには痛みのメカニズムを理
解しておくと、より冷静な対処が可能となる。

痛みを伴う反応は大きく二つの経路を通じて行われる。一つは「侵害受容」
(nociception)とよばれる神経的な反応で、皮膚などに備わっている侵害受
容体に刺激が加えられると先ず電気信号が発生し、それが脊髄につながる神経
線維を通じて脊髄背(後)角に伝わると反射が自動的に起こり、筋肉が反応す
る。いわゆる脊髄反射である。熱湯に触れた時、瞬時に手を引っ込める等の反
応である。しかし、われわれが通常感じる「痛み」はここではまだ認識されな
い。その後、少し遅れて刺激情報が別の神経回路を通じて脳によって検出され、
それが大脳皮質(とくに扁桃体のある辺縁系など古い皮質)に伝わると、不快
な感覚を覚え、「痛み」や「苦しみ」として感じられる。すなわち、不快の情
動感覚に意識的に気づいた状態(認知)が生まれ、教訓として記憶に蓄積され
る。「侵害受容」は無意識レベルの現象で苦しみは経験されないのに対し、
「苦痛」は情動(感情)を伴う経験である。刺激に対する神経的・生理的反応
(神経的反応に続いて起こるホルモン物質(アドレナリン、コルチゾール、コ
ルチコステロン等)の分泌によって生じるストレス反応。脈拍や呼吸が速くな
ったり吐き気・食欲減退等が生じ、恐怖心など心理的プロセスに影響する)と
異なり、情動感覚は心の状態や情動によって痛みの経験のあり方や感じ方に違
いが生ずるという(ヴィクトリア・ブレイスウェイト『魚は痛みを感じる
か?』2012年、紀伊國屋書店)。

しかしながら、こうした痛みのメカニズムの詳細は未だ完全には解明されてい
ない。fMRI等による画像解析が可能になって漸く明らかになりつつある。突発
的な侵害事象(痛みの素となる刺激)に反応する神経回路とその後悩まされる
慢性的な痛みの原因(部位)が異なることも最近になって判ってきた
(A.Vania Apkarian, “The brain in chronic pain: clinical implications,
” Pain Manage.(2011) 1(6), 577-586)。興味深いのは後者(慢性的な痛み
の原因)である。反射的に発生する急性の痛みの経路と違い、慢性的な痛みが
関連する場所は元の侵害発生場所ではなく脳の特定部位(主に前頭前皮質や扁
桃体を含む大脳辺縁皮質)であるという点である。これらの部位は感情や自己
評価に関わるとされている領域で、痛みが長期にわたるとこれらの関連部位
(痛みの程度を抑える背外側前頭前皮質や視床)が萎縮(灰白質の密度が減
少)し、感情の制御や恐怖の記憶を消す眼窩前頭皮質の働きが抑制されるとい
う(A.V.Apkarian et al., "Chronic Back Pain Is Associated with
Decreased Prefrontal and Thalamic Gray Matter Density,” The Journal
of Neuroscience, November 17, 2004, 10410-10415)。85パーセントが原因
不明とされてきた慢性的な腰痛の7割が脳の働きの低下(側坐核による鎮痛物
質オピオイドの分泌低下)に因るものだということが最近判明したそうだが
(NHK『ためしてガッテン』「驚異の回復!腰の痛み」2011/11/16放送)、腰
痛だけでなく関節リウマチ、変形性関節症、帯状疱疹(ヘルペス)後神経痛等
でも上述の関連部位の活動低下が同様に確認されている(A.V.Apkarian,
“Pain perception in relation to emotional learning,” Current Opinion
 in Neurobiology 2008, 18:464-468)。

こうした脳への影響の多くは痛みによって生じるストレスに直接的な原因があ
ると考えられている。脳萎縮の原因を「痛み」そのものではなく、そこからく
る精神的なストレスに認める知見は、3.11後の調査で、心的外傷後ストレス障
害(PTSD)の症状が強い人ほど先述の眼窩前頭皮質(感情の制御や恐怖の記憶
を消す働きに関わる部位)が萎縮していることを確認した東北大学の研究報告
(『朝日新聞』2012/5/28夕刊)とも一致するところである。そうであるとす
れば、脳に起因する慢性的な痛みを改善する手掛かりも、ストレス・コント
ロール(ストレスの軽減と管理)にあることは容易に察しがつく。現に、痛み
のことばかり考えて安静を心掛けていた患者が楽しみを見つけ、活動的な日常
をおくるようになってから腰痛が減少した例が数多く確認されているという。
したがって、この文脈においても、瞑想(とくに完全リラクセーション瞑想と
呼吸の知覚あるいは身体の知覚瞑想)が非常に有効な助けになりうることは改
めて指摘するまでもない。深い瞑想状態のとき、側坐核が活性化されて「喜
び」を感じるというが、このとき同時に鎮痛作用も生じている可能性がある。
また、瞑想(呼吸)によりセロトニン神経が活性化(内因性痛覚抑制系が活性
化)されることでも鎮痛効果が発揮されるという(有田秀穂『瞑想脳を拓く』
43-44頁)。それでももし瞑想中に苦痛を感じたら、今度はそれを意識的に
「受け容れる」練習を繰り返す。それは先の「情動感覚」としての痛覚(ある
いは痛みからくるストレス)を感情から切り離しコントロールする訓練になる。
先に述べたように、このレベルの「苦痛」は経験の仕方によって感じ方を変質
させることができるのである。瞑想の効果として期待される「平常心」や「忍
耐力」は、こういうところから醸成されるのではないだろうか。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[動きを止める、動きが止まる]


宇宙に動きを生みだす力はプラスとマイナスという相反する性質を持った電磁
気的エネルギーである。プラスとマイナスは2つで1セットになっている。そ
こに引合う力と反発する力が生まれ動きが起こる。陰と陽、暗い・明るい、重
い・軽い、濃厚・希薄、寒い・暑い、上下、左右、高低、求心・遠心、ねばり
・さらさら、等はプラスとマイナスが形を変えて宇宙に普遍的に起こっている
働きである。拮抗する二つの性質が大きければ大きいほど動きは急速で激しい
ものとなる。これが宇宙に働いている力で瞬時も止まることはない。もし宇宙
が動きを止める瞬間が有るとすれば、拮抗する二つの性質が完全に一方の性質
になりきった時か、拮抗が無くなって均一化した時だと思う。万物はエネル
ギーで出来ていて、エネルギーは不滅である。形が変わるだけである。原子の
中に電磁気的な力が働いていて電子は超スピードで動いている。あらゆる物が
動き変化しているのが宇宙の本質である。

私達が生まれると云うことは、ダイナミックに動いている宇宙空間に放り出さ
れることだと云える。呼吸が始まる。吸う息、吐く息の二つの相反する力が生
命の成長、躍動を生みだす。私達は生まれてから死ぬまで呼吸し続けなければ
ならない。同時に動き続けなければならない。呼吸を止めたり、身体の動きを
止めると大変な苦痛がやってくる。体勢は常に変化させてバランスさせなけれ
ば苦痛がやって来て、じっとしていることなど出来ないのだ。なのに、過去の
悟りを開いたシイダである先哲は「瞑想とは動きを止めることである」と云う。
生きていて死んだように呼吸を微かにし、体の動きを止め、体の中の流れを鎮
めることが瞑想だと云う。

多くの人が瞑想したくないのは、止めること、動かないことが苦痛だからだ。
自由に動きたいことは生き物達の願いでもある。動物は何かに縛り付けられた
り、閉じ込められたりするのは苦痛以外の何物でもない。罪びとを監獄に収監
するのはそういう意味があるのだ。瞑想に対して嫌悪感のようなものを感じて
しまうのは、動かないことに対する恐怖があるからだと思う。人々がスポーツ
やダンスに熱狂するのは動くことが快感だからだ。多くの人は快楽をもたらす
動く事に興味惹かれ、苦痛をもたらすじっとしていることを厭う。

私達は病気や痛みを悪いものだと思っている。しかし良く考えてほしい、病気
や痛みが無かったなら、私達は自分の命を継続させることは出来ない。病気や
痛みは内在していたものが消えようとして外に現象になって現れたものだ。病
気や痛みは変化する、変化するものは動いている、動いているものは本来存在
していないものである。それを空と云い無とも云う。見方を変えれば痛みが宝
であり、薬であり、病気は神様からのプレゼントなのだ。

瞑想のとき、初心者は1時間じっと座ることは苦痛で難しい。動かず座ってい
ることが難しいので、瞑想は自分に向いていないと考えて挫折する人も多い。
2時間じっと座ることが出来たら1時間座ることはなんでもない。そして1時
間快適に座れて体の中の様々な流れや動きを観察できるようになれば、そこか
ら快楽や喜びが生まれてくる。体を止めている時の快楽や喜びは、体を動かし
ている時の快楽や喜びの十倍、百倍にもなる。その事が理解出来たら新しい自
分に生まれ変わる。

ヨガの様々な座法や身体的訓練は、長時間体をじっと動かさずにいられる安楽
な身体を作ることに役立つものだ。カヨーウッサグ(完全なる身体のリラク
ゼーション)も身体をじっと動かさないようにするための瞑想の前提条件であ
る。

身体の動きを止めること、呼吸を微かにすることが大きな快楽と喜びをもたら
すのだと解れば多くの人がもっと瞑想が好きになるだろう。

宇宙も身体も止まることなく動いている。身体を完全に止めることなど出来な
い。しかし身体の表面的な動きを止めて内的な動きや流れを知覚していくにつ
れ内的な流れや動きが鎮まっていき、動きや流れが止まったように観じられる
瞬間がやってくる。極めてクリヤーで果てしなく広がり、方向も位置もなく、
観じようとしている自分が一点になり、知覚する対象、観じていた対象が無く
なってしまう。そんな時、静かな喜びと至福感に満たされる。止まるというこ
との意味は苦痛でなく大いなる喜びでもあり快楽をはるかに凌駕していると理
解される。身体の動きを止めることは苦痛ではないとの理解が、モクシャ(涅
槃)、ニルバーナ(寂静)と云う目的地に向かっての長い旅の一里塚になってい
る。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2012年4月26日木曜日

第34回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内

第34回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年5月7日(月)19:00~21:00
場所:市川市南行徳

テーマ:パタンジャリの内的三支分(綜制)とプレクシャ瞑想(つづき)

前回、今期(第Ⅲ期)の課題を「瞑想とヨガ」とすることについて説明しまし
た。パタンジャリはダラーナ、ディヤーナ、サマーディの3段階を内的部門と
位置づけていますが、それとプレクシャ瞑想はどこが共通し、どこが違うので
しょうか。次回は、前回途中で終わったこの導入部分を説明した後、パタンジ
ャリの『ヨーガ・スートラ』を読み解きながらこの点を検討したいと思います。

出席される方は、ご自分が今までに経験・理解した瞑想をもとに、<ヨガにお
ける瞑想とはどのようなものか>について整理してきてください。報告では主
に佐保田鶴治『解説ヨーガ・スートラ』を使う予定ですが、各自お持ちの資料
であらかじめヨーガ・スートラの内容をご確認いただくと解釈の違い等から有
意義な議論ができると思います。また、前回出席された方はレジュメを忘れず
にご持参ください。


※開催直前の一週間内に必ず協会ブログページ
(http://prekshajapan.blogspot.com/)をご確認ください。開催情報を含
む連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
(savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと資料を受け取れ
ないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
6月4日(月)19時~21時 場所:市川市南行徳
7月2日(月)19時~21時 場所:同上

※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開
催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン
『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)
にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら
(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ
(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。

2012年4月25日水曜日

シリーズ[苦痛を受け容れる、ということ]


私のクラスでは、プレクシャ瞑想とヨガを実習するにあたって3つの点を特に
意識するよう強調している。一つは呼吸(ゆっくりとした深いリズミカルな呼
吸を維持し)、第二にリラクセーション(随意筋を徹底的に弛緩させて心を解
放し)、そして第三に知覚への集中(思考が停止するほどに感覚に意識を向け
る)である。この3つは密接に関連し合いながらヨガの段階から瞑想の状態に
移行することに寄与するが、その過程で生じる「痛み」をどう扱うかというこ
とが多くの場合課題となる。

この点に関連して、ムニ・マヘンドラ・クマール師は、シャリーラ・プレクシ
ャ(身体の知覚瞑想)の解説において、興味深い説明をしている。

瞑想中に体のどこかに痛みを感じても、その痛みに対して好嫌の感情を抱いて
はならない。快・不快に対して反応してはならない。痛みを感じたら心をそこ
から切り離して自由にし、感情や評価をまじえずに純粋に知覚に専念しなけれ
ばならない。そうすることで平静心が生まれるのである。もし痛みに対して感
情を伴わせて反応してしまうと、新しいカルマ(業)を作りだすことになる、
と。一方、既存のカルマについては、自分自身を変えるには粗大な身体(肉体)
の繊細な活動・機能を知覚し、それによってさらに奥に在るより微細な身体と
コミュニケーションを確立する必要がある。そこ(カルマ体)に精神的な発展
・進歩を阻害している原因があり、それが魂の束縛をもたらしている。カルマ
体には様々なことが記録されており、「自分を変える」にはそこに記録されて
いることを書き換えなければならない。その影響を阻止することが魂を自由に
することである。我々は身体の知覚を通して身体と自己との間にコミュニケー
ションを再構築する必要がある。
(『International Preksha Meditation: Shareer Preksha』Muni Mahendra
Kumar師ビデオ講義より抜粋・要約)

この説明は実に僧侶らしい宗教哲学的な表現であるが、よく考えると、大変示
唆に富んでいる。すなわち、肉体的な「痛み」(に影響された心)の行きつく
先と精神的な苦楽の源泉が同じだということである。用語こそ「カルマ」(原
意は「行為」)というインド思想からくる概念を用いているが、こうした「苦
痛」に対する捉え方は、最近、精神医療の現場でも見直されつつあり、トラウ
マ(*1)の治療にも導入されている(以下、デイヴィッド・エマーソン他
『トラウマをヨーガで克服する』2011/12紀伊國屋書店より抜粋・要約)。

トラウマを負った人は、その特徴として、一度何かのきっかけで体の警報装置
がオンになると二度とオフにならず、絶えず脳の原始的な部分で警戒状態が維
持され、真のリラックスを感じることなく、安心して生活することができなく
なる、という。原因は様々だが、子供時代に刻み込まれた「自分」や人との関
わり合いの中でもたらされた感情が潜在意識となって蓄積・沈殿し、人生のリ
アリティに対する混乱が生まれ、自らの人生を十分に生きることができなくな
る。喜びや苦痛を受けとめ、対処し、楽しみ、受け容れる能力が損なわれ、苦
しみに満ちた日常を送り、身体的にも免疫系が過剰に活性化し過度の警戒感を
解除できず自己免疫病を発症したり、脳の自己認識に関わる領域の活動が低下
して自己の中心を失い(中心が他人に遷移して)周囲に振り回される等の影響
を受けやすくなる。トラウマとは固く執拗に「嫌悪」に縛りつけられた状態で
あり、不安、恐れ、憎しみ、忌避といったネガティヴな感情と行動が繰り返し
もたらされる。

こうしたトラウマ症状に対する従来の標準的な対処法は、言葉によるカウンセ
リング(認知行動療法や曝露療法)が中心だった。しかし認識するだけでは、
心の傷や外傷記憶がいたずらに喚起され、苦痛が増大し、症状が悪化する場合
がある。そこで、身体を使って介入するタイプの療法(感覚運動精神療法/肉
体的な経験を足がかりとしてその人の内面・情緒・認識へと向かう方法)が試
みられるようになってきた。その最前線に、トラウマ用に考案されたヨガや瞑
想がある。

数多くの臨床を通じて導き出された結論は、次のようなものである。まず、す
べてのトラウマに共通する要素は「体からの疎外と断絶」と「<今ここに在る>
ことのできる能力の低下」にある。ここからトラウマを克服するための手法が
考案されるが、なかでも重要なポイントが<身体への指向>と<苦痛の受容>
である。すなわち、「ヨーガはまた、思考、感情、肉体的反応を含めた<自己>
の意識を強くする。そうした感覚的気づきの増大が、その人の体、そして自己
意識との結びつきの再構築を助ける。・・・それが体を指向するものとなったと
き、より成功の度合いが高くなるということをわれわれは見出した。われわれ
はクライアンに、彼らの思考や感情、彼らを取り巻く光景、周囲の音やにおい
までも意識するよう求めるのではなく」たとえば鼻で呼吸するエクササイズを
勧める。「そして、不快感の兆候や、自己判断が出てきたことに気づいたら、
ふたたび本来のエクササイズに戻り、経験のあらゆる側面に関心を持ち続け、
”判断を下さない”というスタンスを保ちながら取り組みを続け」る。そこで
は「身体的・感情的に不快な状態に対する判断をとりやめること」が重要であ
る。「知ろうとすることによって、それらの状態を直ちに変えようとする行動
に出るのではなく”ただ意識している”という、感情的に距離を置いた内的状
態をつくりだす。・・・何を変えることもなく、判断をしないで冷静に知ろうと
するプラクティスを特に勧める。」(p.143-4)

上記のポイントは、ヨガや他のどんな瞑想よりも、まさに身体内部の現象にの
み注意を向け意識を集中するプレクシャ瞑想(とくに身体や呼吸の知覚瞑想と
カヨーウッサグ)そのものである。「トラウマの克服」をそのまま「カルマの
浄化」という表現と置き換えてみたとき、現代におけるこの瞑想法の意義と役
割が浮かび上がってくるように思われてならない。

*1「トラウマ」(心的外傷)とは圧倒的・暴力的あるいは衝撃的な身体的経
験または心理的あるいは感情的経験によって生み出される心の傷をいい、それ
が精神に異常な状態を引き起こすとPTSD(心的外傷後ストレス障害)となる。
典型的な原因としては、戦争、強姦等の犯罪、事件・事故を含む悲惨な出来事、
暴力、虐待、いじめや嫌がらせ、親や配偶者によるDV、大規模な自然災害など
がある。しかし本文に書いた特徴は「トラウマ」に限らず、うつ病や抑うつ状
態にもあてはまる点が多い。

<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)


コラム[ジャイナ教僧侶がしているマスクの意味]


ジャイナ教白衣派の出家僧がしているマスクは我々日本人には馴染みがないの
で少し不気味に感じるかもしれません。今回はなぜ僧侶がマスクをしているか
説明します。

私達が求めているのは幸福になることです。不幸になりたい人はいません。な
のにどうして不幸になるのでしょう。私達が無知だからです。最大の無知は怒
る事です。幸福になるには私達は怒りの心を無くさなくてはなりません。

何かに対して嫌だなぁと思う心が怒りの心です。怒りを言葉に出せば自分自身
が傷つくし、相手をも不幸にします。誰かをけなす、脅す、陰口をきく、相手
を怒る、非難する、侮辱するなどの言葉は言葉による暴力です。暴力を振るえ
ば他の人や生き物達と仲良く出来ません。暴力を振るえば相手の心に怒りが起
こります。それが争いです。

怒りの心は自分の方が正しいと思うエゴの心から起こってきます。執着するこ
とや適応性の欠如からも起こってきます。ジャイナ教ではアネカンタといって
他の主張も否定しません。自分だけが正しいのではない、立場を変えて相手も
正しいと思うことそれが非独善主義です。アネカンタの考えが争いを無くしま
す。勝ち負けではなく、平和と幸福の為に他と争いません。

全ての生き物達と仲良くするというのがジャイナ教の一番大事な教えです。非
暴力、絶対平和主義です。自分が殺されても相手を絶対に傷つけません。他に
対して肉体的な暴力だけでなく言葉による精神的な暴力も決して振るいません。
嫌だなぁと相手に思わせる言葉は全て暴力的な言葉です。

ジャイナ教の僧侶は一瞬一瞬の言葉と思考に、他に対する思いやりと友好の気
持ちを育み、決して言葉による暴力を犯さないと実践しているのです。口先だ
けの理論でなく実行実践を重視しています。マスクをする事で言葉による暴力
がなくなり、マスクがその実践を助けているのです。

マスクは「アヒンサー(非暴力)」、「アパリグラハ(無執着)」、「アネカンタ
(非独善主義)」、「マイトゥリ(全生命との友好)」のシンボルなのです。マス
クはジャイナ教の心であり、教え(哲学)であり、ジャイナ教そのものです。マ
スクを取ってしまえば、形態的にもゴータマ仏陀時代の仏教と区別できません。
ジャイナ教は世界一全ての生き物達に優しい平和宗教です。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年3月25日日曜日

コラム[活用する喜び]


前回のコラムに続いてアヒンサー(非暴力主義)について取り上げます。不殺
生を積極的にすることが活用です。活用は殺すなではなく活かせという教えで
す。生き物だけではなく、人間が生きて行く上で必要な物についても粗末にす
るな、大事にしなさいと云う教えです。私は生き物だけでなく、物にも心が宿
っていると思っています。その心というのはある種のエネルギーでネガティブ
なものとポジティブなものとして主観的に感じます。人間に粗末にされた物や
打ち捨てられたものにはネガティブなエネルギーが宿っています。それらの物
に対して愛の心、大事にする心、活用する心で接していくとポジティブな物に
変化します。打ち捨てられたものや場所を愛し助けてあげると、今度は助けた
ものが私達を生かし助けてくれます。それが自然法則です。

大量生産・大量消費システムは一見、人類を幸せにするシステムに思えますが、
沢山の物を粗末にし、殺すことなので長い目でみれば人類を幸福にするシステ
ムではないと解ります。世の中は全てが変化の流れの中にあり、必要な物が出
現し、不要な物が滅していきます。これも自然法則です。

しかし現代人類社会は変化の流れが加速しているので、沢山のものを創り沢山
の不要物を破棄しています。私達はあまりにも日常多くの不要物を廃棄してい
るので、心が麻痺して生活の必要物をあまりにも粗末にしています。自転車が
1万円で買えるなんて本当に考えたらおかしな事なのです。自分一人で作ると
したら、とても難しいことです。江戸時代に自転車を持っていたら、それこそ
宝ものです。その宝ものが今や町中、至る所に破棄されていて厄介者、ゴミと
して処理されています。これらの自転車を徒歩で生活しているマダガスカルの
人々に届けられないかと思います。

大量につくられたものはどんなに価値を有していても、需給バランスが崩れて
需要が無くなれば金銭価値は限りなくゼロに近づいてゆきます。近年の不況は
社会が成熟化したからともとれますが、工業化、便利化、快適化のやりすぎに
起因しているのではないかとも考えられます。全ての生き物達との共存、サス
テイナブルな社会システム構築の観点から、今の資本主義経済に対して人類の
良心が許せなくなってきたのではないかと思っています。

最近、著名な作家・五木寛之氏の『下山の思想』と云う本が話題になっていま
す。日本は世界史的に見て繁栄の時代が終焉し成熟後の活力の乏しい社会にな
るとの論調です。本の題名が時代にマッチしたせいかベストセラーになってい
ます。本を読んでみて、何処に下山してゆくのか具体的に触れられていなかっ
たのでとても物足りなく思いました。私なら下山してゆく場所を具体的に指し
示すことが出来ます。それは彼が漠然と云っている経済指数とは別の物差しの
ことです。ブータン王国的幸福指数の事です。下山とは私達の生活から複雑な
機械を手放して行くことです。身体の延長としての道具までの時代にもどるこ
とです。

昭和30年代食料増産のため、日本の米作道具が最高水準に達しました。道具で
すがエンジンを持たないし電気を使わないから機械と定義しませんが、機械寸
前まで高度化した道具が作られました。私はここが下山地点だと思います。電
気で機械を動かさない、電気は照明器具に使うだけとします。車も化石燃料を
使わないところまで、馬車、人力車、自転車、リヤカーを使うまでにします。
そして住環境や町や村の景観を芸術的にまで美しく整えてゆくようにします。
個人がそれぞれ美しい庭を競って作り、共同で石畳や石垣の美しい路地を作っ
てゆきます。それが大事な下山の道筋だと思います。下山とは揺り戻し、反動
でありルネッサンスのことだと考えます。田舎から都市に流れた人口が都市か
ら田舎に流れるようになることかもしれません。

日本は少子高齢化、人口減少がこれからどんどん進行し50年後は4000万人の人
口が減るとの予測がなされています。東京、千葉、埼玉、神奈川以上の人口が
なくなるのです。下山するとはこの事です。人口減少によって需要が減少し大
量の物が余ってきます。余ったものは値が付きません。今でも、余った物が沢
山出て来て、本来価値あるものが値崩れして悲惨な状態になっています。ネッ
トオークション市場で、総欅のしっかりした茶箪笥がたったの5500円で落札さ
れていました。本来の価値から云ったら20万円するでしょう。美術品の値下が
りも甚だしく中堅の洋画作家の油絵が本来価格の20分の1、30分の1の値段にな
っています。これからの時代、中古住宅やリサイクル家具調度品なども余って
来て考えられない安値になっていくでしょう。お金がかかるものと云えば食べ
物位になるでしょう。食べ物は安全安心が求められるので、逆に高くなってゆ
くような気がします。多くの人が自分の食べ物や生活必需エネルギーを自分で
作るということに、今よりずっと価値を見い出すようになるでしょう。

需給が有り余って金銭的に無価値になったものの中から、宝のような価値を見
い出し、それを愛の心で活かすならば下山後の時代も悲惨になりません。むし
ろ今よりずっと精神的に豊かな時代となるでしょう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年3月23日金曜日

第33回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内


第33回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年4月5日(月)19:00~21:00
場所:市川市南行徳
テーマ:試(私)論「プレクシャ・ヨガの存立基盤」その1
パタンジャリの内的三支分(綜制)とプレクシャ瞑想

今回は総会終了後、残り時間を利用して或る試(私)論を提示したいと思いま
す。日本プレクシャ・ディヤーナ協会では今のところ「瞑想」を中心に実践・
普及活動を展開しており、そのヨガとの関係や社会のなかでの意義づけは各人
の考えと責任に任されています。その枠組み自体は尊重すべき大切なスタンス
ですが、そこをまったく検討の対象からはずしてしまうことは逆にプレクシャ
瞑想の射程を曖昧なものにしてしまうおそれがあります。

そこで今回は、瞑想とヨガの関係を皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
すなわち、パタンジャリのヨガの体系では最終的にダラーナ、ディヤーナ、サ
マーディの3つの内的部門が位置づけられていますが、それとプレクシャ瞑想
はどこが共通し、どこが違うのか。また、沖ヨガ行法の十ステップとの比較に
おいても、ダラーナからサマーディ・ブッディ・プラサドに至る段階とパタン
ジャリの内的三支分およびプレクシャはどこがどう違うのか。そして、それら
との比較から、プレクシャ瞑想の特徴が何かみえてくるのかどうか。その点に
ついて考察します。

出席される方は、ご自分が今までに経験・理解した瞑想をもとに、<ヨガにお
ける瞑想とはどのようなものか>について整理してきてください。そして、そ
れと比較してプレクシャ瞑想をどのように評価しているかを自由に議論してい
ただきたいと思います。この研究会には禁忌(タブー)はありません。どうぞ
皆さんの理解を深める場としてご活用ください。


※開催直前の一週間内に必ず協会ブログページ
(http://prekshajapan.blogspot.com/)をご確認ください。開催情報を含
む連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
(savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと資料を受け取れ
ないことがあります。
※当日参加費として500円(非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代
等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
5月7日(月)19時~21時 場所:市川市南行徳
6月4日(月)19時~21時 場所:同上

※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開
催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン
『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)
にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら
(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ
(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。

2012年2月26日日曜日

第32回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内



第32回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年3月5日(月)19:00~21:00
場所:市川市南行徳

テーマ: アヌプレクシャの種類と効果

今回は1年間の総括として、これまで勉強してきた個々のプレクシャ瞑想を総
合し、その効果を根付かせるためのテクニック、「アヌプレクシャ」を取り上
げます。アヌプレクシャとは何か、プレクシャ・メディテーションの体系の中
でどのように位置づけられるかについて簡単に説明した上で、アヌプレクシャ
の種類とそれぞれの進め方、期待される効果を整理します。

出席される方は、とくに前回レーシャ・ディヤーナの会またはチャイタニヤ・
ケンドラ・プレクシャの時にお配りした資料をもう一度目を通してきてくださ
い。これらに対する理解が前提となります。

※開催直前の一週間内に必ず協会ブログページ
(http://prekshajapan.blogspot.com/)をご確認ください。開催情報を含
む連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
(savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと資料を受け取れ
ないことがあります。
※当日参加費として500円(非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代
等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
4月2日(月)19時~21時 場所:同上 この日は前半は協会の総会となります
5月7日(月)19時~21時 場所:同上
※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開
催しています。


※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン
『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)
にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら
(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ
(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。

2012年2月25日土曜日

シリーズ[「下山の思想」とガンディー「魂の言葉」]


昨年12月に発売された五木寛之『下山の思想』(幻冬舎新書)が週刊売上1位
のベストセラーになっている。その骨子は次の文章に集約される。

「時代は『下山のとき』である。・・・登山しっぱなし、ということはありえな
い。登った山からは、必ず下りるのだ。そして安全に、確実に、できれば優雅
に麓にたどりつく。そして家へもどり、また新たな登山の夢をはぐくむ。・・・
下山する、ということは、決して登ることにくらべて価値のないことではない。
一国の歴史も、時代もそうだ。文化は下山の時代にこそ成熟するとはいえない
だろうか。私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。・・・少子化は進
むだろう。輸出型の経済も変わっていくだろう。強国、大国をめざす必要もな
くなっていくだろう。そして、ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望
が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。」「下山の時代
がはじまった、といったところで、世の中がいっせいに下降しはじめるわけで
はない。長い時間をかけての下山が進行していくのだ。戦後半世紀以上の登山
の時代を考えると、下山も同じ時間がかかるだろう。しかし、下山の風は次第
にあちこちに吹きはじめている。いつか人びとは、はっきりとそのことに気づ
くようになるはずだ。・・・宇宙へ向いていた視線は、逆に個々の身体の奥へ向
けられる。生を死の側からみつめる必要も生まれてくる。慈の思想にかわって、
悲の思想が大きく浮上してくるだろう。そんな時代に、いま私たちは、直面し
ているのだ。」

全体の内容は空疎だが、それでもベストセラーになっている背景にはおそらく、
高度成長期を謳歌した世代の時代観(あるいは人生観)が共有されている面が
あるのだろう。時代を読む一つの視点がそこに提示されている。

学生の頃、昼食をとりながらふと考えたことがある。資源を無尽蔵であるかの
ごとく消費しつづける社会は、その有限性を現実のものとして意識した瞬間か
ら退行がはじまるのではないか。第三世界の資源を搾取することで発展してき
た先進諸国。それが主導するグローバリズムの構造的問題を当時考えていた。
でもそれは遠い先の未来についての、漠然とした予想に過ぎなかった。
しかし・・・。

時代はその後、現実からかけ離れたバブル経済に酔いしれてゆく。やがてバブ
ルは崩壊し、「リストラ」が社会問題化する。使い捨ての文化は、資源のみな
らず人をも使い捨てる文化である。その頃から「リサイクル」や「循環型社会」
といった言葉が日本にも登場し、人々はまだ使えるのに捨てられてゆく廃棄物
に自分の姿を重ね合わせるかのように、もう一度社会の中で再生する道を模索
しはじめる。地球温暖化や環境問題は外的動因に過ぎないだろう。内面に生ま
れた心の空虚感は、さらに個人の癒し・健康ブームへと進んでいく。自殺者の
増加も無関係とはいえない。そんな時代の流れが想い起こされる。

マハトマ・ガンディーは1925年、次のような有名な言葉を残している。
「まだ知らない人がいたら、知っておいてほしいことがある。現代社会に巣食
う七つの大罪とは・・・。

 理念なき政治(Politics without principles)
 労働なき富(Wealth without work)
 良心なき快楽(Pleasure without conscience)
 人格なき知識(Knowledge without character)
 道徳なき商業(Commerce without Morality)
 人間性なき科学(Science without humanity)
 献身なき信仰(Worship without sacrifice)

読者はこれを頭ではなく、心に刻みこんでほしい。こうした罪を決して犯さな
いために-。」(『ヤング・インディア』1925年10月22日号)
「わたしが理想とする社会のイメージは、水面に丸く広がる波紋である。それ
はひとつの人生のまわりに、また別の人生が広がっているようなものである。
そして、その中心に個人がいる。その個人は、次の波紋である村の輪の中に溶
け込んでいき、その村もまた、周囲の村々の輪に溶け込んでいく。このような
社会では、各々がこの大きな波紋をつくるための重要な波のひとつだと認識し、
常に謙虚に暮らすことができるだろう。」
(『ガンディー 魂の言葉』太田出版2011年9月)

日本や先進諸国は、長い間、罪を犯してきた。そのツケが今さまざまな場面に
表れている。3.11後の社会づくりは、人間を主役にしたこの「水の波紋のよう
な社会」であってほしい。「下山」というよりは、新しいムーブメントとして。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[アヒンサー(非暴力主義)]


ジャイナ教を特徴づける教えの一つがアヒンサーすなわち非暴力・不殺生です。
仏教の教えの中にもアヒンサーがありますがジャイナ教ではより厳格に戒律と
して実践されています。他の人や生き物に対して絶対に暴力を振るわないと云
うのがジャイナ教徒や出家僧の生き方になっています。非暴力・不殺生の象徴
としてジャイナ教出家僧は口にマスクをしてピチと云う箒を持っています。マ
スクは他に対しての暴言や悪口を慎むためであり、箒は小さな虫を踏み潰さな
いように用心するためです。全ての生き物は生きたくて生きているのですから
その命を奪ってはならないとしています。

私も非暴力思想とその実践こそこの世に平和をもたらし、地上天国を創造する
方法だと信じています。ジャイナ教の出家僧はまた、アパリグラハ・無所有を
実践しています。僧侶は本当に何も持っていません。手に持って歩けるだけの
最低必要な物だけが所有している物の全てです。着替えの白衣一式と托鉢の為
の鉢、それに数冊の本とノート筆記具だけです。お金は一切触りませんからレ
ストランでの食事も出来ません。食事は托鉢で貰って食べるだけです。ベッド
に寝ません。固い床の上に簡単な敷物を敷いてごろ寝です。最近地球環境に優
しい生き方、エコ生活が各方面で提唱されていますが、ジャイナ教出家僧が世
界一のエコ生活者であり平和主義者だと思います。

現在の文明は石油依存文明とも云えますが、それによって気候変動と云う困難
な問題を引き起こしています。根本原因は人間の過剰な欲望に起因しています。
ジャイナ教の教えには現代文明を否定するような考え方があり、地下資源を掘
ってはならない、川の流れを変えてはいけない、樹を切ってはならない等があ
ります。それらは、全ての生き物たちと地球環境に優しい教えのような気がし
ます。人類は生活の利便性や安楽生活追求のため将来的な持続性を考えもせず、
大量生産・大量消費のシステムを作り上げました。しかしそれによって原発事
故のような問題を引き起こしました。

今や世界中の経済に閉塞感が漂い、将来の生活に不安があるので、新しい人間
としての生き方の模索が始まっています。自然エネルギーへの転換、気候変動
への対応などが求められています。

エコ意識の高いヨーロッパでは新しい文明の兆しが芽生え始めています。イギ
リスの環境運動家であるマーク・ボイル氏が行った現金を一銭も使わずに2年
半生活した社会実験が世界中に共感の輪を広げています。マーク・ボイル著
『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊国屋書店刊)。マークは一
銭もお金を使わずに大都市近郊で豊かに暮らすと云う見本を見せてくれました。
太陽光発電によって電源を確保し、パソコンを使って自分の生き方を世界に発
信しつづけました。食事は自然採取、自家栽培、分かち合い、コンビニ等の賞
味期限切れ廃棄物を利用しました。燃料は薪、コンロは簡単な手作り、自宅は
無料で譲り受けたトレーラハウスを使いました。交通はパンクしないタイヤの
自転車を使い、遠方へはヒッチハイクで出かけました。マークはマハトマ・ガ
ンジーの信奉者です。彼の行動は現代におけるマハトマ・ガンジーであり、彼
が始めた運動は新しい非暴力運動です。

一銭も使わないと云うことと1カ月1万円で暮らすということの間には大きな
隔たりがあります。只見に移住したTさんは1カ月の食費を1万円に抑えて自
分の理想を追求しています。お金を使わない生き方は確かに全ての生き物達に
優しい生き方であるし、人類の先祖や子孫に対して非暴力の生き方であると思
います。私は物を大切にする、活用することも同じように価値あることだと思
っています。捨てられている物の中に価値を見出し活用することも非暴力だと
思っています。日本中の中山間地域で集落や田畑が打ち捨てられようとしてい
ます。私はこれこそ現代日本人の最大暴力行為だと思っています。中山間地域
を守るアヒンサー運動とプレクシャ瞑想をどの様に関連付けたら良いか思案し
ています。これからの私はお金を出して新しく造られた物を買うのではなく、
なるべく身近にある自然物や廃棄物を活用していきたいと思っています。新し
く芽生え始めた文化や文明によって、放棄された山村や田畑に新しい光が投げ
かけられることを祈っています。

これからの時代は持続性ある社会システム、自然エネルギー、非暴力、健康、
平和がキーワードになるでしょう。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)



2012年1月25日水曜日

コラム[静と動]


孫子に曰く、静かなること林の如く、動かざること山のごとし。武田信玄も風
林火山の旗印にした。林は静かか、山は動かないかは別問題として、動くこと
止まることは一つの事と云える。このことを古人は静動一如と云った。静動一
如は名人、達人、悟りの境地である。それは静けさ、止まっていることのなか
に、莫大なエネルギーが湛えられていて時が至れば激しく動くと云うことを意
味する。また、激しく動いているのにそこに静けさをあわせ持っていることで
もある。例えればダム湖の水は波静かであるが、甚大な位置のエネルギーを持
っているし、地球は秒速900キロメートルで宇宙空間を移動しているが地上で
生活している人間には静止しているとしか感じられない。

動くと云うのは一体なんなのか。

人間がこの世に生を受けるということは、一時も止まることが許されない躍動
の中に放り出されることなのだ。人間は常に動かなければならない、人間は変
化しなければならない。動かないことじっとしていることは肉体的に苦痛なの
で常に体勢姿勢を変え続けなければならないように出来ている。立ち続けるこ
とも苦痛、座り続けることも苦痛、寝続けることも大変な苦痛なのだ。古人は
動くと云うことが心地よいにもかかわらずなぜ苦痛を承知で体の動きを止め、
呼吸を限りなく鎮め、思考を止め、体内感覚の波を鎮めようとしたのか。それ
は、それらが止まり鎮まったときに動いているとき以上の至福感があるからだ。

我々は時間を止めることは出来ないし、地球や惑星の動きを止めることも出来
ない。体の中で細胞レベルで起こっている変化の流れも止めることは出来ない。
神経細胞の中を流れてゆく電磁気的な流れは継続している。その流れと共にお
こっている感覚を知覚しているとき、思考が止まって心が鎮まり、知覚が観じ
ようとする対象の感覚と一つになって、粗雑な感覚から微細な感覚へ、希薄な
感覚へ、さらに無限に広がる均一で透明な静かに静止した感覚になっているこ
とがある。そんなときは時間も無くなってしまったような、自己と云う存在も
なくなってしまって根源的なものだけが立ち現われている気がする。

過去と現在と未来が一瞬のなかにことごとくあって、知覚すべき動きがまった
くない静止したような状態、三次元的な空間ではない広がり、観じようとする
意識と観じられる対象が双方透きとおったようになる。

そんな体験が未熟な私にもときどき起こる。

私はもっと深く動と静について探求しなければならないと思っている。

私達は動いていること、生命が永遠なる過去現在未来に繋がっていることやも
っと多くのことを川の流れに学ばなければならないし、止まっていることの意
味、忍耐を大木老樹に学ばなければならないと思う。私は最近、川が先生であ
り、老樹が友達であり、それらと自分がなんら変わりなく同じものだとの気持
ちが目覚めてきた。山や川や森を観察し自分の内部を観察することが万巻の書
物を読むことより大事だと解ってきた。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年1月23日月曜日

2012年新年会および認定表彰式のご報告

先日開催されました、協会の新年会および認定表彰の様子をご報告します。

今回は協会の会員様を中心に、途中からイタリアからのゲストもお迎えしての
和やかな会となりました。新年のお祝いということで菜食を中心としたイタリアン料理を
堪能しつつ、皆さんそれぞれの近況を伺ったり、出産・子育ての話題などなど
話は尽きず、あっという間の3時間半となりました。

そして大事な認定表彰会ですが、今回4名の方の認定でしたが1名の方はお仕事の
都合でご参加いただけず、次回研究会で授与させていただくことになりました。

協会の中村氏が、協会発足からこれまでの歩みや瞑想を広めることへの
意義というのを改めて見いだした思いを語り、坂本先生も約30年間のプレクシャ
瞑想に対する熱意がようやくここに実りつつあることを実感され、協会として活動
することで今後社会貢献にもつなげていきたいという思いを語られました。

今回は全員「準指導士」に認定された方への表彰となりまして、授与に際する
感想もみなさんに語っていただきました。
皆さんそれぞれの思いで今までヨガや瞑想を学ばれてきた中、プレクシャに出会って
また一段と学びが深くなり、自分自身の変革への大きな支えとなったという
コメントをいただき、私自身の体験とも重なり目頭が熱くなる思いでした。
日々の忙しい生活の間に、こうした瞑想を学ぶ時間、自分自身と向き合う時間を
継続して持つことの大切さを改めて感じました。

レストラン様のご好意により、特別にお祝いのケーキをご用意いただきまして
甘~いサプライズとなりました!(レストランの方ありがとうございました!)
3名様の喜びの笑顔をアップしておきます。





今年はさらに多くの方にプレクシャ瞑想を学ばれ、ご自身の成長のために
瞑想を生活に取り入れていただければ幸いでございます。

ご参加いただきました皆様、どうもありがとうございました!

第31回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内

第31回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

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※今回とくに必読書はありません。すでにお配りした
レーシャ・ディヤーナとチャイタニヤ・ケンドラ・プレクシャの資料を
ご確認・持参ください。
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日時:2011年2月6日(月)19:00~21:00
場所:市川市南行徳
東京メトロ東西線南行徳駅下車、徒歩1分
アクセスマップにつきましては、下記URLにてご確認ください。
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html

テーマ: レーシャ・ディヤーナの効果:その精神的説明と科学的根拠

前回はレーシャ・ディヤーナにおける「レーシャ」の概念を、マハープラギャ
師の叙述を忠実にたどりながら確認しました。キーとなる諸概念との関係にお
いてレーシャがどのような意味をもつものとして説明されているのか、その精
神作用のメカニズムを整理しました。

次回は、こうしたレーシャを前々回に検討した「ケンドラ」(霊的中心点)で
知覚することでどのような具体的な効果が生じるのか、そしてそれによって最
終的に何がもたらされるのか、さらにはその精神作用を説明する科学的根拠は
あるのか否かについて、みていこうと思います。

※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと資料を受け取れ
ないことがあります。
※当日参加費として500円(非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代
等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
3月5日(月)19時~21時 場所:同上
4月2日(月)19時~21時 場所:同上
※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開
催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン
『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)
にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら
http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ
http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。