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2015年1月28日水曜日

新年会のご報告と今年の抱負

新年会にお集まりいただきました皆さま、お疲れさまでした。はじめての方も
参加され、有意義な時間となりました。期待していた「特別料理」はどこ?と
いう感もありましたが、ふたを開けてみなければわからないのがインド流。ハ
プニングを含め、最近は何でも心穏やかに受け流すことができるようになりま
した(笑)。参加者の皆さま、ありがとうございました。

さて、会の中でお話させていただいた今年の協会の抱負について、簡単に述べ
ておきたいと思います。昨年後期の会報誌ですでに記しましたように、今年、
当協会は今まで以上に積極的に社会に貢献していくことを目指しています。そ
の最初の試みとして現在、「被災者支援プログラム」を計画中です。東日本大
震災からもうすぐ4年になりますが、今なお多くの人々が苦しんでいます。事
故直後の混乱した状態から、次第に落ち着きを取り戻しつつあるかのような幻
想が蔓延していますが、現実には未だに問題が山積したまま人々は取り残され
ています。ライフラインや生活物資をはじめとする「物の復興」は進んでも、
「心の復興」はむしろ深刻さを増すばかりです。とくに、住む場所や故郷を奪
われた人々の精神的苦痛、放射能の影響を受けやすい子供たちの健康問題、親
たちの不安は、落ち着くどころか今後ますます心身の不調を伴って顕在化して
くると思われます。

そうした心と体の問題に対して当協会にはできることがあります。それは、同
じ福島県でありながら放射能の影響をほとんど受けていない場所(奥会津只
見)にある我々の施設(古民家とユイ道場)に子供たちや被災地の人々を受け
容れ、豊かな自然の中で瞑想やヨガ、食養生をしてもらうことです。これまで
年1、2回のペースで開催していた合宿の対象を拡げ、できるだけ多くの被災
者に数日間滞在してもらい、放射能の毒を排出させ、心身ともにリフレッシュ
して健全さを取り戻してもらうプログラムを目下準備中です。そして、それを
実行に移すための資金支援を模索しています。すでに一つ、或る大型支援プロ
ジェクトに応募しました。採用されるかどうかは未知数ですが、福島県や地域
の自治体、民間団体の資金支援も視野に入れ、今後より積極的に展開していき
たいと考えています(もし、そのような支援情報を入手されましたら、ぜひお
知らせください)。

どこかから資金援助を受けられることになったら、準備中のプログラムを直ち
に実行に移します。その時には皆さまにも最大限ご協力していただかなければ
なりません。どうぞ、できるだけ早めに指導員の資格を取得して、実質的な活
動に参加するための準備をお願いいたします。資格取得の方法については、昨
年秋の会報誌をご確認ください。

(文章:中村正人)

第59回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第59回定期研究会を下記のとおり開催いたします。ふるってご出席下さい

ますよう、宜しくお願い申し上げます。

次回:2015年2月2日(月)19:00~21:00
場所:集会室2(地下鉄東西線「南行徳」駅から徒歩1分)
講師:坂本知忠

テーマ: プレクシャ・メディテーションと沖ヨガ行法の融合を考える。

1.プレクシャ瞑想と沖ヨガ冥想の同じところと違うところを明確にします。

2.社会貢献の為に行う只見や伊豆で行う合宿のプログラムを一緒に考えます。
又、準指導士及び指導士を目指す方でポイントが足らない人に4ポイント加算
します。

※事前に連絡をいただかないと資料を受け取れないことがあります。
※参加費は会員1,000円/非会員1500円です。

【今後の開催予定】
・2015年3月2日(月)19時~21時 場所:南行徳
・2015年4月6日(月)19時~21時 場所:同上

※定期研究会は、原則として、第1月曜日(祝祭日を除く)に開催しています。

コラム[瞑想・二つの流れ]

アーリヤ人がアフガニスタンやパキスタン方面からインドに進出してきたのは
紀元前13世紀から11世紀頃のことである。アーリア人は遊牧を生業とする人達
であった。彼らが奉ずるのはヴェーダという宗教であり、司祭をバラモンと呼
んだ。バラモンは施主から祭祀を頼まれると荒野に結界を作り祭壇を作った。
結界に炉を作り火を燃やして火の中に生贄をくべ、施主の願いを叶えるべく呪
文を唱え、神々を召喚した。ヴェーダというのは神々を召喚し願いを聞き届け
てもらうための様々な呪文の事である。

祭祀が終わると祭壇は壊されて更地に戻された。遊牧民であったアーリア人は
当初固定的な寺院を作らなかったのである。バラモンはインドに流入してくる
以前には神々から天啓を受けるためにアムリタを使っていた。アムリタとは最
近の研究によればベニテングダケだということがわかってきた。インドではベ
ニテングダケが入手出来ないので、天啓を受けるための別な手段の必要性が出
てきた。そこで彼らが採用した方法が苦行である。苦行によって天啓を得た。
またアーリア人は自業自得の宗教哲学を持っていた。

一方インド在住の人々の間には長い伝統としてのシュラマナ系の宗教があった。
シュラマナ系の起源は極めて古くインダス文明にまで遡ると言われる。シュラ
マナ系宗教では修行としてメディテーションが行われていた。そして教義とし
て輪廻転生を信じていた。

紀元前8世紀頃、ヴェーダの流れとシュラマナ系の流れの宗教哲学が合流し、
自業自得と輪廻転生の哲学が融合して解脱思想が起こった。何回も何回も生ま
れては死ぬのは嫌だと考えて大出家ブームが起こった。世俗的な生活ではどう
しても沢山の業を作ってしまうので、業を作らないようにと世俗的な生活を捨
て、行為をなさないようにと出家した。出家とは世捨て人、社会からドロップ
アウトした人の意味が強く、ぼろ布を纏っていた。ヴェーダの流れの中からも、
シュラマナ系からも沢山の出家者が出た。

紀元前5世紀から6世紀頃、シュラマナ系出家者の中からマハビーラと仏陀が現
れた。マハビーラや仏陀の時代、沢山の宗教哲学が起こり宗教論争が盛んであ
った。今日、世界中に見られる様々な宗教哲学がこの頃既に全て存在していた
と言っても過言でない。六師外道が有名であるが、そのほかに沢山の宗教指導
者が存在した。ジャイナ教の経典「スーヤガタ」では363の異なる宗教哲学が
あったとされる。マハビーラや仏陀以外では運命決定論・無因無縁論者のマッ
カリ・ゴーサーラ、快楽主義・唯物論者のアジタ・ケーサカンバリン、不可知
論者のサンジャヤが主な思想家である。輪廻や魂を否定する彼らも又、出家で
あり質素な生活を営み苦行をしていたのである。

インドでは古代から輪廻転生が既定の事実として考えられていた。又、因果応
報のカルマの支配も疑う余地のないものであり、仏教では六道輪廻からの解放
を切に願った。ジャイナ教では地獄の7層、植物界、動物界、人間界、天界の
26界に分かれるが、天界の最上階モークシャに入ることを理想とした。

修行によってカルマを根絶し輪廻の輪から離れてモークシャ(解脱)になると
いう点では仏教もジャイナ教も根本教義は同じである。見解の違うところはカ
ルマがどこに蓄積されるかということと、輪廻の主体は何かということだけで
ある。ジャイナ教は輪廻の主体として真我である魂を想定した。そしてカルマ
が魂に付着すると考えた。だから魂の汚れであるカルマを取り除けば魂は純粋
になる。純粋になった魂がアラハンでアラハンが死んで肉体がなくなるとモー
クシャに入り、解脱してシッダとなり再生しないと説いた。

一方仏陀は実用主義者だったので証明できないものは有るとも無いとも断定し
なかった。架空のはなしの論争を避け、そんなことに時間を費やさず心の安定
に励めと弟子達を指導した。そして八正道の実践を奨励した。仏陀は体は私で
はない、心は私ではないと言った。私は魂だとも云わなかった。

後世の仏教者たちは仏陀ともあろう人が曖昧な事を言うはずがないとして本来
非我説であった仏陀の説を無我説(魂はない)にしてしまった。シャーリープ
ッタやモンガラナーは初め懐疑論不可知論者のサンジャヤの弟子であったが、
後にブッダが因果律を説くというので仏陀の弟子になった。仏陀が証明出来な
い仮定の話にのらりくらりと断定を避ける姿勢をとったのは、シャーリープッ
タやモンガラナーをとおしてサンジャヤの影響を受けていたのかもしれない。

部派仏教の時代に仏教は「魂は無い」とする無我説を採用したので、輪廻の主
体が不明確になり、カルマ論や輪廻転生からの解脱が曖昧になってしまった。
現代のテーラワーダ仏教系は無我説の立場に立っている。

仏教にはニルヴァーナ寂静としての解脱があり、解脱の方法(実践方法・修
行)があるが、無我説に立つと何のための修行かの説明が十分でなくなる。魂
を否定するとそういう矛盾がおきてしまう。

ジャイナ教と初期仏教は教義や修行体系が驚く程よく似ていて、兄と弟、本家
と分家、本店と支店のような類似性がある。小異を捨て大同につけば兄弟宗教
と言っても良い。仏教側から見てジャイナ教を外道と蔑めば、ジャイナ教から
は仏教が外道となる。

ジャイナ教は魂を認める宗教であり、カルマと輪廻転生を信ずる宗教である。
プレクシャ・メディテーションの目的はアカルマ(無業)になることであり、
魂を純粋にすることにある。そして魂があるか無いかに関係なく、瞑想修行の
過程で健康と幸福を得る恩恵が間違いなくある。

古来ジャイナ教の出家者は自然法則を深く洞察し、今日でいう宇宙物理学や原
子物理学のレベルの考察をしていた。それらの見解が古代のジャイナ教聖典に
記述されている。現代科学に照らしてみて荒唐無稽なものも多いが、現代にも
通ずる優れた見識も見受けられる。科学が発達していなかった古代において宗
教哲学を科学的に説明しようとしていたジャイナ教僧侶の洞察は驚嘆すべきも
のがある。

私たちは本に書かれたものをまるごと信じたり、人の学説を鵜呑みにすること
なく、あくまで自分で考え経験・体験し学ばなければならない。宗教哲学を論
じる際にはアネカンタ、つまり非独善主義、無対立にならなければならない。
他が信ずる宗教を否定してはならないし、侮辱してもいけない。他を尊重する
ことが平和の道であり、争いを無くす道である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)