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2011年11月25日金曜日

コラム[所有と無所有]


私は人間の幸せというのは、その人が所有している物の、質と量であるとずっ
と思っていた。お金は無いよりあった方が良いし、お金が沢山あるということ
は少ないより自由度が高いのだと思っていた。お金がもっと沢山あればさらに
もっといろいろな可能性が出てくると考えるが、今まで自分がしたいと思った
ことのほとんどをする事が出来て、お金に困った経験はあまりない。若いころ
漠然と欲しいと思っていたものはいつの間にか、ほとんど実現されて手元にあ
る。今、自分の身の回りを改めて見回してみると、あまりにも沢山の物を所有
していることが解る。

親から相続した屋敷は広大だ。庭の手入れだけでも多大の労力と経費が掛かる。
自宅以外に奥会津の只見町には自分の夢を追いかけた結果、5軒の建物を所有
している。この維持費もばかにならない。只見に所有している平坦な土地も数
千坪にのぼる。それらは無駄だといえば確かに無駄である。煩わしいことでも
ある。瞑想センターを中心とした理想郷作りが自分の夢や願いであるから、な
んでこんなに馬鹿な事をしているのかと思いつつ、多大な労力を費やして現在
も実際にしていることである。

若いころから読書が好きだったので私の蔵書は甚大な量になっている。その蔵
書を只見と自宅に分けて置いている。本はなかなか捨てることが出来ないので
今も増えていく一方である。研究の過程で集めた水晶も把握出来ていないほど
の量になる。刀剣や油絵などの骨とう品も数多く持っている。それらの物は全
て過去の私がイメージし引き寄せた物なのだ。カルマが引き寄せたと云っても
よい。なんと欲深い人間なのだろうと改めて自分を客観視している。

私たちは普段、好きなもの素敵な物に取り囲まれて暮らしたらどんなに幸せだ
ろうと考える。素敵な家族、素敵な家と庭、素敵な別荘、車、美術・骨とう品、
宝石等々を追い求めて日々努力している。それが一般的な幸せの価値観だ。そ
れを俗生活という。一方、所有を手放し出来るだけシンプルに気軽に生きてい
こうと云うのが出家生活である。典型的な出家の姿をいまに留めているのがジ
ャイナ教の出家僧である。日本の僧侶のほとんどは所有の生き方なので、出家
でなく俗生活者だ。現代の出家とはホームレスの人達かもしれない。彼らは生
活保護を受けているのではなく自己責任で自由に生きているからだ。

私は年齢と共に所有物が増えて、今ではそれらの管理に煩わしささえ感じてい
る。自己保存本能と自己拡大本能が人間を物の所有に向かわせる。物をいろい
ろ所有してもそれによって、心の平和や幸福、自由が達成できないことがわか
る。だから偉大なる仏陀やジナは所有から無所有への道を歩み始めたのである。
方丈記の鴨長明のように越後の良寛さんのように、ジャイナ教の出家僧のよう
に無一物になれたらどんなに心が休まり平和だろうかと思うことがある。所有
物を必要最小限に整理していく事がやましたひでこさんの提唱する断捨離整理
術である。いらないものを手放し、心を軽く、住環境を清らかにする方法だ。
究極的な断捨離がジャイナ教の出家僧だ。ジャイナ教の出家僧は本当に何も持
っていない。私には出家生活は無理だったので沖先生が云われた半俗半聖の生
き方を目指して今日までやってきた。バランスのとれた生き方をすると云うの
が今回の私の人生のテーマである。俗生活の中で聖・俗のバランスを取る生き
方を心掛けてきたつもりだ。

集まったものは何時か宇宙空間に散逸していく。宇宙空間に働いている力は陰
と陽、プラスとマイナス、収縮と拡散である。所有することは陽であり、プラ
スであり収縮である。無所有、捨てること、手放すことはその反対のことだ。
所有、無所有に良い悪いは無い。悪いのは執着である。持っていても持ってい
ない心であればそれは無所有である。全て物は縁があって預かっているのだと
思う心が捨てている心(捨の心)である。所有物を自分の為だけに使えばそれ
は所有になり、他の人の為に役立つように使えば無所有になる。全てのものは
縁あって帰去来している。手元の物が離れる時期が来て、離れていこうとする
時それに執着するから苦しみがやってくるのだ。無執着と無所有が同義語なの
はそういう意味から理解出来る。私は今、自分が預かっているものをどの様に
縁ある人に手渡していこうかと考える年になった。物の集合離散は考えても仕
方がない事かも知れない。なぜなら縁起していることだから。しかし、出来る
だけ大勢の人の役に立つように手放していきたいと思っている。また、ふさわ
しい人に引き継いでもらいたいと思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)