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2012年5月25日金曜日

シリーズ[苦痛を経験する、ということ]


前号では「苦痛を受け容れる、ということ」について哲学的な観点と精神医学
的な観点からその意義を記したが、痛みを受容するには痛みのメカニズムを理
解しておくと、より冷静な対処が可能となる。

痛みを伴う反応は大きく二つの経路を通じて行われる。一つは「侵害受容」
(nociception)とよばれる神経的な反応で、皮膚などに備わっている侵害受
容体に刺激が加えられると先ず電気信号が発生し、それが脊髄につながる神経
線維を通じて脊髄背(後)角に伝わると反射が自動的に起こり、筋肉が反応す
る。いわゆる脊髄反射である。熱湯に触れた時、瞬時に手を引っ込める等の反
応である。しかし、われわれが通常感じる「痛み」はここではまだ認識されな
い。その後、少し遅れて刺激情報が別の神経回路を通じて脳によって検出され、
それが大脳皮質(とくに扁桃体のある辺縁系など古い皮質)に伝わると、不快
な感覚を覚え、「痛み」や「苦しみ」として感じられる。すなわち、不快の情
動感覚に意識的に気づいた状態(認知)が生まれ、教訓として記憶に蓄積され
る。「侵害受容」は無意識レベルの現象で苦しみは経験されないのに対し、
「苦痛」は情動(感情)を伴う経験である。刺激に対する神経的・生理的反応
(神経的反応に続いて起こるホルモン物質(アドレナリン、コルチゾール、コ
ルチコステロン等)の分泌によって生じるストレス反応。脈拍や呼吸が速くな
ったり吐き気・食欲減退等が生じ、恐怖心など心理的プロセスに影響する)と
異なり、情動感覚は心の状態や情動によって痛みの経験のあり方や感じ方に違
いが生ずるという(ヴィクトリア・ブレイスウェイト『魚は痛みを感じる
か?』2012年、紀伊國屋書店)。

しかしながら、こうした痛みのメカニズムの詳細は未だ完全には解明されてい
ない。fMRI等による画像解析が可能になって漸く明らかになりつつある。突発
的な侵害事象(痛みの素となる刺激)に反応する神経回路とその後悩まされる
慢性的な痛みの原因(部位)が異なることも最近になって判ってきた
(A.Vania Apkarian, “The brain in chronic pain: clinical implications,
” Pain Manage.(2011) 1(6), 577-586)。興味深いのは後者(慢性的な痛み
の原因)である。反射的に発生する急性の痛みの経路と違い、慢性的な痛みが
関連する場所は元の侵害発生場所ではなく脳の特定部位(主に前頭前皮質や扁
桃体を含む大脳辺縁皮質)であるという点である。これらの部位は感情や自己
評価に関わるとされている領域で、痛みが長期にわたるとこれらの関連部位
(痛みの程度を抑える背外側前頭前皮質や視床)が萎縮(灰白質の密度が減
少)し、感情の制御や恐怖の記憶を消す眼窩前頭皮質の働きが抑制されるとい
う(A.V.Apkarian et al., "Chronic Back Pain Is Associated with
Decreased Prefrontal and Thalamic Gray Matter Density,” The Journal
of Neuroscience, November 17, 2004, 10410-10415)。85パーセントが原因
不明とされてきた慢性的な腰痛の7割が脳の働きの低下(側坐核による鎮痛物
質オピオイドの分泌低下)に因るものだということが最近判明したそうだが
(NHK『ためしてガッテン』「驚異の回復!腰の痛み」2011/11/16放送)、腰
痛だけでなく関節リウマチ、変形性関節症、帯状疱疹(ヘルペス)後神経痛等
でも上述の関連部位の活動低下が同様に確認されている(A.V.Apkarian,
“Pain perception in relation to emotional learning,” Current Opinion
 in Neurobiology 2008, 18:464-468)。

こうした脳への影響の多くは痛みによって生じるストレスに直接的な原因があ
ると考えられている。脳萎縮の原因を「痛み」そのものではなく、そこからく
る精神的なストレスに認める知見は、3.11後の調査で、心的外傷後ストレス障
害(PTSD)の症状が強い人ほど先述の眼窩前頭皮質(感情の制御や恐怖の記憶
を消す働きに関わる部位)が萎縮していることを確認した東北大学の研究報告
(『朝日新聞』2012/5/28夕刊)とも一致するところである。そうであるとす
れば、脳に起因する慢性的な痛みを改善する手掛かりも、ストレス・コント
ロール(ストレスの軽減と管理)にあることは容易に察しがつく。現に、痛み
のことばかり考えて安静を心掛けていた患者が楽しみを見つけ、活動的な日常
をおくるようになってから腰痛が減少した例が数多く確認されているという。
したがって、この文脈においても、瞑想(とくに完全リラクセーション瞑想と
呼吸の知覚あるいは身体の知覚瞑想)が非常に有効な助けになりうることは改
めて指摘するまでもない。深い瞑想状態のとき、側坐核が活性化されて「喜
び」を感じるというが、このとき同時に鎮痛作用も生じている可能性がある。
また、瞑想(呼吸)によりセロトニン神経が活性化(内因性痛覚抑制系が活性
化)されることでも鎮痛効果が発揮されるという(有田秀穂『瞑想脳を拓く』
43-44頁)。それでももし瞑想中に苦痛を感じたら、今度はそれを意識的に
「受け容れる」練習を繰り返す。それは先の「情動感覚」としての痛覚(ある
いは痛みからくるストレス)を感情から切り離しコントロールする訓練になる。
先に述べたように、このレベルの「苦痛」は経験の仕方によって感じ方を変質
させることができるのである。瞑想の効果として期待される「平常心」や「忍
耐力」は、こういうところから醸成されるのではないだろうか。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)