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2011年5月20日金曜日

シリーズ[宗教と科学のはざまに巣食う病理現象]


現代の多くの日本人は、科学というものを無批判に信奉する傾向がある。否、
日本だけではない。先進国の一定レベルの教育を受けた人々全般に当てはまる
ことである。科学的なデータによって証明されない事象は真実として受け入れ
られず否定したり無視したり、あるいは逆に科学的な言葉が散りばめられた解
説や専門家と称する人の発言は根拠に乏しくても信じ込むといった偏った風潮
がある。

その一方で、これと正反対にみえる傾向も存在する。いわゆる「スピリチュア
ル」ブームである。スピリチュアルカウンセラー、サイコセラピー、パワース
ポット、パワーストーン、ヒーリング、占い・占星術・風水、オーラ、波動、
チャネリング…。場合によっては、同種療法(ホメオパシー)をはじめとする
代替療法(ホリスティック医療)、ロハス、「地球と体にやさしい」自然農・
自然食、スローライフなどの「癒し」文化もこれに含まれる。

「スピリチュアル」とは、人知を超えた超越的神秘的な次元にある「何か」
(たとえば大自然、宇宙、内なる神、特別な人間など)とつながる感覚をいい、
自己が何らかの形で変容するような非日常的な感覚を伴う精神傾向を意味する。
そこには「宗教」の教えは必ずしも必要ではない。むしろ、その人が体験した
もの(たとえば「生かされている」という実感)が重要だという(磯村健太郎
『<スピリチュアル>はなぜ流行るのか』23-27頁(2007年PHP新書))。

「宗教」ではない「霊性」(not religious, but spiritual)。既成の「宗教」
をうけつけない人でもスピリチュアルには「はまる」ケースが多い。その理由
は、従来の用意された宗教的世界観・宇宙観にリアリティをもてず団体や組織
に何かと拘束されるのは嫌だけれども、個人的な精神のレベルでは「癒された
い」「救われたい」「つながりたい」という気持ちがあり、「自分探し」の欲
求が依然として強いため、「自分にとっての聖なるものと直接つながろうとす
る動き」がますます盛んになっているからだと分析される(同、35-37頁)。
つまり、「宗教」ではないが、形を変えた「宗教的なるもの」が受け皿を失っ
て溢れ出てきているのである。

こうした傾向(近代科学によって宗教の不条理が暴かれた結果生まれた「スピ
リチュアル文化」)は、ある意味で自然な流れではあるが、合理性を超えた領
域での活動である以上、常に「危うさ」を孕んでいるのも事実である。オウム
真理教までいかなくても、霊感商法や不可解な自己啓発セミナーで高額な金銭
を支払わされる例が後を絶たない。最初に述べた無批判な科学信奉
(「科学教」!)も実は同根である。「宗教」離れの間隙に忍び込んできた精
神傾向という意味では両者とも変わらない。いずれも思考停止と依存心という
共通の心理(病理)を背景にもっている。

これに対しプレクシャ瞑想は、基本的にジャイナ教に伝わる瞑想法を整理しな
おしたという意味ではきわめて「宗教」的だが、思考停止も依存心も伴わない。
体系の再構築の過程では、ジャイナ独自の古代瞑想にとどまらず、そのルート
とされるヨガや同時代の釈迦の瞑想法も実証的かつ徹底的に研究されたという。
そのうえで、効果をさらに深く理解し合理的に説明するために、解剖学、生理
学、心理学等の現代諸科学の知見まで最大活用しているのである。つまり、こ
の瞑想は単なる神秘主義に陥らず、今後も科学の進歩に応じて発展する可能性
と柔軟性を秘めている。由緒ある伝統的な宗教の立場から新しいもの(科学)
を排除するのではなく、人間の秘密を解き明かすためにあらゆる成果を総合的
に取り込みながら、科学の側にも一層の解明努力と進化を求めている。科学的
合理主義という型にはまった見方(科学的に証明されないことは信じないとい
う価値観)から離れてプレクシャ瞑想の方法論をみるとき、その衡平さに驚か
される。宗教と科学の間のグレーゾーンに置き去りにされ、行き場を失ったわ
れわれ現代人にとってまさに必要な、生きるヒントと方法がそこに隠されてい
るかもしれない。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)