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2013年12月25日水曜日

コラム[何もしない行為]

あるときヨガの指導員から、「何もしない行為とはどんな行為ですか」と聞か
れたことがある。禅問答のような話であるが、「人間は生きている限り、何ら
かの行為をしているのだから、何もしない行為は成り立たないのではないの
か」とその時は答えた。
しかし今は明快に「何もしない行為とは、瞑想することである」と言える。

ジャイナ教哲学では、カルマとは意思であり、行為であるという。何かをする
というのは行為であり、その行為がカルマを作っていると考えられている。本
を読むこと、食事をすること、遊ぶこと、スポーツすること、音楽を聴くこと、
仕事をすること、日常生活すること、それらの全ての活動が行為であって私た
ちのカルマを作っている。

古代インド人はカルマによって人間は輪廻転生すると考えた。何回も何回も生
まれてきては死ぬのが嫌だと考えた。私たち日本人は、死んでも又生まれてく
るのなら、マ、いいかと輪廻転生を肯定的に考えるが、古代インド人は、又生
まれてきて死ぬのは嫌だと輪廻転生を否定的に考えた。不死を求めて古代イン
ド人は輪廻転生しない境涯を理想として求めた。

ジャイナ教ではモークシャ、仏教ではニルヴァーナ、ヒンドゥ教ではカイバリ
ヤである。言葉は違うが意識が不死不生になって輪廻転生しなくなった状態で
ある。これを解脱という。解脱を求めての修行がインドに起こった宗教の基本
であり、カルマ論が哲学の精髄である。

解脱を求めて古代インド人は出家した。行為によるカルマの蓄積を避けるため
に、世俗的な生活からドロップアウトすることが出家である。出家の理想は行
為をしないことである。マハヴィーラは12年半の修行の中で何も行為をしな
かった。食事も一週間に一回程度、つまり通常の人の20回に一回程度の食事
で命を繋いだ。つまり食事もしなかったのである。何もしないで只、立ち尽く
し、座り尽くした。黙って立っていた。考えることもやめて只、荒野に日差し
を避けてボーッと立っていた。

あるときマハヴィーラが荒野に立って瞑想していた時に、ある牛飼いがマハヴ
ィーラのもとにやって来て、「迷子になった俺の牛を見なかったか」と尋ねた。
深い瞑想状態に入っていたマハヴィーラは無言で立ち尽くしていると、牛飼い
は「俺の言葉が聞こえないのか、聞こえない耳ならこうしてやる」と言って、
真っ赤な焼き火箸をマハヴィーラの耳に差し込んだ。それでもマハヴィーラは
苦痛に耐えて只、立ち尽くしていた。

何もしない行為というのはまさに深く瞑想に入っているということである。デ
ィヤーナやサマーディーの深い瞑想状態では、何かをしているということがな
くなる。することが無くなって只、起こることだけが起きている。

私たちが生きていて、行為を何もしなかったら意識は純粋になってゆく、完全
に純粋になった状態をアカルマという。アカルマは無業の状態、原因がなくな
った状態である。原因が無くなれば、原因と結果の法則から外れて輪廻転生し
ない。アカルマすなわちモークシャであり解脱である。

解脱を求める人は行為を何もなさないために、世俗的な生活から離れて、出家
する必要性があった。だから、初期仏教やジャイナ教は出家しなければ解脱出
来ないと出家主義をとったのである。個人救済を重視した。

普段私たちは体を動かさないこと、何もしないことの重要性が理解出来ない。
何もしないことは何かすることよりもずっと価値がある。スポーツやダンスで
体を動かすことは好きでよくするが、じっとしている座禅は苦手であまり好き
ではない。常に姿勢を変えながら心身のバランスを取らざるを得ない人間にと
って、じっとしているのは苦痛に感じてしまうからだ。

経験してみればわかることだが、動いているよりじっと動かない事の方がずっ
と価値がある。考えないことは、考えることよりもずっと良いことである。黙
っていることは話すことよりずっと良いことである。

瞑想によって体と心と感情の動きが静まり、安定する。瞑想とは思考が止まり、
心が安定し、観じようとする意識が沈黙の場、静けさの場所に入っていって、
さらに深く入っていくことである。

波静かな池に名月がありありと映るように、瞑目して思考が無くなり、外部か
らの音も気にならず、心と感情が波静かな池のようになって自分自身に反射し
ている。そのようなとき、自分自身を自分で観る事が出来るのだ。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2013年11月29日金曜日

第49回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第49回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2013年12月2日(月)19:00~21:00
場所:集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)

テーマ:意識と生命、エネルギーの関係 ―『フィールド 響き合う生命・意
識・宇宙』を読む―(その2)

前回は、リン・マクタガート著『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』
(河出書房新社)のエッセンスが書かれている同書のプロローグを読みました。
そこに書かれている意味をより具体的に理解するため、次回はいよいよ本編を
読み込みます。生命とは何か、意識とは何か、そしてそれらは周囲の身体・世
界・宇宙の形成に如何に関係しているのか。厳しい修行の中で体験的につかみ
取られ受け継がれてきた古代の叡智と神秘の実相を最新科学の視点で探ります。

なお、次回も読書会形式で行いますので、出席する方は同書を事前に読んでお
くことをお勧めします。

【今後の開催予定】
・2014年2月3日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2014年3月3日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

コラム[魂について]

前号のメルマガ・コラムで非我か、無我か 魂はあるのか無いのかについて取
り上げたら、九州に住む知人のOさんからメールをいただき「仏陀は非我を説
いたのであり、無我を説いたのでは断じてない。私は魂を認める」という力強
い賛同のコメントをいただいた。

Oさんはミャンマーのパオでテーラワーダ仏教を長年学んでおられ、瞑想体験
も深い方です。

Oさんが言うには『目が目自体を認識出来ないように、認識主体は認識主体を
認識することが出来ません。(認識出来たらそれは客体です)無我と言ってし
まうと誰が涅槃するのかも分からなくなります。心と体が自分のものでなけれ
ば「それは自分のものではない」と言っているもう一人の誰かがいなければ計
算に合わないと思いますが、』と魂の存在を認める見解をいただいた。

現在、日本のテーラワーダ仏教界で指導的な地位にあるスリランカ出身のS師
は沢山の著書を書いているが、S師の著作を読んでいると魂を認める立場の人
を尊重せず、心と魂の定義を不明確のままごっちゃにして魂はないと言い切っ
ている。ジャイナ教についても偏見丸出しで、邪教呼ばわりし、あたかも自分
だけが正しいかの如く傲慢さを感じる。私はS師から瞑想の指導を受けたこと
があるが、その時、師の雰囲気に突き放した、冷たいものを感じた。S師が魂
なんて無いと言っているから、魂で魂を観る瞑想であるプレクシャ・メディ
テーションが誤解され普及が進まないのかもしれない。我々はもっと我々の立
場で魂について、輪廻転生について、カルマについて、きちんと論調を展開し
ていかなければならないことを痛感している。

以下はジャイナ教テーラパンタ派のサマニー(スレーヤサ・プラギャ師)から
聞いた魂に関するレクチャーをまとめたものである。

ジャイナ教では魂を神聖な魂と神聖でない魂の二つに分けています。神聖な魂
とは解脱した魂で、神聖でない魂は輪廻転生の中にある魂です。神聖な魂は生
命がなく、体がなく、カルマがなく、食べることがなく、生きている特徴のな
い完璧な魂です。身体を持たない完璧な魂をシッダといい、人間としての肉体
を持ちながらアカルマになって解脱した完璧な魂のことを、アラハトと言いま
す。アラハトが肉体の死を迎えるとモークシャの世界に入りシッダとなります。

全ての生き物には魂があります。全ての生き物は輪廻の中にある魂だと言えま
す。人間は各々の魂を持っています。各々の動物も各々の魂を持っています。
魂は独立した存在で、魂には意識が備わっています。魂はエネルギーであり、
永遠であり、無限の幸福を持っています。

魂には2種類あって、一つは移動出来るもので、もう一つは移動出来ないもの
です。移動できない魂は感覚として触覚しかない魂で、地球、水、火、空気、
植物(樹木、草、野菜)があります。

移動できるものには二つ以上の感覚があります。貝、ミミズ、蛆虫は触覚と味
覚の二つの感覚しかありません。蟻、百足は触覚、味覚、嗅覚の三つの感覚で
す。蚊、蠍、蜘蛛、蜜蜂は視覚を加えて四覚であり、ほとんどの動物はさらに
聴覚が加わり五感覚を持っています。

五感は魂から創られたもので、五感そのものは魂ではありません。感覚を有し
ているものには全て魂があります。そして、魂には叡智が備わっています。魂
は平等で、魂は独立して、それぞれに動いています。


私の考え方を要約すると次のようになる。

魂は見ることも触れることもできない、捕捉することが出来ないので、一般に
無いと言われている。しかし魂は最も微細なエネルギーで、この世とあの世に
属している。3次元(この世)で生きる人間は肉体の死で身体は分解し大地に
帰っていく。心も消滅し無に帰すが、魂は我々が生きている次元とは別の次元
(あの世)にもまたがって存在しているので、3次元での肉体や心が消滅して
も別次元(あの世)で魂は存在し続ける。地獄界(ジャイナ教では7層ある)
も天界(26層になっている)もこの世とは違うあの世の世界なので、そこで
の住人の身体や食べ物は、我々の世界(この世)と全く違っていて当然である。

輪廻している魂はそのカルマに応じて地獄界、動物界、人間界、天界を行き来
しているというのがジャイナ教の考え方である。動物界、人間界がこの世に属
している。テーラワーダ仏教より合理的で分かり易く、納得できる考え方だと
私は思う。テーラワーダ仏教の無我=魂は無いという理論は矛盾がとても多い
と私は感じている。

魂のことが理解できないと、輪廻転生やカルマについての理解が得られず、又、
解脱のことや、なぜ修行するのか、瞑想するのか、善を行xわなければならない
のかが解らなくなる。魂の理解は因果律や原因と結果の法則についての理解を
深める。

プレクシャ瞑想を続けて少しずつ解ってきたこと。それは、仏陀は難しい魂の
ことを論じてはならないとしたが、魂は無いとは言わなかった、というのが真
実であろう。

<著:坂本知忠>(協会メールマガジンからの転載です)


2013年10月31日木曜日

コラム[魂を観る瞑想]

ゴータマ仏陀は魂の存在を肯定も否定もしなかった。当時のインド人は魂が輪
廻転生することは当然のことで論争にもならない常識的な考え方であった。魂
の概念は不死で永遠で、この世に属していないから捉えることが出来ず、束縛
されず、傷つくこともなく、よろめくこともない。魂が本当の自己(アートマ
ン)、真我と定義できるであろう。仏陀は、体は私ではない。心は私ではない
といった。つまり自我(体と心・ego)は私ではない、非我を説いたのだ。と
ころが、後世の仏教者が何を勘違いしたか、非我を無我に解釈してしまった。
非我と無我は似ているようで、全く違う考え方だ。非我は私にあらずというこ
とで、無我とは魂は無いことを意味する。

もし魂がなければ仏教思想の根本となる因果律、輪廻転生の考え方が成立しな
くなる。カルマの結実を受ける主体がなくなってしまうからだ。テーラワーダ
仏教では無理にこじつけて無我説を立てているが、むしろ魂の存在を理論的に
認めて、実践倫理哲学を構築したほうがずっと分かり易い仏教になると私は考
える。

ジャイナ教の哲学では人間界、動物界の上層に天界として26の次元の違う世
界があり、動物界の下層に次元の異なった7の地獄界があると考えている。天
界や地獄界の生命は我々の住むこの世とは次元の違う世界の生き物なのだから
当然、食べ物も身体も異なっている。それら次元の違う世界を含めて魂が輪廻
転生しているというのがジャイナ教の考え方である。

輪廻転生する原因物質であるカルマは非常に微細な粒子であると考えられてい
て、魂にカルマが付着しているので、このカルマを浄化して無くさなければ修
行は完成しないとしている。カルマが無くなった神聖な魂は天界最上階のモー
クシャに入る。モークシャは神聖な魂の意味で無限の叡智を備えているとされ
る。モークシャに到達した人間の身体を持った魂をアラハトと言い、アラハト
が死ぬとシッダになる。シッダはカルマが無く、体が無く、食べることもなく、
生きている特徴がない完璧な魂である。

ジャイナ教哲学では魂が人間の生命に入る瞬間は受精の瞬間であると考えられ
ている。魂が胎児として成長していく過程の全ての部分で自ら自分の肉体を作
ることに関与しているというのがその考え方だ。

主に4つのカルマが私たちの魂の力に関与していると考えられている。身体上
の相違をもたらすカルマはナーム・カルマと呼ばれる。このカルマによって男
か女か、身体が大きいか小さいか、色白か黒いか、美醜、等の体の外見的特徴
が現れる。ゴットラ・カルマは生まれる家柄の貴賎、王様に生まれるか乞食に
生まれるか、日本人かインド人か、家柄や家族を選択することに関与している。
アーユーシュ・カルマは寿命を決めることに関与している。ベートニーヤ・カ
ルマは執着心と無執着に関係しているとジャイナ教哲学は教える。

ジャイナ教はカルマを霊的な色彩光レーシュヤと同一視している。レーシュヤ
は主に6種類でオーラとして判定する。

・黒いオーラは邪悪なオーラで最悪である。テロリストの持つオーラである。
大量虐殺者だったヒットラー等はこのオーラである。
・くすんだ青は怠け者、詐欺師、内側と外側が違う、頼りになれない人が発す
るオーラだ。
・グレーのオーラは悲しみの感情、ネガテブな感情に支配されている。何もし
ない人、世の中に役立たない人のオーラだ。
・赤いオーラを発している人は活動的な人で優しい人である。良く寄付金を出
す人がこのオーラを持っている。
・黄色いオーラを発している人は、困っている人を良く援助する人である。自
分のことを棚に上げて、他人の苦しみを受け取ってしまう人は黄色いオーラを
発している。
・最も善いオーラは明るく輝く白いオーラである。正しい人、聖者はみなこの
オーラに輝いている。

感情や思考、活動によってオーラが替わる。オーラが魂に霊的色彩の情報を運
ぶ。カルマによって霊的色彩に染まった内から外への色彩の放射がレーシュヤ
である。レーシュヤが変化して善くなれば感情、思考、活動が善くなる。

レーシュヤ・ディヤーナがプレクシャ・メディテーションを特徴付ける瞑想法
だと思う。仏陀の瞑想は呼吸を観ること、クリシュナの瞑想は心を観ること、
ハタヨガの瞑想はチャクラを観ることにその真髄がある。マハーヴィーラの瞑
想は魂を観ることが真髄である。

魂が有るか無いかは論争が別れることとして、他を否定することは出来ない。
瞑想は魂があるか無いかに関係なく、メディテーターの身心を健康にしてくれ
るし、心を幸福にしてくれる効能が確かにある。瞑想とは人間が食事を摂った
り、排泄したり、睡眠したりするように、本当は誰もが日々なさねばならない
生活の基本原則なのだ。人間の不幸はそれをしないために起こっているといっ
ても過言ではない。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2013年9月28日土曜日

コラム[憎しみと愛]

私たちは自分にとって不都合な人、不利益をもたらす人に敵意を感じ憎しみを
持つ。一方、自分にとって都合の良い人、利益をもたらす人に友好を感じ愛お
しさを持つ。どうしてこのような感情が生まれるのか、それは、生命に根本欲
がインプトされているからだ。もし、五感を通して好き嫌いの感情が生まれな
ければ自分の敵と味方を判断することが出来ない。判断できなければ敵や毒物
に危害を加えられ身を守ることは出来ない。その根本欲の一つ自己保存欲が妨
げになって高等生物と云われる人間でさえなかなか真に幸福になれないでいる。

自分の利益を守ろうとする心の強い人、自己防衛本能が強い人を自己中心的な
人、あるいはエゴの強い人という。相手に対して「こいつは敵だ」と考えると
イライラしたり、腹立たしくなったり、嫌悪感が起こる。その感情は相手にも
伝わる。エゴが強いと他から嫌われ、孤独になり、愛と心の自由が乏しくなる。
インドの聖者シャーンティ・デーヴァが言った「この世のあらゆる苦しみは
我々が自己中心的で、自分の幸福ばかり望むせいで起こる」「この世のあらゆ
る幸福は他の幸福をおもいやる心で生じる」

他を助けたいと心から思っている人は平和と喜びに溢れている。利己的な心を
離れて他者を助けようとする心が愛である。愛は親切な心であり、友好的な心
である。そして他者を大切にする心である。非暴力が愛である。

人間の三大根本欲は自己保存欲と自己拡大欲と自由欲である。人間は健康で長
生きしたいという欲望を誰しもが持っているが、一方で沢山の人を愛し沢山の
人から愛されたいとの欲望も合わせ持っている。

無限の自由と愛が実現しない限り、健康で長生きするだけでは生命は満足出来
ないようになっている。最終的には人は真の幸福を実現しようと願う。それが
悟り、解脱へ向けての修行に駆り立てる。

大乗仏教では愛のことを慈悲という。悟りの為に慈悲を土台とした菩薩行の大
切さを説いている。慈悲の「悲」とは憐みの心で、生きとし生けるものが苦し
みを離れるように願う心である。「慈」とはいつくしみの心で、生きとし生け
るものの幸せを願う心である。慈しみの心から憐みの心が起こり、さらに止む
に止まれぬ菩提心が起こってくる。菩提心とは純粋な愛の発露である。物質的
に精神的に人々を助け、人間社会から不幸や困苦を減らしてゆく社会救済の道
を菩薩道という。菩薩道が愛の実践である。

愛とは何だろうか? 愛とは自分以外の人や物と一つになること結ぶこと融け
合うことだ。自己を皮膚の外側に拡大していって、自分でないと思っていたこ
とが自分になることだ。究極の愛は地球と自己が一体になること、宇宙が自分
になることだ。

愛の反対が憎しみで、分離している状態のことである。分離分裂していれば互
いに対立し争い憎しみが生まれる、それが苦しみの状態、不幸の状態である。
幸せになりたかったら憎しみを止め、互いに協力しあい仲良くすることである。
自然の摂理として何かが消えるときに新しい何かが現れてくる。無知が消えれ
ば智慧が現れ、怒りが消えれば喜びが起き、憎しみが消えれば愛が湧き起こる。

人を愛するときは無条件でなければならない。無条件の愛を純粋な愛という。
条件付きの愛を不純な愛という。見返りを求めるような愛は不純な愛なので愛
とは言わない。異性に対する愛も、愛の名のもとに他をコントロールしたり、
縛り付けようとするのであれば、それは愛ではなく愛欲という。本当の愛はあ
とで憎しみに変わらない。憎しみに変わる愛や執着する愛は利己的な愛で、愛
欲である。愛欲と愛を混同してはならない。愛とは無条件で見返りを求めず他
を助けることであり、互いに協力すること活かしあうことである。

自然界、生き物の世界では、他の生き物を殺してその命をいただくことで生命
が継続している。犠牲になった命が他の命を供養しているのだ。そのことを言
葉を替えて表現するなら、生命の継続は愛の循環によって成立しているともい
える。供養というのは他を助けるという意味だ。自分にとって不利益でも他の
大勢の人に役立つなら自分の事は犠牲にしても良いとするのが愛だと思う。ボ
ランティアにせよ自己犠牲にせよ、人を助ける場合は相手が自立できるように
しなくてはならない。依頼心を育ててしまう援助は愛ではない。愛を行ずると
きに人として人格が高まるように他を助ける智慧を持たなければならない。他
を助ける場合はその人の心を熟知して、その人が何を必要としているかを見極
める能力が本当は必要なのだ。そうでなければ適切に他を助けることは出来な
い。

与えるだけが愛ではない、与えられることも愛である。愛とは一方通行ではな
い。愛し愛されるという二方向性のものだ。深く愛し深く愛される、大勢の人
を愛し大勢の人から愛される、それが人間の最大の喜び幸福なのだ。無限の自
由と無限の愛は一つのものだ。無限の愛が達成できれば無限の自由が達成でき
る。それが全智である。全智の事を一切智とも云う。一切智は時間も空間も超
越して全てを知ることが出来る智慧だ。一切智が起こる条件として欠かせない
のが純粋で円満な愛の実現である。人間にとって愛を行ずることほど大事なこ
とはない。

私たちは数多くの輪廻転生の中で沢山の他者からいろいろ助けられてきた。そ
の、恩返しの生き方をしなくてはならないのだ。それが他を助ける事、愛行で
ある。今、敵と思える他人は見かたを変えれば最高の教師である。忍耐や寛容
の心を養う修業は敵や嫌いな人とのかかわりの中で育てることが出来るし、そ
うすることで怒りや憎しみ、嫌悪感等の悪感情を減らすことが出来るからだ。

嫌いなものを好きになる練習をしよう。嫌いな人がいるという事はその人から
強いコントロールを自分が受けているという事だ。他からのコントロールの呪
縛を解いて自由になるためには敵を味方に変えてしまう適応性と智慧が必要な
のだ。

愛とは人や生き物だけでなくすべての物を大切にする心でもある。人や物を生
かし活用する心でもある。見捨てられたものの中に価値を見出し、新しい命を
吹き込み活用することでもある。全肯定、全活用することが愛の実践である。
地獄のような場所を天国に変える事である。建物を愛せば建物から愛され、樹
木を愛せば樹木から愛される。山を愛せば山から愛され、呼吸を愛せば呼吸か
ら愛される。神を愛せば神から愛される。自分を神と観る、同時に他の全てを
神と観る。それをバクテイ・ヨガという。瞑想によって自己とは何かを良く理
解た上で、愛行を積み重ねる。その二つのことが人間としてなさねばならない
最も重要で大切なことなのだ。人間に生まれた意味と目的がそこにある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


第48回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第48回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2013年10月7日(月)19:00~21:00
場所:集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)

テーマ:意識と生命、エネルギーの関係 
        ―『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』を読む―

前回は、まず最新のマハープラギャ師の著書に紹介されているアンタルヤート
ラの応用技法を紹介し、実践しました。そのうえで、アンタルヤートラによっ
て何故生命エネルギーが活性化され上昇するのか、その原理を探るため、イン
ド医学と波動・エネルギー医学という考え方を紹介しました。インド医学で古
くから用いられてきたチャクラやナーディという概念も、最近では科学の立場
から計測・検証する試みが行われてきています。

次回は、この点をさらに掘り下げて考えるため、リン・マクタガート著『フ
ィールド 響き合う生命・意識・宇宙』(河出書房新社)を読み込みます。瞑
想時に生命エネルギーを凝縮・活性化させる意識とは一体何か。その存在は脳
をいくら解剖分解しても確認できません。宇宙や身体(生物)を物質的・機械
的にのみ説明する現在のニュートン物理学・デカルト的人間観の枠組みではけ
っして解明できないであろうこの問題に対して、最近、量子物理学の立場から、
異なる枠組みが提唱されています。私たちの存在(生命と意識)は常時変化す
る宇宙―エネルギーに満ちた巨大な量子場―と結びつき、常に情報交換し続け
ており、思考すること、感じること、さらに高度な認知機能(直観)はエネル
ギーの複雑なネットワークという枠組みにおいてはじめて理解できるといいま
す。この点について考えます。読書会形式で行う予定ですので、出席する人は
同書を事前に読んでおくことをお勧めします。

※参加前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)を
  ご確認ください。急な連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村までご連絡ください。
  (savita.nakamura@gmail.com)ご連絡をいただかないと、資料を受け取れ
  ないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
  等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
2013年12月2日(月)19時~21時  場所:同上
※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

2013年8月24日土曜日

プレクシャ・メディテーション合宿 2013年7月集中合宿終了のご報告

当協会開催のプレクシャ・ディヤーナ集中合宿が7月14日~21日までの7泊8日
の日程で開催されました。

参加された皆様におかれましては、お忙しい中ご都合を合わせていただき誠に
ありがとうございました。こうしてプレクシャの智慧を皆さんにお伝えできる
ことは、協会の使命であり喜びであります。

今回は雨でしっとりとした只見の自然の中で変則的なプログラムとなりました
が、登山や川の合流点での瞑想など自然と戯れながら自分自身と向き合う貴重
な時間を体験されたことと思われます。部分参加の方を含め、参加者の構成も、
まだ瞑想を学び始めたばかりの方から長年プレクシャ瞑想を学ばれている方ま
で様々な経験を持ち合わせ、お互いに良い刺激を受け合い、美味しいお料理を
囲んでの団らんや、豊かな湯量と質の良い温泉も楽しまれたようです。

合宿についての感想をいくつかピックアップしてご紹介したいと思います。


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<Tさん>
浦佐から小出駅までスムーズにるんるん気分で電車に乗ってきましたが、只見
線が動かないと言われ、え?どうするの?只見に行き着くのが車も途中で通行
止めで先には行けないとのことで、小出で4時間私達3人で楽しくお話をしなが
ら、これも修行と思いましょう!ということでヨガのポーズをしながら、17時
10分に動くことになった只見線を待ちました。

その後無事只見線に乗ることができ、道中外の景色の美しさを見ながら夜にや
っと到着することができました。よかった!今日中に着くことができて。。。
久しぶりのアラハン・マントラ、とても気持ちが良かったです。

久々の瞑想合宿。緊張して4時30分に目が覚め、マントラ、清掃行法を行いま
したが、久々の道場の清掃をさせて頂いて、感謝いたします。一昨年のレベル
2でこちらに来て以来でしたので、やはりくつろぎます。

アヌプレクシャの終わった後、前半眠くなりましたが、中間からどんどん自分
がなくなり、身体全体が温かくなりとても幸せに満ちてきました。瞑想しなが
ら、だんだんインド行きが楽しみになりました。やはり瞑想はいですね。

お風呂も行けて、ホタルも見れて、今日になって福島に来たという実感が湧き
ました。今回は私の教室の方2人の方と一緒に来ることができて喜んでいます。
初日どうなるかと心配しましたが、何とか楽しく過ごすことが出来ました。


<Yさん>
はじめて番所に来た時より、独特の雰囲気でこれがなるほど逆刺激というもの
かと感じ入りました。人は慣れた環境にいることで安心するものですが、それ
が膠着状態を生む。今この緑の連なりときれいでおいしい空気に囲まれて自分
がこれらのものをいかに必要としていたか気がつきました。

午後の4ステップ瞑想では居眠りをしてしまい反省。夜は足の組み方を変えて
みたところ、とても痛くて、まだゆがみや癖の満載の身体だなとがくっときま
した。翌日の瞑想も、午後の2回目こそはお腹もこなれてきたし眠らないぞと
固い決心をしたはずなのに、眠ってしまいました。通常クラスでは最近は眠ら
ずにできるようになってきたのに、身体の滞りを感じました。夜の瞑想では昼
間より集中できた気がします。

川の合流点での瞑想では、川の音を聞きながらそこを流れる自分がイメージさ
れました。私は五行易の勉強をしていて川は「1本の木」という意味で、水が
多く、大きな流れをゆく流木のようなものだそうです。ただ流れに流されてあ
ちらこちらに行くのではなく、意志を持って必要な所々に止まって学ぶ流木で
ありたいと思いました。

3日目には不要で不適なものを出し切り通りがよくなったためか、それまで眠
くなってしまっていた瞑想も、午後の瞑想では集中ができました。白いまゆの
中に入った時は自分が石造のように感じられて腕が重くてしばらくは合掌の手
が組めない程でした。その後はとても「しん」とした状態になりやすかったよ
うです。

翌日坂本先生のほぐしから入り、十分足を緩めたのですが、途中で足が痛くな
ってしまい、自分の内・外のバランスや浄化がまだだなぁと反省しました。

でも、意識がとんだり、痛みに完全にリラックスできなかったながらも2時間
を終えたという事で小さな達成した!という感覚は嬉しいものでした。3日目
にはこれは!と思う瞬間もあったのですが、、、この体験をぜひ続けることで
自分のものにしていきたいと思っております。


<Nさん>
プレクシャ・メディテーションとは何か、ジャイナ教とは何か、昨年12月の坂
本先生の特別講義で駆け足でお話を伺ったり、毎週のプレクシャクラスで少し
づつは伺っていましたが、今日はじっくり聞くことができ、少し理解が深まっ
たような気がします。カルマの意味も少し理解できたような気がします。

昼間の瞑想でスシュムナの中をエネルギーが行ったり来たりするイメージが全
然うまくできなかったのですが、途中カーッと腰と下腹が熱くなって驚きまし
た。いつも自分の腰が冷たくて通りが悪いと関係があるのかなと思いました。
(腰のあたりでつまってエネルギーがこもっているイメージ)

食事がとてもおいしくて嬉しかったです。夜のホタル見学も感動しました。自
然の中で天然のホタルを見たのは初めてのような気がします。幻想的でした。
夕方、雨が上がった後の青空、山並みの美しさ、温泉の気持ちよさすべてがと
ても印象深かったです。

ひとつ残念なのは、東中野のクラスの時にはそんなことはなかったのに、右足
が痛くて瞑想に集中できないことです。右足の痛みに気を取られてちっとも誘
導通りのイメージが上手くできませんでした。

初めて2時間の瞑想をやりました。正直恐怖でした。正座、座禅、ヨガ、柔軟
など足の悪い自分にとって恐怖でしたが、恐怖克服の一つ良いきっかけになっ
たと思います。今回はさらに自分の身体と対話を深めるきっかけになったと思
います。自分は足が悪いから自分にはできないと自分に言い訳していた瞬間に
できなくなるのだと思います。対話して、脱力して、試して、ゆだねることが
大切だと思いました。ベースの身体の問題でまだつまづいて、肝心の瞑想の方
まできちんと辿り着けていないのですが、もっともっと深めてゆきたいと強く
感じました。


<Sさん>
プレクシャ・ディヤーナ(知覚瞑想)の基本的な行い方を学び、みなさんの唱
和の中ですばらしい体験ができました。プレクシャ・ディヤーナの知覚対象、
そのための6種類の方法、その中でもレーシャ・ディヤーナ(霊的色彩の知
覚)の素晴らしさおよび自分にとっての必要性を感じました。深いレベルでの
自己コントロール法として体得していきます。瞑想の奥深さそして大切さを身
にしみて感じた講座でした。素晴らしい講座に参加できた喜びに満ちています。

2時間の不動の瞑想は何よりも時間的にも、経験的にも初めてで不安もありま
したが、良いチャンスに恵まれ、体験できたことが無上の喜びです。いつも憧
れのように思っていた瞑想がこのような形でできたことがすばらしくうれしく
思います。

プラーナヤーマも素晴らしく、終わった後の健康感および精神の充実感が私を
満たしています。スマブリッティ・シュヴァーサ・プレクシャでは、さらに呼
吸法の大切さ、素晴らしさが身を以て体験でき、と同時に自分の弱い部分、気
になっている部分も再認識できました。日々の実践の中で健康面に繋がること、
そして精神的なより高みへの糧となるものを追求していきたいと強く思いまし
た。声のバイブレーション、美声を目指して、、、努力!


<Yさん>
只見線不通のため小出駅にて約4時間、開通を待ちました。しかしながら疲れ
を感じず、ヨガをしながらの楽しい時間でした。なるようになれという気持ち
も良かったのかもしれません。お陰様でこんな素晴らしい体験ができました。

講義は難しくあまり理解できませんでした。瞑想は自分の体感としてとても気
持ちがよく全て無になれた様に思います。温泉、ホタルと自然に接しながら心
が洗われました。

この道場にいるだけで、すべての日常を忘れられ幸せと感謝でいっぱいです。


<Sさん>
番所の建物はとても素晴らしく、天井も高く過ごしやすいところだなと思いま
した。心の安定が欲しくてヨガを始めましたが、少しづつやすらぎを覚え始め
たところです。

数年前うつ病になり苦しい思いをし、今はだいぶ回復していますが、何かある
とすぐ不安に陥ることが多くあります。常に平常心でいられるようになりたい
と思っています。

あらゆることが自分が原因だということは前から気づいていましたが、今日あ
らためて確認いたしました。瞑想は難しいです。身体の痛さに気がいってしま
うので。


<Mさん>
倍音声明は、5人6人で声を合わせ響かせていく、とても興味深いものでした。
私は唱うことはどちらかというと苦手。マントラもなかなか慣れずに苦労して
おります。これは一音のみなので、とっつきやすく慣れてくるとお腹から声が
でて共鳴し合い、不思議な響き合いとなりました。

2時間の瞑想の後から安定座法で長くなるとひざや腰が痛み、瞑想に集中でき
にくくなってきました。これが修行でしょうか?何か残念に思います。瞑想そ
のものを深めていきたいのに、、、三昧の境地ははるか彼方、心身の浄化は叶
うのでしょうか。

シャリーラ・プレクシャは、瞑想の力は魂に効能があるとは思っていましたが、
健康に大きな影響があることを知り納得です。目に見えないことの重要さを改
めて思い知りました。ますます瞑想の必要性を感じます。

今日も合流点での瞑想は気持ちよく、ブナセンターでは自然の勉強ができ、美
味しい食事に温泉と、座学、瞑想と充実の一日。

とうとう最終日。長く苦しかった修行も終わり、、、となるかと思ったけれど
楽しく勉強ができました。やはり蒲生岳は素晴らしく、逆立ちが出来たのはと
ても良い思い出。細胞が生き生きとなる気がしました。

瞑想といえばそれまでは自分との闘いでどちらかというと苦痛が多く必要性を
感じながらも積極的に学ぼうとは思えませんでした。今回一週間、毎日学んで
自分を内側から変えるもの、浄化していくものとの感覚を少しずつ得ることが
できました。シャリーラ・プレクシャのテジャス体の知覚では、身体が輝くよ
うなオーラのようなものを感じる初めての体験をしました。

世の多くの方が知らないこの素晴らしい瞑想による生命エネルギーの流れ、検
診の代わりになるという心身を健康・健全にする奥義をぜひ広めたいです。生
まれ変わり新しくなった自分をこれからも磨き、さらに学んでいきたいと思い
ます。数々のご指導ありがとうございました。


<Kさん>
この合宿は私にとって、とてもためになるものでした。毎日沢山の行法や登山
や倍音声明などのレクリエーションがあって、とても充実していました。とて
もバランスの良いスケジュールだったと思います。また、佐藤先生が毎日作る
料理もおいしかったです。いつも食事を楽しみにしていました。レパートリー
も幅広く、合宿に来ている皆さんの注文にほとんど応えていたのが凄かったで
す。

今回のプレクシャ・メディテーションの合宿は行くことを決意して本当に良か
ったです。只見の風景は美しくて、番所もとても良い宿泊場所でした。番所は
昔の日本の、日本に適した建物でした。7月なのに涼しくて、湿気もなくて心
地よい空間でした。

2時間不動の瞑想も、家だとなかなかやる気にならないので、合宿で行うこと
ができてとてもよかったです。朝5時半からは、ジャイナ教のマントラや讃歌、
沖道ヨガの行持を唱えるのも楽しかったです。川の合流点での瞑想も良かった
です。今回の合宿では雨の天候が多く、あまり沢山できなかったのが残念でし
たが、少ない回数の中でもとても印象深いものがあります。川を見つめながら、
「変化とは何か?」と考えていると、川から変わっていくものと変わっていく
ことで存在すること、「生きていること」を学べました。川から学ぶというフ
レーズで、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を思い出しました。主人公シ
ッダールタと、川の渡し守りのヴァズデーヴァ。彼らが語る「川から学ぶ」と
いうことを、現実で経験することができました。

ふと就寝するときに思いました。「どうして私はここにいるんだろう」と。悪
い意味ではありません(笑)。いろんなきっかけが重なって、只見の地を訪れ
ることができました。2か月ぐらい前までは、自分が只見で合宿しているとは
全く思いませんでした。只見すら知りませんでした。坂本先生、私を合宿に誘
ってくださり、ありがとうございます。全ての求道者の内なる純粋なものへ敬
意を。Namo Loye Savva Sahunam.


<Kさん>
昨年は合宿が中止となり、今年は待ちに待った体験合宿です。この度は思いが
けなくもハイレベルなので、興味津々です。

合流点の瞑想では天候の具合がよくて気持ちが良かった。そして瞑想の課題に
対してですが、「川は全てを受け止め、受け入れて生きている」というインス
ピレーションを受け取りました。

次の癒しの森ハイキングでの瞑想では、森の入り口で森林の氣を感じました。
そして瞑想では樹木と風と葉音と虫・鳥のさえずりとひとつになった心になり
ました。

8つのケンドラについての瞑想では、眠さが強くあって集中が難しかった。最
後のアラハン斉唱とシュヴァーサ・プレクシャは今までに自分としては最高の
集中度で実践できました。

2時間不動の瞑想では時々身体が傾いてハッとしたことが度々ありました。い
つもは4ステップとか、その中の一つを念入りに行うことが多いですが、最後
まで完結した瞑想は圧巻でした。特に最後のステップはこれで終わりだと思っ
たのか、とても集中できたし、2時間座ったことに喜びを感じました。

今回は通して行えたので、幅広くじっくりやれたような気がしております。外
での瞑想では、自然と一体になれました。それに吐く・吸うだけの呼吸法だけ
ですが、予想以上にすごいエネルギー(例えば電気的)があることに驚きまし
た。

また、現代生活に失われている人間性(らしさ)を見ることは、それは「自分
自身を観ること」です。それには意識を集中させて「感覚を観なさい」「呼吸
を観じなさい」ということです。この基本的な命の営みを忘れると人は病むこ
とになるのだと思いました。

今後も「身体への限りない高度な気づき」を続けていきたいと考えております。
それに松義先生の工夫された食事に感謝申し上げます。ありがとうございまし
た。


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参加者の皆様、貴重なご意見・感想をありがとうございました。



【2013年今後開催予定の合宿】

プレクシャ・メディテーション 9月開催

開催日:2013年9月21日(土)~23日(月)  2泊3日
開催場所:福島県奥会津 只見「叶津番所」

「叶津番所」は、210年経った歴史ある藁葺き屋根の古民家(県指定重要文化
財)です。この合宿はそちらに宿泊し、隣接の 「みずなら只見ユイ道場」
(新築古民家風道場) にて研修を行っています。日本のリシケシのような山
と川の流れる空気の綺麗なエネルギースポットです。 

※入門合宿はどなたでも参加が可能です。 
※最低催行人数に満たない場合など予定がキャンセルされる場合もあります
 ので予めご了承ください。

参加お申込書や詳細については、以下よりパンフレットをダウンロード下さい。
http://jp.preksha.com/learn/PDJ_Retreat_beginner.pdf 

セミナー詳細ページはこちらからご覧ください。
http://jp.preksha.com/learn/#seminar

ご不明な点などは協会事務局にお問い合わせください。



コラム[食の非暴力 俗なる立場から]

台湾の友人、王さんから私のフェイス・ブックを見て、瞑想合宿最終日に熊肉
を食べたこと、お酒を飲んだことに対して質問が来た。坂本がいつも提唱して
いる非暴力・不殺生と矛盾しないかとの質問だった。

ちょうど良い機会なので食べ物の非暴力について私の考え方をまとめてみたい
と思った。

人間の生き方は聖の立場と俗の立場があると思います。聖なる生き方は出家の
生き方です。私たちがイメージする日本の宗教家や普通のお坊さんは出家であ
って出家ではないと思います。出家の顔をした俗人です。出家といわれる人が
王様のような暮らしをして、企業経営者のような金儲けをしています。私はジ
ャイナ教の出家僧に出会ったとき初めて本物の出家のことが解りました。彼ら
は本当に無所有を実践し、本物の非暴力を実践していました。

私達の生き方は俗の生き方です。結婚し家族がいて家族を養う為に仕事をしな
くてはなりません。様々なしがらみに縛られているので完全なる聖の生き方は
出来ません。世俗的生活では完全なる無所有も完全なる非暴力も実践出来ませ
ん。企業経営者であればライバルとの競争に勝ち抜かなくては企業を存続出来
ません。競争に負ければ業績不振となり従業員に給料も出せなくなり倒産もあ
りえます。倒産した会社の社員は失業し苦しむこととなります。スポーツ選手
も勝ち抜かなければ栄光は得られません。俗世界は一にぎりの勝者と多くの敗
者があって、良く考えれば競争と暴力うずまく社会といえます。

聖なる出家の世界には他との競争がありません。闘いは自分自身との闘いだけ
です。自分をいかに清らかにするかという実践が自分自身との闘いだから、他
に対する完全なる非暴力が実践できるのです。仏陀もジナも出家しない世俗的
生き方では解脱出来ないとして出家を勧めました。

出家の教えである完全なる非暴力は世俗的生活では困難です。そこで厳しい出
家の戒律と緩やかな世俗の戒律が出来たのです。世俗の人間に対して出家の戒
律をあてはめても無理があります。

私は世俗の立場の生活者なので、私に聖人に対するような要求をしても私には
実践できません。沖ヨガの沖正弘先生は生前、弟子たちに「お前たちには俺の
ような聖なる生き方は無理だから、半俗半聖で行けよ」とよく言われていまし
た。私の生き方は俗なる生き方の中に、聖なる生き方を取り入れて、バランス
よく人間的に生きるというのが今生のテーマです。

私は俗人の立場で聖なる生き方を実践し提唱しているのであって、私は出家し
た聖者ではありません。ヨガや瞑想を実生活で生かすにはどうしたらいいかを
実践し、俗の立場で提唱している単なる教師です。つまり私は「俗が聖をやっ
ている」のです。世に聖人、出家といわれている人の多くが全くの俗人で「聖
が俗をやっている」のがほとんどです。どちらがより善い生き方かと考えて私
は「俗が聖を行じる」方を選択しているのです。

以下は食べ物に対する宗教的な非暴力の考え方を半俗半聖の立場で考察したも
のです。人間が食べ物を食べるとき、その食べ物は何らかの生命を殺している
か傷つけていることになります。植物も生き物です。完全なる食の非暴力は全
く食べないことです。人間は生きている以上、何らかの食べ物を食べなくては
なりません。人間に近い哺乳動物を食べるのはなるべく避けて、穀物や野菜中
心の菜食にすべきだという見解は非暴力の実践として説得力を持っています。
そういう観点からすればバナナや果物、木の実だけを食べるのが一番善いこと
になります。

私は食べ物に善悪は無いと考えます。適応性拡大の為に食べ物の善い悪いの判
断を止めることだと思います。食べ物を区別すると自由を失います。外国に行
くと文化や食生活が違うので、時には食べた事の無いようなものを食べなけれ
ばならないときがあります。何でも食べることが出来れば何処へでも行けます。
子供のころ蛇が怖かったのですが、マムシを食べたら蛇に対する恐怖が無くな
りました。それからは蛇の生息する山にも行くことが出来るようになり、蛇と
出遭ったときには、私はお腹が空いていれば蛇を食糧とすることが出来るので
蛇が私を見て逃げていきます。以前は私が蛇から逃げていました。

非暴力の観点から日本人に魚を殺してはいけない、魚を食べてはいけないとは
云えないでしょう。魚を食べることは日本の文化であり伝統だからです。海に
囲まれた日本は新鮮でおいしい魚が身近で容易にとれます。我々の先祖は米と
野菜と魚を食べてきました。牛や豚など家畜を飼育して食べる習慣はありませ
んでした。明治以降西欧文化の影響を受けて肉食が始まったのです。

印度は暑い気候の国です。海から遠い印度の内陸では新鮮な魚は入手困難です。
家畜の肉も暑さで食べる前に腐敗が進んでしまいます。健康の面からも魚や肉
を食べる文化は育ちません。印度で魚や肉を食べてはいけないというのは道理
に合っています。印度は暑い国なので香辛料を使った辛い料理、砂糖を沢山摂
取しています。日本人が同じような食生活をしたら健康は保てないでしょう。
同じように印度では気候が暑すぎて発酵食品の文化は育ちませんでした。発酵
食品文化は日本で発達しました。日本は発酵食品の国といっても過言でありま
せん。台湾の食事は日本に比べて味付けが薄く、塩気が少ないのも気候の相違
によるのです。台湾の人が日本人に比べて身体が柔軟なのは気候によるのです。
日本人が風呂好き温泉好きなのは体の塩抜きの為に必要なのかもしれません。

草原の国の人々の肉食文化、エスキモーの人々のアザラシなど海獣の内臓まで
食べる文化、それを暴力と責めることは出来ません。その土地に生きる人にと
って必要なことであり、カルマなのです。ジャイナ教では印度に生まれて完全
なる食の非暴力を実践しないと解脱は得られないとしています。ならば、日本
人が解脱を願うなら来世で印度に生まれることを願うしかありません。

只見では江戸時代まで牛や豚は食べませんでした。古代から日本には鹿やイノ
シシ、カモシカ、熊などの野生動物を狩猟する狩人の食文化がありました。熊
狩りする特別な狩人をマタギといいます。只見にもマタギの伝統がありました。
今ではほとんどいなくなってしまったマタギの一人が、友人の長谷部義一さん
です。

瞑想合宿の終わる前日、厳しかった修行の最終日の夜は、俗界に帰る準備です。
今日まで7日間禁酒、ヨガ式自然食だったので、陰陽刺激の総仕上げとして、
緊張の反対、緩めて放下する刺激の一つとして夕食時にお酒を出す予定でいま
した。マタギの義一さんとは一年近く会っていませんでした。丁度その日の午
後、義一さんは坂本さんに会いたくなったと番所にやってきて、自ら仕留めた
貴重な熊肉を差し入れてくれました。私から熊肉を食べたくて求めたのでなく、
向こうからやってきたのです。チベットの聖者ミラレパがイラクサだけ食べて
体が緑色になり生きているのが不思議なくらい骨と皮だけになって洞窟で瞑想
修行していた時、猟師から獣の肉の喜捨を受けました。そのときミラレパは人
間らしい食べ物だと言って喜んで獣の肉を食べたと言う伝説もあります。

食べ物はまずいより美味しいほうが良いと私は考えています。食べ物は舌で食
べるのではなく、体を養う為に食べるのだとの主張は一見真実のようですが、
半分真実で半分は嘘です。確かに美味しいものだけ追求し美食に偏ったら体を
壊します。味はどうでもよく体に良いものを食べるというのも人間的でなく偏
りの一種です。欲望をコントロールする意味で食をコントロールするのは良い
ことです。本当の出家は托鉢によってしか食べられません。食べ物を選択出来
ません。現代仏教の托鉢は形骸化してミャンマーやタイの坊さんたちは毎日、
在家から食べきれないほど沢山の美味しい食べ物の喜捨を受けて糖尿病や高血
圧、肥満で苦労しています。皮肉なことに苦しくても沢山食べることが修行の
ようになっています。断食は食欲のコントロールと美食による弊害の体調回復
にとても良いので、短期の絶食や断食を日常生活に取り入れることを勧めます。

料理人にとってはより美味しく食べ物を作ることが愛です。また、世俗の人が
美味しいものを食べて味覚を満足させ人間的喜びを得ることは悪いことではあ
りません。美味しさを追求しなかったらテレビの料理番組は成り立ちません。

美味しい料理はその国の文化です。私たちは俗人なのですから、出家の立場の
非暴力・不殺生は困難です。現実というものを大事にしないと混乱し行き詰ま
ってしまいます。完璧に非暴力・不殺生を実践したかったらジャイナ教の出家
僧になるしかありません。

栄養補助剤・サプリメントはそのすべてが体の中で吸収されて栄養になるわけ
ではありません。食べ物も同じです。身体が食べた物の養分を不要と判断すれ
ば、それを排泄してしまいます。また、食べた物によって必要な栄養が得られ
ない時には身体は栄養を合成する能力を備えています。その良い例として、50
年ほど前まで、チベットの僧侶は麦粉がしを練ったツアンパとバター茶だけし
か食べていませんでした。それでも元気に生きていけたのです。身体を効率よ
く機能させるために微量元素も必要とされているわけですから、サプリメント
に頼るばかりでなく、いろいろな食べ物を食べるのが良いとされています。飲
用に適した温泉水を少量飲用すれば免疫力やアレルギーの予防になると思いま
す。

食品添加物の問題は深刻です。これからの時代は自分の食べる物を自分でつく
るのが最高の食の贅沢になるでしょう。ヨガの実践と食の自給自足が時代の
テーマになりつつあります。ジャイナ教哲学では農業が出来ないので、私達は
現実的、実際的な江戸後期の哲人・二宮尊徳の教えをあわせ学ばなければなら
ないと思います。

不殺生は殺すなという意味ですが、積極的には生かしなさい、活用しなさいと
いうことです。見捨てられて死んだものを活用することが本当の非暴力だと私
は考えます。人間や生き物だけでなく、食べ物を含めてあらゆる物を粗末にし
ないということも非暴力です。

私たちは他の命をいただいて生きていけるのだから、その御恩に報いる生き方、
恩返しの生き方をしなければならないというのが沖正弘先生の食養の言葉です。
感謝、懺悔、下座、奉仕、愛行が食べ物をいただく姿勢です。それが正しい生
き方であると信じています。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

第47回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第47回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2013年9月2日(月)19:00~21:00
場所:集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)

テーマ:アンタルヤートラの基礎と応用(その2)
    ―なぜ生命エネルギーが活性上昇するか―

前回は、まずアンタルヤートラの基礎を坂本先生の著書とA.マハープラギャ師
の叙述から再確認し、それを現代科学の知見、とくに詳細な脊髄の解剖図を参
照しながら、より精緻に、どこをどのように知覚すればよいのか理解しました。

次回は、その続きとして、最新(最後)のマハープラギャ師の著書に紹介され
ている応用技法を紹介した上で、アンタルヤートラによって何故生命エネル
ギーが活性化され上昇するのか、その原理を探ります。古代の叡智を現代的な
知見でどこまで説明できるのか、関連すると思われる生理学的説明を可能な限
り検討したいと思います。

(前回参加した人は必ずお配りしたレジュメを持参下さい。)


※参加前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)を
  ご確認ください。急な連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村までご連絡ください。
 (savita.nakamura@gmail.com)ご連絡をいただかないと、資料を受け取れ
 ないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
  等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
・2013年10月7日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2013年12月2日(月)19時~21時 場所:同上
(11月の研究会はお休みとなります)

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

2013年7月26日金曜日

第46回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第46回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2013年8月5日(月)19:00~21:00
場所:市民センター集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)

テーマ:アンタルヤートラの基礎と応用―なぜ生命エネルギーが活性上昇するか―

前回はカヨーウッサグのリラクセーション効果の根拠を探るため、臨床の現場
で用いられている幾つかのリラクセーション法を紹介し、カヨーウッサグにも
適用できる共通の要素を抽出しました。詳細な整理は今後の課題ですが、カ
ヨーウッサグの効用を科学的に説明する方法の一つとして引き続き検討してい
く予定です。

次回はアンタルヤートラ(内なる旅)によって何故生命エネルギーが活性化さ
れ、上昇するのか、その根拠を探ります。古代の叡智を現代的な知見に当ては
めるとどういうことが言えるのか。まずアンタルヤートラの基礎を確認し、最
新の応用技術を紹介した上で、関連すると思われる生理学的説明を可能な限り
検討したいと思います。

※参加前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)を
  ご確認ください。急な連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村までご連絡ください。
 (savita.nakamura@gmail.com)ご連絡をいただかないと、資料を受け取れ
 ないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
  等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
・2013年9月2日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2013年10月7日(月)19時~21時 場所:同上
※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

コラム[呼吸の奥義]


呼吸が身体の健康にとって大事ということを多くの人は知っているが、その知
識は極めて乏しく浅いものである。現代医学の医師も呼吸の重要性についてほ
とんど理解していない。

日本では身体に良いとされる呼吸法は腹式呼吸法、丹田呼吸法、完全呼吸法な
どと呼ばれている。何々式呼吸法などと、様々な呼吸法が提唱されている。し
かしそれらのほとんどは、いかに効率よく新鮮な酸素を血中に摂り入れるかが
目的であり、それ以上の観点がほとんど欠落している。それに比べて、インド
のヨガや瞑想の伝統的な呼吸法としてのプラーナ・ヤーマは身体の健康だけで
なく心や感情、精神などの健全性までを対象としていて奥が深い。

良い呼吸法とは身体の病に無害で無料で最適な薬を作り出すテクニックである。
効果の高い呼吸法を会得し実践すれば自分で自分の病を治すことも出来る。自
分自身が自分の医者になれたらこんなに良いことはないと思うし、自分で自分
の健康をつくり、免疫力を強化でき、自然治癒力を高められたらこんなに素晴
らしいことはないでしょう。さらに呼吸の神秘は私たちの人生の意味や生命の
不思議までも解き明かしてくれるとしたら、学び実践する最高に価値あるもの
と言えるでしょう。

呼吸とはそれほど大事で価値あるものなのに、私たちはそれを学ぼうともしな
い。学校や大学でも教えてくれない。真に呼吸とは何かを理解している人が極
めて少ないので大事な呼吸法を学ぶ事が出来ない現状である。現代人は他との
コミュニケーションの発達ばかりに興味をいだいて情報機器や通信機器を発達
させているが、最も人間として大事な「自分とは何か」との興味を封印してし
まっている。現代人の問題と不幸はそこにある。本当の自分を知ることは、呼
吸の観察に始まり呼吸の観察に終わると云っても過言でない。

最良の呼吸とは悠々として、緩やかで、深く、大きく、長く、静かで、均一で、
細いものである。良い呼吸の8要素は悠・緩・深・大・長・静・均・細、であ
る。私はそこに滑らかを加えて9要素を提唱している。プラナ・サンチャラ
ニー・ムドラの6とおりの手印に対応した9回の呼吸に数を数える替わりにこ
の言葉を唱える。さらにプラナ・サンチャラニー・ムドラをしながらアンタル
ヤートラ(内なる旅)をすれば体内エネルギーを自由に動かすことが出来るよ
うになり、自分で自分の病を治す医師になることができる。プラナ・サンチャ
ラニー・ムドラは私が知る限り最高の呼吸法であり、瞑想法の一つである。

ヨギの間で最高の呼吸法とされるケーヴァリ・クンバカは深い瞑想状態のとき
呼吸があたかも停止したように微かに細くなっている呼吸だ。これはテクニッ
クではなく心と身体が整ったときに自然に起こってくる呼吸だ。バストリカ
(鞴の呼吸)系の呼吸法は神経系を覚醒させ、テジャス体(電磁気的身体)を
活性化させる。

鼻を使う呼吸、口を使う呼吸、右鼻での呼吸、左鼻での呼吸、止息を入れる、
早く強く短い呼吸、ゆったり深く長い呼吸、左右の鼻を交互に使うなどの組み
合わせによって何百種類ともいえる呼吸法ができる。さらにイメージを使うこ
とによって多彩な呼吸法となる。呼吸法とはそれほど深いものなのだ。

人間だけでなく生物は誕生してから死ぬまで呼吸が続く。植物の呼吸は炭酸同
化作用である。生物が生きているとは呼吸をしているということである。現代
西洋医学では脳死をもって人の死と定義する考え方があり臓器移植法を正当化
している。呼吸していれば生命エネルギーは流れていて、身体内部には感覚が
起こっている。もしかして脳死状態とは、患者が観じる心としての意識は働い
て内部感覚を感じているのに中枢神経の一部が機能不全に陥っているために、
感情や言葉として表現できないだけなのかもしれない。

なぜ生き物として生まれると呼吸が起こるのか、それは宇宙にカルマのエネル
ギーとして電磁気的な+と-があるからである。陰と陽の相反するエネルギー、
苦と楽があり、それが生体に働き、動きを生み出し苦楽の感覚を起こさせるか
らである。私たちはずっと息を吸い続けることもできないし、吐き続けること
も出来ない、また止め続けることも出来ない。生命は常に変化、均衡、安定の
エネルギーとして生体内部を流れている。そして身体内部を流れるとき一つ一
つの細胞内に呼吸によるエネルギーが入り内部感覚が起こってくる。内部感覚
は感覚神経系を伝わり中枢神経に到達し意識は感覚を捉えることが出来る。ま
た、自律神経系は無意識的に生命を守る働きとして作用し苦楽の感覚を呼吸に
結びつけている。苦楽の感覚が私達人間を生かしている原動力である。苦を除
いて楽だけでは我々は生きていくことが出来ない。苦楽一如で生きることが出
来る。苦楽は良い悪いではないことがこれによって理解できる。

生命とは呼吸であり、呼吸に伴う身体内部の感覚であり、その感覚を知覚する
意識である。私達が呼吸しているとき、それは今まさに生きていることである。
呼吸はこの瞬間に生起している事である。生まれてから現在のこの瞬間まで呼
吸は継続してきた。それは変化の流れだった。その流れは死ぬ瞬間まで続く。
過去の呼吸は現在のこの瞬間に感覚として感じる事は出来ない。未来の呼吸も
現在のこの瞬間に感じる事は出来ない。感じる事が出来るのは現在の呼吸と現
在の感覚だけである。呼吸を「観じる」とは現在の一瞬と一つになることであ
る。呼吸の別名を生命といい、内部感覚という。呼吸を観るとは意識が内部感
覚を観じることをいう。その時意識は直接生命と出会っている。命の別名を魂
といい、あるいは神という。命はカルマ(+-としてのエネルギー)なくして
生まれない。だから生命即神、生命即カルマ、カルマ即神なのだ。カルマは善
い悪いを超越した神の掟といえる。カルマが真実である。

観じようとする意識が呼吸に伴う内部感覚と結びついているとき、過去現在未
来が一続きになる。そんな時、意識の奥の原因としてのカルマが消えてゆく。
神である感覚が意識を清らかにするからだ。

瞑想の奥義、呼吸法の奥義がそこにある。最良の健康法は悟りともいえる。瞑
想は呼吸に始まり呼吸に終わる。それが呼吸の本当の意味である。呼吸につい
てアヌプレクシャ(沈思黙考・智慧の瞑想)をすれば、内なる智慧が呼吸とは
何かを教えてくれる。


<著:坂本知忠>(協会メールマガジンからの転載です)

2013年6月23日日曜日

プレクシャ・メディテーション 7月開催 集中講座のご案内

日本プレクシャ・ディヤーナ協会主宰による合宿 「プレクシャ・メディテー
ション集中講座」 が7月に開催されます。入門より一歩進んだプレクシャ・
メディテーションのテクニックを詳しく学べる講座です。

今回は参加者の希望がある場合には、レベル1とレベル2の同時対応を考えてお
ります。プレクシャ・メディテーションの資格認定にも必須の講座ですので、
ぜひご参加ください。また、各レベルとも分割受講が可能です。一度に全日程
参加できない方は事務局までご相談ください。

開催日:2013年7月14日(日)~21日(日) 7泊8日
開催場所: 福島県奥会津 只見

「叶津番所」210年経った歴史ある藁葺き屋根の古民家(県指定重要文化財)
に宿泊し、隣接の 「みずなら只見ユイ道場」(新築古民家風道場) にて研修
合宿を行っています。日本のリシケシのような山と川の流れる空気の綺麗なエ
ネルギースポットです。

※集中講座を受講される方は、一度でもプレクシャ・メディテーションの講座
 を受講された方(インドの研修旅行も含む)、瞑想にご興味を持ち実践され
 た経験のある方にお勧めしています。
※最低遂行人数に満たない場合など予定がキャンセルされることがあります
 ので予めご了承ください。

参加お申込書や詳細については以下よりパンフレットをダウンロード下さい。
http://jp.preksha.com/learn/PDJ_Retreat_level2.pdf


【2013年開催予定の合宿】
・9月21日(土)~23日(月) プレクシャ・メディテーション入門合宿

セミナー詳細ページはこちらからご覧ください。
http://jp.preksha.com/learn/#seminar

ご不明な点などは協会事務局にお問い合わせください。

「坂本知忠と行くインド瞑想研修の旅」のご案内

「坂本知忠と行くインド瞑想研修の旅」
~ジャイナ教の聖地ラドヌーンで聖者と共に過ごす~
~平和と友好に満たされた感動の日々~

2013年10月18日~25日まで、プレクシャ・メディテーションを学ぶためのイン
ターナショナル瞑想キャンプがインドの聖地ラドヌーンにて開催されます。今
年は日本からもツアーを開催させていただくこととなりました。

インド・ラジャスタン州にある聖地ラドヌーンにて一週間ほどの瞑想研修に参
加し、その後ラジャスタン州の田舎町、ナゴール、キムサール、ルニ、ロヘト
等を訪ね歩きます。宮殿ホテルや大名の館を改修して創られたインドの伝統に
溢れた素敵なホテルに4泊します。他の印度ツアーでは絶対ありえない、協会
長坂本が自ら企画したディープな印度体験の旅です。

ジャイナ教の聖地ラドヌーンでの開催は珍しく、今年はテーラパンタ派の9代
目アチャリヤ、故ガナディパティ・トウルシー師の生誕100周年に当たるため、
特別に8日間のキャンプの受講料、宿泊費、食事代とインド国内移動費を無料
で招待するとのありがたい申し出がありました。どうぞ皆様のご参加を心より
お待ちしております。

旅行期日:2013年10月13日~26日(14日間)
訪問地
・デリー、ジョドプール、キムサール等
・ラドヌーン(ジャイナ教聖地にてインターナショナル瞑想キャンプ参加)

旅行の日程など詳細につきましては、下記パンフレットをご覧ください。
http://jp.preksha.com/learn/Internationalcamp_2013.pdf

旅行に関するお問い合わせは下記までご連絡ください。
株式会社スカイエフワールド
電話:03-5940-3451又は03-3946-0511 ファックス:03-3946-0512
担当者:バンダリ ラジーブ/矢島 ゆかり/加藤 大介

コラム[忍耐と無執着]

「執着しないことは物事の目標を簡単に諦めることになるから、あまり良いこ
とではない気がするのですけど?」「人間は努力や忍耐して諦めないことも必
要ですよね?諦めないことは執着ですか?」とIさんから質問された。

忍耐と無執着は人間にとってどちらも最重要な徳性です。無執着を言葉を変え
て表現するなら、こだわらない、囚われない、ひっかからない、事であると云
えます。又、他をコントロールしない、他からコントロールを受けない自由と
云う事です。

つまり、自由が漲り溢れている状態が無執着と言えます。別れる時、手放すと
きが来ているのに別れや手放すことを嫌がる心が執着心です。執着とは全ては
変化するという自然法則に逆からって、変化したくないとしがみつく不自然な
心のことを言います。

一方、仕事や藝術の表現の上でこだわりを持って取り組む必要性が時に重要視
されることがあります。藝術においては他の模倣とならず自他の違いを表現し
て新境地を開拓しなくてはならないのです。その場合は自己のスタイルにこだ
わることで藝術性が高まります。美しいものに感動することはある種の所有欲
や執着心を呼び起こすので、ジャイナ教の僧侶は感動してはいけないと言って
いますが・・・。

物作りの職人さんは同じ作業をコツコツ忍耐つよく繰り返さなければ目的は達
成されません。簡単に諦めることや立場を放棄することが出来ません。スポー
ツ選手も同じことが云えます。諦めず、努力し継続しなくてはなりません。目
標達成の為の継続的努力は必要なことです。

では無執着と努力忍耐をどのように折り合いをつければ良いのでしょうか?
それは精一杯努力し忍耐し結果を手放すことであると云えます。緊張(努力)
と弛緩(放下)の双方が溶け合っていることが本当の無執着です。努力も忍耐
も工夫もなく物事を簡単に諦めてすぐに放棄し常に目標を変えてしまうなら、
それは無執着ではなく単なる移り気、根性なしと言えるでしょう。

ヒマラヤの難しい山に登ることを考えて見てください。登山家はあらゆる周到
な準備をし、体調を整え登山を始めます。登山の途中沢山の困難に出遭います。
雪や氷河、岩壁や悪天候、標高の高さによる希薄な空気や寒さ、それらの困難
に耐え全力で努力しますが、場合によっては登山を中断せざるを得ない状況が
訪れる事があります。その時、執着しない事が良いのです。つまり結果にこだ
わらない事なのです。

努力と忍耐と継続で人間としての特性を磨いてゆき、あとは、囚われを無くし、
ひっかからず、こだわりを捨て自然法則に任せることが本当の無執着です。無
執着を実践するには無常についてとことん理解しなければ出来ません。又、因
果律を理解しないと無執着になれません。

無常が理解出来て因果律が良く解かれば無執着、無所有になれます。無所有、
無執着によって恐怖がなくなり、他に対する暴力をなくすことが出来ます。無
常と因果律の理解は瞑想によって達成されます。瞑想することは人間がより良
く生きるための基本行動です。


<著:坂本知忠>

(協会メールマガジンからの転載です)

第45回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第45回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2013年7月1日(月)19:00~21:00
場所:市民センター集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)

テーマ:
完全リラクセーション瞑想「カヨーウッサグ」の特徴とリラックス効果の根拠

前回は復習を兼ねてカヨーウッサグの意義を確認しました。とくに重要な点と
して、カヨーウッサグにおいては「リラクセーション」はより深い瞑想に入る
ための前段階として位置づけられていること、他の瞑想との違いは集中による
心の安定だけでなく肉体と言葉の安定(呼吸の安定を含む)も不可欠であるこ
と、身体・呼吸・言葉・心の四つの動的機能を静止してはじめて体内に存する
力(フォース)の根源とそこから放出されるエネルギーの波動(他人の波動と
の相互影響、他者とのつながり、相対的独立性(孤独でないこと)も)を認識
できること、すなわち「最大限の心の安定」のための瞑想こそがカヨーウッサ
グの本意であること、そこからはじめて「意識」の独存を自覚できること、苦
痛の根源を認識できること、肉体と心(心理)だけでなく感情や情念もコント
ロールできるようになること等が挙げられていました。

すなわちカヨーウッサグには、単なる肉体的緊張の緩和、ストレス管理以上の
効果を期待できるということです。瞑想のリラックス効果を考える場合、リラ
クセーションによる肉体的・医学生理学的な効用と瞑想レベルにおける精神的
な効果を分けて検討する必要がありそうです。今回はその両面にかかわる「意
識」との関係性に焦点を当てて、この問題を捉え直してみたいと考えています。

※参加前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)を
  ご確認ください。急な連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村
  (savita.nakamura@gmail.com)までご連絡ください。ご連絡をいただかな
  いと、資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
  等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
・2013年8月5日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2013年9月2日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

2013年5月24日金曜日

第44回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第44回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2013年6月3日(月)19:00~21:00
場所:市民センター集会室1(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)

テーマ:リラクセーション瞑想の科学(その1)―リラックスの理論と類型―

今回からいよいよ第IV期の課題「瞑想と現代科学の関係」に入ります。最初の
テーマは、カヨーウッサグ(完全リラクセーション瞑想)がもたらす効果の生
理学的理解です。リラクセーションを医学的観点からわかりやすく説明した一
般向けの本は意外に少ないのですが、まずは外堀から、このテーマの検討の糸
口を明確にするために、これまでリラクセーションに関してどのような理論が
展開され、どのような観点から整理されてきたか、リラクセーションの類型を
整理しておきたいと思います。様々なリラクセーション手法と比較して瞑想が
どのような意義をもっているかを考える前提を確認します。

※参加前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)を
  ご確認ください。急な連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村 
  (savita.nakamura@gmail.com)までご連絡ください。ご連絡をいただかな
  いと、資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
  等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
・2013年7月1日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2013年8月5日(月)19時~21時 場所:同上


※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

コラム[純粋とは何か]

沖ヨガの創設者、ヨガの哲人・沖正弘先生は生前ヨガの弟子達に「純粋さを学
びたかったら、インドのジャイナ教に学びなさい」と言っていました。30代の
私はその頃、(1984年頃)沖ヨガ修道場を時々訪れて、沖先生の語られるヨガ
哲学の講義の内容に深く感銘を受けました。

沖先生は「純粋」という意味をその時詳しく説明してくれませんでした。そし
て詳しい内容をお聞きする機会がないまま、先生は1985年7月イタリヤで入定
されました。そんなわけで、「純粋とは何か」という疑問が私の宿題として残
ったのです。

純粋とは完全に混じりけのない清らかさで、純粋の反対語が不純です。不純な
心は汚れていて、純粋な心は清らかな心だということぐらいはその時理解でき
ていました。沖ヨガ行持集によって、清い心は無要求な心、他に自分を捧げる
心、全てに感謝出来る心であると教わりました。しかし私が本当の意味での純
粋を理解出来るまでにその後、20年以上の歳月を要しました。最近になって少
し純粋という意味が解ってきました。

純粋とは良い悪い、正しい間違いを手放したことを言います。良い悪い、正し
い間違いを超越したところの真実のことです。私たちの体の中に生命があって、
その生命は変化し続けるエネルギーです。生命の働きは常に変化しつつバラン
スを取ろうと働いています。生命はエネルギーですからプラスとマイナスがあ
ります。プラスとマイナスの電磁気的な流れによって変化が起こります。収縮
と拡散、明るさ暗さ、暖かさ冷たさ、濃い薄い、重い軽い等身体内部の感覚の
変化です。感覚は感覚であって良い悪いはありません。その感覚を良い悪いと
区別することが不純です。

全ての生き物には意識と感覚があります。だから生命とは意識であり感覚とい
えます。プレクシャメディテーションでは意識的な心で身体内部にあるさまざ
まな感覚を観じとっていきます。身体内部の感覚は生命そのものです。生命が
休みなく継続的に変化するので身体内部の感覚も休みなく継続的に変化します。
その感覚の変化を意識的な心つまり純粋意識で知覚するのです。純粋意識は良
い悪い、正しい間違いを手放した無判断の心です。判断せずに只の心でありの
ままに観じることがプレクシャメディテーションの方法です。意識的な心が観
じる主体であり、内部感覚は観られている客体です。双方が生命ですから生命
で生命を観ることになります。つまり魂で魂を観る。神が神を観ることになり
ます。純粋意識で内部感覚を観じていって内部感覚の動きが静まり、ついには
静止した状態になり、感覚が消滅したようになったとき身体内部の感覚とは全
く別の感覚が立ち現れて来ます。全く静かで透明で無限の彼方まで広がり、喜
びに溢れ平和で時空間を超越したものです。この感覚はこの世の時空間に属し
ていません。生命はこの世に属していますが、魂や神はこの世に属していない
のです。

顕在意識(普段感じている自己の心)は汚れていても、感覚である生命はいつ
も純粋で汚れることはありません。感じようとする心を身体内部にある感覚に
浸すと純粋である感覚によって心が浄化され綺麗になっていきます。瞑想がカ
ルマの汚れを無くす最も優れた方法であるのはこのことによるのです。カルマ
をなくして純粋になる道をヨガと言います。

快不快、好き嫌いが執着を生み出します。不快に思うとき、嫌いと思う心が暴
力的心です。快適、好きと思うとき、欲しい手放したくないとの欲が起こりま
す。無所有、無執着は判断を手放さないと実行できません。求めない心(欲を
離れる)とは判断を手放さないと出来ません。

生命の働きは苦楽、快不快の感覚によって守られています。苦や不快がなくて
楽や快感だけしか存在しなかったら生物は生きられませんし宇宙も存在しなか
ったでしょう。

生きているとは呼吸していることに他なりませんが、どんなに吸う息が楽でも
吸い続けることは出来ません。吸い続ければ楽が苦に変わります。吸気が苦し
みになったとき息を吐けば苦が楽に変わり、吐き続ければ今度は楽が苦になり
ます。苦と楽は一如なのです。苦を避けようとして楽を求めてもそれは出来ま
せん。食べ続けることも出来ないし、食べないでずっといることもできません。
苦楽は生命を守るために起こっているのであって良い悪い、正しい間違いでは
ありません。だから判断することが不自然なのです。しかし全ての生き物は苦
と不快を厭い、楽と快適を求めています。それが本能で根本欲です。根本欲が
生命を守っていますが、それは不純な心、カルマが生命に結びついていること
だと言えるのです。

カルマによって生き物は輪廻転生するというのがジャイナ教の考えです。心が
純粋になったときつまりカルマが無くなった時、本当の自分に出会えるのです。
自分に現れている一切の事物と現象が自分のカルマの現れであると気づくとき
全てのものに感謝でき、自己を他に捧げることが出来ると思います。

全ての生き物はアカルマになるまで、純粋の解脱を得るまで、長い旅路を一緒
に旅する伴侶です。魂の兄弟です。お互いに助け合い友情を育むというのがジ
ャイナ教の非暴力、友好です。

非暴力・不殺生・友好と無所有・無執着の実践が純粋になる道です。これがジ
ャイナ教の基本的な教えです。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2013年4月22日月曜日

今年度のプレクシャ・メディテーション研究会のテーマについて


2008年に始まった本研究会は、これまでプレクシャ瞑想を構築したアチャーリ
ヤ・マハープラギャ師の著述の整理からはじまり(第I期(2008/1-2010/7)-
哲学的側面の整理/第II期(2010/9-2012/3)-科学的側面の整理)、昨年度
は「第III期-瞑想とヨガ(2012/4-2013/3))」として、ヨガの歴史を振り返
りながら瞑想、とくにジャイナの瞑想がインド哲学・思想史の中でどのような
位置をもち、内容面で他の哲学派と如何に交錯してきたかを検討しました。こ
の観点はプレクシャ瞑想の、いわば「輪郭」を外側から確認する作業の一つで
すが、プレクシャ瞑想というものを、まず、その大きな母体であるインドのヨ
ガの潮流・伝統・文化との関係において捉え直し、理解を深めることが目的で
した。

今年度は、その「輪郭」を<現代科学との関係>という全く異なる切り口から
探究することを目指して、「第IV期-瞑想と科学」というテーマを設定しまし
た。

具体的な流れとしては、プレクシャ瞑想体系の順序に従って、

1.カヨーウッサグ:リラクセーションの生理学的効用、
2.アンタルヤートラ:神経科学と意識と瞑想効果の関係、
3.シュヴァーサ・プレクシャ:呼吸とプラーナ(氣)と健康の関係、
4.シャリーラ・プレクシャ:身体と心・脳科学・免疫学、
5.チャイタニヤ・ケンドラ・プレクシャ:内分泌系の機能と意識の関係、
6.レーシャ・プレクシャ:色彩の科学と潜在意識の関係、
7.アヌプレクシャ:思考と心・潜在意識の関係、脳科学、細胞学、分子生物学的影響、
8.ムドラ・聖音・言霊と身体生理学、

等々を勉強していきます。また今年度からは、皆様にも興味ある
主題を調べて報告していただけたら有り難く思います。ご自分の勉強の一環と
して、より積極的な参加をお待ちしています。

 (中村正人)

コラム[言葉(言霊)の力]


私たちが思考する時、ある種の電磁気的なエネルギーが中枢神経で発生する。
そのエネルギーが末梢神経に伝わり、筋肉を微妙に動かして言葉となる。言葉
は音の組み合わせで出来ている。音は音波として物質で満たされた地上の空間
(空気)を伝わって他の人の耳に達する。その時、耳が捉えた音の組み合わせ
は聴覚神経から中枢神経に電磁気的なエネルギーとして伝わり、中枢神経は電
磁気的な信号を言葉に解釈している。会話というのは人間相互間の情報のやり
取りだけでなく、実はエネルギーのやり取りでもある。電波は真空中でも伝わ
るが、音波は空気が無いと伝わらない、人間の聴覚能力を越えて捉えることが
出来ない音が超音波である。人間は音波を電波にしたり、電波を音波にする装
置を科学技術によって作り出し、人間の探査領域を拡大させた。

一つ一つの音に良い悪いは無いが、音を組み合わせることで情報を作ることが
できる。情報は目的を持つのでネガティブなものもあればポジテブなものもあ
る。これが言霊、真言、マントラと言われるものである。

アー と言う音声は誕生の音、創造の音と言われる。破壊の音が「オー」であ
り、維持・持続が「ンー」である。神社の狛犬は「アー」音と「ンー」音を表
現している。イスラム教の神は「アラー」という音声で表現される。ラリルレ
ロの音は隣りの音にパワーを与える。つまり「アラー」は「アー」よりも強い
創造である。「アー」の音声は副交感神経を刺激し体温を下げ血液をアルカリ
化させる力をもっている。「オー」の音声は交感神経を刺激し体温をあげ血液
を酸性化させる。両者をバランスさせるのが「ンー」と言う音声である。「ア
オン」は創造と破壊と維持を表し、ヒンドウ教の三主神、ブラフマン、シヴァ、
ヴィシュヌを表徴している。

ジャイナ教の根本マントラはアラハンである。「アー」という音と「ンー」と
いう音に「ラハ」がパワーを与えている。アラハンは解脱した魂、人間の理想
状態を表していて、このマントラを唱えればだんだん私たちはアラハン状態に
近づいてゆく。古神道の研究家・大宮司朗の名著『言霊玄修秘伝』によれば
「ハ」の音声は伸び開く言霊であるという。繰り返し繰り返し唱えられた言葉
は潜在意識に定着し、その言葉が私たちの行動を導くようになる。思いと言葉
は相乗効果となって現実世界に姿を現す。

日常的にマントラを唱えることは潜在意識、カルマを変える方法であり、プレ
クシャ・メディテーションのアヌプレクシャにも通じる。

『ヨハネによる福音書』には、1.初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。2.この方は、初めに神と共におられた。3.全てのものは、
この方によって創られた。創られたものでこの方によらずにできたものは一つ
もない。4.この方に命があった。この命は人の光であった。5.光は闇の中に輝
いている。闇はこれに打ち勝たなかった。とあるが、「この方」の替りに「意
識」という語に置きかえれば意識が創造の源泉であり、意識はエネルギーであ
り、言葉であり、創造の源泉であり、光であり、命であり、神であると解釈で
きる。

古神道では、私達の体を含めてあらゆる物は宇宙のエネルギーと情報が形象に
なったものであるとしている。古神道はヴェーダンタ哲学に似ている。真我は
神そのものであり、神である命は本来無限の自由自在を有している。だから私
達は絶大無量の霊力があり威光を発するのである。 「天地の玄気を受けて、
福寿光無量、福寿光無量、福寿光無量・・・・・・」と三回以上唱える。この
言霊によって私達は霊性を発現し神通自在の境地に至る、と言霊をこのように
説いている。

大乗仏教の経典『般若心経』は最後の部分でこの言葉を唱えるとすべての願望
が叶いますよと説いて
「ガテー ガテー パーラ ・ ガテー パーラ ・ サンガテー ボーディ
 スヴァーハー」
と唱えることを推奨している。般若心経が厄除けの呪文の意味を持っているの
はこのマントラが含まれているからである。

私はクリスタル・ワークの師匠であるデール・ウオーカー師から20年ほど前に
「光の導き」という呪文を伝授された。「内なる神の光を呼び出します。私は
清く完全なる繋がりなり。光が私を導く」を三唱する。「光の導き」はとても
パワフルな呪文であることを私は長年に亘る実践で体感している。

言葉が宇宙法則と一体になったとき、言葉は強い力を発揮する。私たちは日常
生活の中で言葉に注意し、言葉を大事にしなければならない、と思う。言葉の
コントロールは生活とカルマ(業)のコントロールであり、ヨガそのものであ
る。これをマントラ・ヨガという。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2013年3月21日木曜日

平成25年度 日本プレクシャ・ディヤーナ協会 年次総会開催のお知らせ


当協会では、第二回年次総会を4月の研究会開催時に執り行う予定です。会員
の皆様へ平成24年度の会計報告ならびに来期25年度の開催予定行事や今後の協
会運営について話し合いの場をもちたいと思っております。

当日は簡単なお菓子とお茶などをご用意いたしますので、出席ご希望の方は協
会事務局(メール:japan@preksha.com)までご連絡の程よろしくお願いいた
します。(総会参加費用は無料ですが、その後の研究会参加費は1,000円(会
員)を頂戴いたします)

会員の皆様からご提案などございましたら、事前に協会事務局までご連絡くだ
さい。

日時:2013年4月1日(月)18:00~(総会終了次第研究会となります)
場所:市川市南行徳

※会員様のための総会となりますが、新規会員希望の方や協会の活動内容にご
 興味がある方のご参加も歓迎いたします。

以上、皆様のご参加をお待ちしております。

コラム[来期に向けて]


東日本大震災・福島第一原発事故から2年が過ぎました。復興の歩みはまだま
だ遅々として進まず前途は多難で目的地は遠いと思います。そんな中、各方面
で明るい希望も少しずつ出てきました。しかし新たな難問も湧出してきました、
その一つが被災者の心身不調の問題です。罹災直後は緊張感もあってしっかり
していた人も月日がたち気持ちが緩んでくると、激しい喪失感、将来への不安、
急激な住環境の変化、仕事の悩み等等、さらに多忙さなど継続的なストレスで
心身の適応が困難になってきます。心がイライラし不安定になり、血圧も上昇
し、不眠症になり、さらに鬱状態に進んでいくのです。このような問題に対し、
厚生労働省は精神科医と看護師によるカウンセリングの強化を決定しました。
私はこのような対応だけでは真に問題の解決にならないと思っています。やら
ないよりは多少ましだと思いますが、心の問題に対して薬で対応するのなら、
個々の人にとりかえしのつかない重大な問題を惹起させることになると案じて
います。

ストレスによって起こってくる様々な心身不調、自律神経失調症、内分泌系の
アンバランスにより起こってくる病気は、心の病と身体の不調が不可分で一体
になって起こっているのです。現代医学は心が原因の病には無知な面が多く、
有効な対応の手段も有していません。現代の医師は特定の医療分野の専門医が
大多数で患者をみる視野がきわめて狭くなっています。そのために専門医は人
間をその人の生活や、潜在意識や生命エネルギーなどを含めて全体的にとらえ
る視点が欠如しています。ですから、心の問題を薬で対応するしか出来ないで
います。私は現代医学を否定しているわけではありません。従来救うことの出
来なかった難病治療に成果を挙げていることも事実です。しかし心の問題は最
初から薬で解決するのではなく、別の良い方法があると言いたいのです。

専門医は自分が無知なことを顧みないで、東洋医学的なアプローチ、東洋哲学
や仏教・ジャイナ教のアプローチ、ヨガによる呼吸法や瞑想によるアプローチ
を、根拠に乏しい迷信的なものとして遠ざけています。日本のマスコミはオウ
ム真理教事件にこりごりしたのか、精神的な内容を含むヨガや瞑想を人心を惑
わすものとして必要以上にタブー視し遠ざけています。国民全般もマスコミの
報道に全幅の信頼を寄せているので本当のことに気付けず、理解できないでい
ます。心身を病んでいる人も無知、専門医も無知、世論を先導するマスコミも
無知なので沢山の不幸が解決できず、事態を悪化させているのが現状です。

私は様々な経験を通して、ストレスによって起こってくる多くの病や鬱などの
症状に一番効果が高い療法はヨガや瞑想であると知っています。特に沖正弘先
生が提唱した沖ヨガとインドの瞑想法プレクシャ・メディテーションがこれら
の問題を解決できる一番良い方法だと思います。しかしこの事を知っていて教
え指導できる人は極めて少ないのが現状です。プレクシャ・メディテーション
は日本人にはなじみが薄く、一般大衆や社会からイメージによる誤解も多く、
又、私自身の実力の無さ、人望のなさ、不徳のために普及も思ったより進展し
ないでいます。この現状を打破するためにも、今年は新しい出版物を出したり、
瞑想の講習会や勉強会を幅広く展開しなければならないと痛切に感じています。

明るい話題としては、今年はアチャリヤ・トゥルシー師生誕100年目にあたる
ので是非日本からもプレクシャ・メディテーション国際キャンプに参加してほ
しいと要請を受け、現在、10月の渡印に向けて旅行の企画を進めています。今
年の瞑想キャンプは本拠地のラドヌーンで行われます。会員の皆さんに間もな
くお送りする会報誌に詳しく書きましたが、そこはインド北西部のタール砂漠
に近い大都会から隔絶された半砂漠地帯のエキゾチックな古い町です。その一
角ジャイナ教センターは清らかで平和の雰囲気に満ちた聖地です。この聖地で
本当の聖者のもとで瞑想を学ぶ体験は必ず人生の宝になります。心で決心すれ
ば地球上のどこにでも行くことができる時代です。是非多くの皆さんに今年10
月のインドツアーに参加して衝撃の体験をしていただきたいと思います。

また、4月中旬には、台湾沖道ヨガ会から招請があって昨年に続きプレクシ
ャ・メディテーション集中合宿の指導に行ってまいります。台湾の人達から私
の瞑想指導が好評をいただいています。本当に良いものは世界中どこへいって
も、いつの時代でも通用することを実感しています。会員の皆さんが深いレベ
ルでプレクシャ・メディテーションに上達されることを祈っています。そして
一人でも多くの人にプレクシャ・メディテーションを伝えていきたいと思って
います。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

第43回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内


第43回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。
日時:2013年4月1日(月)18:00~21:00(先に年次総会を開催します)
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分(集会室1)

テーマ:ヨガの歴史とジャイナ教 (その2)
 ―ジャイナ教の「知覚」と魂・カルマ・認識論の変遷―(前回のつづき)

前回は、ヨガの歴史と思想の中でジャイナ教哲学がどのような位置を占めてい
るかを検討するため、ジャイナ教の認識論を紹介しました。6世紀頃までの伝
統的なジャイナ哲学体系では、対象(世界/事実)を正しく認識(「正知」)
する方法として、聖典知(信頼できる人物の言説)・感官知(感覚器官による
間接知覚)と直観智・他心智・完全智(直接知覚)に分けられ、後者ほど純粋
で完全であるとされていました。次回はその続きとして、この伝統的体系が他
学派の影響の下でどのように変容したかを紹介するとともに、変容しなかった
ジャイナ教の知覚体系の本質について議論をしたいと思います。

※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村
 (savita.nakamura@gmail.com)までご連絡ください。ご連絡をいただかな
 いと、資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
 等を含む)を頂戴いたします。 

【今後の開催予定】
5月は研究会はお休みとなります。
2013年6月3日(月)19時~21時 場所:南行徳

※定期研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

2013年2月21日木曜日

2013年度のプレクシャ瞑想合宿日程のお知らせ


今年度のプレクシャ瞑想合宿の日程が決まりましたのでお知らせいたします。
今年は4回の開催となりますが、レベルIの資格(準指導士)をご希望の方を
対象に都内近郊で特別講習会の開催を検討しております。そちらも決定され次
第順次お知らせしますのでご期待ください。

参加を希望される方は、ホームページからチラシ裏面の申込書にてお申し込み
ください。
http://jp.preksha.com/learn/#seminar

2013年度予定

●7月14日(日)~21日(日) プレクシャ・メディテーション集中講座レベル2
 参加資格:過去にインド瞑想キャンプに参加された方、レベル1合宿に参加
      された方。今回は特別に入門合宿に参加された方、定期的に教室
            に参加していて4ステップ瞑想を理解している方の参加を認めま
            す。(今年はレベル1の合宿は行いません。準指導士の資格をご
            希望の方はレベル2または特別講習会にご参加ください。)

●9月21日(土)~23日(月) プレクシャ・メディテーション入門合宿
 参加資格:どなたでも参加できます

※予定は変更されることもありますので、あらかじめご了承ください。
※指導員資格を取得された方は、特別待遇での受講が可能ですのでお問合せく
ださい。

みなさまのご参加を心よりお待ち申し上げております。


2013年インド瞑想ツアー企画決定のお知らせ


10月にインドにて開催される国際瞑想合宿に参加するため、日本からのツアー
を企画することが決まりました。下記の日程で一定人数が集まりましたら、費
用を含めた詳細を詰めていきますので、希望される方はふるって希望表明を協
会までお寄せください。

2013年インド瞑想ツアー
期日:2013年10月13日~26日
国際合宿開催地:ラジャスタン州・ラドヌーン
        研修後の観光の行き先は未定

------ Preksha International事務局からの招待状 ------
今年の国際瞑想合宿は、ラドヌン(テーラパンタ派の本拠地)に於いて10月15
日-22日まで開催されます。今年はアチャーリヤ・トゥルシー師の生誕100年に
あたり、それを祝してキャンプの参加費およびデリー/ジャイプールからの移
動費は主催者が提供いたします。この機会にぜひご参加ください。 
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詳細決定次第、協会ホームページおよびメルマガでもご案内する予定です。
どうぞご期待ください。

コラム[資格]


私達は資格があるから人間に生まれて来るのであり、資格があるから病気や人
間関係、仕事で悩み苦しむのです。資格があるからその家に生まれ、その両親
を持ち、兄弟があり、その夫と結婚し、妻があり、子供が生まれます。資格が
なければ、入学試験に落ちるように、あらゆることはあるべきようにはなりま
せん。今あなたに起こっていることがなんであれ、それが起こっていてそのよ
うであったならば、それは、あなたにとってちょうど良い事であり、善いこと
でもなければ、悪いことでもありません。

資格があるから病気になり、悩み、苦しむのです。その人の資格、言葉を変え
るならその人に解決能力があるからある特定の病気になるのです。解決能力の
ない人に解決できない問題は起こりません。身体の老化は自然法則であって資
格ではありません。

資格は時に人と人の相互関係、お互いの学びとして与えられます。それは、時
には辛さと困難をともないますが、それは互いに一番必要な学びなのです。今、
あなたが持っているもの、家や車や仕事上の立場、富や名声も今のあなたにふ
さわしいから、丁度良いから資格があるから持つことができるのです。しかし
それらは、時が過ぎれば全て変化します。無常です。執着することは出来ませ
ん。資格があるから、その場所へ行くことが出来、資格があるからその出来事
に出会い、資格があるから見つけることが出来、資格があるから得ることが出
来ます。

資格というのは入学試験や何かの階級審査で得られるような単純なものではあ
りません。資格というのは一人ひとりの人間が全て違っているものなのです。
それは個性的なもので、束縛と自由が一つになっていて、苦楽善悪一体のもの
なのです。

資格は一見、人間にとって不平等のように思えますが、資格とは人間の自業自
得の説明であり、因果律の説明であり、自己責任のことです。自業自得、自己
責任において人は完全に平等なのです。欧米の宗教哲学では愛や救いという価
値観が主で資格というような考え方があまりありません。欧米の宗教哲学に基
づく価値観や文化が日本にも広く浸透して、その弊害として、行き過ぎた依頼
心増長社会、責任転化社会、訴訟社会になってきたと考えます。我々は傲慢に
ならず、卑下することもなく、もっと謙虚に強く自己責任を持つべきだと思い
ます。

この世に生まれてから死ぬまでの今生だけが私たちの生ではありません。命は
変化するものであり、生き通しで宇宙の生滅とともにあり、始めの無い始めか
ら、終わりの無い終わりまで継続して旅するものです。私たちの旅はほとんど
路半ばであり、この先長い旅路をたどらなくてはなりません。それぞれの人が
長い旅路で出会う諸々の事は、その人の資格によるのです。その資格のことを
先哲聖人がカルマと呼んだのです。カルマはコントロールすることが出来ます、
変えることができます。その方法が瞑想であり、ヨガというのです。

洞察瞑想、智慧の瞑想、沈思黙考の瞑想をプレクシャ・メディテーションでは
アヌ・プレクシャと言います。自分の資格について広く深く考察しましょう。
自分が心の奥底で、潜在意識のレベルで何を願い何を求めているのか考察しま
しょう。繰り返し繰り返し自分の資格について考えます。考えることも立派な
瞑想です。アヌ・プレクシャを継続することで他から教わるのではなく、内な
る智慧、内なる宝が輝き始める事でしょう。それがやがて本当の自由を得るた
めの資格になります。資格がなければ無限の自由もなければ、無限の愛もあり
ません。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

第42回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内


第42回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます

日時:2013年3月4日(月)19:00~21:00
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅より徒歩1分(集会室1)

テーマ:ジャイナ教とヨガ(その2)――ジャイナ教の認識論への思想の影響

前回は、ジャイナ教の歴史の中で初めてヨガ的修習を修行体系に採り入れた8
世紀中葉のアチャーリヤ、ハリバドラのヨガ理論を中心に、ジャイナ教とヨガ
の史的交錯の一面を紹介しました。独自の宗教哲学を発展させてきたジャイナ
教といえども当時の思想的趨勢と無関係ではありえず、他の諸学派にも多大な
影響を与えたパタンジャリのヨガ(『ヨーガ・スートラ』)が強く意識されて
いたこと、その意味では確かに当研究会でも議論したように、ジャイナの瞑想
とヨーガ・スートラの内的三支分(あるいはサーンキャ哲学の二元論)は類似
していて当然であること、しかしながらそのプロセス(cittaのはたらきの解
釈)と目的(三昧ないし解脱の意味)においては大きな違いがあることが納得
のいく形で提示されたのではないかと思います。

次回は、今度は他の哲学諸派を含む様々なインド思想哲学がジャイナの認識論
にどのように影響したか、影響を受けながらも残ったジャイナ独自の要素はな
にかといった点を検討したいと思います。ちなみに、ここでいう「認識論」と
は、たとえば瞑想時に瞑想対象にどのように意識を向け、その対象をどのよう
に認識するかということに関わります。「知覚瞑想」でいう「知覚」とは何か
という根本問題を検討します。

※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村
 (savita.nakamura@gmail.com)までご連絡ください。ご連絡をいただかな
 いと、資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
 等を含む)を頂戴いたします。 

2013年1月26日土曜日

年頭にあたって ―ガンジー博士からのメッセージ―


昨年末に特別講演をいただいたS.L.ガンジー博士から、年頭にあたってのメッ
セージを頂戴しました。謹んで掲載させていただきます。

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日々の、そして今日の行動でアヒムサ(非暴力)を守るということを誓ってみ
ましょう。

年の初めにあたって思うことは、暴力と嫌悪の空気が世界各地で急速に拡がっ
ているということです。それは人間性を次第に追いやり、私たちの生存を危う
くします。婦女暴行事件、学校での罪のない子供たちへの乱射事件、宗教的狂
信主義、様々な腐敗行為や不道徳な振るまいが最近世界を震撼させています。
これらの事件の根本の原因は子供たちに倫理的な価値観をきちんと教えない私
たちの社会の教育制度にあるのではないでしょうか。子どもは未来を担う大切
な存在です。子どもや若者に非暴力を教育し訓練することが必要です。

故アチャーリヤ(ジャイナ教テーラパンタ派の最高指導者)マハープラギャ師
は世界の人々に非暴力を訓練する方法を遺産として残しました。現在のアチ
ャーリヤ・マハーシュラマン師も人々の間にアヒムサの意識を芽生えさせよう
と懸命に努力しています。親御さんたちは自分の子どもに、暴力をはたらいて
はいけないことをきちんと教え込まなければいけません。

「非暴力」とは単に物理的な暴力の忌避を言っているのではありません。心理
的な暴力や言葉の上での暴力も含まれます。むしろ後者の方が危険で有害でさ
えあります。それらは多くの病を引き起こす原因にもなります。非暴力の意識
に目覚めるということは、感情的に暴力にうったえたり嫌悪をぶつけてしまう
私たちの傾向に抗う力を身につけるということです。暴力はまず心の中に生じ、
それが言葉となって表れ、最後に物理的な侵害をもたらします。ですから、私
たちが最初にすべきこと(「非暴力のレッスン」)は、激しい感情をコント
ロールし抑制するという決意をすること、あるいは決意する力を開発すること
です。

そのために、ぜひ、小さな自戒(アヌブラット)を実践してみませんか。心に、
言葉に、そして行動において、暴力を慎むということを自ら誓うのです。最初
は次のようなアヌブラットを決意することからはじめてみましょう。

1.      私はわざと人を傷つけません。
         -私は生き物も殺さないように気をつけます。
         -私は自殺しません。
2.      私は人類は皆同じだと信じます。
         -私は身分や膚の色、信仰、信念の違いによって人を差別しません。
         -私は他人を下に見たり上に見たりしません。
3.      私は宗教に寛容になります。
         -私は教派・党派にこだわりません。
4.      私は自分の所有物(資産)を制限します。
         -私は不要な物・不要な富を貯め込みません。
5.      私は環境やエコロジーの問題を常に意識します。
         -私は緑木を切り倒しません。
         -私は水や電気を無駄使いしません。

上記はほんの小さな誓いですが、アヒムサの文化を支持する方には是非実行し
ていただきたい事です。それは個人としては「小さなステップ」ですが、人類
にとっては「大きな飛躍」につながることでしょう。

皆さま、どうぞ幸せな一年をお過ごしください。

Dr. S.L. Gandhi
International President
Anuvrat Vishva Bharati (ANUVIBHA)
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[抄訳:日本プレクシャ・ディヤーナ協会 中村正人]

コラム[来世不動産]

台湾の友人から添付メールで面白い動画が送られてきた。日本で作られ、フジ
テレビ系列で放映された「来世不動産」という短編ドラマである。人間の生ま
れ変わりについてとても示唆に富んでいて、哲学的でありながら面白可笑しく、
ペーソスにも満ちていて、深く考えさせられ、また感動した。このドラマはお
笑い芸人で人気があるバカリズムが原作を作り、脚本を手がけまた出演すると
いう、15分程の短編ドラマだ。ドラマの主な出演者はバカリズムと俳優の高橋
克実の2人である。

話の筋は以下のようなものだ。

物語の主人公である高橋克実が病院のベッドで寝ている。真夏の暑い昼下がり
病室の開け放たれた窓の外で蝉がうるさく鳴いている。そこへ克実の奥さんが
病室に入ってきて蝉の鳴き声がうるさいと窓を閉める。すると克実は別次元の
大草原に仰向けに横たわっていて、ふと気がついて起き上がる。克実は死んで
死後の世界に入ったのである。何もない大草原にただ一軒、現実離れした不動
産屋がある。店に近づき恐る恐るドアを開けると、店の中から店長のバカリズ
ムの「いらっしゃい」の声がかかる。克実は「ここは不動産屋ですか」と尋ね
る。バカリズムは「1つの人生の契約を終えた方(死んだ人)に次に生まれる
物件を紹介する不動産屋です。つまり魂が次に宿る体を賃貸住宅のように紹介
しているのです」と答える。店には入居者募集の張り紙があり、人間の他、蛇
や魚、パンダ、猿などが入居条件と金額に代わるポイントと共に掲示されてい
る。

克実はそれらの張り紙を見ながら、入居希望としては日本人の男として生まれ
たいと言う。バカリズムは「人間ですか?人間は人気があって、人間に生まれ
変わるのは、前世の行いが良くないと難しいです。」と言う。克実は「人間で
ないこともあるのですか?」と尋ねると、バカリズムは「もちろん」と答える。

「このパソコンにお客様の名前と生年月日を打ち込むと、お客様の行いリスト
がすべての事柄と回数になってデータとして記録されている。良い行いも、悪
い行いも、普通の行いも全て記録されていて足し引きしてポイントが出るよう
になっている」と言って克実のデータを調べる。前世で31390回洗面し、358回
ポイ捨てし、675匹の蟻を踏みつけ、19回コンビニの入口でボロ傘を新しい傘
に取り替えたと表示され、忘れてしまっていた些細な悪事を思い起こして愕然
とする。これらはマイナスポイントになる。いじめられていた子供を9回助け
たのはプラスポイントになる。結果、克実のトータルポイントは82000ポイン
トだった。平均点より少ない。

克実は「82000ポイントだとどんな物件ありますか」と尋ねる。バカリズムは、
この予算だと人間も無くはないけれどもあまり良い条件のものがないので、む
しろ他の物件にした方が幸せではないかと言って犬に生まれることを勧める。
ここにある土佐犬なら闘犬で横綱になれるという。克実は「私は争いごとが嫌
いだから、動物ならのんびりしたものが良い、できれば長生きが良い」と答え
る。バカリズムは、「それならミル貝はどうですか?160年生きられるし、砂
の中でのんびりと160年長生きできますよ」。克実は、160年も砂の中でじっと
しているのは嫌だ、他にはないのか、パンダはダメかと聞くが、パンダは一応
絶滅危惧種指定物件であり克実のポイントでは足らず入居出来ないと言われる。

バカリズムは、北海道の乳牛はどうかと提案する。「のんびりしているし、生
活環境も良いし、定期的に乳を絞られるだけで人間関係の悩みもないし、仕事
に追われることもないですよ。なんなら内見しませんか?」許諾すると次の瞬
間、克実は不動産屋のバカリズムと共に北海道の牧場にいて牛を眺めている。
搾りたての牛乳を飲みながら、「乳牛になると牛乳を搾り取られるだけでこの
ように飲むことができない、一生人に飼われる生活は嫌だ、もっと自由な生き
物が良い」と勧められた物件の乳牛を断る。

そこで、バカリズムは「最近人気がある蝉はどうですか」と克実に尋ねる。
克実は「蝉の生活のどこが良いのだ」と不機嫌に聞き返す。「蝉は7年間地中
で暮らし、最後の1週間だけ地上に出てきて生涯を終えるといいますが、この
1週間が実は天国の暮らしでとてつもなく気持ち良く、人間の夜の営みで得ら
れる100倍もの快楽があり、蝉の鳴き声は鳴き声というより快楽から来る絶叫
なんです。それに蝉は悪いことをする機会がないのでポイントが貯まります。
蝉に入居してそこでポイントをしっかり貯めて次の来世にかけるというのはど
うですか」と勧められる。ついに克実は蝉への入居を決意し、契約書に捺印す
る。

そして、51歳で人間としての生涯を終えた克実はあるアブラゼミの長男に生ま
れ変わった。地中での7年間の暮らしは蝉なのでストレスもなく、暇とか退屈
とかいう概念がないので苦ではなかった。地中での7年の長い生活を終え今日、
初めて地上に出た。初めて浴びる光、初めて空を飛ぶ、初めて吹かれる風の心
地よさ、なんという自由さ、なんという爽快さ、なんという喜び快感、至福感
で思わず絶叫してしまう。ミーン、ミーン、ミーン・・・・・蝉は最高、蝉は
最高、・・・・・・」

留まった木からふと下を見ると、そこは克実がかって人間だったときに息を引
き取った病室で、自分と同じような人間が死にかかっていた。蝉の克実は、生
まれ変わるなら蝉が良いとその人に伝えたくて思いっきりミーン、ミーンと泣
き叫んだ。ところが、不意に奥さんが病室に入ってきて空いていた病室の窓を
バシャッと閉めた。 

終わり

このドラマはジャイナ教の生まれ変わりの哲学そのものである。不動産屋のパ
ソコンが私たちのカルマボデイであり、様々なデータが原因としてのカルマで
ある。自己責任の因果律と輪廻転生が結びついたとき高度な倫理哲学となる。
すべての道徳、戒律の根拠がここにある。人間が幸福になり、地球社会が平和
になるための基本原則だとおもう。

「来世不動産」は小学館の文庫「東と西2」で原作を読むことが出来ますので、
皆さん是非読んで見てください。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2013年1月24日木曜日

第41回 定期研究会のご案内


第41回定期研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます

日時:2013年2月4日(月)19:00~21:00
場所:営団地下鉄東西線「南行徳」駅そば(集会室1)

テーマ:ジャイナ教の歴史とヨガ

前回までで本年度のテーマ「ヨガと瞑想」の一般的な整理が終了しました。す
なわちヨガの歴史、思想・哲学がどのように展開し、その中で瞑想はどのよう
に捉えられ、変遷してきたかを概観しました。今でこそ、心に比重を置く瞑想
と身体を重視するヨガは分離傾向にありますが、本来両者は区別することので
きない関係であったことが改めて確認できました。

次回からは、そうした大きな史的文脈(ヨガの歴史)の中でジャイナ教はどの
ように位置づけられるか、また逆にジャイナ教ではヨガをどのように捉えてき
たかをみていきたいと思います。その結果、ジャイナ教の瞑想の輪郭が浮き彫
りになればと考えています。

※開催直前に必ず協会ブログページ(http://prekshajapan.blogspot.com/)
 をご確認ください。連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までに中村
 (savita.nakamura@gmail.com)までご連絡ください。ご連絡をいただかな
 いと、資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として1000円(非会員の方は1500円)(通信費・会場費・資料代
 等を含む)を頂戴いたします。