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2012年3月25日日曜日

コラム[活用する喜び]


前回のコラムに続いてアヒンサー(非暴力主義)について取り上げます。不殺
生を積極的にすることが活用です。活用は殺すなではなく活かせという教えで
す。生き物だけではなく、人間が生きて行く上で必要な物についても粗末にす
るな、大事にしなさいと云う教えです。私は生き物だけでなく、物にも心が宿
っていると思っています。その心というのはある種のエネルギーでネガティブ
なものとポジティブなものとして主観的に感じます。人間に粗末にされた物や
打ち捨てられたものにはネガティブなエネルギーが宿っています。それらの物
に対して愛の心、大事にする心、活用する心で接していくとポジティブな物に
変化します。打ち捨てられたものや場所を愛し助けてあげると、今度は助けた
ものが私達を生かし助けてくれます。それが自然法則です。

大量生産・大量消費システムは一見、人類を幸せにするシステムに思えますが、
沢山の物を粗末にし、殺すことなので長い目でみれば人類を幸福にするシステ
ムではないと解ります。世の中は全てが変化の流れの中にあり、必要な物が出
現し、不要な物が滅していきます。これも自然法則です。

しかし現代人類社会は変化の流れが加速しているので、沢山のものを創り沢山
の不要物を破棄しています。私達はあまりにも日常多くの不要物を廃棄してい
るので、心が麻痺して生活の必要物をあまりにも粗末にしています。自転車が
1万円で買えるなんて本当に考えたらおかしな事なのです。自分一人で作ると
したら、とても難しいことです。江戸時代に自転車を持っていたら、それこそ
宝ものです。その宝ものが今や町中、至る所に破棄されていて厄介者、ゴミと
して処理されています。これらの自転車を徒歩で生活しているマダガスカルの
人々に届けられないかと思います。

大量につくられたものはどんなに価値を有していても、需給バランスが崩れて
需要が無くなれば金銭価値は限りなくゼロに近づいてゆきます。近年の不況は
社会が成熟化したからともとれますが、工業化、便利化、快適化のやりすぎに
起因しているのではないかとも考えられます。全ての生き物達との共存、サス
テイナブルな社会システム構築の観点から、今の資本主義経済に対して人類の
良心が許せなくなってきたのではないかと思っています。

最近、著名な作家・五木寛之氏の『下山の思想』と云う本が話題になっていま
す。日本は世界史的に見て繁栄の時代が終焉し成熟後の活力の乏しい社会にな
るとの論調です。本の題名が時代にマッチしたせいかベストセラーになってい
ます。本を読んでみて、何処に下山してゆくのか具体的に触れられていなかっ
たのでとても物足りなく思いました。私なら下山してゆく場所を具体的に指し
示すことが出来ます。それは彼が漠然と云っている経済指数とは別の物差しの
ことです。ブータン王国的幸福指数の事です。下山とは私達の生活から複雑な
機械を手放して行くことです。身体の延長としての道具までの時代にもどるこ
とです。

昭和30年代食料増産のため、日本の米作道具が最高水準に達しました。道具で
すがエンジンを持たないし電気を使わないから機械と定義しませんが、機械寸
前まで高度化した道具が作られました。私はここが下山地点だと思います。電
気で機械を動かさない、電気は照明器具に使うだけとします。車も化石燃料を
使わないところまで、馬車、人力車、自転車、リヤカーを使うまでにします。
そして住環境や町や村の景観を芸術的にまで美しく整えてゆくようにします。
個人がそれぞれ美しい庭を競って作り、共同で石畳や石垣の美しい路地を作っ
てゆきます。それが大事な下山の道筋だと思います。下山とは揺り戻し、反動
でありルネッサンスのことだと考えます。田舎から都市に流れた人口が都市か
ら田舎に流れるようになることかもしれません。

日本は少子高齢化、人口減少がこれからどんどん進行し50年後は4000万人の人
口が減るとの予測がなされています。東京、千葉、埼玉、神奈川以上の人口が
なくなるのです。下山するとはこの事です。人口減少によって需要が減少し大
量の物が余ってきます。余ったものは値が付きません。今でも、余った物が沢
山出て来て、本来価値あるものが値崩れして悲惨な状態になっています。ネッ
トオークション市場で、総欅のしっかりした茶箪笥がたったの5500円で落札さ
れていました。本来の価値から云ったら20万円するでしょう。美術品の値下が
りも甚だしく中堅の洋画作家の油絵が本来価格の20分の1、30分の1の値段にな
っています。これからの時代、中古住宅やリサイクル家具調度品なども余って
来て考えられない安値になっていくでしょう。お金がかかるものと云えば食べ
物位になるでしょう。食べ物は安全安心が求められるので、逆に高くなってゆ
くような気がします。多くの人が自分の食べ物や生活必需エネルギーを自分で
作るということに、今よりずっと価値を見い出すようになるでしょう。

需給が有り余って金銭的に無価値になったものの中から、宝のような価値を見
い出し、それを愛の心で活かすならば下山後の時代も悲惨になりません。むし
ろ今よりずっと精神的に豊かな時代となるでしょう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2012年3月23日金曜日

第33回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内


第33回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年4月5日(月)19:00~21:00
場所:市川市南行徳
テーマ:試(私)論「プレクシャ・ヨガの存立基盤」その1
パタンジャリの内的三支分(綜制)とプレクシャ瞑想

今回は総会終了後、残り時間を利用して或る試(私)論を提示したいと思いま
す。日本プレクシャ・ディヤーナ協会では今のところ「瞑想」を中心に実践・
普及活動を展開しており、そのヨガとの関係や社会のなかでの意義づけは各人
の考えと責任に任されています。その枠組み自体は尊重すべき大切なスタンス
ですが、そこをまったく検討の対象からはずしてしまうことは逆にプレクシャ
瞑想の射程を曖昧なものにしてしまうおそれがあります。

そこで今回は、瞑想とヨガの関係を皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
すなわち、パタンジャリのヨガの体系では最終的にダラーナ、ディヤーナ、サ
マーディの3つの内的部門が位置づけられていますが、それとプレクシャ瞑想
はどこが共通し、どこが違うのか。また、沖ヨガ行法の十ステップとの比較に
おいても、ダラーナからサマーディ・ブッディ・プラサドに至る段階とパタン
ジャリの内的三支分およびプレクシャはどこがどう違うのか。そして、それら
との比較から、プレクシャ瞑想の特徴が何かみえてくるのかどうか。その点に
ついて考察します。

出席される方は、ご自分が今までに経験・理解した瞑想をもとに、<ヨガにお
ける瞑想とはどのようなものか>について整理してきてください。そして、そ
れと比較してプレクシャ瞑想をどのように評価しているかを自由に議論してい
ただきたいと思います。この研究会には禁忌(タブー)はありません。どうぞ
皆さんの理解を深める場としてご活用ください。


※開催直前の一週間内に必ず協会ブログページ
(http://prekshajapan.blogspot.com/)をご確認ください。開催情報を含
む連絡事項を掲載する場合があります。
※準備の都合上、出席される方は前日までにご連絡ください
(savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと資料を受け取れ
ないことがあります。
※当日参加費として500円(非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代
等を含む)を頂戴いたします。

【今後の開催予定】
5月7日(月)19時~21時 場所:市川市南行徳
6月4日(月)19時~21時 場所:同上

※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開
催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン
『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)
にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら
(http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ
(http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。