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2013年9月28日土曜日

コラム[憎しみと愛]

私たちは自分にとって不都合な人、不利益をもたらす人に敵意を感じ憎しみを
持つ。一方、自分にとって都合の良い人、利益をもたらす人に友好を感じ愛お
しさを持つ。どうしてこのような感情が生まれるのか、それは、生命に根本欲
がインプトされているからだ。もし、五感を通して好き嫌いの感情が生まれな
ければ自分の敵と味方を判断することが出来ない。判断できなければ敵や毒物
に危害を加えられ身を守ることは出来ない。その根本欲の一つ自己保存欲が妨
げになって高等生物と云われる人間でさえなかなか真に幸福になれないでいる。

自分の利益を守ろうとする心の強い人、自己防衛本能が強い人を自己中心的な
人、あるいはエゴの強い人という。相手に対して「こいつは敵だ」と考えると
イライラしたり、腹立たしくなったり、嫌悪感が起こる。その感情は相手にも
伝わる。エゴが強いと他から嫌われ、孤独になり、愛と心の自由が乏しくなる。
インドの聖者シャーンティ・デーヴァが言った「この世のあらゆる苦しみは
我々が自己中心的で、自分の幸福ばかり望むせいで起こる」「この世のあらゆ
る幸福は他の幸福をおもいやる心で生じる」

他を助けたいと心から思っている人は平和と喜びに溢れている。利己的な心を
離れて他者を助けようとする心が愛である。愛は親切な心であり、友好的な心
である。そして他者を大切にする心である。非暴力が愛である。

人間の三大根本欲は自己保存欲と自己拡大欲と自由欲である。人間は健康で長
生きしたいという欲望を誰しもが持っているが、一方で沢山の人を愛し沢山の
人から愛されたいとの欲望も合わせ持っている。

無限の自由と愛が実現しない限り、健康で長生きするだけでは生命は満足出来
ないようになっている。最終的には人は真の幸福を実現しようと願う。それが
悟り、解脱へ向けての修行に駆り立てる。

大乗仏教では愛のことを慈悲という。悟りの為に慈悲を土台とした菩薩行の大
切さを説いている。慈悲の「悲」とは憐みの心で、生きとし生けるものが苦し
みを離れるように願う心である。「慈」とはいつくしみの心で、生きとし生け
るものの幸せを願う心である。慈しみの心から憐みの心が起こり、さらに止む
に止まれぬ菩提心が起こってくる。菩提心とは純粋な愛の発露である。物質的
に精神的に人々を助け、人間社会から不幸や困苦を減らしてゆく社会救済の道
を菩薩道という。菩薩道が愛の実践である。

愛とは何だろうか? 愛とは自分以外の人や物と一つになること結ぶこと融け
合うことだ。自己を皮膚の外側に拡大していって、自分でないと思っていたこ
とが自分になることだ。究極の愛は地球と自己が一体になること、宇宙が自分
になることだ。

愛の反対が憎しみで、分離している状態のことである。分離分裂していれば互
いに対立し争い憎しみが生まれる、それが苦しみの状態、不幸の状態である。
幸せになりたかったら憎しみを止め、互いに協力しあい仲良くすることである。
自然の摂理として何かが消えるときに新しい何かが現れてくる。無知が消えれ
ば智慧が現れ、怒りが消えれば喜びが起き、憎しみが消えれば愛が湧き起こる。

人を愛するときは無条件でなければならない。無条件の愛を純粋な愛という。
条件付きの愛を不純な愛という。見返りを求めるような愛は不純な愛なので愛
とは言わない。異性に対する愛も、愛の名のもとに他をコントロールしたり、
縛り付けようとするのであれば、それは愛ではなく愛欲という。本当の愛はあ
とで憎しみに変わらない。憎しみに変わる愛や執着する愛は利己的な愛で、愛
欲である。愛欲と愛を混同してはならない。愛とは無条件で見返りを求めず他
を助けることであり、互いに協力すること活かしあうことである。

自然界、生き物の世界では、他の生き物を殺してその命をいただくことで生命
が継続している。犠牲になった命が他の命を供養しているのだ。そのことを言
葉を替えて表現するなら、生命の継続は愛の循環によって成立しているともい
える。供養というのは他を助けるという意味だ。自分にとって不利益でも他の
大勢の人に役立つなら自分の事は犠牲にしても良いとするのが愛だと思う。ボ
ランティアにせよ自己犠牲にせよ、人を助ける場合は相手が自立できるように
しなくてはならない。依頼心を育ててしまう援助は愛ではない。愛を行ずると
きに人として人格が高まるように他を助ける智慧を持たなければならない。他
を助ける場合はその人の心を熟知して、その人が何を必要としているかを見極
める能力が本当は必要なのだ。そうでなければ適切に他を助けることは出来な
い。

与えるだけが愛ではない、与えられることも愛である。愛とは一方通行ではな
い。愛し愛されるという二方向性のものだ。深く愛し深く愛される、大勢の人
を愛し大勢の人から愛される、それが人間の最大の喜び幸福なのだ。無限の自
由と無限の愛は一つのものだ。無限の愛が達成できれば無限の自由が達成でき
る。それが全智である。全智の事を一切智とも云う。一切智は時間も空間も超
越して全てを知ることが出来る智慧だ。一切智が起こる条件として欠かせない
のが純粋で円満な愛の実現である。人間にとって愛を行ずることほど大事なこ
とはない。

私たちは数多くの輪廻転生の中で沢山の他者からいろいろ助けられてきた。そ
の、恩返しの生き方をしなくてはならないのだ。それが他を助ける事、愛行で
ある。今、敵と思える他人は見かたを変えれば最高の教師である。忍耐や寛容
の心を養う修業は敵や嫌いな人とのかかわりの中で育てることが出来るし、そ
うすることで怒りや憎しみ、嫌悪感等の悪感情を減らすことが出来るからだ。

嫌いなものを好きになる練習をしよう。嫌いな人がいるという事はその人から
強いコントロールを自分が受けているという事だ。他からのコントロールの呪
縛を解いて自由になるためには敵を味方に変えてしまう適応性と智慧が必要な
のだ。

愛とは人や生き物だけでなくすべての物を大切にする心でもある。人や物を生
かし活用する心でもある。見捨てられたものの中に価値を見出し、新しい命を
吹き込み活用することでもある。全肯定、全活用することが愛の実践である。
地獄のような場所を天国に変える事である。建物を愛せば建物から愛され、樹
木を愛せば樹木から愛される。山を愛せば山から愛され、呼吸を愛せば呼吸か
ら愛される。神を愛せば神から愛される。自分を神と観る、同時に他の全てを
神と観る。それをバクテイ・ヨガという。瞑想によって自己とは何かを良く理
解た上で、愛行を積み重ねる。その二つのことが人間としてなさねばならない
最も重要で大切なことなのだ。人間に生まれた意味と目的がそこにある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)