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2013年10月31日木曜日

コラム[魂を観る瞑想]

ゴータマ仏陀は魂の存在を肯定も否定もしなかった。当時のインド人は魂が輪
廻転生することは当然のことで論争にもならない常識的な考え方であった。魂
の概念は不死で永遠で、この世に属していないから捉えることが出来ず、束縛
されず、傷つくこともなく、よろめくこともない。魂が本当の自己(アートマ
ン)、真我と定義できるであろう。仏陀は、体は私ではない。心は私ではない
といった。つまり自我(体と心・ego)は私ではない、非我を説いたのだ。と
ころが、後世の仏教者が何を勘違いしたか、非我を無我に解釈してしまった。
非我と無我は似ているようで、全く違う考え方だ。非我は私にあらずというこ
とで、無我とは魂は無いことを意味する。

もし魂がなければ仏教思想の根本となる因果律、輪廻転生の考え方が成立しな
くなる。カルマの結実を受ける主体がなくなってしまうからだ。テーラワーダ
仏教では無理にこじつけて無我説を立てているが、むしろ魂の存在を理論的に
認めて、実践倫理哲学を構築したほうがずっと分かり易い仏教になると私は考
える。

ジャイナ教の哲学では人間界、動物界の上層に天界として26の次元の違う世
界があり、動物界の下層に次元の異なった7の地獄界があると考えている。天
界や地獄界の生命は我々の住むこの世とは次元の違う世界の生き物なのだから
当然、食べ物も身体も異なっている。それら次元の違う世界を含めて魂が輪廻
転生しているというのがジャイナ教の考え方である。

輪廻転生する原因物質であるカルマは非常に微細な粒子であると考えられてい
て、魂にカルマが付着しているので、このカルマを浄化して無くさなければ修
行は完成しないとしている。カルマが無くなった神聖な魂は天界最上階のモー
クシャに入る。モークシャは神聖な魂の意味で無限の叡智を備えているとされ
る。モークシャに到達した人間の身体を持った魂をアラハトと言い、アラハト
が死ぬとシッダになる。シッダはカルマが無く、体が無く、食べることもなく、
生きている特徴がない完璧な魂である。

ジャイナ教哲学では魂が人間の生命に入る瞬間は受精の瞬間であると考えられ
ている。魂が胎児として成長していく過程の全ての部分で自ら自分の肉体を作
ることに関与しているというのがその考え方だ。

主に4つのカルマが私たちの魂の力に関与していると考えられている。身体上
の相違をもたらすカルマはナーム・カルマと呼ばれる。このカルマによって男
か女か、身体が大きいか小さいか、色白か黒いか、美醜、等の体の外見的特徴
が現れる。ゴットラ・カルマは生まれる家柄の貴賎、王様に生まれるか乞食に
生まれるか、日本人かインド人か、家柄や家族を選択することに関与している。
アーユーシュ・カルマは寿命を決めることに関与している。ベートニーヤ・カ
ルマは執着心と無執着に関係しているとジャイナ教哲学は教える。

ジャイナ教はカルマを霊的な色彩光レーシュヤと同一視している。レーシュヤ
は主に6種類でオーラとして判定する。

・黒いオーラは邪悪なオーラで最悪である。テロリストの持つオーラである。
大量虐殺者だったヒットラー等はこのオーラである。
・くすんだ青は怠け者、詐欺師、内側と外側が違う、頼りになれない人が発す
るオーラだ。
・グレーのオーラは悲しみの感情、ネガテブな感情に支配されている。何もし
ない人、世の中に役立たない人のオーラだ。
・赤いオーラを発している人は活動的な人で優しい人である。良く寄付金を出
す人がこのオーラを持っている。
・黄色いオーラを発している人は、困っている人を良く援助する人である。自
分のことを棚に上げて、他人の苦しみを受け取ってしまう人は黄色いオーラを
発している。
・最も善いオーラは明るく輝く白いオーラである。正しい人、聖者はみなこの
オーラに輝いている。

感情や思考、活動によってオーラが替わる。オーラが魂に霊的色彩の情報を運
ぶ。カルマによって霊的色彩に染まった内から外への色彩の放射がレーシュヤ
である。レーシュヤが変化して善くなれば感情、思考、活動が善くなる。

レーシュヤ・ディヤーナがプレクシャ・メディテーションを特徴付ける瞑想法
だと思う。仏陀の瞑想は呼吸を観ること、クリシュナの瞑想は心を観ること、
ハタヨガの瞑想はチャクラを観ることにその真髄がある。マハーヴィーラの瞑
想は魂を観ることが真髄である。

魂が有るか無いかは論争が別れることとして、他を否定することは出来ない。
瞑想は魂があるか無いかに関係なく、メディテーターの身心を健康にしてくれ
るし、心を幸福にしてくれる効能が確かにある。瞑想とは人間が食事を摂った
り、排泄したり、睡眠したりするように、本当は誰もが日々なさねばならない
生活の基本原則なのだ。人間の不幸はそれをしないために起こっているといっ
ても過言ではない。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)