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2013年5月24日金曜日

コラム[純粋とは何か]

沖ヨガの創設者、ヨガの哲人・沖正弘先生は生前ヨガの弟子達に「純粋さを学
びたかったら、インドのジャイナ教に学びなさい」と言っていました。30代の
私はその頃、(1984年頃)沖ヨガ修道場を時々訪れて、沖先生の語られるヨガ
哲学の講義の内容に深く感銘を受けました。

沖先生は「純粋」という意味をその時詳しく説明してくれませんでした。そし
て詳しい内容をお聞きする機会がないまま、先生は1985年7月イタリヤで入定
されました。そんなわけで、「純粋とは何か」という疑問が私の宿題として残
ったのです。

純粋とは完全に混じりけのない清らかさで、純粋の反対語が不純です。不純な
心は汚れていて、純粋な心は清らかな心だということぐらいはその時理解でき
ていました。沖ヨガ行持集によって、清い心は無要求な心、他に自分を捧げる
心、全てに感謝出来る心であると教わりました。しかし私が本当の意味での純
粋を理解出来るまでにその後、20年以上の歳月を要しました。最近になって少
し純粋という意味が解ってきました。

純粋とは良い悪い、正しい間違いを手放したことを言います。良い悪い、正し
い間違いを超越したところの真実のことです。私たちの体の中に生命があって、
その生命は変化し続けるエネルギーです。生命の働きは常に変化しつつバラン
スを取ろうと働いています。生命はエネルギーですからプラスとマイナスがあ
ります。プラスとマイナスの電磁気的な流れによって変化が起こります。収縮
と拡散、明るさ暗さ、暖かさ冷たさ、濃い薄い、重い軽い等身体内部の感覚の
変化です。感覚は感覚であって良い悪いはありません。その感覚を良い悪いと
区別することが不純です。

全ての生き物には意識と感覚があります。だから生命とは意識であり感覚とい
えます。プレクシャメディテーションでは意識的な心で身体内部にあるさまざ
まな感覚を観じとっていきます。身体内部の感覚は生命そのものです。生命が
休みなく継続的に変化するので身体内部の感覚も休みなく継続的に変化します。
その感覚の変化を意識的な心つまり純粋意識で知覚するのです。純粋意識は良
い悪い、正しい間違いを手放した無判断の心です。判断せずに只の心でありの
ままに観じることがプレクシャメディテーションの方法です。意識的な心が観
じる主体であり、内部感覚は観られている客体です。双方が生命ですから生命
で生命を観ることになります。つまり魂で魂を観る。神が神を観ることになり
ます。純粋意識で内部感覚を観じていって内部感覚の動きが静まり、ついには
静止した状態になり、感覚が消滅したようになったとき身体内部の感覚とは全
く別の感覚が立ち現れて来ます。全く静かで透明で無限の彼方まで広がり、喜
びに溢れ平和で時空間を超越したものです。この感覚はこの世の時空間に属し
ていません。生命はこの世に属していますが、魂や神はこの世に属していない
のです。

顕在意識(普段感じている自己の心)は汚れていても、感覚である生命はいつ
も純粋で汚れることはありません。感じようとする心を身体内部にある感覚に
浸すと純粋である感覚によって心が浄化され綺麗になっていきます。瞑想がカ
ルマの汚れを無くす最も優れた方法であるのはこのことによるのです。カルマ
をなくして純粋になる道をヨガと言います。

快不快、好き嫌いが執着を生み出します。不快に思うとき、嫌いと思う心が暴
力的心です。快適、好きと思うとき、欲しい手放したくないとの欲が起こりま
す。無所有、無執着は判断を手放さないと実行できません。求めない心(欲を
離れる)とは判断を手放さないと出来ません。

生命の働きは苦楽、快不快の感覚によって守られています。苦や不快がなくて
楽や快感だけしか存在しなかったら生物は生きられませんし宇宙も存在しなか
ったでしょう。

生きているとは呼吸していることに他なりませんが、どんなに吸う息が楽でも
吸い続けることは出来ません。吸い続ければ楽が苦に変わります。吸気が苦し
みになったとき息を吐けば苦が楽に変わり、吐き続ければ今度は楽が苦になり
ます。苦と楽は一如なのです。苦を避けようとして楽を求めてもそれは出来ま
せん。食べ続けることも出来ないし、食べないでずっといることもできません。
苦楽は生命を守るために起こっているのであって良い悪い、正しい間違いでは
ありません。だから判断することが不自然なのです。しかし全ての生き物は苦
と不快を厭い、楽と快適を求めています。それが本能で根本欲です。根本欲が
生命を守っていますが、それは不純な心、カルマが生命に結びついていること
だと言えるのです。

カルマによって生き物は輪廻転生するというのがジャイナ教の考えです。心が
純粋になったときつまりカルマが無くなった時、本当の自分に出会えるのです。
自分に現れている一切の事物と現象が自分のカルマの現れであると気づくとき
全てのものに感謝でき、自己を他に捧げることが出来ると思います。

全ての生き物はアカルマになるまで、純粋の解脱を得るまで、長い旅路を一緒
に旅する伴侶です。魂の兄弟です。お互いに助け合い友情を育むというのがジ
ャイナ教の非暴力、友好です。

非暴力・不殺生・友好と無所有・無執着の実践が純粋になる道です。これがジ
ャイナ教の基本的な教えです。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)


2013年4月22日月曜日

今年度のプレクシャ・メディテーション研究会のテーマについて


2008年に始まった本研究会は、これまでプレクシャ瞑想を構築したアチャーリ
ヤ・マハープラギャ師の著述の整理からはじまり(第I期(2008/1-2010/7)-
哲学的側面の整理/第II期(2010/9-2012/3)-科学的側面の整理)、昨年度
は「第III期-瞑想とヨガ(2012/4-2013/3))」として、ヨガの歴史を振り返
りながら瞑想、とくにジャイナの瞑想がインド哲学・思想史の中でどのような
位置をもち、内容面で他の哲学派と如何に交錯してきたかを検討しました。こ
の観点はプレクシャ瞑想の、いわば「輪郭」を外側から確認する作業の一つで
すが、プレクシャ瞑想というものを、まず、その大きな母体であるインドのヨ
ガの潮流・伝統・文化との関係において捉え直し、理解を深めることが目的で
した。

今年度は、その「輪郭」を<現代科学との関係>という全く異なる切り口から
探究することを目指して、「第IV期-瞑想と科学」というテーマを設定しまし
た。

具体的な流れとしては、プレクシャ瞑想体系の順序に従って、

1.カヨーウッサグ:リラクセーションの生理学的効用、
2.アンタルヤートラ:神経科学と意識と瞑想効果の関係、
3.シュヴァーサ・プレクシャ:呼吸とプラーナ(氣)と健康の関係、
4.シャリーラ・プレクシャ:身体と心・脳科学・免疫学、
5.チャイタニヤ・ケンドラ・プレクシャ:内分泌系の機能と意識の関係、
6.レーシャ・プレクシャ:色彩の科学と潜在意識の関係、
7.アヌプレクシャ:思考と心・潜在意識の関係、脳科学、細胞学、分子生物学的影響、
8.ムドラ・聖音・言霊と身体生理学、

等々を勉強していきます。また今年度からは、皆様にも興味ある
主題を調べて報告していただけたら有り難く思います。ご自分の勉強の一環と
して、より積極的な参加をお待ちしています。

 (中村正人)

コラム[言葉(言霊)の力]


私たちが思考する時、ある種の電磁気的なエネルギーが中枢神経で発生する。
そのエネルギーが末梢神経に伝わり、筋肉を微妙に動かして言葉となる。言葉
は音の組み合わせで出来ている。音は音波として物質で満たされた地上の空間
(空気)を伝わって他の人の耳に達する。その時、耳が捉えた音の組み合わせ
は聴覚神経から中枢神経に電磁気的なエネルギーとして伝わり、中枢神経は電
磁気的な信号を言葉に解釈している。会話というのは人間相互間の情報のやり
取りだけでなく、実はエネルギーのやり取りでもある。電波は真空中でも伝わ
るが、音波は空気が無いと伝わらない、人間の聴覚能力を越えて捉えることが
出来ない音が超音波である。人間は音波を電波にしたり、電波を音波にする装
置を科学技術によって作り出し、人間の探査領域を拡大させた。

一つ一つの音に良い悪いは無いが、音を組み合わせることで情報を作ることが
できる。情報は目的を持つのでネガティブなものもあればポジテブなものもあ
る。これが言霊、真言、マントラと言われるものである。

アー と言う音声は誕生の音、創造の音と言われる。破壊の音が「オー」であ
り、維持・持続が「ンー」である。神社の狛犬は「アー」音と「ンー」音を表
現している。イスラム教の神は「アラー」という音声で表現される。ラリルレ
ロの音は隣りの音にパワーを与える。つまり「アラー」は「アー」よりも強い
創造である。「アー」の音声は副交感神経を刺激し体温を下げ血液をアルカリ
化させる力をもっている。「オー」の音声は交感神経を刺激し体温をあげ血液
を酸性化させる。両者をバランスさせるのが「ンー」と言う音声である。「ア
オン」は創造と破壊と維持を表し、ヒンドウ教の三主神、ブラフマン、シヴァ、
ヴィシュヌを表徴している。

ジャイナ教の根本マントラはアラハンである。「アー」という音と「ンー」と
いう音に「ラハ」がパワーを与えている。アラハンは解脱した魂、人間の理想
状態を表していて、このマントラを唱えればだんだん私たちはアラハン状態に
近づいてゆく。古神道の研究家・大宮司朗の名著『言霊玄修秘伝』によれば
「ハ」の音声は伸び開く言霊であるという。繰り返し繰り返し唱えられた言葉
は潜在意識に定着し、その言葉が私たちの行動を導くようになる。思いと言葉
は相乗効果となって現実世界に姿を現す。

日常的にマントラを唱えることは潜在意識、カルマを変える方法であり、プレ
クシャ・メディテーションのアヌプレクシャにも通じる。

『ヨハネによる福音書』には、1.初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。2.この方は、初めに神と共におられた。3.全てのものは、
この方によって創られた。創られたものでこの方によらずにできたものは一つ
もない。4.この方に命があった。この命は人の光であった。5.光は闇の中に輝
いている。闇はこれに打ち勝たなかった。とあるが、「この方」の替りに「意
識」という語に置きかえれば意識が創造の源泉であり、意識はエネルギーであ
り、言葉であり、創造の源泉であり、光であり、命であり、神であると解釈で
きる。

古神道では、私達の体を含めてあらゆる物は宇宙のエネルギーと情報が形象に
なったものであるとしている。古神道はヴェーダンタ哲学に似ている。真我は
神そのものであり、神である命は本来無限の自由自在を有している。だから私
達は絶大無量の霊力があり威光を発するのである。 「天地の玄気を受けて、
福寿光無量、福寿光無量、福寿光無量・・・・・・」と三回以上唱える。この
言霊によって私達は霊性を発現し神通自在の境地に至る、と言霊をこのように
説いている。

大乗仏教の経典『般若心経』は最後の部分でこの言葉を唱えるとすべての願望
が叶いますよと説いて
「ガテー ガテー パーラ ・ ガテー パーラ ・ サンガテー ボーディ
 スヴァーハー」
と唱えることを推奨している。般若心経が厄除けの呪文の意味を持っているの
はこのマントラが含まれているからである。

私はクリスタル・ワークの師匠であるデール・ウオーカー師から20年ほど前に
「光の導き」という呪文を伝授された。「内なる神の光を呼び出します。私は
清く完全なる繋がりなり。光が私を導く」を三唱する。「光の導き」はとても
パワフルな呪文であることを私は長年に亘る実践で体感している。

言葉が宇宙法則と一体になったとき、言葉は強い力を発揮する。私たちは日常
生活の中で言葉に注意し、言葉を大事にしなければならない、と思う。言葉の
コントロールは生活とカルマ(業)のコントロールであり、ヨガそのものであ
る。これをマントラ・ヨガという。



<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)