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2011年12月25日日曜日

シリーズ[「基本の4ステップ」瞑想の魅力]


<瞑想とは何か>という問いに対して端的に答えることは難しい。それは、瞑
想には段階があり、それぞれの段階に応じて理解も効果も異なるからである。
山登りに例えるなら、しばらく登った最初の休憩地点で緑葉樹の木洩れ日の中
から見える景色と、常緑樹林帯を越えた高みから見渡す景色、針葉樹の森林限
界を越えたところから臨む景色はずいぶんと異なっている。けれども景色に違
いはあれど、どの場所を歩いていても山登りは気持ちいいものである。麓近く
の生い茂る緑の世界と木々の匂い、はじめて視界が開けた時の解放感、急な坂
を登り切った時の達成感etc.は一瞬一瞬が新鮮で、疲れを忘れさせてくれる。
頂上をめざしていたことさえ忘れてしまう輝きに満ちている。どれをとっても
山登りの魅力を説明するのに十分であろう。

瞑想も同じである。雲の上にある頂上まで登りつめて本当の瞑想の意味を実感
するまでには、幾多の道のりを辿らなければならない。坐禅でもヨガでも、
「無の境地」や「サマーディ」に達するには相当の修行が必要である。まして
や「悟り」や「解脱」など世俗で得られるものではない。気の遠くなるほど先
にそういうものがあるんだろうなぁ、と知識によって想像するだけである。し
かし、プレクシャ瞑想の「基本の4ステップ」にじっくり取り組んでいると、
次第に(頂上はなかなか見えなくても)頂上へ向かう安全で確かな道のりを歩
んでいる、という信念が生まれてくる。瞑想への実感である。そのように実感
できるのは、おそらく、一つひとつのステップが丹念に組み立てられているか
らであろう。瞑想(状態)へのプロセスが要素ごとに分解され、そこへ確実に
導かれるように再構成されているのである。

その要素を大雑把につかめば、次のように整理することができる。

1. 「リラックスせずに瞑想に臨むことは、風の強い日に窓を閉めずに掃き掃
除をするに等しい」とは、プレクシャ・メディテーション体系を構築したアチ
ャーリヤ・マハープラギャ師の言である。とくに「知覚瞑想」の場合、身体に
生じるあらゆる現象を注意深く観察する必要から、余分な筋肉的な現象は微細
な感覚を捕捉する妨げとなる。周囲の雑音を消してはじめて聞こえてくる音が
ある。そこに注意を向けなければならない。4ステップ瞑想の最初に「瞑想の
前提条件をつくるため」にカヨーウッサグを行うのはそのためである。ここは
まだ瞑想への入り口=「登山口」であるが、力を抜くことで心が落ち着き、ス
トレスから解放される。あるいは不眠症・冷え性の改善、疲労回復、不安・イ
ライラの解消といった「景色」をみることができる。

2. アンタルヤートラ(内なる旅)は生命エネルギー(プラーナ)をコントロ
ールし、瞑想の基盤をつくる瞑想である。カヨーウッサグによって体性感覚を
失った状態でエネルギーを「源泉」から「知の中心点」(頭頂)に汲み上げ、
本格的な瞑想に入るための準備を行う。これを行うと、ともすればリラックス
しすぎた脳(中枢神経)の働きが活性化され、意識がより明澄になる。ここか
らみえる「景色」は、神経系(交感神経と副交感神経)のバランス・強化、自
制心の獲得、精神力の向上、感情の安定化などである。

3. 呼吸は命の基本である。「人は時計によって時間の存在を認識できるよう
に、呼吸によって命の存在を認識できる。」(A.マハープラギャ)また、呼吸
は自律神経に支配されている生命維持活動の中で唯一、随意的にコントロール
できる現象である。つまり肉体と意識、体と心をつなぐ懸け橋になる。「ゆっ
くりとしたリズムで深い呼吸」を繰り返しているだけで次第に心は落ち着いて
くる。そういう呼吸をシュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の知覚瞑想)で練習し
習慣化すると、集中力の開発、エネルギーの充填・増幅、緊張の緩和、精神の
安定、血圧の安定などの効果が期待できる。最新の研究によると、ゆっくり深
い呼吸をすると、セロトニン神経が活性化されて脳(自律神経)と心に影響を
与える(ストレスの緩和)だけでなく、不安や恐怖を感じる扁桃体への刺激が
減りネガティヴな感情が軽減される効果もあるという。また、肺胞が刺激され
ることでプロスタグランジンI2とう物質が血中に分泌され、血管が拡張して血
圧が下がったり、血栓ができにくくなって脳梗塞・心筋梗塞・動脈硬化も予防
されるという。そういう命のはたらきに直結する「景色」がここではみえてく
る。

4. そして、最後にジョーティ・ケンドラ・プレクシャ(輝く白い光の知覚)
瞑想を行う意味は何か。霊的色彩光の一つであるこの「色」(シュクラ・レー
シャ)を知覚すると、一般に、怒りやイライラの沈静化、平常心の獲得、平穏
・平和な気持ちの維持などの効果がもたらされるが、4ステップの最後で常に
これを行うことにはそれ以上の格別な意味があるように思われる。実際にステ
ップ(階段)を順に昇ってくると、1~3までの体験と4の段階でもたらされる
体験との間にはある種の質的な違いが感じられるからである。その質感自体を
言葉で言い表すのは難しい(本質的に言語表現になじまない)が、私はそれは
「集中」(行為)と「瞑想」(状態)の違いではないかと考えている。よくい
われる「瞑想とは一つの事物に集中することである」という定義は「瞑想をす
る」という行為を示しているだけで、瞑想そのものではない。それは瞑想に至
るための条件でしかない。それは必要不可欠な絶対条件ではあるが「瞑想」で
はない。集中によって思考が止まり、内的な環境が整った時、そして意識が集
中から解放された時、はじめて瞑想の状態が訪れるのである(坂本知忠[瞑想
をする、瞑想が起こる]本誌6号でいう「起こる」と同義)。4ステップの第4
段階は、この「状態」を誘発する意味と効果があるのではないか。ここで意識
的な作為から離れた瞬間に、頂上を覆い隠していた霞が晴れ、何かが感得され
る。そこに4ステップ瞑想の真義があるのではないか。そんなふうに思われて
ならない。

上に述べた「景色」はいずれも瞑想の究極的な目的(頂上)に至るまでの「副
産物」にすぎないが、どれも素敵な魅力と瞬間に溢れている。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[自己防御の砦]


インド西部、グジャラート州・パリタナと云う町にシャトルンジャヤ山がある。
シャトルンジャヤとは勝利の扉と云う意味で、山の頂上稜線に城塞都市のよう
なジャイナ教山岳寺院群がある。イスラム教の侵攻に対してジャイナ教徒が防
御するために山岳寺院を造ったと云われている。非暴力・他と争わないジャイ
ナ教徒が砦を作って武器で敵と戦うことはないが、亀が甲羅の中に首をすくめ
るように、ヤドカリが貝殻の中に閉じこもるように無抵抗非暴力の防御線にす
ることを目的に造られたのかもしれない。私はここの地球離れした異星に建て
られているような不思議な外観の寺院建築群に魅せられて、1989年、2000年と
2回訪れている。

防御とは何か。

今も昔も人類社会に争いが絶えない。商業活動や経済活動は見方を変えればラ
イバルとの競争、戦争である。ライバルとの争いに敗れれば企業は立ちいかな
くなり個人は生活の為の基盤を失いかねない。経済活動では今、勝者であって
も何時、敗者になるかわからないので人の心は不安で一杯になる。

近年の日本経済は繁栄の頂上に登ってしまったのではないか、後はいかに上手
に下山するかという理論と方法を考えなければならない時期にきているのでは
ないかと思う。だが今でも、もっともっと便利に快適にと商品開発や経済活動
にライバルと鎬を削ることが止められない。世界中で不況感が高まりライバル
との競争も激しさを増している。激しい社会情勢の変化に合わせて、一生懸命
努力して新製品を開発しても、不況による少ない需要の奪い合いで利益も出な
い。あくせくした気持ちで、長時間奴隷のように働きライバルと争っているの
が今の人間社会ではないのか。人間社会の中に天国も地獄も修羅界もある。

怠けることが出来ない修羅界のような争いの社会に嫌気がさして、解脱の境地
に救いを求め南伝仏教やジャイナ教に出家しても、それは社会からの逃避では
ないのか?出家集団は怠けもの集団ではないのか?との疑問が起こる。全ての
人が出家して修羅界から逃避できるわけではない。出家が少数であればその人
たちを大多数の人で支えることはできる。私は先進諸国の人と発展途上国の大
多数の人類は修羅界に陥っているのではないかとおもっている。仏陀は争いを
止めよと両手を胸の横で前方に掲げられた。ジナは非暴力・不殺生を第1の戒
律とした。それでも人類は争うことを止めず今なお嫉妬、悲しみ、怒り、不安、
絶望で苦しんでいる。

どうしたら俗生活を続けながら、修羅界から遠ざかれるか、敵の攻撃から身を
守ることができるか、それにはむさぼり心を止めることであると思う。自然に
与えられる以外のものは取らないということであり、他の人を陥れたり、騙し
たり恨みをかうようなことをしないことでもある。また足るるを知るというこ
とを実践し、むさぼり心にたいして塹壕を築くことである。他の人の価値観が
自己中心的でむさぼり心に占められているようならそのような人とは争わない
ことである。少ない物を分かち合い、互いを尊重して譲り合えば調和に満ちた
平和な人間界、地上天国ができると思う。

ブータン王国の価値観はグローバル化したアメリカ式自由貿易主義、自由競争
経済主義ではない所に価値観を置いている。それは足るるを知るという幸せ感
である。ブータンのように物質的豊かさでなく、足るるを知る所に本当の人類
社会の平和があるような気がしてならない。努力することと怠けることの調和
の中に人間らしい幸福な生活があるような気がしてならない。沖正弘先生は瞑
想を中心とした出家主義の怠け心は許されないとし、冥想を中心とした全力投
球の積極的な生き方である沖道ヨガを提唱した。私は日常生活を通じてプレク
シャ・メディテーションと沖道ヨガの実践が修羅界からの離脱、争いから身を
守る自己防御の砦であると思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2011年12月22日木曜日

教室のご案内

★1月より、葛西教室が新たに設置されます。

■「瞑想とヨガ」教室(浦安)
毎週木曜日19:0020:30
ペンテフラット スタジオ
(東西線浦安駅から徒歩2分)

■プレクシャ・メディテーション基礎コース(浦安)★12月新設
毎週水曜日10:0012:00
癒しの空間「Bran樹」内
(東西線浦安駅または京葉線新浦安駅から
おさんぽバス10分「中央武道館」下車すぐ)

■「プレクシャ・ヨガ&メディテーション」実践クラス(行徳)
毎月第1月曜日15:0018:00
行徳(東西線行徳駅から徒歩5分)

■「ジャイナの瞑想とヨガ」一般クラス(葛西) ★1月新設
毎月第3日曜日9:0010:30または10:0012:00
(会場予約の都合により多少変動します)
葛西区民館 健康サポートセンター(東西線葛西駅から徒歩10分)
または
長島桑川コミュニティー会館(葛西駅徒歩15分)
---
1/15 9.00-10.30
葛西区民館 健康サポートセンター2F「健康スタジオ」
(葛西駅徒歩10分 江戸川区中葛西3-10-1)
2/19 9.00-10.30 同上
3/18 10.00-12.00
長島桑川コミュニティー会館「リクリエーションホール」
(葛西駅徒歩15分 江戸川区東葛西5-31-18)
---
「葛西区民館」へのアクセスマップにつきましては下記URLにてご確認下さい。
http://www.machi-info.jp/machikado/edogawa_city/index.jsp?menu=00&lat=35.662708333333335&lon=139.873173828125&scale=6000&imagetype=0&mode=0
「長島桑川コミュニティー会館」へのアクセスマップにつきましては、下記
URLにてご確認下さい。
http://www.machi-info.jp/machikado/edogawa_city/index.jsp?lon=139.8809926470588&lat=35.66273048371647&scale=5000&mode=0


参加ご希望の方は、お気軽に協会までお問合せください。
japan@preksha.com

2011年12月1日木曜日

【新設】プレクシャ・メディテーション基礎実践コース

プレクシャ・メディテーションの基礎実践コースが新設されました。

3カ月かけてプレクシャ・メディテーションの基礎をじっくり学び、
基本ステップの習得を目指します。(途中からの参加も可能です)
毎週水曜日10:0012:00


場所:千葉県浦安市 「癒しの空間『Bran樹』」内(047-383-9314
279-0004 浦安市猫実1‐17‐16(浦安市中央武道館前)
京葉線新浦安駅または東西線浦安駅から便利な「おさんぽバス」
が出ています(バス停16番目「中央武道館」下車すぐ)。
詳細(地図&バス時刻)については、下記URLをご参照下さい。
http://www.baycity-bus.co.jp/rosen/rosenz-osanpo1.pdf

会費:1 1,500円(協会会員1,000円)/2h
*新設キャンペーン実施中
12月受講料半額にて体験できます(初回体験無料)

初めて参加される方は予めご連絡のうえ、日程を確認してください。

(原則として毎週開催されますが、都合で開催できない日もあります)
お問い合わせ先:savita.nakamura@gmail.com



2011年11月30日水曜日

第30回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内

第30回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年12月5日(月)19:00~21:00
場所:市川市南行徳
東京メトロ東西線南行徳駅下車、徒歩1分
アクセスマップにつきましては、下記URLにてご確認ください。
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html

テーマ: 「レーシャ」とは何か、レーシャ・ディヤーナとはどのような
瞑想法か

前回は、実際にチャイタニヤ・ケンドラ・プレクシャを行いながら各「ケンド
ラ」の生理学的および哲学的意味と効果を確認しました。通常の誘導よりも説
明的でしたが、内容は頭には入りやすかったのではないかと思います。

次回はこうした「ケンドラ」の理解を前提に、レーシャ・ディヤーナ(霊的色
彩光の知覚)を扱います。レーシャの概念はプレクシャ瞑想の中で最も難解な
部分です。この瞑想法はプレクシャ瞑想体系の中で「最も重要」と位置づけら
れながら、「他の5つの瞑想手法を完全に理解し習熟していなければ正しく行
うことができないので、レーシャ・ディヤーナを実践する資格はない」ともさ
れています。その意味を検討します。

※準備の都合上、出席される方は必ず前日までに出席のご連絡を中村までお願
いいたします(savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと、
資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として500円(非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代
等を含む)を頂戴いたします。

【今後の研究会開催予定(来年の予定)】
・2月6日(月)19時~21時 場所:市川市南行徳
・3月5日(月)19時~21時 場所:同上
・4月2日(月)19時~21時 場所:同上
※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開
催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン
『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)
にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら
http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ
http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。

2011年11月25日金曜日

シリーズ[知識と叡智]


人生の転換期に、深く心に刻まれる詩や小説に出遭うことは幸運である。少年
期から青年期へ向かう頃に感じた恐ろしいほどの孤独。その孤独感が自分だけ
のものではないことを知ったのは、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』であった。
そして人生を半ば過ぎた今、再びヘッセは『シッダールタ』をもって私に強く
語りかけてきた。

「真我(アートマン)はどこに見いだされるのか?『彼』はどこに住んでいる
のか、『彼』の永遠の心臓はどこで鼓動しているのか、各人が自分の中にもっ
ている自我の中、自我の最も奥深い中、不滅のものの中以外のどこにあるのだ
ろうか? ところでこの『自我』は、この最奥のものは、この究極のものはど
こに、どこにあるのか、それは肉でもなく骨でもない、それは思考でもなく意
識でもない、と最も賢い人たちは教えた。では、どこに、どこにそれはあるの
だ? そこへ、『自我』へ、自分自身へ、真我へ到達するために、別の道が、
求めがいのある別の道があるのだろうか? ああ、この道を示した者は誰もい
なかった。その道を知っている者は誰もいなかった。[中略]たしかに神聖な
経典、[中略](奥義書)の多くの詩行が、この最も内奥のもの、究極のもの
について語っていた。すばらしい詩句であった。『汝の心[高橋健二訳では
「魂」]は全世界なり』とそこには書かれていた。そして人間は、睡眠中、深
い眠りの中で、彼の最内奥へ入り、真我の中に住むのだと書かれていた。
[中略]無数の世代の賢いバラモンたちによってここに集められ、保存されて
いる厖大な量の知識の成果は決して軽視されてはならなかった。-けれど、こ
のこの上なく深い知識を、ただ単に知り得ただけでなく、生きることに成功し
たバラモンはどこにいただろう、そういう僧侶、賢者、あるいは贖罪者はどこ
にいただろう? 真我の中に住むことを、睡眠状態から覚醒状態へ、日常生活
へ、いたるところへ、日常の言動へ、超人的な力で移行させた達人はどこにい
ただろう?」(岡田朝雄訳『シッダールタ―あるインドの詩―』より)

主人公シッダールタ(仏陀とは別人)は、こうして究極の問の解を探しに高貴
なバラモンの地位を捨て沙門(苦行者)の生活に入る。そして沙門たちの下で
自我を解脱するための多くの方法を学ぶ。苦痛による自己離脱の道、苦痛・飢
え・渇き・疲労を受け入れ克服することによる滅我の道、瞑想によりあらゆる
観念から感覚を空しくして滅私する道、思考によってすべての表象を意識から
滅却することによる解脱の道を学んだ。が、それでも答えを見つけられず、問
う。「瞑想とは何だろう、肉体の離脱とは何だろう、断食とは何だろう、呼吸
の停止とは何だろう? それは自分自身であることの苦しみからのしばしの逃
避にすぎない、生きることの苦痛と無意味さに対するしばしの麻痺だ。
[中略]けれど涅槃(ニルヴァーナ)に達することがないだろう。[中略]私
たちは慰めを見いだす、私たちは己を欺く技術を覚える。けれど最も大切なも
の、道の中の道を私たちは見いだすことはできないのだ。」(岡田訳)

シッダールタは覚者(ゴータマ仏陀)にも会った。そして仏陀こそ「彼の生涯
で彼の前に現れた最後の師であり、最後の賢者」であり、「至高の聖者」であ
り、彼の教えに「驚嘆」し、その教えを「反論の余地のない」「完全に明白」
な、「真実である」と認めた。しかしシッダールタは、その覚者からも離れた。
帰依しなかった。「何人も教えによっては解脱を得られない!」と言い放って。

シッダールタが気づいたこと、それは「この世のどんなものについてよりも、
自分自身について知ることが最も少なかった」ということであった。

その後シッダールタは世俗の世界に入り込んでいく。自らを知るため、自らを
経験するために。彼は商売を覚え、金銭欲を知り、財産欲・所有欲を満たす心
を知り、官能を知り、快楽に溺れ、酒を飲み、賭博をやり、権勢を味わい、い
つしか人生の目的を見失い、最も軽蔑していた世界に没入してしまう。とこと
んまで落ちてゆく。自分自身に幻滅し、絶望し、嫌悪し、ついには河に身を沈
めるまでに堕落する。しかしそれでも終わらなかった。もう一度歩み直そうと
したその時に、また煩悩に苦しめられる。自分の子を盲目的に愛し、失う悲し
みを体験し、世俗に輪廻するあまたの苦悩を味わい尽くす。

しかし、こうした堕落と苦悩を自分自身で体験することは必要なことであった。
若いころから戒められ知ってはいたが、その知識を自分のものとしたことはつ
いぞなかった。すべての非聖なるものを自分自身で体験し、そこにある苦悩に
自ら陥ったからこそ、彼は次の段階、仏陀の弟子たちが誰もたどり着くことの
できなかった高みへと昇ってゆく。そして最後には、シッダールタは悟り、時
が実在しないことを認識し、すべてを受け入れ愛する叡智を得ることになるの
だが、その過程と内容はここではあえて触れない(高橋訳も岡田訳も素晴らし
い宝石のような言葉が散りばめられているので味わっていただきたい)。シッ
ダールタは言う。「知識は伝えることができるけれど、『叡智は人に伝えるこ
とができない』。それは見いだすことはできるし、それを生きることはできる。
それに支えられることはできる。それによって奇跡を行うことはできる。けれ
どそれを言葉にして人に教えることはできないのだ。」

書物であれ、偉大な師であれ、それに出遭い、その教えを「知る」ということ
と、自ら実践し、体験し、探求し、気づき、「叡智」を得るということは全く
別物である。今この日本で、私の生活において、私は何のために瞑想を学んで
いるのか。瞑想を学ぶとはどういうことか。その答えは私自身の生活実感の中
でつかみ取るしかない。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)



コラム[所有と無所有]


私は人間の幸せというのは、その人が所有している物の、質と量であるとずっ
と思っていた。お金は無いよりあった方が良いし、お金が沢山あるということ
は少ないより自由度が高いのだと思っていた。お金がもっと沢山あればさらに
もっといろいろな可能性が出てくると考えるが、今まで自分がしたいと思った
ことのほとんどをする事が出来て、お金に困った経験はあまりない。若いころ
漠然と欲しいと思っていたものはいつの間にか、ほとんど実現されて手元にあ
る。今、自分の身の回りを改めて見回してみると、あまりにも沢山の物を所有
していることが解る。

親から相続した屋敷は広大だ。庭の手入れだけでも多大の労力と経費が掛かる。
自宅以外に奥会津の只見町には自分の夢を追いかけた結果、5軒の建物を所有
している。この維持費もばかにならない。只見に所有している平坦な土地も数
千坪にのぼる。それらは無駄だといえば確かに無駄である。煩わしいことでも
ある。瞑想センターを中心とした理想郷作りが自分の夢や願いであるから、な
んでこんなに馬鹿な事をしているのかと思いつつ、多大な労力を費やして現在
も実際にしていることである。

若いころから読書が好きだったので私の蔵書は甚大な量になっている。その蔵
書を只見と自宅に分けて置いている。本はなかなか捨てることが出来ないので
今も増えていく一方である。研究の過程で集めた水晶も把握出来ていないほど
の量になる。刀剣や油絵などの骨とう品も数多く持っている。それらの物は全
て過去の私がイメージし引き寄せた物なのだ。カルマが引き寄せたと云っても
よい。なんと欲深い人間なのだろうと改めて自分を客観視している。

私たちは普段、好きなもの素敵な物に取り囲まれて暮らしたらどんなに幸せだ
ろうと考える。素敵な家族、素敵な家と庭、素敵な別荘、車、美術・骨とう品、
宝石等々を追い求めて日々努力している。それが一般的な幸せの価値観だ。そ
れを俗生活という。一方、所有を手放し出来るだけシンプルに気軽に生きてい
こうと云うのが出家生活である。典型的な出家の姿をいまに留めているのがジ
ャイナ教の出家僧である。日本の僧侶のほとんどは所有の生き方なので、出家
でなく俗生活者だ。現代の出家とはホームレスの人達かもしれない。彼らは生
活保護を受けているのではなく自己責任で自由に生きているからだ。

私は年齢と共に所有物が増えて、今ではそれらの管理に煩わしささえ感じてい
る。自己保存本能と自己拡大本能が人間を物の所有に向かわせる。物をいろい
ろ所有してもそれによって、心の平和や幸福、自由が達成できないことがわか
る。だから偉大なる仏陀やジナは所有から無所有への道を歩み始めたのである。
方丈記の鴨長明のように越後の良寛さんのように、ジャイナ教の出家僧のよう
に無一物になれたらどんなに心が休まり平和だろうかと思うことがある。所有
物を必要最小限に整理していく事がやましたひでこさんの提唱する断捨離整理
術である。いらないものを手放し、心を軽く、住環境を清らかにする方法だ。
究極的な断捨離がジャイナ教の出家僧だ。ジャイナ教の出家僧は本当に何も持
っていない。私には出家生活は無理だったので沖先生が云われた半俗半聖の生
き方を目指して今日までやってきた。バランスのとれた生き方をすると云うの
が今回の私の人生のテーマである。俗生活の中で聖・俗のバランスを取る生き
方を心掛けてきたつもりだ。

集まったものは何時か宇宙空間に散逸していく。宇宙空間に働いている力は陰
と陽、プラスとマイナス、収縮と拡散である。所有することは陽であり、プラ
スであり収縮である。無所有、捨てること、手放すことはその反対のことだ。
所有、無所有に良い悪いは無い。悪いのは執着である。持っていても持ってい
ない心であればそれは無所有である。全て物は縁があって預かっているのだと
思う心が捨てている心(捨の心)である。所有物を自分の為だけに使えばそれ
は所有になり、他の人の為に役立つように使えば無所有になる。全てのものは
縁あって帰去来している。手元の物が離れる時期が来て、離れていこうとする
時それに執着するから苦しみがやってくるのだ。無執着と無所有が同義語なの
はそういう意味から理解出来る。私は今、自分が預かっているものをどの様に
縁ある人に手渡していこうかと考える年になった。物の集合離散は考えても仕
方がない事かも知れない。なぜなら縁起していることだから。しかし、出来る
だけ大勢の人の役に立つように手放していきたいと思っている。また、ふさわ
しい人に引き継いでもらいたいと思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

2011年10月25日火曜日

コラム[生 カルマ 死 カルマ 生]


ありとあらゆる物が自分のカルマと縁によって、やって来て次の瞬間去って
行く。
まるで流れる川の中に立っているようだ。
その流れはまさに宇宙のエネルギーそのものだ。
体の外側も流れている。
体の内側も流れている。
それは高速の流れだ。
動いている身体をもって、僕は動いている世界に飛び込んで行く。
生きている世界は僕が立ち止まっても、押し寄せてくる。
それが生と云うものだ。

今日一日、いろいろな物や出来事が、僕の所へ引き寄せられ押し寄せて来て、
超スピードで去って行った。

死とは自分の中の流れが止まって、別次元の止まっている外界を、意識だけが
流れて行く状態だ。
その時、世界は押し寄せて来ない。
意識が動くので世界が動いているように想えるのだ。

純化できていない意識はやがてある特定の振動を持ったエネルギー(音、匂い、
光、色彩)に強く引きつけられる。
鮭が故郷の川の水を知っているように、自分を思い出し、帰るべき世界、生ま
れるべき所に強く惹きつけられる。
そして人間は生まれてくるのだ。

純化出来ていない意識はどうしても成し遂げたい願を持っている。
それが良いカルマ仏性だ。
仏性発現を阻害するものが悪いカルマだ。
陰陽二つのエネルギーが人間の潜在意識から放射される。
一つの人生で遭遇するあらゆる出来事の源泉はそこにある。

カルマに対する洞察、カルマのコントロール、アカルマへの道が全ての人間の
遠い旅路なのだ。

プレクシャ・ディヤーナはその旅の道しるべであり、地図でもある。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


プレクシャ・メディテーション 10月集中合宿レベル2終了のご報告


日本プレクシャ・ディヤーナ協会のプレクシャ・ディヤーナ集中合宿レベル2
が10月9日~16日までの7泊8日の日程で開催されました。

今回も少人数となりましたが、秋へと変わっていく只見の自然の中じっくりと
自分と向き合い、奥深い瞑想の講義と実践をしていただきました。野外での研
修も充実していて、色づいていく木々を眺めながらの登山や森の散策、その中
で栗やきのこ狩りをしたり、マクロビオティック料理で季節の味覚や野菜たっ
ぷりのお料理を味わったりと様々な体験をされたようです。

参加者の方の感想をいくつかピックアップしてご紹介したいと思います。

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<Mさん>
いつも自分のクラスでカヨーウッサグやアンタルヤートラなどを指導してはい
るものの、自分の瞑想時間は短く惜しいものしか出来ていないのが現状である。
久しぶりに先生の指導のもとに自分自身が深く入り込める瞑想ができたような
気がする。

呼吸法を行ってからの瞑想が集中しやすかった。4ステップ瞑想を行った後は
これまでになく非常に頭も身体もすっきりとし、爽快感と充実感が得られた。
マントラは集中できるのと、音の響きによるバイブレーションと気・プラナ・
エネルギーの流れと身体の中のバイブレーションをより明確に感じられるので
好きである。

「倍音声明」は母音の音とシンギングボールのバイブレーションが、ぴったり
合ったときはとても気持ちが良かった。これはマントラを唱え慣れた人達と行
うと良い波動が生まれると思うので、またやってみたいと思う。


<Sさん>
アラハンのマントラがとても気持ちが良い。チャクラに響いて瞑想に入りやす
い。マンガル・バウナも心地が良いし、マントラはマスターしていきたいと思
う。声を出すことは、響きを通して自分の中を感じやすいので教室でも少しづ
つ取りいれていけたらと思う。

シャリーラ・プレクシャの応用では、バストリカの後の感覚がすごかった。手
足や胴体の表面はロボットのように動かない感じなのに、中はすごい状態でピ
リピリした状態となり、電磁気の身体ということが実感できた。


<Cさん>
一週間毎日毎日瞑想をし、それひとつに集中できた日々でした。レベル1と2の
合宿に続けて参加できたことは私にとっては奇跡的なことでしたが、こんなに
長い合宿で集中して勉強できたことを幸せに思うし、ご縁を感じるし、これか
らの自分の人生に必要な勉強に導かれたのだろうなぁと思っています。

今回学んだ一番のことは、最終日の2時間の瞑想です。少しの緊張と不安の中
周りの方のエネルギーを感じ、その一体感が励みになったような気がします。
後半腰の痛みに意識が向いたりということもありましたが、2時間の集中が終
わった後の瞑想は1時間の集中力が違う気がします。

これからの自分の人生において関わる人に友好的で自分の家族に感謝して過ご
すことも忘れずに、常に課題を持って自己研鑽していきたいと思います。合宿
は終わりですが、何かが始まったような気分です。


<Tさん>
只見に来て、川の瞑想に向かいながら景色を眺めていると7月に来た時の只見
の様子と一変し様変わりした風景に息を呑んでしまいました。レベル1では無
常についての課題を与えられていましたが、来ていきなり実感として感じさせ
られました。

瞑想はレベル1と違って2では難しく、身体に受けるエネルギーが深く、肉体の
中にある電磁気的な感覚がよく分かり、自分がどんどん浄化していくのがとて
も心地よく毎日を過ごしていました。少し行き詰ってしまったのは、瞑想中の
誘導で指示される色がでてこないことがあり、葛藤がありました。色を観る練
習は帰ってからも訓練しなくてはと思います。

坂本先生の誘導はとても分かりやすく、私はこういう瞑想を味わいたかったの
だと改めて思いました。瞑想中の体験では、これは自分ではない、自分ではな
いとどんどん進んでいくうちに、あれ?私って何だろう、何もない?とふと気
が付くと何にも囚われることや執着することはないのだという、裸の自分を観
た様な気がします。


<Kさん>
今回は秋ということで、空気も静まり瞑想にふさわしい気が満ちていた。登山
やいやしの森散策も自然とふれあうことができ、毎日の温泉もいい。我々のた
めに心をこめて作ってくれたマクロビオティック料理も美味しく、瞑想の助け
になってくれたと思う。

朝一番にマントラを皆で唱え、心の清めに清掃行法をして、川での瞑想。時々
アサナをしたり、瞑想に集中していく。レベル1よりさらに深く難しい2の瞑想。
やるたびに心身が整っていくようだった。素晴らしい仲間と共に一週間過ごせ
たことは、この上ない喜びだった。

意識力、集中力、忍耐力の強さをもっと高めていけたら何時間でも、あるいは
残りの一生を瞑想して暮らしていけるかもしれない。そして一人でも多くの人
に伝えることができるかもしれない。エネルギーを高めていきたい。
只見の場の力にはいつも感謝である。ありがとうございました。

--*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*---*--

以上の感想は毎日の体験記から抜粋させていただきました。合宿にご参加いた
だきました皆様、ありがとうございました。

今年は11月の入門合宿が最後となりますが、また来年只見の雪解けの5月以降
の予定が決まり次第このメールマガジンでもご案内させていただきます。プレ
クシャ瞑想を長く学ばれている皆様も、合宿未体験の皆様も楽しみにしていて
ください。


2011年9月27日火曜日

第29回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内


29回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時: 2011103日(月)19:0021:00
場所: 「市川市南行徳
東京メトロ東西線「南行徳」駅下車、徒歩1分。南口を出て線路沿いに浦安方向へ。
突き当たりの建物。立体(タワー)駐車場有り(車庫入口は大通り側))
アクセスマップ  http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html

テーマ: 再論:「ケンドラ」とは何か

 前回は「身体」の概念とそこに流れる「エネルギー」について検討しましたが、次回は「微細な身体(テジャス・シャリーラ)」から生じるエネルギーが「粗大な身体(肉体)」へと流れ出る経路、すなわちケンドラ(精神の中心点)の意義を再考します。「ケンドラ」を知覚すると何故感情のコントロールが可能となり、高潔な人格が開発されるのか、そこにはどのような科学的な根拠がありうるのか、といった点を検討します。

今回は特に必読文献はありません。各自『勝利者の瞑想法』の関連箇所を読んできていただければ幸いです。研究会では、アチャーリヤ・マハープラギャ師の記述をご紹介する予定です。

※当日参加費として500円(非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代等を含む)を頂戴いたします。

※準備の都合上、出席される方は、前日までに出席のご連絡をsavita.nakamura@gmail.comまでお願いいたします。

【今後の開催予定】
103日(月)19時~21 場所:同上
125日(月)19時~21 場所:同上
※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。

2011年9月20日火曜日

コラム[瞑想をする、瞑想が起こる]


只見川と叶津川の合流点の瞑想に参加したS君が私に質問した。
「皆さん川の側で、じっと座っているけど、あれっていったい何してるんです
か?」
S君は瞑想したことがないし、瞑想が何かまったくわからないらしい。そこで
私はじっと座って何をしているかを説明した。

瞑想で一番大事なことは体の動きを止めることです。身体の動きは完全に止め
ることは出来ません。なぜなら地球が宇宙空間を動いているからであり、生き
ている身体も瞬間、瞬間に変化しているからです。私達の小腸の栄養吸収細胞
は1500億個ありますが24時間で全て生まれ変わります。1秒間に170万個生まれ
かわっています。胃の粘膜細胞は2~3日で入れ替わり、肌の細胞は一ヶ月で入
れ替わります。

どうしてじっとしていなければならないかというと、自分の皮膚の内側を観察
しようとする場合、体を動かしていると内部感覚をあれこれ観察するのが難し
いのです。体の動きを止めると、呼吸がリズミカルに落ち着きます。さらに目
を閉じて外部からの情報を遮断すると心の動きが静まり、さらに意識的にゆっ
くりした深く長い呼吸をすると、思考(雑念や妄想)が静まって感じる心が強く
なります。思考力が静まった分、知覚力(観じようとする心)が出てきます。

その観じようとする心で身体内部のさまざまな感覚を観じて行くのが瞑想の第
一歩です。体を動かさないようにするとき、背筋を真っすぐにすることが肝心
です。背筋が真っすぐでないと頭がボーとして眠くなります。背筋を真っすぐ
にして生命エネルギーの流れを良くすることが良い瞑想に入るために必要なこ
となのです。背筋を真っすぐに保つことが緊張です、体の動きを止めることが
緊張です。随意筋はすべてリラックスさせます。

以上が内部感覚を観察する準備です。準備ができたら、外界からの音や光や風
やコスミックエネルギーが内部感覚にどのように影響を及ぼしているのかを観
察します。川の流れの音や鳥の囀りが内部感覚とどう結びついているかを観察
します。観じようとする心で意識的に身体内部のさまざまな動きを知覚します。
つまり、体全体を一つものと観じて、その内部で起こっているさまざまな変化
を観じていきます。内部感覚として、どの部分が明るく感じるか、どの部分が
暗く感じるか、明るさ暗さの部分が時間と共に変化して行くのを観じていきま
す。同じように暖かさ冷たさ、重さ軽さ、濃密さ希薄さ、等の感覚が変化し体
のなかで動いていくのを観じてみます。細かな振動やバイブレーションがどこ
で起こりどこに広がり消えていくか等も観じるようにします。それが瞑想で
「する」ことです。瞑想で私達がしなくてはならないことは体の中身が動いて
いるということを感覚的に観じることです。出来るだけ細かく心を鋭敏にして
観じていきます。

そこまでが「する」ということ、プラティヤハーラ(制感法)、ダラーナ(集中
法)です。ディヤーナ(瞑想) サマージー(三昧) は整ったところに「起こる」
ことです。瞑想は整えて行くとそこに現れ起こってきます。体の動きを止め、
呼吸を整え、内部感覚と観じようとする意識的な心をしっかり結びつけるとデ
ィヤーナが起こります。

体が地球内部に高速エレベーターでストーンと落ちていく感覚、ロケットに乗
って宇宙空間に飛び出していく感覚、三次元的な方向感覚がまったく消失した
感覚、水平方向に身体感覚が無限に広がってゆく感覚、身体内部の動きが静止
して全てが穏やかな光に満たされクリヤーに均一になった感覚、平和で静かな
喜びに満たされている感覚等が起こります。本当の自分を少しだけ垣間見たよ
うな感じです。意識的な観じようとする心を内部感覚に結び付け、内部感覚に
浸すようにしていると、感情や潜在意識がだんだん純粋になっていきます。そ
のとき、自分だと思っていたことが全部自分でなくなり、本当の自分に出会う
でしょう。本当の自分に出会った時、不安や恐怖が消え、悩みや病が消え、真
の健康を獲得し、平和と至福に満たされるでしょう。自己救済の道が瞑想の道
です。なぜ多くの人は瞑想しないのでしょうか、人間としてしなくてもよい事
ばかりしていて、しなくてはならないことをどうしてしないのでしょう? 明
確な目的地を持って一歩、一歩、道を歩く者だけが目的地に到達できます。
あなたは何処へ行きたいのですか? 何処に生まれたいのですか?


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

プレクシャ・メディテーション合宿 9月入門合宿終了のご報告


日本プレクシャ・ディヤーナ協会のプレクシャ・ディヤーナ入門合宿が9月9日
~11日までの2泊3日の日程で開催されました。

今回も少人数制となりましたが、集中して瞑想を学ぶのは初めての方からイン
ドにて研修を受けた方まで幅広い経験者の方が参加され、初歩からしっかり学
ぶ合宿となりました。

7月の大洪水の被害後初めての合宿開催でしたが、川の合流点での瞑想や身体
を整えるアーサナ、賛歌を学び、じっくりと自分自身と対面する瞑想の実践な
どを通じて、充実した時間をお過ごしいただけたようです。

参加者の方の感想をいくつかの点をピックアップしてご紹介したいと思います。

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<Wさん>
今まで様々な瞑想を教えていただきましたが、どの方法も雑念が浮かんで瞑想
になりませんでした。今回は3日間でしたが、集中的により深く教えて戴き、
希望が見えた気がします。いずれは集中講座にも参加したいと思います。

ジャイナ教のマントラは難しく何でこんなことを唱えるのかと思っていたが、
アラハン・マントラを歌うように何回も唱えていると、徐々に瞑想をしている
気分になってきた。マントラもお経と思って覚えれば良いのかもしれない。

入門合宿ではありますが、逆にそれだけ身体の調整が必要と感じました。もう
少しアーサナの時間も取り入れ、期間も延ばしてほしい気がします。今回瞑想
を行うには身体が大切と良く分かりましたので、これが私の課題です。


<Kさん>
初めて瞑想セミナーに参加させていただきました。やはり奥が深い瞑想の世界
は数回学んで理解できるものではないですね。本やCDを参考にしながら自分な
りの勉強をしたいと思います。川での瞑想はとても気持ちよかったです。

眠くならないようにするには「背筋を伸ばすこと」といわれても何度も睡魔に
襲われ意識を留めておくことの難しさ、集中することの難しさを改めて感じま
した。最終日の瞑想では特に集中して出来たので、今まで感じられなかった自
分の内側の変化を観ることが数回できました。もう少し深めればさらに色々な
ものが感じられると思います。

アットホームな合宿で濃い中身を体験できてよかったです。


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スタッフ一同、みなさんにご参加いただけたことを深く感謝しております。瞑
想の扉を開いて、内なる自分を見つける旅をこれからも少しずつ深めていただ
ければ幸いと思っております。


2011年8月29日月曜日

第28回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内



28回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内


28回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。

ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。


日時: 201195日(月)19:0021:00 場所: 「市川市南行徳
東京メトロ東西線「南行徳」駅下車、徒歩1分。南口を出て線路沿いに浦安方向へ。 突き当たりの建物。立体(タワー)駐車場有り(車庫入口は大通り側)) アクセスマップ http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html


テーマ: 体内を流れる「エネルギー」の秘密

 これまでは、主として物理的な身体(肉体)の知覚によってどのような身体的効果が生まれるか(健康への影響)について医学的知見をまじえながら検討してきましたが、ここからは体内を流れるエネルギーの知覚を通じてどのような精神的効果がもたらされるかという問題に焦点が移ります。プレクシャ瞑想のより高度な段階である「微細な身体の知覚」「霊的中心点の知覚」「霊的色彩光の知覚」の理解には、この「エネルギー」とは何かという問題を避けて通ることができません。

 そこで次回は、これら高次の知覚瞑想に進む準備として、「エネルギー」の概念について考えておきたいと思います。「エネルギー」には生物学的な意味での電気エネルギー(生体エネルギーbio-energy)もあれば、哲学的な意味合いを含む生命エネルギー(vital energy; prana)もあります。これらをどのように理解し、瞑想の対象として観じればよいのかといった点を検討します。

今回は特に必読文献はありません。各自「体内エネルギー」あるいは「プラーナ」等の概念について整理してきていただければ幸いです。

※当日参加費として500円(非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代等を含む)を頂戴いたします。

※準備の都合上、出席される方は、前日までに出席のご連絡をsavita.nakamura@gmail.comまでお願いいたします。



【今後の開催予定】

103日(月)19時~21 場所:同上

125日(月)19時~21 場所:同上 ※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。
※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。

2011年8月20日土曜日

シリーズ[鬼の住処]


(子供たちが『桃太郎』の絵本を棚から持ってきた:
♪「お話、お話、パチパチパチパチ、うれしい話、たのしい話、シッシッシッ
シッ静~か~に聴きましょう。何かな、何かな…」♪ 「はい、これ読んで!」)

  「むかし、むかし、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。
  おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。すると
  大きな桃が流れてきました。喜んだおばあさんはその桃を背中に担いで帰
  って行きました。
   桃を切ろうとすると、桃から大きな赤ん坊が出てきました。二人は驚い
  たけれども、とても幸せでした。その子は桃から生まれたので、桃太郎と
  名づけられました。桃太郎はあっと言う間に大きくなり、立派な優しい男
  の子になりました。
   ある日のことです。桃太郎は二人に言いました。『鬼ケ島に悪い鬼が住
  んでいると聞きました。私が行って退治しましょう。』…」

「ねぇパパ、鬼ってどこにいるの? お外にいるの? 悪いことするの?」

(そのとき流れたテレビのニュース:)
  「千葉県柏市で、2歳の長男に十分な食事を与えずに死亡させたとして、
  両親が保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕されました。…司法解剖の結果、
  長男は紙切れやプラスチックのようなものを口にしていたことが分かり、
  警察は、男の子が空腹に耐えかねて身の周りのものを口に入れていたと
  みて調べています。男の子の体重は同年代の男児の平均13キロに対し、
  5.8キロしかありませんでした。…」

(こんな鬼のお話はいかがでしょうか)
  「遠~い、遠~い昔のことでした。ある小さな島に、ふたりの男の子が生
  まれました。ふたりは何をするにも、いつも一緒でした。一緒に山に行っ
  ては虫や木の実をとり、川に行っては魚をとり、夜寝るときも一つ枕に仲
  良く頭をのせて、おしゃべりをしながら眠りました。
   ある日のことでした。ふたりが山にいくと、とってもかわいい赤ちゃん
  ウサギが泣いていました。ふたりが『どうしたの?』とたずねると、『お
  母さんがいなくなっちゃったの』とウサギが答えました。『じゃあ、ボク
  たちが一緒に探してあげるよ。』そういってふたりは一所懸命ウサギのお
  母さんを探しました。でも、夜になっても、お母さんウサギはみつかりま
  せん。このままでは赤ちゃんウサギはお腹を空かせて死んでしまいます。
  ふたりはウサギを家に連れて帰り、一緒に暮らすことにしました。
   ふたりはウサギがとってもかわいかったので、大事に、大事に育てまし
  た。ウサギもふたりがとっても親切だったので、ふたりのことが大好きで
  した。ふたりは、毎日、競い合うように、ウサギの好きなものをみつけて
  は持って帰りました。ある時は、山からウサギの大好物の葉っぱをたくさ
  ん持って帰りました。またある時は、川にあった枯れ木でトンネルをつく
  ってあげました。
   ところが、だんだん、ふたりは自分のことだけを好きになってもらいた
  くて、よくケンカをするようになりました。このウサギは自分のものだと
  言っては相手を叩いたり、蹴飛ばしたり、引っ張ったり、しまいにはひと
  りが持ち帰った物を隠したり、壊したりするようになりました。
   乱暴になっただけではありません。もう島にはウサギにあげる物があま
  りないので、小舟で近くの島々に渡っては、村人の物を盗んでくるように
  なりました。
   そんなある日、ウサギが山に帰ると言いだしました。ここにいたらふた
  りがケンカばかりするので、山に帰りたくなったのです。それを聞いたふ
  たりは腹を立てて、ウサギを殺して食べてしまいました。
   ウサギがいなくなると、代わりの物が欲しくなり、いろいろな動物をつ
  かまえては飼ってみましたが、いつも最後は取り合いになり、ケンカして、
  殺して、食べてしまうのでした。
   そんなことを繰り返すうちに、月日が流れ、ふたりの両親もこの世を去
  り、大人になったふたりだけが島で暮らすようになりました。それでも仲
  の悪いままのふたりは、あいかわらずケンカばかりしていました。
   両親がいなくなってからは盗みもますますひどくなり、最近では物だけ
  でなく人間までさらってくるようになりました。さらわれた娘たちがどう
  なったかはわかりません。村人たちは体の大きな醜い形相のふたりのこと
  を『人さらい鬼』とか『人食い鬼』と呼んで恐れるようになりました。そ
  していつしかこの島は『鬼ヶ島』と呼ばれ、誰も近づかなくなりました。」

「鬼」はどこにいるのか? 
それはきっと人の中に棲みついているのではないでしょうか? 

人は誰でも欲望を持っています。独占欲、支配欲、情欲、食欲、…。そして、
放っておくと、それを満たすためなら何でもするし、満たされないと怒りが生
まれ、暴力が生じます。我欲を満たすためなら、平気で我が子を殺してしまう
人さえいます。

誰の心の中にもいる鬼。その鬼の芽を(1)押し込めるのか(抑制)、(2)
コントロールするのか(制御)、(3)摘み取るのか(消去)。

プレクシャ・メディテーション(ジャイナ教の瞑想)は第(3)番目の道(=浄化)を
目指しているようですが、はたして本当にそれは可能なのでしょうか?
自分自身で確かめてみるしかありません。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)


コラム[只見の水害と復興状況]


多くの皆様から7月29日から30日にかけて発生した新潟・福島大水害の被害に
ついてお見舞いの言葉をいただきました。水害発生後、8月2、3日及び8月10日
から16日まで2回只見に行きましたので、被害の程度と復興状況について報告
します。

テレビ等で報道された内容は被害の一番ひどいところであり、視聴者は町全体
がめちゃくちゃになってしまったとの印象を受けがちですが、被害の範囲は町
全体の一部であり10%に満たないと思います。被害の大きい箇所は伊南川、只
見川、叶津川に架かる橋の流失です。伊南川の小川橋が流出し、楢戸橋が半壊、
只見川本流の五礼橋が半壊、叶津川の中の平橋が半壊です。道路の崩壊は黒谷
川と叶津川だけで他はほとんど無傷です。田畑の冠水、土砂の推積被害は只見
町中心部と叶津、八木沢集落が主な所です。家屋の流出は全町で10棟未満です。
8月2、3日と被災直後の現地を視察しましたが、想像していたより被害が軽微
なので安堵しました。

被害の一番大きかった地区は番所のある叶津地区に隣接する八木沢集落と中ノ
平集落です。番所管理人さん宅は中ノ平集落にあり家屋の流出を免れたものの、
床上浸水の被害で、床下は土砂で埋まってしまいました。番所と中ノ平集落の
間には叶津川に架かる橋がありますが、洪水で半分崩壊していました。電柱も
倒れ、停電していて、電話も不通、断水のため家族全員が番所に避難していま
した。8月5日には断水していた番所の水道も復旧したと連絡があり、お盆休み
の番所でのイベント開催が実施できる目処がたちました。

8月10日に只見を再び訪れると、すでに中ノ平集落までの道路や橋が仮復旧し
車で行き来できるようになっていました。道路の復旧と共に電気や水道などの
ライフラインが復旧し、只見川沿いの国道も塩沢集落まで通行できるようにな
っていました。ライフラインの復活まで一ヶ月はかかると思っていましたが、
一週間ほどで復旧したのには驚きました。番所下の叶津川には数台の大型パワ
ーシャベルが川に降りて流れを元の姿に治す工事を急ピッチですすめています。
河原石を寄せ集めて、仮堤防が造られていきます。思ったより復旧のスピード
が速い印象です。流出した橋や崩壊した橋の完全復旧までは2、3年かかりそう
ですが他の被害は来春には復旧しそうです。美しい風景も雪の季節を越えて新
緑のころには元の姿に戻っていることでしょう。我々の住む現実世界は変化、
変化が続いてゆきますが、時には急激な変化をおこします。それが、この度の
東日本大震災であり、只見川の氾濫だと思います。幸い只見は原発事故による
被曝被害はほとんどありませんでした。水害の被害は想定の範囲であり復興は
早いと思います。

私が一番心配していたのは、叶津川と只見川の合流点にある瞑想の場所がどう
なっているかでした。合流点の左岸段丘は洪水でだいぶ様子が変わっていまし
たが、瞑想ポイントはほとんど元の姿をとどめていました。新しく対岸にも瞑
想にふさわしいポイントを見つけたので、従来どおり合流点での瞑想を合宿の
プログラムで実施できそうです。

一日も早い只見の復興と被災された皆様の健康をお祈りします。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2011年8月17日水曜日

【新設】プレクシャ・ヨガ&メディテーションクラスのご案内


残暑お見舞い申し上げます。
毎月第一月曜日の研究会開催前の時間帯に、プレクシャ・メディテーションとアサナを学びあうクラスが9月より新設されます。

アサナで身体をほぐした後にプレクシャ・メディテーションの実践をを学んでいきます。このクラスでのアサナの指導は、指導歴のある参加者の皆さんにもご協力いただき学びあいをしていきたいと思っています。瞑想指導は、協会指導員の森山江美が担当いたします。

9月開催日は 9月5日(月)となります。

日時:毎月第一月曜日 15:00~16:45
場所:行徳

※初めて参加される方は予めご連絡をいただき、日程や開催場所をご確認下さい。

お問合せ先:japan@preksha.com


ぜひ研究会も兼ねてご参加くださいますよう、お待ちしております。


2011年7月20日水曜日

シリーズ[闘病する友へ]


もうずいぶん長い間会っていませんが、その後どうしていますか? 先日、風
の便りに君の病いのことを知りました。すぐにでも駆けつけたい衝動に駆られ
ましたが、そういうわけにもいきません。だから、この手紙を書くことにしま
した。この便りも風にのって君のもとへ届くことを祈りながら。

私は今、プレクシャ・メディテーションという瞑想を勉強しています。けっし
ていかがわしい瞑想ではありません。インドで古くから実践されている瞑想法
に、最新の医学的な知見なども取り入れて再構成された、とても奥が深い瞑想
法です。そして、その勉強の過程で最近たまたま読んだ本に、癌と心の密接な
関係について書かれたものが幾つかありました。君は「精神免疫学」とか「精
神神経(内分泌)免疫学」あるいは「精神腫瘍免疫学」という新しい医学分野
をご存知ですか? 癌の発生や経過、ひいては治癒(治療だけでなく自然退縮
も)に、気持ちのもちようが非常に大きく影響するらしいのです(神庭重信
『こころと体の対話-精神免疫学の世界』文春新書)。

人は誰でも癌になる可能性があります。私たちの体では毎日数千個もの癌細胞
が生まれており、その一つひとつを体内の免疫システムが退治してくれている
から簡単には癌にならないのだそうです。つまり、その免疫システムが何らか
の理由で弱まり、それが長期にわたる時、私たちは誰でも癌を発症する危険性
があるということです。何らかの理由とは、高齢、免疫抑制剤の使用、放射線
被曝、エイズなど罹患による免疫不全のほか、人の性格まで関係してきます
(最上悠『「いい人」はなぜガンになりやすいのか』青春新書)。

癌になりやすい性格とはどのようなものか。複数の研究を簡略化してまとめる
と、次のようなタイプの人がこれに該当するようです。

・怒りを表に出さない(抑制)。怒りの感情を持っていることにすら気づいて
 いない(抑圧)。
・他のネガティヴ感情(不安、恐怖、悲しみ)も持っている自覚がなく、あっ
 ても表に出さない。
・仕事や家庭での人付き合いにおいて、我慢強く控え目で、協力的で、人に譲
 ることも厭わない。権威に対しても従順である。
・他人の期待にこたえようと気を遣いすぎ、逆に自分の要求は十分に満たそう
 としないで自己犠牲的である。
・自分にとって高い価値がある対象(大切な人や仕事など)が自分の幸福にと
 ってきわめて重要な意味を持つと考えている。それを失うと絶望感や無力感
 を強く感じ、深い精神的な傷となるほどに。

君のように、誰もが認める「いい人」が、そして社会的にも成功した人生を歩
んできた人が癌になる可能性が高いなんて、なんという皮肉な統計でしょう。
でもそこには共通の原因が隠されていました。要するに、ストレスです。癌の
直接的な因子が何であれ、ストレスが強く慢性的であるほど癌を発症しやすく
治療の予後も悪い一方、どんなに強いストレスでも処理するのが上手な自律性
の高い人(人格的自律型=自分の大切な人や対象に自律性を認め、また自分の
自律性も大切にしている人。対象に依存しないタイプ)は癌になりにくく予後
もいい(自然退縮の例も多い)ということです。私たちの誰もが避けることの
できないストレス。これをどう自分の中で処理できるかがとても重要なのだそ
うです(吾郷晋浩監修・川村則行編著『がんは「気持ち」で治るのか!?-精神
神経免疫学の挑戦 』三一書房)。

では、そうした性格に関連したストレス、生活態度と密接に結びついたストレ
ス、あるいは生命の危機という最大の対象喪失の恐怖がもたらすストレスを上
手く処理する方法は一体あるのでしょうか。

欧米では、通常の医学的治療と併行して患者の精神的負担を和らげるための様
々な心理療法が試みられているそうです。家族や医師が一丸となって患者の心
を支えたり、患者同士でグループワークを行ったり、リラクセーションのため
の方法を指導したり、病気・栄養・ストレスについての専門知識を提供したり。
そして、これらを通じて期待される重要な変化とは、自分を客観視できるよう
になることと、先にふれた他者・他物をすべてとしない心(自律性)の獲得だ
ということです。

友よ、どうか諦めないでください。命の息吹を取り戻すために出来ることはた
くさんあります(荒川香里『がん最先端治療の実力-三大療法の限界と免疫細
胞療法』幻冬舎)。自分で出来ることだってあります。たとえば、私のやって
いる瞑想もその一つです。まだ証明はできませんが、上のような最近の研究を
読みながら、癌に「良い」とされる要素がことごとく含まれていてドキドキし
ました。完全なリラクセーションの手法はもとより、対象に依存することから
生じる心の執着を無くす方法、幸福の源を外に求めるのではなく自分自身の内
に見いだす方法、独善的にならずに自分を客観視する方法がこの瞑想法にはあ
ります。願わくば、君のもとへ飛んで行って、その一つひとつを一緒に実行し
てみたい気持ちでいっぱいです。

自分が癌だとわかった時、その事実を受け入れ医師とともに自分でも積極的に
治療に取り組む人は、事実を直視せず心理的に受け入れようとしない人、冷静
に受けとめたけれど医者任せにしてしまう人、絶望感に陥ってしまう人に比べ
て、癌を克服し再発もしない割合が非常に高いそうです。友よ、どうか諦めず
に、この病いを一つの機会ととらえて、本当の意味での心身の健康回復へ歩み
出してください(沖正弘『なぜヨガで病気が治るのか』竹井出版)。そして、
いつかまた笑顔で再会する日を楽しみにしています。

(※「闘病する友」は架空の人物であり、この書簡は実在の人物に宛てたもの
 ではありません。)


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[自殺を無くす道]


現代日本の自殺者数は年間3万人を超え社会問題になっています。3月11日の東
北関東大震災や福島第一原発事故により、夢や希望を失った人の自殺増加が懸
念されています。

なぜ人は自殺するのか、その理由はいろいろ考えられるが、私は人間の執着心
が根本原因になっていると考えています。生に執着するのであれば自殺しない
と思いがちですが、執着心の強い人は皮膚の外側の世界も内側の世界も確固た
る世界であってほしいと強く願っています。良く考えればその願いは不自然な
願いなのですが、自分を含めて世界が安定していることを求める心が強いので、
それが突然襲う変化によって覆されたとき、強い不安と恐怖に襲われます。
戦いの矛先が他に対して向けられているうちはまだ良いが、敗北が自己に向け
られた時、自己を傷つける行動となります。私はそれが自殺の根本原因だと見
ています。自分の肉体に対する無執着とは完全に正反対の心の状態です。

ジャイナ教の教えの核心は「アヒンサー」つまり非暴力・不殺生です。自殺は
自己に対する暴力、殺生です。アヒンサーの実践には恐怖を無くすことがポイ
ントになります。恐怖を無くすには、無常について心底から理解する必要があ
ります。無常が理解出来れば、「アパリグラハ」無所有・無執着も楽に実践出
来るでしょう。

無常が解れば、人間は何も所有することは出来ない、また執着することも出来
ないと理解出来るでしょう。人間は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに
死んでいきます。人間は生まれると自己のカルマと宇宙の求心的エネルギーに
よって自分の周りに様々な物や人を引き寄せます。しかし時が過ぎればそれら
全てのものは別の所で別のものになってしまいます。そして、命が永遠の過去
から未来へと続いていくエネルギーであると理解できれば無常が解ります。無
常が解ればアパリグラハは簡単です。無常が解れば恐怖がなくなります。恐怖
がなくなれば非暴力が出来ます。

「アネカンタ」非独善主義も非暴力に欠かせない教えです。自己に対する暴力
をやめることが自殺を無くす方法です。自分に自信が持てるようになることが
大事です。プレクシャ・メディテーションの実践は自分に自信が持てるように
なる道でもあります。

プレクシャ・メディテーション集中合宿で、只見川と叶津川の合流点で毎朝行
う「無常についてのアヌプレクシャ」は無常を理解する為の実践です。合宿参
加者は皆この瞑想法がとても気に入ったようです。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


プレクシャ・メディテーション合宿 集中講座レベル1修了のご報告


日本プレクシャ・ディヤーナ協会として初の公式合宿が開催されました。

福島県奥会津の只見町の古民家にて研修合宿を行いました。途中瞑想中に雷が
鳴り響いたりということもありましたが、天候に恵まれ、一番新緑のすがすが
しい初夏を満喫できるいい時期だったと思います。

この集中講座レベル1というのは、瞑想の講義と実践、マントラ行法、賛歌合
唱など様々な角度からプレクシャ・メディテーションを基礎からじっくり学ぶ
という合宿でした。

毎日違う温泉に行ったり、地元の名産をいただいたり、日中の時間には自然か
ら学ぶという沢遊びなども体験いただき、みなさん童心に帰って楽しんでおら
れました。田舎ならではののんびりとした気持ちのいい空気に、スタッフとし
て参加させていただいた私も心も身体も浄化されました。

参加者の方の感想をいくつかの点をピックアップしてご紹介したいと思います。

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<Cさん>
あっという間の一週間だった。
3日目ぐらいから座って目を閉じることがすごく楽しくなってきた。瞑想する
ことが好きになったのだ。この感覚は自分にとっても嬉しい!瞑想するのが楽
しくなったことが今回の一番の収獲だと思う。
ディープ・カヨーウッサグの効果の素晴らしさも体験できた。頭はスッキリと
し、身体のむくみもとれ爽快な感覚を味わえた。ムドラーの効果も体感でき、
ギャーナ・ムドラを結んだだけで手が暖かくなり整ってくる。
スートラを唱えることにも以前は何の反応もなくよく分からなかったが、今回
は、そのバイブレーションや温かさを感じられた。
恵まれた環境の中での一週間、学びや実りの多い幸せな一週間でした。

<Aさん>
朝の5時起床からスタートし、道場生活が始まる体験できました。行事集の内
容の意味が深いこと、マントラ、賛歌もスラスラと唱えられるようになればい
いなとこれからの目標ができました。
最初はなかなか集中できなく足も痛くなるしということがありましたが、日に
日に楽しくなり毎回毎回感覚が変わっていき、6、7日目には第3・4ステップに
なると光が溢れ出し、幸福感が身体全体にみなぎり、胸がいっぱいになりまし
た。合流点での無常の瞑想では、この只見の素晴らしい景色をみながら川の流
れに語りかけ、音を聞きながら癒され心と身体が浄化されるのが本当に良くわ
かりました。無常についてこれからも考えていきます。私の課題です。

<Sさん>
この一週間本当に色々なことを学ばせていただきました。
毎日の川での瞑想で無常ということがわかってきました。特に川を見ていてご
縁というものに合流していきます。そして大きな海に出ます。たくさんの合流
(縁)がありますが、ボーっとしていると合流に気がつかないこともあります。
今回只見に来れたご縁にしっかりと気がつき、合流したことにより大きな流れ
になっていきたいなと思います。
今回の合宿で、自分はどんな人間か、自分って何だ、私はこの世の中で何がで
きるのかということを考え、それを教えてくれるのがヨガと瞑想であり、生活
の中で行うことがとても大事なんだと言うことを再認識しました。

<Mさん>
ユイ道場ではじめての公式なジャイナ教プレクシャ瞑想の本格的な合宿が始ま
り、誠に感動しかりです。
改めて「瞑想とは何か」に気づいたこと、仏陀は魂を認めないが生命活動の転
生は認めた。性欲(渇愛)がカルマの本質でそれが輪廻する。人間の営み全て
がこれに基づくということ。そして、マハヴィーラはそのカルマの浄化で魂が
輝くと考えたことが解った。

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スタッフ一同、みなさんにご参加いただけたことを深く感謝するとともに、同
志として瞑想を一緒にこれからも学んでいきたいと思っております。みなさん
の学びや体験が実生活でも生かされるようこれからも応援しています。
ご参加いただき、本当にありがとうございました!


2011年7月17日日曜日

プレクシャ・メディテーション集中合宿 レベルⅠ 無事修了しました!

2011年7月10日から行われていました、7泊8日にわたって開催されました、集中合宿が無事に終了しました。

参加されたみなさま、お疲れ様でした!
みなさんにとって、どんな合宿になりましたでしょうか?

毎日朝から「アラハトヴァンダナ」を聴き、朝のすがすがしさの中ガマンヨグでお散歩をしつつ川の合流点まで行き「無常を見つめるアヌ・プレクシャ」を行い、軽い朝食の後講義やヨガの実践をし、おいしい精進料理のランチをいただき、午後はゆっくりくつろいだ後に午後の講義と実習、そして温泉行法、夕ご飯に、夜のマントラや瞑想。。。

一日がのんびりとそして、魂の喜びとともに有意義な時間が過ぎていったような感覚でした。
私は前半部分のみ参加となりましたが、参加された皆さんの熱意と純粋なお気持ちがひしひしと伝わってきました。

ぜひ機会を見つけて、これからもプレクシャ・メディテーションを続けて実践されていってください。
きっとこの学びは人生に役立ちます。

またお会いできるときを楽しみにしています。
ご参加ありがとうございました!!

事務局:森山

2011年7月5日火曜日

第27回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内


第27回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたしますので、
ご案内申し上げます。ふるってご出席下さいますよう宜しくお願い申し上げます。


日時: 2011年8月1日(月)18:00~20:00(その後、懇親会)*
*今回は特別に1時間繰り上げ、20時から暑気払いを兼ねて懇親会を開きます。


場所: 「市川市南行徳
東京メトロ東西線「南行徳」駅下車、徒歩1分。南口を出て線路沿いに浦安方向へ。
突き当たりの建物。立体(タワー)駐車場有り(車庫入口は大通り側))
アクセスマップ http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html

テーマ: 瞑想とは何か、プレクシャ瞑想とは何か―『勝利者の瞑想法』を読む―(質疑応答を中心とした座談会形式)

 前回までで一応、物理的な身体(肉体)の知覚とその効果について、精神免疫学的・生理学的知見の現状確認が終わりました。次は、全体の流れとしては、体内エネルギーの観点(生体・神経系の電気的エネルギーだけでなく生命エネルギーとしてのプラーナの検討も含む)からの「身体」(ジャイナ哲学における他の二つの身体を含む)の知覚瞑想に入る予定でしたが、協会発足に伴い新たに入会された方々にもプレクシャ瞑想の全体像を理解していただけるよう、ここで一度、坂本先生の新著『勝利者の瞑想法』を読み解く機会を設けたいと思います。
 同書が出版されてから4カ月が経ち、読みすすまれている皆さまにはそろそろ疑問や問題意識が芽生えてきていることと推察いたします。また、7月、9月、10月には只見で瞑想合宿も予定されており、折に触れてこの本がテキスト代わりに使用される機会が増えてまいります。ぜひこの機会に、存分にご質問いただき、内容に対する理解を深めていただければ幸いです。

<必読文献>
坂本知忠『勝利者の瞑想法―ジャイナ教・修行の実際―』(日貿出版社)

<参考文献>
坂本知忠『ジャイナ教の瞑想法』(ノンブル社)

※本をお持ちでない方は協会までご連絡ください(http://jp.preksha.com)。格安にて購入できます。

※当日参加費として500円(日本プレクシャ・ディヤーナ協会非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代等を含む)を頂戴いたします(今回は飲み物とお菓子もご用意いたします)。

※準備の都合上、出席される方はお早めに、savita.nakamura@gmail.comまでご連絡ください。

【今後の開催予定】
9月5日(月)19時~21時 場所:同上
10月3日(月)19時~21時 場所:同上
12月5日(月)19時~21時 場所:同上
※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)からお手続きください。

2011年6月28日火曜日

第26回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内



第26回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたしますので、
ご案内申し上げます。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時: 2011年7月4日(月)19:00~21:00
場所: 「市川市南行徳
東京メトロ東西線「南行徳」駅下車、徒歩1分。南口を出て線路沿いに浦安方向へ。
突き当たりの建物。立体(タワー)駐車場有り(車庫入口は大通り側))
アクセスマップ
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html


テーマ:シャリーラ・プレクシャにおける身体観と科学的説明その3:
     ―瞑想の種類と効果の発生プロセス

前回の研究会では、心の在り方が身体(とくに病気)にどのように影響するかを解明しようとする「精神(神経/内分泌)免疫学」の内容を医学の史的変遷とともに紹介しました。ストレスの元凶である情動ストレスが脳のどこで生じ、それがどのようなプロセスで神経系と内分泌系に影響し、病気を発症・治癒するのかについての科学的知見をある程度確認できたかと思います。
 そこで次回は、そうした身体プロセスの理解を念頭に置きながら、かつ他の生理学的・理学療法的知見も織り交ぜながら、その過程で瞑想が如何なる意味で有用であるか、瞑想の種類と効果が発揮されるプロセスを整理してみたいと思います。

<参考文献>
イントロとして、熊野宏昭『ストレスに負けない生活―心・身体・脳のセルフケア』(ちくま新書2007年/¥680)を使用します。読みやすい新書版です。事前にお読みいただくと議論が理解しやすくなります。

※当日参加費として500円(日本プレクシャ・ディヤーナ協会非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代等を含む)を頂戴いたします。
※準備の都合上、出席される方は前日までに、savita.nakamura@gmail.comまでご連絡ください。

【今後の開催予定】
8月1日(月)19時~21時 場所:同上
9月5日(月)19時~21時 場所:同上
10月3日(月)19時~21時 場所:同上
12月5日(月)19時~21時 場所:同上

※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。
※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご登録ください。
※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)からお手続きください。

2011年6月20日月曜日

シリーズ[いまこの瞬間の輝き]


「 いまこの瞬間のなかにすべてがある。
  少なくとも、大切なものは全部でそろっている。
  人生の意味も、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも。
  だから瞬間を生きよう、先のことを想わず、
  今ここのかがやきのなかにいよう。 」
   (古東哲明著『瞬間を生きる哲学-<今ここ>に佇む技法』筑摩書房)

つい今しがた届いた本。こんな書き出しではじまっている。なか身はまだみて
ないが、急に筆を執りたくなった。いろいろなことが脳裏に浮かぶ。こんな瞬
間のかがやき、いったいどんな時に感じるだろう?

真っ先に思い浮かぶのは旅をしている時だ。インドでも、イタリアでも、大好
きなところを訪れている時は、つらい過去を思い出すこともなければ、明日ま
でに片づけなければならない仕事について考えることもない。ただこの一歩一
歩、一瞬一瞬がこの上なく大切で、過ぎ去ってほしくなく、愛おしく、貴重で、
手離しがたい。そして、なんともいえず、せつない。せつないから、すべての
光景、におい、音、肌ざわりが心に刻まれてゆく。(その瞬間瞬間を思い出し
ている今という瞬間も、きっと、この先なんども思い出すだろう。)

日常において、こんなふうに瞬間の大切さを感じることは、ついぞ無かった。
ふつうは皆、そうだろう。まわりには家族がいて、仕事があり、子育てがあり
…、いろんな人が、いろんなことを言い、わたしはいつも対応に追われている。
24時間、365日。それが、わたしの生活だ。人生だ。

でも、そんな日常のなかに少しでも特別な時間が持てたならば、たとえその時
間が1時間だろうと、30分だろうと、一瞬であろうと、それが自分のための、
自分だけのための、充溢した時間であったならば、それはものすごく大切な、
愛おしい時間になる。芸術でも、音楽でも、スポーツでも、瞑想でも。

そんなふうに想いながら、ふと自分の日常をふり返った時、子育てのなかにも、
仕事のなかにも、家事のなかにも、雑事のなかにも、そういうキラキラした、
幸せな瞬間(とき)がありますね。五感を澄ましてみてください…ほら、今も、
ボブマーリーの〈No Woman No Cry〉が、本を片手に入った店内に流れてる!

<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[あなたは何処に行きたいですか?]


私達が一番意識しなければならない自己認識は自分のカルマに気付き、カルマ
を自己コントロール下に置くことである。自分を知ることは難しい。潜在意識
下にある夢や願いや希望を知ることは、本当の自分に出会うまでにしなければ
ならない道程である。

ブッダはカルマを行為であると云った。

「 生きるものは、おのれが行為のたくわえを持ち、
  その行為を受け継ぎ、その行為から生まれ、その行為に縛られる。
  行為は拠り所である。行為が卑しければ、生きざまが卑しくなり、
  行為が立派なら、生きざまも立派になる。
  私達は自分がいったい何をしているかに気付き、
  本当に行きたい所へいくための正しい行動をとらなければならない。 」
 (ウイリアム・ハート著『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』春秋社)

あなたは何処へ行きたいのですか? 私は何処へ行きたいのだろう?
あなたの次の人生はどんな人生ですか? 私は何処に生まれるのだろう?

自分の歩む道が解っても、実際に歩かなければ、目的地(行きたい所)に辿り着
かない。千里の道も一歩から、知識でなく実践である。目的地を明確に設定し、
辿る道筋を知って実際に歩く者だけが行きたい所に到達できる。

おおぜいの人が目的地を見いだせないで、行きたい所が解らなくて、暗い夜道
を迷っている。『勝利者の瞑想法』で迷える人に目的地とそこまでの道筋(地
図)を示したつもりでいる。プレクシャ・メディテーションは知識ではなく実
践である。実践することによって、迷いが無くなり、自分に自信がもて、行き
たい所へ確実に道を歩いている実感がもてるでしょう。

人類の99%以上の人が暗闇で迷っている。迷っている人が迷っている事さえ
気付いていない。人間ていったいなんだろう?皆さんはそんな疑問が起こりま
せんか?


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


SNS「mixi」にてプレクシャ・メディテーションコミュニティ発足


メールマガジンを講読されていらっしゃる皆さまは、ソーシャル・ネット
ワーキング・サービスをご利用されてますか?

※ソーシャル・ネットワーキング・サービスとは、人と人とのつながりを促進
・サポートする、コミュニティ型の会員制のサービスです。

この度、SNSで有名なmixi(ミクシィ)にてプレクシャ・メディテーションの
コミュニティを発足させていただきました。瞑想に関する様々なご質問から、
日々感じていること、実践されていらっしゃるみなさんの相互的なコミュニ
ティの場としてご利用いただければ幸いです。

URL: http://mixi.jp/
コミュニティ名:プレクシャ・メディテーション

コミュニティの検索にて「プレクシャ」と入力いただければ、検索結果に出て
きますので、「参加する」としていただければどなたでも参加できるようにな
っております。

mixiの登録がまだの方で参加されたい方は、招待状をお送りしますので事務局
までメールにてご連絡ください。

みなさんのご参加をお待ちしております。

2011年6月13日月曜日

前回(第25回)研究会の要約(抜粋):シャリーラ・プレクシャにおける身体観と科学的説明 その2 ―瞑想効果の神経・生理学的説明―


I.シャリーラ・プレクシャの効果(資料の要約)


 現代のライフスタイルでは、一定の教育を受けた平均的な人々はほとんど例外なく頭(脳)を使って働き、生活している一方、自分自身の身体を顧みることは滅多にありません。避けることのできないストレスやそれに起因する疲れ、精神的な緊張は非常によく認識していながら、そうしたストレスや緊張の正体についてはほとんど何も理解していないのが現状です。緊張を感じてもそれがどこで起こっているのかを特定できず、ましてや自分の身体に生来防御メカニズムが備わっていて、それを作動させさえすれば過剰なストレスの影響をはね返すことができることなど思いもよらないでしょう。身体と心の健康を改善したければ、身体との結びつきを取り戻すことが必要です。


 シャリーラ・プレクシャは完全なる身体への気づきを得る唯一の方法であると同時に、真我の気づきを得る方法でもあります。身体的なレベルでは、各細胞を活性化し、消化を助け、血液の質と循環を改善し、神経系と生体電気の活動の効率を高める効果があります。心理的なレベルでは、外の事象に惑わされずに内的な現象に心を集中させる訓練になります。そして精神的なレベルでは、常に変化する生体機能を偏りなく知覚することで意識というものの傾向と性質を知り、その実体を認識することができるでしょう。(『PREKSHA DHYANA: THEORY AND PRACTICE』p.8-9「基本原則」より)


「身体の知覚」は自分と自分の身体との結びつきを取り戻し、身体に備わっている有益なメカニズムを起動させる能力を開発するのに効果的な手段です。(『PREKSHA DHYANA: THEORY AND PRACTICE』p.83-85)


神経系


脊髄、脳、そして内分泌ホルモンによって、身体、精神、感情のすべての機能が管理されています。・・・脊髄と脳によって構成されるのが中枢神経系(CNS)です。そして頭骨と脊柱から全身に枝分かれして複雑なネットワークを形成しているのが末梢神経です。このうち、内臓・諸器官の機能をコントロールしているのが自律神経系です。また、中枢神経系へ伝達物質を運ぶのが感覚神経で、中枢神経からの指令を伝達するのが運動神経です。あらゆる感覚神経と心は中枢神経に接続しており、知性、知覚、概念的な思考はすべて中枢神経系の機能として営まれています。このことから、中枢神経系は非常に重要な身体システムであるとみることができます。中枢神経が破損すると身体は機能麻痺に陥り、身体的な活動も精神的な活動も停止してしまいます。そして、私たちの身体をコントロールするもう一つのシステムが内分泌系です。


生体はこれら二つのシステムが相互に緊密に連携しあい、統合・調整されています。両者の機能的な連動を一つの統合的なシステムとみなして、「神経内分泌系」(neuroendocrine system)と呼ぶこともあります。


身体の諸機能はホルモンと呼ばれる調整化学物質を通じて、内分泌腺によってコントロールされています。内分泌腺から産出されるホルモンは個人の心的状態や感情、行動に大きな影響を及ぼし、非理性的な本能も衝動も、脳ではなく、内分泌ホルモンによって生じます。つまり、私たちの気分はホルモンによって生まれ、ホルモンから必要を満たすための行動が要求されるのです。そして心に歪み(理由のない恐怖、復讐心、残虐性等)があると、人の行動もネガティヴなものになります。


瞑想には神経系の電気的な活動を変化させ、化学的伝達物質の合成を変質させる力があることはすでに立証されていますが、身体の知覚と霊的中心点(内分泌腺)の知覚は非理性的な衝動の力を弱め、最終的には心的歪みを根絶し、悪しき行動が生じないようにする有効な手段になります。(『PREKSHA DHYANA: Perception of Body』p.18-21)


   ↓


体内免疫メカニズムによる健康の維持


cf.)精神神経免疫学という新分野について


「日々の瞑想実践は、健康の維持と回復の両面において効果的な手段です。現代医学でも、心的イメージによって精神力が回復し患者の状態が改善することは否定されていないばかりか、今や常識となっています。事実、精神神経免疫学という新たな研究分野も生まれています。


免疫システムというのは、間接感染、接触感染、毒物その他の病理的疾患から身体を護る自然の生体防御機構をいいます。また免疫学とは、感染等に対する身体の防御・抵抗性を研究する医学の分野です。精神神経免疫学という新しい分野は、この免疫系と脳、そしておそらく人の意識下に潜在する精神のあいだの相関性を研究するものです。


生得的免疫機構


生得的な免疫システムではリンパ球とよばれる免疫細胞が、病原微生物を取り込み無力化させる食細胞と緊密に連携しながら、中心的な役割を果たします。リンパ球は骨髄、胸腺、脾臓やいくつかのリンパ結節で産生されますが、その産生、活性化および免疫応答には身体の多くの器官が関与し、それらの精妙なバランス関係によって生じる高度に複雑なプロセスによって営まれています。


神経免疫学の知見によると、ストレス化にある人を詳細に研究した結果、免疫は人の気分や行動様式に大きく影響され、ストレスがあるとその機能は著しく低下することが実証されています。逆に、深いリラックスした状態と楽しい気分を維持すると、免疫系は定量的にも質的にも効率が改善します。 研究者や学者だけでなく著名な多くの臨床医や医療従事者も、瞑想と深いリラクセーションがさまざまな心身症の予防や治療に効果があることを認めています。身体の知覚への集中—シャリーラ・プレクシャ—は、自律神経系の交感神経と副交感神経の間のバランスを整え、ひいては生体の恒常性維持(ホメオスタシス)により大きな効果を発揮します。」(『PREKSHA DHYANA: Perception of Body』p.v-vi)




Ⅱ.精神(神経/内分泌)免疫学とは何か


<医学の歴史>(p.24-33)


解剖学を出発点とする「死に物」対象の医学から「生き物」を対象とする医学へ
西洋医学による東洋医学の見直しの試み=東洋医学の効果に科学性を見いだそうとする研究


<心身医学>(精神免疫学以前)(p.49-)


心身症 = 身体症状を主体とするが、その診断・治療に心理的因子についての配慮がとくに重要な意味を持つ病態(気管支喘息、アトピー性皮膚炎、慢性関節リウマチ、潰瘍性大腸炎、甲状腺機能亢進症、消化性潰瘍、本態性高血圧などが代表例


多かれ少なかれ、こころの影響を受けない病気は一つもない!
では、同じようにストレスを受けていても、人によってそれぞれ現れる症状が異なるのは何故か?


   ⇓


<精神(神経/内分泌)免疫学>(p.34-48)


定義=こころと体の関係を、脳と免疫系を中心とした生体防御機構に焦点をあてて研究する学問(p. 8)


病(いわゆる心身症から感染症、リウマチ、花粉症・喘息などのアレルギー疾患、癌に至るまで)の発症・治癒は心の状態(=感情・情動)と無関係ではない!("病は気から")


<情動とは何か、情動はどこで生まれるか>(p.55-67)


「情動」とは、固体および種族維持のための生得的な要求が脅かされた、あるいは満たされた時の「感情体験」およびそれにともなう「身体反応」。


今日では、扁桃体こそが生体の内外から脳へ送られてくる感覚入力に情動的評価を与える部位であり、生得的情動の生成においてもっとも重要な座ではないかと考えられている。


視覚、聴覚、触覚、味覚などすべての感覚情報の経路は扁桃体と連結路を形成しており、顔の表情認知にも重要な役割を果たしている。 Cf.)幼児期の記憶=情動記憶


<情動表出のしくみ>(p.67-69)


ストレスに対し、扁桃体を含む大脳辺縁系(古い脳)で起きた情動は、さらに下位の中枢であり、脳下垂体や自律神経系に一番近い視床下部で統合されて表出される(二種類の反応)。


 情動行動―逃避、怯え、すくみ、威嚇、攻撃など運動系の出力 → 暴力行動へ
 情動性自律反応―自律神経系および神経内分泌系の反応 → 心身症疾患の発症


自律神経系では、大脳辺縁系で処理された情報が、視床下部を介して、脳幹や脊髄の交感神経領域あるいは副交感神経核へと伝達され、自律神経反応を起こす。また、神経内分泌系の主な応答として、強い情動により副腎皮質を刺激するホルモンが視床下部・下垂体系から放出され、グルココルチコイドの分泌を刺激する。」


<情動ストレス>


「ストレス」= 元々は外から力が加えられたときに生じる物体のひずみをさす物理学用語。
生物学的ストレス= 外部の刺激により生体に生じる反応(H. セリエ)
情動ストレス  = 外部環境が脳において主観的世界となって表象されるとき、
 ときに強い感情を生み、しかもそれが体の変化を伴う場合をさす。


ストレスによる免疫系への影響はさまざま。一般に、ストレス状況の受けとめ方には大きな個人差がある = 「情動認知スタイル」:


ある出来事にストレスを感じるかどうか、あるいは幸福感をもてるかどうかは何が決めるのか?→ これらを決めるのは環境の客観的条件ではない。…外部環境の情報に生物学的意味判断を付与し、個人に特有の情動認知スタイルを決定するのは、遺伝と経験で作られる個人の内的特徴。=性格の生物学的研究で「気質」と呼ばれるもの(p.91-)。


<高次の情動と情動の制御>


古い脳で処理され緊急反応をもたらす感覚情報は、より進化した大脳皮質(連合野)にも伝えられ、同時並列的に、高度で詳細な感覚情報の解析が行われる(p.75)。そして、対象が危険なものではないと判断されたら、大脳皮質から大脳辺縁系に伝達される信号により緊急反応は抑制される。


笑いの効用


笑い=高次の情動は大脳皮質の働きに多くを負っている。すなわち、扁桃体と視床下部が構成する基本的な情動回路に、眼窩前頭皮質を主とした前頭葉の機能が加わる。それは同時に過去の経験と学習により、情動が修飾を受けることを意味している。…進化した動物になればなるほど、随意的に情動表出を制御できるようになる(p.76)。笑いが免疫機能に好ましい影響を与えることは医学的にも示されている。…笑いのような快情動は、交感神経の緊張をほぐして免疫系に好影響を与えるのではないか。…笑いこそ、もっとも高度に進化した、そして人間的な情動である。人は、大脳皮質が発達したからこそ、笑うことができるようになったのである(p.81)。


暗示による免疫反応の変化


「暗示」とは、人から与えられる、あるいは自ら自己へ与える言葉や刺激(暗示刺激)を、合理的に考えることなく受け入れることによって、さまざまな変化が起こる現象(暗示効果)。この効果は知覚、観念、意図、信念、行為ばかりでなく、身体反応にまで及ぶ。


(神庭重信『こころとからだの対話―精神免疫学の世界』文春新書より)


Ⅲ.瞑想効果の神経・生理学的説明(次回参照する予定の文献)


ロバート・ワレス『瞑想の生理学』


山崎正ほか『癒しの科学 瞑想法―神秘主義を超えて―』


貝谷・熊野編『マインドフルネス・瞑想・坐禅の脳科学と精神療法』


安藤治『瞑想の精神医学』


ほか


Ⅳ.身体のリハビリテーションと瞑想(次回参照する予定の文献)


松岡洋一・松岡素子『自律訓練法』


伊藤芳宏『自律訓練法の医学』


宮本省三『脳のなかの身体』


ほか

2011年6月1日水曜日

第25回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内

25回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたしますので、
ご案内申し上げます。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。




日時: 201166日(月)19:0021:00


場所: 「市川市南行徳
東京メトロ東西線「南行徳」駅下車、徒歩1分。南口を出て線路沿いに浦安方向へ。
突き当たりの建物。立体(タワー)駐車場有り(車庫入口は大通り側))

アクセスマップ http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html




テーマ:シャリーラ・プレクシャにおける身体観と科学的説明その2:


 ―瞑想効果の神経・生理学的説明―


 前回の研究会では、身体の知覚瞑想では「身体」をどのようにとらえ、どのような意識で瞑想を行ったらよいか。そうすると、どのような具体的効果が生まれるか。そして、それは科学的にどう説明されるのかといった点を確認しました。
 感情や情動、心と思考の根本的なコントロールは、①生体内の化学的要因(神経内分泌系=ホルモン)の調和と、②電気的な要因(生命エネルギーの流れ)を変化させなければ難しく、「身体の知覚」は特にこれら二つの要因に有効に作用する瞑想法であるということが述べられていました。しかしながら、その具体的プロセスについては詳細な説明がなく、明確な形で理解することができませんでした。
 そこで次回は、まず、前者(①)を解明する手掛かりとして示唆されていた「精神(神経)免疫学」という新分野の内容を中心に検討し、加えて可能な限り他の生理学的知見も織り交ぜながら瞑想の効果を考えてみたいと思います。そのうえで、さらにその次の回で、後者(②)の電気的要因(プラーナを含む生体内エネルギーの観点からみた身体プロセス)を検討したいと考えています。①と②は、シャリーラ・プレクシャの身体レベル(粗大な肉体と微細な身体)の区別にも関連します。


<参考資料>
前回出席された方は、お配りしたレジュメを持参してください。 また、興味のある方は、事前に、神庭重信著『心と体の対話―精神免疫学の世界』(文春新書)をお読みください。


当日参加費として500円(日本プレクシャ・ディヤーナ協会非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代等を含む)を頂戴いたします。


※準備の都合上、出席される方は前日までにsavita.nakamura@gmail.comまでご連絡ください。




【今後の開催予定】


74日(月)19時~21時 場所:市川市南行徳


81日(月)19時~21時 場所:同上


95日(月)19時~21時 場所:同上


103日(月)19時~21 場所:同上


125日(月)19時~21 場所:同上


※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。


※本研究会の開催予告を月刊メールマガジン『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご登録ください。


※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)からお手続きください。

2011年5月20日金曜日

シリーズ[宗教と科学のはざまに巣食う病理現象]


現代の多くの日本人は、科学というものを無批判に信奉する傾向がある。否、
日本だけではない。先進国の一定レベルの教育を受けた人々全般に当てはまる
ことである。科学的なデータによって証明されない事象は真実として受け入れ
られず否定したり無視したり、あるいは逆に科学的な言葉が散りばめられた解
説や専門家と称する人の発言は根拠に乏しくても信じ込むといった偏った風潮
がある。

その一方で、これと正反対にみえる傾向も存在する。いわゆる「スピリチュア
ル」ブームである。スピリチュアルカウンセラー、サイコセラピー、パワース
ポット、パワーストーン、ヒーリング、占い・占星術・風水、オーラ、波動、
チャネリング…。場合によっては、同種療法(ホメオパシー)をはじめとする
代替療法(ホリスティック医療)、ロハス、「地球と体にやさしい」自然農・
自然食、スローライフなどの「癒し」文化もこれに含まれる。

「スピリチュアル」とは、人知を超えた超越的神秘的な次元にある「何か」
(たとえば大自然、宇宙、内なる神、特別な人間など)とつながる感覚をいい、
自己が何らかの形で変容するような非日常的な感覚を伴う精神傾向を意味する。
そこには「宗教」の教えは必ずしも必要ではない。むしろ、その人が体験した
もの(たとえば「生かされている」という実感)が重要だという(磯村健太郎
『<スピリチュアル>はなぜ流行るのか』23-27頁(2007年PHP新書))。

「宗教」ではない「霊性」(not religious, but spiritual)。既成の「宗教」
をうけつけない人でもスピリチュアルには「はまる」ケースが多い。その理由
は、従来の用意された宗教的世界観・宇宙観にリアリティをもてず団体や組織
に何かと拘束されるのは嫌だけれども、個人的な精神のレベルでは「癒された
い」「救われたい」「つながりたい」という気持ちがあり、「自分探し」の欲
求が依然として強いため、「自分にとっての聖なるものと直接つながろうとす
る動き」がますます盛んになっているからだと分析される(同、35-37頁)。
つまり、「宗教」ではないが、形を変えた「宗教的なるもの」が受け皿を失っ
て溢れ出てきているのである。

こうした傾向(近代科学によって宗教の不条理が暴かれた結果生まれた「スピ
リチュアル文化」)は、ある意味で自然な流れではあるが、合理性を超えた領
域での活動である以上、常に「危うさ」を孕んでいるのも事実である。オウム
真理教までいかなくても、霊感商法や不可解な自己啓発セミナーで高額な金銭
を支払わされる例が後を絶たない。最初に述べた無批判な科学信奉
(「科学教」!)も実は同根である。「宗教」離れの間隙に忍び込んできた精
神傾向という意味では両者とも変わらない。いずれも思考停止と依存心という
共通の心理(病理)を背景にもっている。

これに対しプレクシャ瞑想は、基本的にジャイナ教に伝わる瞑想法を整理しな
おしたという意味ではきわめて「宗教」的だが、思考停止も依存心も伴わない。
体系の再構築の過程では、ジャイナ独自の古代瞑想にとどまらず、そのルート
とされるヨガや同時代の釈迦の瞑想法も実証的かつ徹底的に研究されたという。
そのうえで、効果をさらに深く理解し合理的に説明するために、解剖学、生理
学、心理学等の現代諸科学の知見まで最大活用しているのである。つまり、こ
の瞑想は単なる神秘主義に陥らず、今後も科学の進歩に応じて発展する可能性
と柔軟性を秘めている。由緒ある伝統的な宗教の立場から新しいもの(科学)
を排除するのではなく、人間の秘密を解き明かすためにあらゆる成果を総合的
に取り込みながら、科学の側にも一層の解明努力と進化を求めている。科学的
合理主義という型にはまった見方(科学的に証明されないことは信じないとい
う価値観)から離れてプレクシャ瞑想の方法論をみるとき、その衡平さに驚か
される。宗教と科学の間のグレーゾーンに置き去りにされ、行き場を失ったわ
れわれ現代人にとってまさに必要な、生きるヒントと方法がそこに隠されてい
るかもしれない。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)


コラム[プレクシャ讃歌の魅力]


私がジャイナ教の瞑想法に魅せられたのは論理性の高さと、こうすればこうな
ると云う方法論が確立されていることにありました(日本の禅にはHOW TOが不
足していると思っている)。

さらに、プレクシャ瞑想にはマントラや讃歌が具体的方法のなかに組み込まれ
ていて、これが心身の深いレベルに影響を及ぼすと理解できたからです。私は
テーラパンタ派のマントラや讃歌が大好きです。楽器を使わず声だけで讃歌を
合唱しますが、メロディや旋律が心に響きます。

アラハト・バンダナやローガッサ・スートラの詠唱を初めて本拠地ラドヌーン
で聞いたとき、私は言葉の意味や内容が解らないにもかかわらず魂をゆすられ
る感動を覚えました。もしプレクシャ瞑想の中に讃歌の詠唱がなかったなら、
私はこれほどまでにプレクシャ瞑想に入り込まなかったかもしれません。そう
いう意味でヴィパッサナーとの出会いには魅力を感じなかったのだと思います。
アラハト・バンダナやチャイテ・プルシャの意味は10年以上前から解明できて
いましたが、ローガッサ・スートラの意味がなかなか解明できなかった。それ
が最近になってようやく森山江美さんによって明らかにされ、私の長年の疑問
が解消されました。

どのように唱えるかは、今年2月、ラドヌーンでニーラジ・ムニからいただい
たCDがあるので、これを聴きこめば歌えるようになると思います。やっと日本
でもプレクシャ合宿のときに讃歌を唱えることができるようになるでしょう。
ニーラジ・ムニはテーラパンタ派で一番声が綺麗で歌が上手な出家僧です。CD
を聴いていると歌声とメロディが深く心に浸透してきます。同時に悩みやスト
レスが抜け出てゆくように感じます。

仏教でもたぶん、仏陀の時代には御経が讃歌として詠われていたに違いありま
せん。テーラパンタ派で朝に夕べに唱えられているマントラや讃歌は仏陀の時
代の読典と同質なのだと思います。プレクシャ瞑想のHOW TO体系の内容はヨガ
のヤマ・ニヤマに相当するアヌブラタ戒律からアーサナ(身体のヨガ)、呼吸法、
自己コントロールのバーバナ、プレクシャ・ディヤーナ、アヌプレクシャ、マ
ントラ、讃歌まで多彩で総合的です。これら全てを含むのがプレクシャ瞑想な
のです。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2011年4月21日木曜日

第24回 プレクシャ・メディテーション研究会 開催のご案内

第24回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたしますので、ご案内申し上げます。ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時: 2011年5月9日(月)19:00~21:00
場所: 「市川市南行徳
(東京メトロ東西線「南行徳」駅下車、徒歩1分。南口を出て線路沿いに浦安方向へ。
突き当たりの建物。立体(タワー)駐車場有り(車庫入口は大通り側))
アクセスマップ http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html

テーマ:  シャリーラ・プレクシャ(身体の知覚瞑想)における身体観と科学的説明

 前回まで3回にわたって「呼吸」をテーマに検討しました。身体の機能としての呼吸を瞑想の対象とするプレクシャ瞑想(呼吸の知覚瞑想法)では呼吸をどのように理解しているか、最新の現代科学では呼吸の効用はどこまで解明され科学的に説明されているか、他の瞑想法とくにヴィバッサナー瞑想ではどのように呼吸を対象としてとりいれているか、そしてヨガではどのように呼吸をとらえ、訓練し、効果を引き出しているかについて限られた素材と時間の中で概観し、シュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の知覚瞑想)のもつ可能性を考えました。
 次回の研究会では、今度は身体そのものを知覚の対象とするシャリーラ・プレクシャ(身体の知覚瞑想)を検討します。この瞑想法では「身体」をどのようにとらえているか、どこまで科学的な知見によって説明され、効用との因果関係が明確化されているか、さらには因果関係が明確でない効用があるとすれば、われわれはそれをどのように考えるべきかといった点まで踏み込んで考察したいと思います。

 主たる検討材料は、Acharya Mahaprajna 『PREKSHA DHYANA: PERCEPTION OF BODY』ですが、参加される方は坂本知忠『ジャイナ教の瞑想法』第二章、第四段階(120-156頁)も一読してきてください。その他必要な範囲で、J.S.Zaveri『Preksha Dhyana: Human Body』Part-I (Anatomy and Physiology), Part-II (Health Care)、A. Mahaprajna『Why Meditate?』(Chapter 4. Physical Health & Preksha Meditation)およびMuni Mahendra Kumar『INTERNATIONAL PREKSHA MEDITATION: Shareer Preksha』(ビデオ講義)の内容も紹介する予定です。

※ 
当日参加費として500円(日本プレクシャ・ディヤーナ協会非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代等を含む)を頂戴いたします。
※ 
準備の都合上、出席される方は 前日までに savita.nakamura@gmail.comまでご連絡ください。


【今後の開催予定(年間予定)】

6月6日(月)19時~21時 場所:市川市南行徳
7月4日(月)19時~21時 場所:同上
8月1日(月)19時~21時 場所:同上
9月5日(月)19時~21時 場所:同上
10月3日(月)19時~21時 場所:同上
12月5日(月)19時~21時 場所:同上

プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開催しています。

本年度(2011年4月)より日本プレクシャ・ディヤーナ協会が本格的に活動を開始しました。今後は協会発行の月刊メールマガジン『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』でも開催情報をご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、 こちら(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご登録ください。  
また、会員割引による研究会への参加をご希望の方は、 協会ホームページ(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)からお手続きください。

2011年4月20日水曜日

シリーズ[翻訳者の目線から-宗教と科学のはざま-]


小林秀雄は『信ずることと考えること』と題する講演(昭和49年)の中で、近
代科学の方法とその傲慢さを批判している。それは我々が唯一信じられると思
いこんでいる「近代以降の科学的合理主義」への批判でもある。そして、小林
の言を借りれば、そうした科学のもつ狭い物の見方が「人間の精神を非常に狭
い道に導いた」。

小林は言う。「この科学というものが出来たために、人間のこの広大な経験を
非常に小さい狭い道の中に押し込めたんです。これをよく考えなけりゃいけな
いんです。…そういうことを、諸君、はっきり知ってないと駄目なんです!そ
れであの発達ってものは必ず物的なものなんです。精神の上では全然発達して
おりません…人間の人格なんてのは一っつも発達してないんです。なんだか非
常に、人間の精神てものは荒廃に瀕しているじゃないか、いま。」

プレクシャ・メディテーションは、「人間の広大な経験」(古代からの叡智)
に科学的な知見を加味して構築されたものである。しかし、そこに「加味」さ
れている科学的な説明は人間の「経験」のほんの一部にすぎない。我々はそこ
に自分の「体験」と「学び」を積み重ねていかなければならない。そうでない
と、宇宙の「真理」を知ることなどけっしてできないし、精神の荒廃を押しと
どめることもできないだろう。

「…そういう科学者の提供している客観的宇宙っていうものはだねぇ、それは
そういう宇宙に対する理論があって解釈があってね、いろいろあるだけですよ。
みんなそれは観念じゃないか。僕に伝わってくるのは知識ですよ。僕の直接に
経験するものじゃないです。僕の直接に経験するものは僕っきゃない。僕の心
だけは、これはもう間違いない。疑いないでしょ。だから恐らくだよ、恐らく
そちらの方に本当の実在ってものがあるんじゃないですか。僕はそう思ってま
すね。僕の意識ってものがある、僕の意識に外界から何かが来るんです。取り
巻いてるんだからね。それに僕が応接してるんです。その応接してるものは僕
の心でしょ。僕の意識でしょ。その意識は如何にでも大きく広がることができ
ますけどね。…そういう心ってものは、それは実在だよ。僕の経験そのものじ
ゃないか。これを疑うことはできないですよ。これは唯一の僕の財産じゃない
か。この中に何もかもあるに違いないですよ。学問の提供する客観的宇宙って
ものは、それは観念ですよ。実在に関する観念ですよ。知識ですよ。だから、
間接的なものだけども、そういうものに対して僕の意識が応対してるでしょ。
処しているでしょ。その処する僕の心ってものは、そこには宇宙のゾーンもあ
るし、処してる僕の態度もあるし、そういうものが一緒になってるでしょ。そ
れが僕の経験じゃないか。直接の経験じゃないか。そういうものが本当の実在
ですよ。そこに信ずるっていう働きがあるんです。」

プレクシャ瞑想の目的は「本当の自分を観て、真実を知ること」にある。昭和
の日本を代表する知の巨人がかつて訴えていたことと確かに通じるものがそこ
にはある。このコラムでは、プレクシャ瞑想を受け継ぐジャイナ教指導者の原
典を翻訳する過程で訳者が突き当たった壁、それを乗り越えるために自らの体
験を通して考えたこと、そしてその後の最新科学の知見から学び理解できるこ
と等を中心に、心の内を吐露していきたいと考えている。それが皆様の何かの
ヒントになれば幸いです。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[只見を日本のリシケシにする夢]

私は若いころから日本中の山々に登り、世界各地を旅した経験から、奥会津の
只見が伝統的な暮しやロハス的な暮しをする場合、東京を起点として最適な所
だとおもいます。アウトドアの世界で著名な高桑信一さん瀬端雄三さんもその
点、私と同意見です。

只見は山深く降雪量も多いところですが、谷が開けていて沢山の耕地がありま
す。食料自給率は200%でしょう。水量豊かに流れる只見川、伊南川は清ら
かで季節感がはっきりしています。只見で叶津番所に出会ったことが私の運命
を大きく変えました。番所をセンターにしてヨガと瞑想の村を作りたいと思う
ようになりました。ヨガと瞑想の村をつくりたいとおもったのは、予期せぬ経
済的変動や自然災害から、そこを砦としたかったからです。

皮肉にも、只見の東西で大きな災害が起きてしまいました。数年前の中越地震
に続き、今また福島原発事故が発生しています。しかし巨大な岩盤に守られた
只見は中越地震でもビクともしませんでした。そして今度も、山また山に囲ま
れた地形のおかげで東京よりも放射能に汚染されることが少ないのは計測され
た数値にみるとおりです。

けれども、同じ福島県であるというだけで危険なところだと誤解されています。
残念なことに番所と道場で予定されていたセミナーのキャンセルが続いていま
す。私はあらゆる災厄を想定して只見をプレクシャ瞑想と沖道ヨガの聖地にし
たいと活動してきました。今も只見を日本のリシケシ、日本のラドヌーンにし
たい思いでいっぱいです。

3月下旬、番所の前の民家を譲り受けました。それは20年前にイメージした
ことで、やっと現実化しました。その建物をゲストハウスとして美しく整える
計画です。近い将来、経済的大変動が日本に起こるでしょう。又、気候変動リ
スクへの対応もまったなしです。これからも番所の周りから只見から奥会津か
らネガテブなエネルギーを一掃しヨガと瞑想の理想郷にしていく活動に取り組
んでいきます。

プレクシャ瞑想が自己救済だけに終わるのではなく、社会救済になるような活
動をあわせて展開していきます。プレクシャによって御縁ができた同志の皆さ
ん私の活動に協力して下さい。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)